34.真夜中の問題
こんにちは。
読みに来ていただき、ありがとうございます。黒椋鳥です。
ここから第三部『白い抹消者』スタートです。
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では本編です。
不意に湿った音が聞こえ、微睡みかけた意識が現実に引き戻された。
色々な意味で疲れた身体を休めるべく、ベッドで横になった矢先の事だった。
最初は、台所からの水音かと思ったが、小さな物音はどうやら外ではなく、僕の真上からしているらしい。
何かを啜り上げ、飲み込むかのような音は絶えず鳴り響いている。大きくもないが、かといって小さくもないその音に、僕は呆れたように眉を顰めた。
マンションに一人暮らしの大学生。……だった。
部屋は角部屋、隣は空室。その状況は変わっていない。
まさに静寂の世界と言い切っていい環境に僕は住んでいる。……確かに静寂だ。少なくとも騒がしいわけではない。
そんな部屋にこういった物音がするということは、僕以外の生き物が部屋に侵入している。という結論が導き出されるのが普通ではないだろうか?
だが、残念ながらその音は部屋に侵入した害虫や、害獣の類いが出したものでは勿論ない。そもそも、侵入したという前提が間違っている。
ゴキブリやネズミなら対処のしようがあるから、僕としては幾分楽だっただろう。
だが、“僕の部屋に居住するコイツ”を相手取った場合は、そうは問屋が卸してくれない。
ベッドの上で仰向けのまま、僕は嘆息を漏らしながらそいつがいるであろう場所を睨む。音は全く止む気配がない。それこそ、安眠が妨害されかねない程に絶妙な間隔で耳に入ってくる。そして何より、下半身に違和感があった。
「おい、何回言えばわかるんだよ」
僕はゆっくりと状態を起こし、ベッド脇のスタンドライトの灯りを点ける。
眠れない夜の読書用に購入した、少し洒落たデザインの電灯。そのぼんやりとした光が、ある時期から様変わりした部屋と、僕の下半身に馬乗りになるソイツを照らし出す。
そこにいたのは少女だった。
黒いセーラー服に身を包み、ほっそりとした脚は同じく黒いストッキングで覆われている。
腰ほどまで伸びた、長く艶やかな黒髪は、前髪が切り揃えられ、まるで日本人形のよう。
深い闇の底のような漆黒の瞳。
尽く黒を強調する姿とは対照的な、病的なまでに白い肌。それはとてもきめ細かで、陶磁器を思わせた。
美しい少女だった。
背筋が凍りつくかと思える程、美しい少女だった。ただし――。
瑞々しい果実を潰すような、湿った音がまた響く。
少女は両手を口元に持っていき、何かを咀嚼するような動作を繰り返していた。
夜中に摘まみ食いをする女子高校生だったならば、まだ可愛げがある。が、生憎コイツのコレは、そんな年相応な少女のものとは無縁だ。
何せ少女の指や唇は、赤く血塗られているのだから。
やがて、ゆっくりと少女が口から手を離す。
血染めの手のひらには、白い繭が乗っている。
……今日は作る方か。僕がそんなことを考えていると、少女はおもむろに繭を手から転がり落とした。
所々赤黒い染みが付いた繭は、重力に従い自由落下を――。することはなく、空中で静止する。
その瞬間、何かに引っ張られるように繭は空中を浮遊し始めた。
空飛ぶ繭はぐんぐん上昇し、最終的には部屋の天井まで到達する。
天井とは言っても、行き着いた先は普通の天井などではない。
天蓋のように蜘蛛の巣が張り巡らされた、ある種の異界を思わせる不気味な空間。
繭はそこに絡め取られて固定され、それっきり動かなくなった。
僕はそれをぼんやりと見つめながら、再び少女に視線を戻す。目の前の少女は、血だらけの指に舌を絡ませ、味わうかのように一本、一本を丹念に舐め取っていく。
その姿はどこか淫靡で背徳的な空気を醸し出していた。が、同時に目を背けられない魅力と――。どこか人間離れした妖しさを備えていた。
もっとも、そのような印象を受けることは、ある意味で当然と言えるだろう。何故なら、この少女は人間ではない。その正体は、多くの謎を抱えた、名前のない怪物なのだから。
僕の運命が変わった、あの夏の始め。僕はこの怪物に恐怖し、魅了され、そして捕らえられた。
それが地獄のような夏の幕開けであったと気づくのは少し後の事。
僕が怪物に捕らえられたことで、恋人だった山城京子。友人である阿久津純也から、少なからず疑惑を持たれつつあったあの頃――。それはまるで燎原の火の如く巻き起こった。
連続猟奇殺人事件。日に日に犠牲者を増す凄惨な事件は、僕の親友の命すら無慈悲に奪い取った。
その実感が湧かないうちに、僕は恋人である京子の証言を元に、実行犯である、藤堂修一郎の部屋に乗り込んだ。それが、僕はおろか、共犯者である藤堂修一郎すら陥れるための、京子の策略だったとは、微塵も気がつかずに。
結局、僕は親友と恋人。自分にとってかけがえのない存在であった二人を失いながら、辛くも生き延びた。
以来僕は――。
「ねぇ、なんでさ。君が“ソレ”をするのは……、百歩くらい譲ってよしとしよう」
僕が話し始めると、怪物はどこか嬉しそうにこちらを向く。普段は無表情なのだが、こういった微妙な表情の変化がある辺り、少しは喜怒哀楽の感情はあるのだろう。しかし、それにしたって問題というものはある。
「けどさ、なんでわざわざ! 毎度毎度僕に馬乗りになってする必要がある!? 嫌がらせか? 嫌がらせなのか?」
僕の叫びにも、怪物は答えることなく、こちらをただ見つめてくるのみ。
問題その一。怪物は意思疎通が不可能。おかげで、僕の抗議やらは軒並み却下。もとい、無視されてしまうのである。
だけど、少しは僕の気持ちくらいは伝わってもいいではないか。そんな虚しい願いを密かに込めつつ、僕は今宵も怪物に言葉を投げ掛ける。
すると怪物は、ゆっくりと僕に顔を近づけてきた。
コイツは言葉を話さない。身振り手振りで気持ちを伝えることもしない。コイツの行動はいたってシンプルだ。あくまで行動だけ見るならば、だが。
そっと、僕の首に少女の両腕が回される。“今日の分は既に吸われている”。つまり、コイツがこの後、僕にすることは……。
「お前も飽きない……んっ……」
せめての悪態も口が塞がれる事で意味を無くす。
抵抗は……しない。したところで意味を成さない。身体所有権の剥奪――。操りの力を使われたくないからである。
あの他人と二人羽織りをしているかのような、気味の悪い感覚は今でも慣れないのだ。
「ん……ぷはっ」
長いようで短かったキスも終わり、僕は怪物の拘束から解放される。しばらく放心したようにぼんやりしていると、怪物はこちらを物欲しげな表情で見つめていた。
ああ、アレか。僕は苦笑いと共に怪物の艶やかな黒髪に手を伸ばし、解くように撫でる。
目を細め、僕にゆっくりと身体を預けてくる怪物。最近はこれがお気に入りらしく、よくキスの後に無言の要求をしてくる。拒むか無視すると、もれなく能力発動だ。もっと有意義な使い方があるだろうに。
もっとも、そう言う僕にも、その有意義な使い方というものが、いまいち思い浮かばないのだけれど。
僕がそんな事を考えていると、不意にバキン! という音が脳髄の奥で響き渡る。
身体の神経を蹂躙するかのような、電流にも似た衝撃は、僕を怪物の操り人形に早変わりさせた。
操りの力を行使してきたのだ。
……問題その二。拒んでも、無視しても、従っても、こうして使われてしまうこともある。理不尽なことこの上ない。
さて、今宵は何をさせられるのだろうか。
キスが物足りなかったか。
こいつ好みの撫で方があるのか。
膝枕をしたいのか、逆に僕からの膝枕をご所望なのか……。
大穴でいつぞやの血の口移しをしてくる可能性もあるが、それは多分無いだろう。あの夜以来、怪物はそれを一度も僕にやってこない。
つまるところ、この後の僕の運命は、コイツのさじ加減一つという訳だ。
ゆっくりと自分の身体が勝手に動き始める。僕はまるで傍観者のような気分で、その動向を見守るより他にない。
操られている間は幸か不幸か、僕の意識や心までは奪われない。
だから僕は、怪物の挙動を見逃さないように、視界が及ぶ範囲でしっかりと見つめていた。
コイツが何を考え、何を求め、何処へ行こうとしているのか。
それを見極めるために。
魅惑の檻に捕らわれた夏の始め。内臓を食されるかのような臨死体験を経て、僕は夏の終わりに怪物に歩み寄った。
その先に何があるのか。それはまだ分からない。でもあの夜、僕にも何かがあったことは疑いようがない。それに怪物が関わっていることも。
だからこそ、あの夏以来、僕は思ったのだ。こいつの――怪物の秘密を、知りたい……と。
問題その三。謎に包まれた怪物――。その存在そのもの。
探索の秋が始まろうとしていた。




