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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第一章 魅惑の檻
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3.絡み付く視線

 蜘蛛が僕の目の前に現れて……。僕が見たのは正確には脚だけなのだが、それはともかく現れてから、早いものでもう二週間が過ぎようとしていた。

 結局、あれ以来僕は蜘蛛の姿を一度も見ていない。物音も聞いていない。未知なるものとの遭遇による恐怖を味わったのはその時だけだ。後は至って平穏。ごく普通の大学生ライフを送っていた。

 ただ一つ変わったことといえば……。

「ああ、今日はここか」

 僕はやれやれ、と呟きながら玄関へと歩くと、靴箱を漁る。中から掃除用の使い捨てペーパーダスキンと靴べらを取り出し、これをドッキング。先ほどの場所へ戻った僕は、それを対象に振り下ろし、払うように左右へ動かす。

 それだけで、僕の枕元に作られていた蜘蛛の巣が跡形もなく破壊された。

 そう、変わった事がある。それは、僕が眠りについた翌朝に起きていた。

 あの日以来、部屋の何処かに蜘蛛の巣が張られるようになったことだ。

 あるときは枕元に、またあるときは天井に。

 理由はわからないが、決まって僕の近くに蜘蛛の巣が形成されているのだ。

 気持ち悪くないのか? とか、最初の怯えぶりはどうした? 等と言われそうなものだが、僕だって最初から全く怖くなかった訳ではない。

 蜘蛛と遭遇して二日目。またしても作られていた巣を見た僕は、心底肝を冷やしたものだ。

 もしかしなくても、自分の家が住居として定められてしまったのではないだろうか? そう思った僕は、そのままホームセンターへ走った。買ってきたのは、蜘蛛用の部屋で焚く殺虫剤。

 これを使うのは初めてだった。部屋を覆い尽くさんばかりの煙に少し圧倒されたものの、これでもう寄ってこないだろうと僕は安堵した。

 科学の力、万歳! と、完全に安心しきって、その日僕は眠りについた。


 翌朝、再び恐怖に震えることになろうとは、露知らずに。


 蜘蛛の巣は相変わらず形成されていた。ここまではいつもと変わらない。問題は、巣が作られていた場所にあった。

 なんと、蜘蛛の巣の一部が僕の腕にも付けられていたのである。まるで獲物に巻き付けるかのように、ベットリと。


 その日、僕は早朝から悲鳴を上げ、そのままお風呂場に直行した。身体を、髪を、何度もお湯で流す。

 特に腕を念入りに。

 皆まで言う必要はあるまい。腕に蜘蛛の巣が張られていたということは、少なくとも蜘蛛が僕の腕に触れて、その上を這い回ったという事なのだから。

 ゾワリという不快感が身体中を走っていた。

 身を伝う寒気に耐えられなくなり、僕はタイマーで追い焚きを済ませた湯船に、そのまま飛び込んだ。

 お湯は暖かいのに、僕の震えはしばらく止まらなかった。


 どれ程そうしていただろうか?

 身体が暖まると共に徐々に落ち着きを取り戻した僕は、ゆっくりと湯船から立ち上がった。

 風呂場のドアを開け、一応周りをじっくりと見回す。

 目に映るのはキッチンとその横にある洗面台。風呂場の戸を開ける度、湯気で反応されやしないかとヒヤヒヤする火災警報器。そしてその下には真新しい蜘蛛の巣が……。


 僕はその場で、たっぷり数十秒硬直した。

 いつからその蜘蛛の巣が作られていたのかは分からない。が、殺虫剤を焚く時、部屋中をチェックした筈だ。その時蜘蛛の巣はすべて除去した筈ではなかったか?

 忘れかけていた寒さが、再び沸き上がってくるのを感じた。湯冷めの寒さなどでは、勿論ない。

 アイツは……あの蜘蛛は、もしかしてまだ生きているのであろうか?

 湯船で暖まった身体が肉体的にも精神的にも冷えて行くの感じた。その日僕は、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 更に言うならば、その日も蜘蛛は、姿を見せはしなかった。


 ――回想終了。


 その後、僕は大学の図書館で蜘蛛について出来うる限り調べた。

 そこを友人に見られて怪訝な顔をされたり、恋人に「何だか、顔色悪いよ?」と心配されたりと、色々あったが、それは特に語る必要もないだろう。ともかく、敵の習性やらを色々と知り、無駄な知識の幅を増やした僕は、闘志と恐怖の板挟み状態で帰宅した。


 ところが。せっかく調べて、付け焼き刃ながら対策をしたというのに、その後の蜘蛛はというと、特に何もしてこなかった。

 僕の腕に糸が絡められていたのは殺虫剤を焚いた翌朝だけ。それ以降は沈黙を保ったまま。蜘蛛が生きているのはわかったが、その姿は依然として見えないまま。ただ蜘蛛の巣があるのみだった。

 最初こそ回想のように、僕はビクビクしていた。しかし人の心とは不思議なもので、それから一日二日と経ち、一週間を過ぎたあたり。僕はその蜘蛛の巣にすっかり慣れてしまったのだ。

 同じホラー小説を何度も読んでいるうちに怖くなくなっていく感覚に似ていると思う。実際、蜘蛛は襲ってくる事もなく、僕の視界に入ることもなく、いつの間にか巣を作るだけ。僕に与えられる危害といったら、毎朝蜘蛛の巣を破壊する一手間くらいのものだ。

 いやいや、絶対ヤバい。逃げろという声が流石に上がるかもしれない。

 でも僕は、部屋を放棄する。という考えは浮かばなかった。

 第一に、ここを放棄した所で行くところなんかない。友人の所に蜘蛛が原因で逃げ込む。なんて迷惑極まりないし、そもそも僕は友達が少ないのだ。

 恋人は一応いるが……怖いから彼女の部屋に転がり込む。だなんて、当然出来なかった。見栄っ張りとか言わないで欲しい。初めての彼女なんだ。仕方ないじゃないか。

 両親……は、論外だ。あの人達が僕の相談に乗るわけがない。ある理由から事実上、限りなく絶縁に近い状態なのだ。

 で、僕は結局この部屋に住み着いたままというわけだ。

 よくよく考えてみると、夜な夜な僕が寝静まった時を見計らって蜘蛛が巣を作っている。だなんて、安っぽいホラーのような状況ではある。

 しかしながら、それ以外は何もしてこない。と、僕はこの時点でタカを括ってしまい、気に留めることなく生活していた。


 八本の脚。八つの目。不気味な姿。

 蜘蛛に限らず、多脚の生物とは、例えばムカデ。外人さん目線なら蛸など、すべからく恐怖の対象だ。

 自分にあり得ないから恐怖であり、自分では知り得ない故に恐怖にもなるのだとか。

 でも、傲慢な言い方になるかもしれないが、結局それらは最終的に人間には勝てない。

 僕がこうやって慣れてしまっているのがいい例だ。よっぽど深刻なトラウマを背負っているとか、どうしようもない天災でも起こらない限りは、人間はあらゆる領域において慣れを発現させてしまう。

 自然界からみたら、僕達人間という存在の方がむしろ〝怪物〟なのだ。

 そんな事を考えつつ、僕は朝食を摂る。トーストに今日はイチゴジャム。そして大好きなコーヒー。いつもの簡単なメニューだ。

 あっという間にトーストを食べきり、そのまま日課であるニュースチェックに勤しむ。

 今日もコーヒーを片手に様々な出来事を他人事のように鑑賞するという訳さ。


 猟奇殺人事件の犯人逮捕。

 世にも珍しいアルビノのカラス。

 老人による老人に対するストーカー事件。

 都内の女子校で、一人の女子高生が行方不明……むっ、この女子校、そこそこ近いな。

 そして、極めつけはコンビニ強盗をたまたま居合わせた大学生が撃退し、表彰されたときた。


 今日も世界は平和で物騒で、面白可笑しく出来ているらしい。

 まぁ、そうだとしても僕には関係ない事だ。

 昨日の夜、意を決して彼女に電話し、デートの約束を取り付けた。こっちの方が僕には重要だったりする。

 俗な事を考えていた僕を叱責するかのように、携帯のアラームが鳴り響いた。大学に行く時間だ。僕は残りのコーヒーを一気に飲み干し、鞄を手に立ち上がる。

「さて、行くか……って、うぉっ! ここにもか。ご苦労なこった」

 意気揚々と部屋を出ようとした僕は、またしても蜘蛛の巣を見つけて、思わず肩を竦めた。

 まるで僕の行く手を阻むかのように玄関に張られた蜘蛛の巣。僕はそれを靴べらで払う。これで終了。何の驚異にもなりえない。

 そのまま部屋を出た僕は、足取りも軽く大学へと向かって歩き始めた。 頭にあるのは今夜の事だ。彼女と付き合って一ヶ月。そろそろ何か進展させて行きたい所だ。


 そんな感じに浮かれきった頭になっていた僕は、この時、あることを失念していた。

 成る程、確かに自然界から見たら人間は〝怪物〟と表現してもいいかもしれない。

 しかし、正確には人間を〝怪物〟と言わしめているのは、(ひとえ)にそれらが〝群〟となって初めて〝怪物〟になり得る点のみである。個の人間は脆弱極まりなく、〝怪物〟からは程遠いということを……。僕は考えていなかった。


 本物の〝怪物〟と貧弱な個の人間が対峙した時、何が起こるのか。

 今夜。僕はそれを文字通り、身を持って味わうことになる。

 僕がいざ知らぬ所で、運命の歯車は静かに。そして独りでに回り始めていた……。

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