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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第三章 白い抹消者
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37.夕――車椅子の女

「なんだったんだろ? ……あの人」

 記者達から逃れ、自分の部屋へ帰る道すがら。僕はさっきの白い少年の事を思い出していた。

 あの人間離れした圧倒的な存在感は、そうそう忘れられるものではなく、未だに僕の頭の中で鮮明に思い起こすことが出来る。

 もっとも、そのお陰で今まさに悩んでいるのではあるが。

「またね……。か」

 僕は思わず、さっき少年が唇の動きだけで伝えてきた言葉を思い出す。僕の見間違いではない……筈だ。あれはどういう意味だったのだろう?

 いや、不可解な言葉は他にもある。

「見つけた。……けど、違う。君じゃない。君ではありえない」これをどう解釈すればいい? あの少年は何かを探していて、僕を見て何かを見つけた。それはいい。そこまではわかる。だが問題はその後だ。

 あの少年は、「違う」と。僕ではありえないと言っていた。では、何故「またね」などと僕に告げた? 理由も探しているものも知らないが、僕は「違う」のではないのか?

 ため息混じりに僕は肩を落とす。わからないことだらけだ。どこぞの怪物のせいで、“わからないこと”に対してある程度耐性はついていることは喜ぶべきか。悲しむべきか。

 だが、はっきり分かる事はいくつかある。

 まず、あの少年は大学の学生ではないこと。

 それは疑いようがないだろう。僕が通う大学は、マンモス大学ではない。だからこそ分かることだが、あんな目立つ容姿をした奴は見たことがない。そもそも、万が一見ていたら記憶に深く刻まれる筈だ。

 多くの学生が集まっている学食のなかでどよめきが起こっていた。なら、少なくともあの場にいた人達は、あの少年を見ることは初めてだったのだろう。

 つまりは、あの少年は完全な部外者。という結論が出せる。勿論、誰も見たことのない容姿は、大規模なイメチェンをしたから。という理由だったとしたらば、何も言い返せはしないが。

 そしてもう一つ。こちらは、わかっていることというか、推測の域を出ないものだが、あの少年は――。

「……ん?」

 そこで僕の思考は中断した。いや、言葉を失ったとでも表現すればいいだろうか? 僕の視線は前方。道のど真ん中に注がれた。

 午後の静寂に包まれ、ほのかな金木犀の香りがただよう、川沿いの桜並木道。秋の気配を匂わせるそこは、大学を終えた学生たちが、駅への帰路として利用している道だ。もっとも、今は他の学生の姿は見えない。当然だ。この時期で、この時間帯は、まだ学生達は講義に勤しんでいる頃。他にここを通るとしたら、僕のように早退した人間か、散歩に来るお爺ちゃんお婆ちゃんくらいだろう。そんな場所に、その人物はいた。

 そこにいたのは女だった。かなり年季の入った、古めかしいデザインの車椅子に座る、白衣の女。

 年齢は恐らく僕より上……。二十代後半位だろうか? 白衣の下にはパンツスーツを着込んでおり、この格好で教壇などに立てば、化学や生物学の教員です。と、主張しても何ら違和感がないような服装だった。

 ……ただし、それはあくまでも、〝格好〟を見る限りでの話である。

 女の口から漏れる、ヒューヒューという喘息に罹患しているかのような独特な呼吸音と、ざんばらに乱れた、肩にかかるくらいの茶髪。そしてなにより、目元にくっきりと浮かぶくまや、血走った目。それらの要素が、女の雰囲気を不気味なものに仕立てあげていた。

 ……どうしよう。

 真っ先に僕が頭に浮かへた言葉がそれだった。

 駅へと続くこの通りは、川沿いということもあり、完全な一本道だ。つまり、帰るためにはあの女の傍を通過しなくてはならない訳なのだが……。

 もう一度女の顔を見る。焦点の合わない瞳は、左右にブレながらも、時折確認するかのように僕を捉えてくる。見るからに近寄るのを躊躇わせるような雰囲気を、女は醸し出していた。

 さて、取り敢えず冷静になって考えてみよう。果たして、この女はたまたまここにいるのだろうか? はたまた僕を待ち構えていたのか?

 後者の確率は圧倒的に低い。低いのだが、こう考えてしまうのは、先程の白い少年との奇妙な遭遇があったからかもしれない。

 ……考え過ぎだよな。

 僕は頭に浮かんだ可能性を、直ちに否定した。どこかの病院か、あるいは自宅から外の空気を吸いに来ただけに違いない。こんな短時間で、奇妙な遭遇が連続してたまるか。

 僕はそう結論付けると、ゆっくり歩みを再開させた。女は僕が歩き出しても、未だ前だけを見つめている。すれ違い様、横目で女を牽制するように歩く。が、当の女はヒューヒューと浅い呼吸を繰り返しながら、相変わらず石像のように固まったままだった。……ほら、やっぱり考え過ぎだ。

 完全にすれ違ってから、僕はホッと胸を撫で下ろす。今日の教訓は、人を見た目で判断してはいけない。だな。なんて事を思いながら、僕は何の気なしに来た道を振り返る。

 その瞬間。僕は雷にでも打たれたかのように、その場で硬直した。

 女は相変わらずそこにいた。車椅子の向きも変わらない。だが、顔。上体を前に向けたまま、女は首を捻り、顔だけが此方を――。僕の方を向いていた。

「え……あ……」

 思わずどもる僕を、女はギラギラした目で見つめてくる。ヒューヒューという呼吸音は、いつの間にかなりを潜めている。三十秒――。いや、もしかすれば一分は互いに硬直していたかもしれない。

 かかわるな。

 僕の頭の中で、何かが警笛を鳴らしている。僕はゆっくり踵を返し、駅への道を急ごうとした。その時。


「……レイ君?」


 僕を戦慄させる一言が放たれた。ぎょっとして僕が再び振り返ると、女は車椅子を操作し、今度は身体全体を僕の方へ向けてくる。

「レイ君? そう、あなたがレイ君なんですね」

 キリ……キリ……と、耳を痒くさせるような車輪の音を響かせながら、その女は僕の方へ車椅子をゆっくり走らせてきた。

 血走った目はブレることなく、今は僕だけを見据えている。再びヒューヒューという浅い呼吸を漏らす女は、片手で車輪を回しながら、まるで空を掴むようにもう片方の手を此方に伸ばしてくる。

 そこが限界だった。二三歩後退りした僕は、そのまま駅へ向かって一目散に逃げ出した。


 ※


 レイという呼び名は、僕の本当の名前ではない。

 僕の本名はなかなかに呼びにくいらしく、知り合った人は殆どが僕を名字の方で呼ぶ。レイという呼び名は、いわばごく少ない僕の親しい人のみが使ってくる、愛称のようなものなのである。

 この呼び名を使うのは、大輔叔父さん。今は亡き友人、阿久津純也。そして、殺人者にして僕の元恋人――。今は行方不明となっている、山城京子。この三人だけの筈だった。

 なのに。

「つ、着いた……」

 駅に辿り着いた僕は、呼吸を整えながら、ホームの柱に寄りかかった。全力疾走してきたため、心臓の鼓動が物凄い事になっている。だが、これくらいは何でもない。さっき僕が感じた衝撃に比べたら、これくらいの疲労感は可愛いものだ。

 僕はゆっくり電車の出発時刻が映る、電光掲示板を上げた。

 間が悪いことに、つい先程電車は発車してしまったらしい。次の電車が来るまで、あと十分程。

 十分。短いようで長いこの時間が、僕の心を掻き乱す。

 逃げたのは……最善の判断だったと思う。あの女はヤバイ。動物的勘というべきか、そういった身を刺すような謎の恐怖を覚え、気がついたら走り出していた。

 あの嫌な感覚は味わったことがある……ように思えるが、何処でだっただろうか。

 鞄から電車の定期券を取り出し、改札をくぐる。

 まぁ、いい。ともかく逃げ切れたのだ。さっさと夕食の材料を買って、部屋に帰ろう。首の筋肉をほぐすように左右に何度か捻り、僕は下り電車のホームへ向かう。

 途中で缶コーヒーを購入し、秋風が吹きぬける中で、僕は電車を待つ。時刻はそろそろ十四時に差し掛かろうとしていた。

 フム、いい時間だ。最寄りの駅に着いたら、買い物の前に行きつけのカフェで少し寛ぐのも悪くないか? 僕がそこまで考えた所で、脳裏をさっきの女の顔がちらついた。

 ……やっぱり、さっさと買い物を済ませて真っ直ぐ帰ろう。

 コーヒーもいいが、今は一刻も早く部屋に戻って、一息つきたい気分だった。

 部屋には怪物が住み込んでいるので、果たして楽に一息つけるのかどうかは……この際考えまい。

 このまま外に出ているよりは怪物の傍にいたほうが幾分マシだろう。変な話になるが、怪物は今日出会った人物達同様、得体の知れない存在だという点は揺らがない。が、今のところアイツは一応無害ではあり、僕に危害を加える気はないらしいことだけは分かる。

 この可笑しな謎の安心感は、曲がりなりにも数ヶ月にわたる奇妙な共同生活の賜物だろうか? 笑い所か、笑えない状況なのか、いまいちわからない。

 何となくプラットホームの階段を眺める。疲れたような主婦や、やたら派手なおばちゃん、ゲームをやりながら歩く子ども……その横を大きめの鉄板のような物を抱えた駅員が通り抜け、ホームの奥の方へと走って行く。

 やがて、そんな静かな喧騒を眺めているうちに、電車が到着した。

 時間が時間なので、余裕で座ることができた。ここから僕の最寄り駅まで約十五分。日課となっているニュースチェックでもしして、時間を潰すことにしよう。

 僕はそっと携帯電話を取り出し、いつも使っているニュースサイトにログインする。


 真新しいものは

 史上最年少で小説家になった少年の特集。

 大手企業の倒産。

 八月中旬。民家に押し入り、現金とその家の娘を奪っていった、強盗誘拐事件。犯人は以前逃走中。

 とある大学の有名教授が蒸発してはや二年。生存は絶望的か。行方不明者相次ぐ、昨今の日本を犯罪心理の先駆者が語る。

 オリーブオイルを使用した多彩な料理で有名なシェフの新メニュー特集。今度はラー油も一緒に。

 服役中だった殺人犯、斉賀友梨(さいが ゆり)の脱獄。

 そして……山城京子、未だ捕まらず。という記事。

 物騒にも程がある。それぞれ県を挟んで離れた地域とはいえ、脱獄犯に強盗誘拐事件の犯人。連続猟奇殺人事件の犯人……。京子が生きているならば、少なくとも三人の犯罪者が、野に放たれていることになる。

 大輔叔父さんの疲れきった渋面が目に浮かぶようだ。

 携帯を閉じ、僕は電車の窓から流れる景色をぼんやりと眺める。いつも大学へ向かう時に眺める風景。都会に来て二年目。この街並みを見るとホッとするようになったのは、ここを自分が帰る場所だと認識し始めた為か、それとも生まれ故郷の情景を忘れつつある為か。前者だったら少しだけ嬉しい。どんな場所であれ帰る所があるということはいいことだと。誰かが言っていた気がする。

 そんなとりとめのない事を考えているうちに、電車は徐々に減速し、やがて僕の最寄りの駅へ辿り着いた。

 駅員が走るホームへ降り立ち、改札を抜けると思わず深呼吸をする。

 帰ってきた。離れたのは時間にしてほんの数時間だというのに、何だか妙に疲れたように感じる。遭遇した存在が関係しているのかもしれないが、それはもう気にはすまい。

 ともかく、今は買い物。夕食の材料を調達するのが先決だ。

 僕がスーパーへ向けて歩き出そうとしたその瞬間。不吉な音が聞こえてきた。

 キリ……キリ……という、耳が痒くなるような聞き覚えのある音。

 喘息に罹患しているかのような、か細い呼吸。そして――。


「見つけましたよ。レイ君」


 僕の背後から響くか細い声。冷たい汗が背中を伝い、身体が金縛りにあったかのように動かなくなる。

 僕はそこで初めて、己の迂闊さを呪った。

 何故気がつかなかった? 鉄板のようなものを抱え、走る駅員――。

 あの鉄板のようなものは車椅子の乗客を安全に電車へ乗せるために設計された、折り畳み式の足場ではなかったか。

 僕が己を叱責する最中、キリ……キリ……という車輪の音はゆっくり近づいてくる。

 僕はゆっくりと振り返った。

 あの時感じた恐怖。何に怯えて逃げ出し、目を逸らしていたか? そんなの僕だって本当はわかっていた。〝あのように呼ばれた時点でわかっていたのだ〟。

 目の前の人物が、ある女性とつながりを持っているのではないか? 僕はその可能性を恐れたのだ。

 レイという名前は愛称である。僕をそう呼ぶ人間は三人いた。だが、その中の一人。特別な人でもあった〝彼女〟は、唯一僕をこう呼んでいたのだ。――「レイ君」と。その呼び名を、何故……。


 振り返った先には予想通りの人物がいた。その人物、車椅子の女は、血走った目を愉悦に歪め、僕に笑顔で手を伸ばしてきた。

「こんにちは。レイ君。今お話大丈夫かな?」

 狂気じみた笑みは、僕にあの夏に起きた、地獄の一時を連想させるようだった。

 逢魔が時には少し早い夕方。僕は無意識に拳を握り締め、目の前の女を睨み付けた。

「あんた……何者だ?」


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