36.昼――白い少年
午前中の講義が終わり、僕は一人。学生食堂にいた。何とか怪物を振り切って、久しぶりの楽しい大学生活を満喫していたのである。
大学生活を満喫。友人と将来について語り明かしたり、近況報告をし合う。ついでに息抜きに小旅行の計画を立てたり、あるいはサークル活動に勤しむ。といった辺りが、万人が想像する大学生活を満喫するということだろう。
だが生憎。僕の大学生活には、そんなものは皆無に等しい。何せ僕にはそういった事をやる友達はいないし、サークルに入っている訳でもないからだ。
では僕にとっての大学生活を満喫するとは何か? それは何を隠そう勉強である。
さみしいとか思われがちだが、学生の本分は勉学だ。だから僕にとって、授業で配られたプリントの感触は、久しく味わっていなかった大学生活の醍醐味。そのものだった。
そんな訳で、受け取ったプリントを興奮気味に眺めながら、授業に出ていなかったブランクを埋めたいな。といった気持ちが浮かんできた僕は、少しだけ勉強にいそしむべく、食堂に足をのばしていたという訳である。
学生同士が休憩したり交流したりする拠点である食堂は、今日も騒がしい。食堂の至るところに設置された小テーブル。それを挟み、学生達が談笑する光景も見慣れたものだ。ここの人気メニューたるミートスパゲッティの味も変わらない。
そう、いつも通りの光景……。確かにそう見えた。
だが、大学全体の雰囲気が微妙な違和感に満ちているのは、決して僕の気のせいなどではないだろう。
どこか無理して明るく振る舞おうとしているかのような。そんなギクシャクした感じと、何かを恐れ、神経が張りつめているかのような。そんな微妙な緊迫感がひしめき合っているようだった。
もちろん、その違和感に心当たりはある。恐らくは、あの夏の出来事――。連続猟奇殺人事件が関係しているのだろう。
同じ大学から殺人犯が二人。被害者が一人出ているのだ。しかもその犯人一人は未だに行方不明ときた。他の学生達が辟易するのも無理はない。しかも……。
「あっ、こちらの大学の学生さんでしょうか? 連続猟奇殺人事件の事で少しお話を……」
朝から大学をウロウロしている新聞記者の面々。夏休みが終わり、大学に出てくる学生を狙ってやってきたのだろう。
彼らに話かけられて、笑顔で応対する学生はいない。何せ聞いてくる内容が内容だ。このようなやりとりを、僕は朝から何度も見てきた。
記者達の手にかかれば、その苦虫を噛み潰したかような学生の態度すら、いいネタになるのだろうか。
「阿久津純也さんとは知り合いでしたか? 山城京子容疑者は? 藤堂修一郎容疑者は? 彼らの交遊関係など……」
根掘り葉堀りという表現が相応しい、遠慮ない聞き方に不快感を覚える。同時に、少しだけ手が汗ばむのを感じた。
自分は今かなりマズイ状況にいる。それが自覚出来るからだ。
何故なら僕は、被害者の友人にして、容疑者の元恋人。更には殺人犯二人に殺されかけたのだ。
記者達からすれば格好のネタになることだろう。
警察が僕の情報を伏せてくれたのは本当に助かった。アレがなかったら、今頃僕は報道陣に囲まれていたに違いない。
もっとも……。
「ええっ、山城京子容疑者に、恋人がいたんですか?」
情報は、人の業は時に一人歩きする。確か刑事である大輔叔父さんが言っていた言葉だ。
せっかくプライバシーや証人を守るために隠匿した情報も、予期せぬ第三者によって人へ人へと伝わってしまう。悪意が無い分タチが悪いのだとか。
しかし、厄介な事になった。記者達がお昼まで大学をうろついているなんて予想外だったし、何より京子に恋人がいた事実が発覚するのが早すぎる。
性格上、親しく付き合っていた人が極端に少なかった僕に比べて、京子は交遊関係がかなり広かった。僕のことを誰かに話していたかどうかは分からないが、少なくともその存在は認識されていたらしい。顔は……割れていないと思いたい。
幸いにも、話を聞かれているその学生は、僕の顔までは知らないらしい。
取り敢えず安堵する。が、だからといって今後、僕の事を知っている人が現れないとも限らない。変なのに捕まる前に午後の講義は早退するべきだろうか?
そんな風に僕が今後の行動を思案していると、突如。少し離れた場所から、息を飲むかのようなざわめきが巻き起こった。
なんだあれ? どこの学部の人? といった囁き声が、食堂のあちこちから聞こえてくる。
ついさきほどまで猟奇殺人事件の情報収集に躍起になっていた記者達にも変化があった。目の前の人間に質問することを忘れ、全員魅入るかのように同じ方向を凝視していた。
ざわめきは伝播し、徐々に近づいてくる。今や僕の近くにいた人達も、一様にそちらに視線を向けていた。
この反応は、一体どうしたというのだろう?
アイドルか芸能人でも現れたのだろうか?
結局、僕は好奇心に負けた。周りの人達に倣って、この学生食堂にいる、殆どの人々を釘付けにするその存在――。ざわめきの元凶を確認すべく、身を乗り出した。
それを見た時、僕は妙な。それでいてあり得ないデジャブに囚われた。
森の中。張り巡らされた蜘蛛の巣。死の淵にいたはずの僕が見た、この世の物とは思えないくらいに妖しく。禍々しい気配を内包する世界。月明かりに照らされた、銀色の領域――。微笑む怪物。そして……。
「あ……え?」
僕は思わず目を擦る。突然のデジャブにも驚いたが、それ以上にそこにいた存在から、僕は目が離せかったのだ。
周りの関心を一手に引き寄せる“その人物”は、見るものを困惑させる容姿をしていた。
涼やかな笑顔を浮かべるその表情は、何処か精巧に作られた彫像のよう。雪のような肌の白さも手伝って、纏うその雰囲気は、まるで無機物な人形そのものだった。着ている服も白いワイシャツとジーンズという、シンプル極まりない出で立ち――。なのだが、その簡素な格好が、逆にその人物の異様なまでの存在感を際立たせている。
そしてなにより、僕や周りの目を引き付けてやまないのは、その人物の髪と瞳だ。
まるで星屑の色で染め上げたかのような。そんな金色にも銀色にも見える髪と、血の一滴を落としたかのような。そんな生々しい不気味さを感じさせる赤い瞳。この組み合わせが、その人物に人間離れした雰囲気を醸し出させていた。
「……綺麗」
食堂の中にいる誰かがそう呟いた。
そう、そこにいたのは、美しい少年だった。何処か次元の違う美しさをもった少年だった。
その姿に、僕はふつふつと沸き上がる緊張で、思わず唾を飲み込んだ。
この美しさは知っている――。身も心も、血までも凍りつくかのようなこの戦慄は……。
白い少年が近づいてくる。
荘厳にすら見えるその足取りを、阻む者はいない。図々しさが取り柄の新聞記者達も少年に駆け寄るのをためらっているかのように見える。
そんな周りの空気を気にしないかのように、少年は彫像のような笑みを浮かべながら、真っ直ぐ歩いてくる。その行き先は――。
僕が座るテーブルの前だった。
「え……?」
僕は思わずそんな声を漏らしながら、真っ正面に立つ少年を見上げる。今僕は間違いなく、ポカンとした顔になっていることだろう。
そんな間抜け面を晒す僕を、白い少年はじっと見つめてきた。
無機質な赤い瞳が、まるで値踏みするかのように僕を下から上へと見る。その獲物を見るかのような視線にゾワリとした悪寒が走った気がしたのは、錯覚ではないだろう。
「あの……」
何かご用ですか? とは続かなかった。その前に少年が、まるで落胆したかのように溜め息をついたのだ。
「見つけた……けど、違う。君じゃない。君ではありえない。恐らくだけどね」
それは聞き取るのも難しいくらいの小さな声だったが、少年は確かにそう言い残すと、静かに僕の座るテーブルを通り過ぎていく。
ゆっくり学食を後にする少年を、僕はあっけにとられたように見送っていた。
しゃべれたのか……。というのが、正直な感想だった。初対面の人間に対して、ずいぶんな評価だが、それが僕の今の素直な気持ちだった。
見た目は確かに人間だ。だけどあれはまるで……。
脳裏に長い黒髪を靡かせた、黒衣の美しい少女が浮かび上がる。
そうだ。白い少年のあの雰囲気……。アイツに――。怪物に似ていたんだ。
それに気づいた時、僕は思わず白い少年の後ろ姿を目で追っていた。
見ると、少年は丁度学食の出口に立った所だった。
開かれた食堂の扉。そこから射す陽光が、少年の髪を輝かせている。鈍く光るそれは、何処か蜘蛛の糸を思わせた。
その瞬間、唐突に少年はこちらを振り返る。
交差する視線に、僕の身体が強張った。理由は分からないが、そんな自分の畏怖にも似た反応に一番戸惑ったのは、何を隠そう僕自身だ。
すると、そんな僕を嘲笑うかのように、少年はゾッとする程綺麗な笑顔を浮かべた。
やがて、少年は静かに唇を動かすと、重い扉が閉まる音と共に、外へ出て行ってしまった。
後に残ったのは沈黙。
だが、それも長くは続かない。少年が消えてからしばらくすると、まるでせきを切ったかのように、再び食堂は喧噪に包まれていった。
さっきまでの妙な緊張感はどこへいったのか。「かっこよかったね〜」や、「でも、なんか不気味~。てか、あんな人いたっけ?」といった、声すら飛び交っている。
だが、僕はそんな呑気な感傷に浸っている場合ではなさそうだった。
さっきまで大人しかった新聞記者達が、チラチラとこちらを見てきていたのだ。さっきの少年との僅かなやり取りで、少しだけ関心が僕の方に向きつつあるらしい。
「……逃げるか」
僕は誰かに告げる訳もなくそう呟く。変に目立ってしまったせいで居心地も悪い。午後の授業は惜しいが、ここは帰った方が賢明だろう。僕は荷物をまとめると、不自然ではない程度に早足で食堂を後にした。
外に出た僕は、ぐるりと辺りを見渡した。あの少年の姿は何処にもない。それに少しだけ安堵する自分がいる。
でも、それも致し方ない事だと思う。アレは何というか、えも知れぬ気味の悪さがあった。何だったのかはわからないが、関わりたくないと直感してしまうような。そんな得体の知れなさだ。
何より、少年の最後に見せた唇の動き。それが僕に、謎の不安を募らせていた。
僕は読唇術の心得がある訳ではない。だけどあのとき、少年は間違いなくこう言っていた。
「またね……」と。




