表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前のない怪物  作者: 黒木京也
第二章 内臓実食
33/221

32.四つの謎

 夢を見た。

 夢を見ているんだと思う。気がつけば、僕は森の真ん中で身を横たえていた。

 京子の家からいきなり移動したのも驚くべき点ではあるが、それ以上に不可解だったのは、僕が身を置くその場所だった。

 どこかの森。あるいは林であることは間違いない。が、夜風に揺らめく木立の一角には、何処か異界めいた光景が広がっていた。

 見渡す限りの白い蜘蛛の糸。それが幾重にも絡まり、張り巡らされている。

 糸は木と木の間に。根本に。枝に。地面にすら到達し、その存在感を主張していた。

 暗い闇の世界の中、月明かりで淡く銀色に輝くその領域。それを見た僕は、誰かに告げられるまでもなく悟った。

 ここは、アイツの棲み家か、休息地に違いない――。

 この世の非常識を体現したかのようなこの森の一角は、まさに蜘蛛の怪物が住居とするにふさわしい場所だった。

 アイツは……どこに行った?

 周りを見渡したいところだが、身体が鉛のように重い。

 僕は眼の動きのみでなんとか周りの把握しようと試みて、そこで妙なものを発見した。


 何だ? アレは?

 視線の先は、蜘蛛の巣が張り巡らされた木の梢。そこに握り拳大の、白くて丸い塊が吊るされていた。

 それから僕は、たっぷり数十秒ほど、表情を凍らせた。その塊から目が離せなかったのである。

 よくよく見ると、塊は一つや二つではなく、この蜘蛛の巣だらけの領域――。その至るところに吊るされていた。

 この距離で見る限り、蜘蛛糸をそのまま押し固めたもの。あるいは、糸で何かをぐるぐる巻きにしたものを吊るしているように思えた。

 勿論、“それだけ”だったならば、話は簡単だっただろう。

 だが、僕が目を離せなかった理由は別にあった。

 その塊の所々に、“赤黒い染み”があったのだ。それはまるで――。


 その時。トマトを握り潰したかのような、ひどく耳に残る音がした。

 続けて柔らかいものを咀嚼しているかのような粘着質な音が断続的に響く。

 それも僕のすぐ傍で。

 横たわる自分の足元の方を覗き見ると……。

 そこに怪物がいた。

 何かを貪り食う、怪物の姿があった。

「なぅ……あ……」

 何をしている!? という言葉が思わず飲み込まれる。

 美しい少女が原始的な方法で何かを食すというアンバランスな光景が、謎の衝撃となって僕を襲う。

 怪物の口元は真紅に染まり、その顎が動く度に赤い飛沫が怪物の美しい顔を穢していく。

 もう疑いようがない。怪物が貪り食っているのは、至るところに吊るされた、あの繭のような塊だった。そして恐らく、あの塊は……。

 不意に僕の下半身に、柔らかな重みが加わる。

 いつのまにか怪物が僕に乗しかかってきていた。

 怪物が僕の傍に居着いてからはよくあることだ。

 が。いくら慣れた状況と言えども、画像でしか見なかった、本物の補食シーンを見せられた後となっては、僕も黙って乗しかかられている訳にはいかない。

 我が事ながら、まるで恐怖したり魅了されたりのジェットコースターにでも乗っているような気分だ。

「お、おい。何をする気だ?」

 そうこうしていると、怪物がゆっくりと顔を近づけてくる。

 逃れようにも、いつの間にか両肩は怪物の手で押さえつけられ、跨ぐように僕に乗っかっているので足も動かせない。

 血濡れの唇は怪物の白い肌も相まって妖しい空気を醸し出していた。

 だが、それが気にならなくなる程の大問題が残っていた。怪物は、“明らかに何かを口に含んでいた”。

「よ、よせ!………っん」

 もう何度目かと数えるのもバカらしくなってきた接吻の感触。そして……。

 バキン! という理不尽な音。同時に液状のヨーグルトのような何かが口の中に入り込んできた。

 錆びた鉄のような味に僕は顔をしかめたい……のだが、身体の方はまるで待ちわびたかのようにそれを啜り飲む。

 やがて、僕が全て飲み下したのを確認すると、怪物は脳髄に響くような音を合図に、僕から顔を離した。

 呆然とする僕。それを黙ったまま見つめる怪物。視線が交差し、しばらくの間沈黙が流れた。

「う……ぐ」

 唐突に吐き気がこみ上げてきた。当然だ。恐らくアレは人間の……。

 頭を侵食していくようなおぞましい推測。人間として冒してはならない所業。だというのに、僕の口から吐瀉物が漏れる事はなかった。


 バキン! という支配の音。その瞬間、僕は嘔吐という人間らしい当たり前の反応すら封じられてしまった。

 気持ち悪さは確かに残っているのに、急速に引いていく吐き気。ホッとするべきか否か。

 そんな僕の眼前で、怪物はいつの間にもう一つ手にしたのか、血染めの繭にそっと唇を近づけていく。

 両手で大切に、味わうかのようにソレを咀嚼する怪物。

 時折、吹き出すような音を立てて飛沫が飛び出すが、怪物はそれをこぼさぬよう器用に手で押さえている。

 そして、再開される血の口移し。

 溢れる背徳感や冒涜感。嫌悪や吐き気。それすら飲み込む程の、強烈な酩酊と快楽が僕に襲いかかる。

 この状況でそんな感覚に陥るなんて、まるで踏み外してはいけない道に来てしまったかのよう。

 そんなゾッとするような恐怖を感じていると、今度は目の前がチカチカし始めた。

 降りかかる出来事に、脳の許容範囲がパンクしてしまったのだろうか? またしても意識が遠のいてきた。


 腹部が妙に熱い。そういえば、京子に刺されたんだっけ? あれ? だとしたら何で僕は生きている? 何がどうなってるんだ?

 ぼんやりとした頭ではロクに思考も回らない。

「はりゃ? お前さん何しとんじゃ……な、なんじゃこりゃあ!?」

 ブラックアウトしていく意識の中、僕が最後に聞いたのは、見知らぬ老人の驚愕した声。

 つい先程までの怪物の気配は、煙のように消えてしまっていた。


 もし神様ってのがいるなら、平手打ちかラリアットの一発くらい許されるよね?

 僕はふと、そんなことを考えた。

 だって死ぬ直前にまでこんな悪趣味というか、意味不明な“夢”を見せるなんて、悪意があるとしか思えない。

 僕に何か恨みでもあるのか?


 口に今だ残る、鉄と肉が混じりあったかのような嫌な味。

 夢だというのに、それだけが妙に生々しかった。



 ※



 目を開けたら、吐息がかかるかと思える距離に、むさいおっさんの顔が大写しになっていた。

「おっ生き返ったか? べっぴんな天使のお迎えじゃなくて悪いな」

「う、うわぁあああ!?」

 いきなり視界に入ってきたニヒルなおっさんの笑顔に、僕は思わず悲鳴をあげる。

 その瞬間、脳天に響き渡るような衝撃を受け、目の前を火花やら星が飛びかった。

「おい、痛ぇだろうが! いきなり頭突きとは……元気いっぱいで安心したよ、こん畜生が」

「大輔……叔父さん?」

 おでこを擦りながらそこに立っていたのは、僕の叔父である、小野大輔その人だった。

「ん? あれ? ここどこ?」

 清潔なシーツの感触、白い壁にクリーム色の床。消毒液の香りと、ゆったりとした服。

 ――病院だ。ということは……。

「生き……てる?」

「ま、軽い打撲と軽い裂傷だからな。むしろこれでお前に死なれたら、病院相手に訴えてるとこだ」

 肩をすくめる叔父さん。ん? 軽い……裂傷?

 僕は半ば無意識に自分の腹部に手を当てる。痛みは……ない。

 そのまま京子に刺された時を思い出す。激しい痛みの波、溢れ出る血。

 アレが……軽傷?

「ホームレスのおっさんに感謝しろよ。鷹ノ巣公園の隅っこにある雑木林で、お前が血塗れでぶっ倒れてるのを見つけたらしくてな。病院まで背負って全力疾走してくれたらしい」

 雑木林、血塗れ、老人……。

 僕の頭の中で、ついさっきまで夢だと結論付けていたものが、急速に像を成し、現実味を帯びてくる。

 あれは……実際に起こった出来事だった?

「しかし……お前一体あんな所で何やってたんだ?」

 叔父さんが心底不思議そうな顔で訪ねてくる。が、残念ながらそれを聞きたいのは僕の方だ。

 鷹ノ巣公園は京子のマンションから一つ隣町だ。そんな所まで気を失った僕がどうやって移動するというのか。

 いや、誰の仕業なのかだけは大体想像はついてしまう訳なのだが。 脳裏を黒髪の少女がよぎりつつ、僕はこの局面で最も重要な事を話していない事に気がついた。

「そ、そうだ! 叔父さん! 猟奇殺人事件の犯人の事なんだけど……」

「ああ、山城京子な。行方不明になってるぞ」

「…………へ?」

 大輔叔父さんの口から出た思いがけない衝撃の一言に、僕は身体を凍りつかせる。

「な……何で?」

「いや、な。藤堂を捕まえたはいいけど、あっさり死なれちまっただろ? だから身辺を調査していたんだがな」

 大輔叔父さんはポケットから煙草を取り出そうとして、「おっと、そういえば病院だったな」と呟く。

 結局何も掴まなかった指を手持ち無沙汰気味に振りながら、叔父さんは話を続ける。

「藤堂の部屋から、本人のものでも、被害者のものでもない髪の毛が見つかってな。一応、もう一度事情を聞きたくて山城京子に連絡したら……」

「連絡がつかない?」

「ご名答だ。実家や大学にもいないらしく、部屋に入ってみたらビンゴだった。って話だ」

 なるほど。となると、遅かれ早かれ京子には捜査のメスが再び入る運命だったのか。

 完全に警察を出し抜いた気になっていた京子の顔が脳裏に浮かぶ。

「……アレ? 今日、何日?」

「八月二十八日だな」

 叔父さんの言葉に愕然とする。僕が京子に刺されてから二日も経っていたのだ。

「僕が発見されたのは?」

「昨日の夜だな。因みに山城京子の部屋に警察が押し入ったのが昨日の朝だ」

 僕が京子に刺されたのは大体一昨日の夕方。

 ということは、僕はそこから次の日の夜まであの傷を負ったままだった。ということになる。

 ますます解せない。僕はどうやって生きながらえたんだ?

 僕が頭を抱えていると、叔父さんは本当にすまなそうな顔で僕に手を合わせる。 

「さて、レイ。目が覚めて早々で悪いが、事情を聞かせてくれ。何せ今回の事件、不可解な要素が多すぎる」

 不可解。それは確かに言えている。

 ここは僕の持っている情報と、叔父さんの情報を照らし合わせてみたほうがいいかもしれないな。

 少しの混乱を抱えながらも僕はゆっくり頷くと、今までの経緯を話し始めた。

 藤堂修一郎が逮捕されてから起こったこと、二人の殺人鬼がいかにして出会ったか。

 行方がわからなくなっていた被害者の内臓の場所。そして京子の事と、その目的について。

 怪物の事は伏せた。今現在アイツの存在を証明できるものがない。僕が京子に刺された所まで話した時、叔父さんは不審げに眉を潜めた。

「やっぱり刺されてたか……。山城京子の部屋に事件被害者ではない者の血液が残されていて、加えてお前も連絡が取れない。もしかしたらとは思ってたが」

「血……残ってたんだ」

「ああ、となるとおかしいよな。その軽傷であの血の量。筋妻が合わないよ」

 ポリポリと頭を掻きながら、僕と同じ考えにいたる叔父さん。

「加えて、出血が本当だと仮定すると、その状態で隣町まで移動、ないし運ばれたってことになるが……。こんなこと、普通に考えて不可能だ。お前がプラナリアか何かみたいに、切られてもすぐ再生する奴だったら話は別なんだけどな」

 身内にそんなのがいるなんて思いたくもないがな。と、叔父さんは冗談めかして笑う。

 プラナリアより非常識な化け物な存在なら遭遇したけどね。と、僕は心の中で笑う。

「まぁ、いい。分からないもんは仕方ない。とっとと山城京子を捕まえて、色々吐かせるのが多分一番手っ取り早いだろ。あのサイコ女がこっちの質問に答えてくれるかは知らないがな」

「サイコ女?」

 確かに京子の言動や行動は狂気じみてはいるが……、質問などに答えられない程の壊れ方とは方向性が違う気がする。

「サイコ女には違いないだろうが。人の内臓玩具にした挙げ句、拉致監禁未遂。てか、部屋にあんだけの蜘蛛の死骸を放置してるなんざ、正気の沙汰とは思えないよ。あの部屋見た後輩の何人かは、ショックで吐いちまったし」

「蜘蛛の……死骸?」

 叔父さんのもたらした情報に腕が震える。

 おかしい。京子は襲われる側だったのではないのか? 何故、襲った側の蜘蛛が死んでいる?

 行方不明と言っていたが、それは蜘蛛に跡形もなく捕食されたことを意味しているのだろうか?

 それとも……。

「極めつけはあの絵だ。冷蔵庫にはタッパーに詰めた内臓……あの女に言わせりゃ多分“材料”か。まだいくつかあったしな。全く、とんでもない女だよ」

 ブルリと身震いするかのように叔父さんは両肩を抱える。僕はもう声も出ない。否、出せなかった。

「一応、鑑識に出したら被害者全員の痕跡がその絵から検出した。流石に気味が悪くて、飯が喉を通らなくなるような展開だよ」

 そう言いながら叔父さんは忘れてた。と呟きつつ、フルーツの缶詰めが入ったビニール袋を病室のテーブルに置く。

「お見舞い」

「このタイミングで出さないでよ」

 相変わらず図太い精神をお持ちのようだ。

 渋い顔をする僕には目もくれず、叔父さんはお見舞いの缶詰めを病室の冷蔵庫に入れていく。

「まぁともかくね。未解決な上に一癖も二癖もある事件が、一度に四つにもなったんだよ。警察もあたふたしててな。てんやわんやだ」

 叔父さんは苦笑いを浮かべながら、桃缶一個を除いた缶詰を仕舞い終えると、冷蔵庫の扉をを閉めた。

 こちらに向き直る叔父さんの顔は、成る程。確かに疲れが滲んでいる。

 もしかすると、忙しいなか僕に付いていてくれたのだろうか? だとしたら少し申し訳ない。

「って? え? 四つ?」

 再三提示された新たな情報に僕は目を瞬かせる。

 叔父さんの目元にくっきりと浮かぶくまが気にはなるが、今はそれよりもいつの間にか増えた事件についてだ。


「ああ。まずは藤堂修一郎と山城京子。この二人が起こした事件な。これは藤堂が死に、山城が行方不明になった以上、未解決というしかあるまいよ」

 確かに。それは致し方ない。犯人はわかっても、その一人は未だに見つかってはいないのだ。

「もう三つは?」

「ああ、米原侑子(まいばら ゆうこ)の一件。覚えているか?」

 その名前に僕はピクリと反応する。米原侑子。他の被害者が内臓の一部を持って行かれたのに対して、唯一、脳を含めた全ての内臓を持ち去られた女学生。

 そして何より、僕の部屋に住み着いた怪物。アイツと瓜二つの容姿を持った少女。

 僕は思わず叔父さんの後ろ、病院の窓をチラリと見る。

 む、空が赤い。もう夕方なのか。

「実はな。件の二人が起こした連続猟奇殺人事件と、米原侑子が殺害された事件は、全くの無関係だということがわかったんだ」

「……え?」

 思わず目を見開く僕の前で、叔父さんはお見舞い品の桃缶を開け始めた。

「これは間違いない。何せ藤堂修一郎本人が認めている。俺たちが第二の殺人だと思っていた米原侑子の事件は、全く知らない。世間が呼称する猟奇殺人事件第二の殺人は、まだ誰にも見つかっていない。なんて得意気に宣いやがったよ」

 苦虫を噛み潰したような表情で叔父さんは桃を頬張る。

 どこからフォークを取り出したのだろう? そして何故、僕のお見舞い品をこの人はこんなにもナチュラルに食べているのだろう?

「ああ、因みに、藤堂を逮捕した翌日に死体は見つかってる。何の因果か、お前が発見された鷹ノ巣公園の中に、結構広いひまわり畑があるんだがな。そこに埋めてあった」

 ご丁寧に本人が場所を教えてくれたからな。と言いながら、叔父さんはつるりと吸い込むように桃を口のへ入れていく。

 いい食べっぷりだ。見てるこっちが腹が立つくらいに。

「山城京子が描いていた絵にしてもそうだ。お前も知っての通り、被害者の内臓を材料にしていたが、あの絵の中に米原侑子の痕跡は無かった。当然、冷蔵庫に保管されていた材料も同じくだ」

 とうとう桃缶の中身は全て叔父さんの胃の中に収まってしまった。

 罪悪感の欠片も見せずに食べきったなぁ、この人。

「てことは、米原侑子を殺害した犯人は……」

「ああ、尻尾も何も全く掴めちゃいないよ。たまたま猟奇殺人事件の時期と重なり、内臓を持ち去るって共通点があったから、一括りにされちまってたんだな。現状、これも未解決だ」

 参ったね。と、叔父さんは嘆息を漏らした。

「三番目。うちの鑑識の古い知り合いが、行方不明になったって話はしたか?」

「え〜っと、チラリとは」

 曖昧な返答を返すと、叔父さんは指を鳴らしながら頷く。

「ずっと音沙汰なしだったんだがな。今朝がた、うちの署にアイツの名前で辞表が届いたんだ。仕事に誇りを持ってたアイツが、誰にも姿を見せずに正式に職場からさよならしたんだよ」

 釈然としない表情の叔父さん。

 その顔には何処か悔しさや遣るせなさが滲んでいるように見えた。

「警察の方は……それで納得したの?」

「上は納得したさ。事件性の欠片もないからな。やる気なくしたやつなんざほっとけってやつさ」

 成る程。それよりも猟奇殺人事件などの方を追えという事か。

 だが、恐らくは叔父さんの中では疑念が拭いきれない。そんな所だろうか?

「あいつ、見た目はともかく、超がつくほど真面目な奴だったんだ。そいつがワープロで辞表だぞ? しかも連絡もつかないときた。絶対におかしい」

 だからこれは俺個人にとっての事件だな。と、叔父さんはため息混じりに呟いた。

 古い知り合いと言っていた。知り合って一年と少しの友人、阿久津純也を失った時、僕の心には決して小さくない、むしろ大きな痛みが残ったものだ。

 それを考えると、叔父さんの苦しみはどれほどのものだろう? 想像もつかないし、したくもない。

 その痛みは叔父さんだけのものだ。たとえ生きているのだとしても、叔父さんは友人を失ったに等しいのだ。

 それからなんとなく沈黙が流れた。

 やがて、しばらくの間を置いてから、叔父さんはよっこらせと立ち上がった。

 ん? 何だか完全に帰る空気を纏ってないか?

「え? ちょっと待って。四つ目は?」

 僕が少し慌てたような声を出すと、叔父さんはああ、と声を漏らしてから、少し考えるようなそぶりを見せた。

 再び野沈黙を挟んだ叔父さんは、唐突に真面目な顔になる。

「ああ、四つ目な。あ〜……それはやっぱりいい。そんなことよりもレイ、お前、何か変な薬に手を出してないよな?」

「へ?」

 すっとんきょうな声をあげる僕。

 対する叔父さんは、こちらをじっと見つめてくる。

「いや、な。刺されたと本人は主張するが、流した血の割りに軽傷だ。更に意識失って隣町まで瞬間移動するわ、そこの公園で自分の血を口一杯に含んで気絶してるわ……」

「ちょ、ちょっとストップ!」

「ん?」

 新たな事実の発覚に、僕は叔父さんの言葉を制止する。

 たった二日昏倒していただけなのに今日は驚いてばかりな気がする。

「い、今なんて……?」

「ん? 刺されたら軽傷だった?」

「その先!」

「瞬間移動?」

「もっと先!」

「自分の血を口一杯に含んで?」

「それ! どういうこと?」

 少なくとも僕は吐血なんかしてないし、自分の血を飲んだ記憶なんてない。すると、叔父さんはますます呆れたような顔でため息をついた。

「さっきも言ったが、お前、ここに運ばれて来た時な。顔中血塗れでだったんだよ。当然口の中もな。不審に思って調べた医者曰く、吐血した様子もない。寧ろ“自分の血を飲んでいたのではないか“って言ってたよ」

「僕が……自分の血を?」

 口から掠れた声が漏れる。

 何だ? どういう事だ? 何で僕がそんなことを?

「……なぁ、レイよ。失礼を承知で聞くが、お前今、正気なのか? 記憶は所々飛び飛びで、行動にも不可解な点が多すぎる」

 探るような目を此方に向ける大輔叔父さん。今まで見たことのない、刑事の雰囲気を思わせる表情。

 叔父さんのそんな目を真っ直ぐ見つめていた僕は、ここに来てようやく悟った。


「そうか……“僕が”、四つ目なんだね」


 確かに。自分で言うのも難だが、あの時、京子に刺されてから僕の身に何が起きたのか。それは僕にも分からない。

 未解決のままだ。

 これ以上にないくらい怪しい存在じゃないか。

 僕が神妙な顔をしていると、叔父さんは一転、おどけたような表情になる。

「ま、長年の経験から言わせてもらうと、お前が何か良からぬ事を企んでるようには見えんけどな。ただ、それでも不可解なのは不可解だ。だから純粋に、叔父さんとして心配なんだよ」

 だからそこまで深刻に考えなさるな。そう締め括りながら、叔父さんはゆるめたネクタイを直し、改めて此方に向き直る。

 ピッチリと着込んだスーツは、やはり刑事といった感じがしてかっこよかった。

「何はともあれ、レイ。無事でよかった。二度あることは三度ある。何て言葉はあるが、頼むからもうこういったことには巻き込まれないでくれよ」

 そう言い残し、じゃあなと片手を振りながら、大輔叔父さんは足早に病室を後にした。

 しばらくその後ろ姿を見つめていた僕は、ゆっくりと深呼吸して、再びベッドに横になる。

 今更気づいたが、ここ。僕以外に使用している人いないんだなぁ。

 もっとも、いないからこそ、大輔叔父さんもあそこまで事情を話してくれたのだろうが。


 横になったまま、さっきの大輔叔父さんの目を思い出す。

 心配してくれている。これは本当だろう。だが、それと同時に疑惑を持たれているのも事実だと思う。

 何とも複雑な気分だった。


 何の気なしに窓を眺める。夕焼けで茜色に染まる空。

 それを美しく思えないのは、ここ数日の出来事のせいで、赤やそれに近い色が嫌いになりつつある故だろうか。それとも……。

 改めて腹部の傷を撫でてみた。やはり痛みはない。加えて、椅子で殴られた部位も痛みが軽減しているように思えた。

 一日、二日寝て何とかなる傷じゃない。本当に、僕の身に何が起こったのだろうか?

「やっぱり……“君”が関わってるのか?」

 窓の向こう側。そこに佇む、黒衣の怪物に話しかけた。

 叔父さんは気づくはずもないが、こいつはずっと話の途中から叔父さんの背後――。病院のベランダに立っていた。

 人の気配が多い病院だからなのか、怪物は此方に入ってはこれないらしい。

 ただ窓の向こう側からこちらを見つめてくるだけ。珍しく大人しい。

 いや、こっちに来られて、吸血されたりディープキスされたりしても困るんだけどさ。

 それこそナースコール物だ。

 ……いや、その状況だと、ナース呼んだら不味いか。

 見た目女子高生の怪物。そして、実は強制的になのだが、端から見ればそれとイチャついている大学生。

 うん、大輔叔父さんに本気で逮捕されそうだ。

 そんなくだらないことを考えていると、怪物の姿が消えた。

「ん?」

 僕が首を傾げながら怪物の消えた窓を暫く見ていると、唐突に目の前に怪物が出現した。

 誰だ人の気配が多いから、怪物はこっちに入ってこれない――。なんて的外れな推測した奴は。僕だ。

「ええと……。一応、ここ公共の場だから」

 当然ながら、怪物には通用しなかった。そうして僕は、茜色の空が霞んで見えるほど美しい黒の腕の中に引きずり込まれた。


 結局。その日は大事をとって病院で一泊させられた。

 だが、人の気配が消える度に現れては僕に悪戯やらその他色々を繰り返す怪物のせいで、ロクに身体を休めることもままならなかった。

 せっかく生きて目が覚めたのに、ひどい話だ。


 何はともあれ、僕は人生二度目の殺人事件に巻き込まれるという出来事を経て、奇しくも生き延びた。


 ――そして。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
他の物語も、覗いてみませんか?
実は世界観を……共有してます
[渡リ烏のオカルト日誌]
― 新着の感想 ―
[気になる点] 自分で言うのも”難”だが まあ、”なん”でいいのではないですか?
[気になる点] ワープロで”辞表”だぞ?  ”退職願”かな?
[気になる点] アイツの名前で”辞表”が届いたんだ。 ”退職願”でしょうか? ”辞表”だけはありませんね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ