30.血の芸術家
「あたしはね。最初はこの芸術はわかる人にしか見せないつもりだったの。でも、修一郎と色々話しているうちにね、レイ君が万が一この事を知ったら、どういう反応を示すのかな? って考えるようになってきたんだ」
幼少の頃の京子、僕に対する失望、藤堂修一郎との出逢い。そこから内臓を使用した絵を描くのを思い付いた事……。僕にとっては思っていた以上にヘヴィーで残酷な話だった。
まさか彼女と他の男の馴れ初めや、恋愛とは全く別の理由で僕に近づいてきたという事実まで聞かされるとは思わなかった。
京子はもう戻ってこない。そう頭では納得していても、心はそうそう受け入れてはくれないようで、その話は少なくない精神的ダメージを僕に与えていた。
そんな僕の複雑な心情を知ってか知らずか、京子は楽しげに話し続ける。
「だってレイ君って、会ったばかりの頃は暗いっていうか、少なからず壁を作ってたでしょう? そんな人があたしに心を開いた所でコレを見たらどうなるかな? って。だからあたしはレイ君との関係を続けていたんだよ」
ストレートな言葉。その関係に愛はなく、ただ僕の絶望だけが糧だったという京子の告白。それは僕の心を容赦なく抉っていく。そういえば、僕を好きになったのは、色んな表情が見たいから。そう言ってたっけ。あの時は、こんなおぞましい意味だとは知るよしもなかったけど。
「レイ君の部屋に行った時のこと覚えてる? あたしがレイ君に迫りかけた時だよ。あの日もあたし、レイ君と会う前に修一郎といたんだよ。創作活動の後に来たの」
僕の脳裏にあの日の京子の行動、言動が鮮明に思い出される。
さっきまで作業をしてて、油絵の具などで汚れてしまったからシャワーを借りたい。と、言っていた。その作業が死体を使った狂気の創作だなんて、あの時の僕は想像も出来なかっただろう。
猟奇殺人事件の犯人と思われた男の釈放に対して「安心してたのに」とも言っていた。
殺人犯がまだ捕まっていないということに安心したと言っているのだと、あの時の僕は捉えていたと思う。
だが、事実は全くの逆。京子が言う安心とは、警察の追跡が途絶えたという意味だったのだ。
もっとも、冤罪で男が逮捕された後も大胆不敵に殺人を重ねていた所を見ると、どちらに転んでもよかったのだとは思うけど。
そういえば、第三の殺人の被害者が発見されたのは、京子が帰った後ではなかっただろうか?
「あの時ね。あたしがレイ君に迫ったのは、修一郎と同じ様に、レイ君を虜にしちゃおうと思ったからなんだよ」
「虜……?」
「うん、虜」
邪気のない笑顔で京子は頷く。
「でも思いの外、レイ君のガードが固かったからね〜。その日は一端引き下がったんだ。だからゆっくり時間をかけていこうって思ったの。だけど……」
言葉を切り、京子は純也の内臓が入っていたタッパーを指でなぞる。
「だけど、予想外の事が起きたの。レイ君と純也君が、修一郎の作品を見てしまった」
絵筆がビーカーの中身に浸され、茶色とも赤とも言えぬグロテスクな液体が再びキャンバスの上を行き来する。
「それだけならまだよかったよ。でも不幸なことに、あたしがそれを知ったのは純也君がレイ君について相談に来た時だったの。そして純也君は例の絵も見てしまった……。純也君が好奇心に突き動かされてくれたから安全に処理出来たけど、このことによってあたしと修一郎は初めて関わったことのある人間を殺してしまった」
絵筆を再びビーカーに突っ込むと、京子はそのまま此方に歩いてくる。表情こそ笑顔を張り付けてはいるが、目が……笑っていない。
「修一郎はね。芸術の果てに警察に捕縛され、処刑されるならそれも本望って考えの人だったの。勿論、捕まれば創作活動が出来ないから極力捕まらないように腐心してはいたけど」
京子は僕の膝に腰を下ろす。白くて細い指が伸びてくる。ヒヤリという感触が頬を伝う。
「でもね。あたしはそれが嫌だった。だってせっかくの非日常を体感しているのに、警察なんかに捕まったなら一発で現実に引き戻されちゃう。純也君が殺された以上、警察だってその周辺人物を調べるはず……。そう思った時、あたしはある考えを閃いたの」
僕の頬をなぞる指がそのまま首に、最終的には顎へと到達する。
「修一郎に全ての罪を被せるっていう、一発逆転の方法をね」
その時の京子の顔を、きっと僕は今後も忘れることはないだろう。
能面のような表情。その中に見え隠れする狂気は、まさしく殺人者のそれだった。
「修一郎とあたしはね。どちらかが捕まったら、全ての罪を片方が背負い、命を絶とうって約束していたの。だから舞台さえ整えば、後は勝手に修一郎が自滅してくれるって確信があったわ。案の定、修一郎は全ての罪を被って死んでくれた……計画通りって訳」
クスクスと笑いを漏らしながら、京子は僕からそっと離れる。
再びキャンバスの方へ歩いていく彼女の後ろ姿を見ながら、僕は今までの出来事を回想する。
ああ、悲しいかな。京子が猟奇殺人事件に荷担していたと判明した今になって考えてみると、不可解な点があったことに今更ながら気がついてくる。京子はそういった血生臭い出来事からは無縁だという先入観からか、はたまた惚れた弱味か。
僕も冷静さを失っていたらしい。
まず、京子から電話。あれが不可解だ。純也の事がニュースになったのがその日の夕方。京子から連絡が来たのがその翌朝。その時点で京子は純也が殺されてから連絡が取れないと言っていた。他の人が連絡してもダメだと。
更には、警察には連絡したが、証拠らしい証拠が出なかった。とまで宣っていた。
友人間で結託し、連絡を取ろうとするならともかく、たった一日で警察の捜査が完了するなんて、物理的に不可能だ。他人の部屋を捜査するだけでも色々と面倒な手続きがあるというのに。
つまるところ、この時点で怪しむべきだったのだ。
京子が友人や警察と接触をはかったことが、嘘っぱちであったということを。
僕が修一郎に殺されかけ、それをかけつけた警察が押さえ込む。それこそが京子の思い描いたシナリオだったのだ。
『女神よ……黒衣の女神よ。何故だ。ボクは供物を捧げ続けたというのに。何故ボクの元へ来てくれない……』
藤堂修一郎の最後の言葉。恐らくあの時、藤堂は京子に陥れられたことに気がついたのだろう。
信じていた女に裏切られたのだ。その絶望感は、皮肉にも同じような境遇の僕には痛いほどに分かってしまう。
だが、藤堂は陥れられて尚、京子との約束を律儀に守った。
こうして見ると、彼が京子へ向ける情愛は本物だったのかもしれない。
実際に話してみて、藤堂は殺人者の面や歪んだ芸術感さえ除けば、純粋な男のように見えなくもない。愛に殉ずるという選択肢を選んでもおかしくはないだろう。
もっとも、今となっては確かめる術もないのだが。
ゾワリ……と、突然僕の後ろ首に気持ちの悪い感触が走った。何かが蠢くような違和感は、僕の精神を不安定にさせる。
「解せないな。予想外となった純也の殺害を餌に僕を誘きだし、藤堂に罪を被せた。これによって警察を煙に巻くのが目的だったんだろう? なのに、何故ここで僕にすべてを打ち明けたんだい?」
首から肩へと伝う、寒気にも似た感覚に顔をしかめながら僕は問う。
このままでは藤堂に擦り付けた罪が意味を成さなくなる。僕を拉致した京子の目的が読めない。
すると、京子は机の上を漁ったかと思うと、何かを手に持ったまま此方を静かに振り返る。
相変わらずの能面のような表情で此方を見る京子の右手には……。
鈍く光るメスが握られていた。
「そうね……あたしは罪からは逃れる事が出来た。けど、同時に失ったものもあるわ」
矛盾よね。と笑いながら京子は一歩……こちらへ踏み出す。
肩口で蠢いていた不気味な戦慄は、やがてぞわぞわと虫が這い回るかのように腕を伝わってくる。
「あたしは非日常を共有する人を失ってしまったわ。だから、再スタートを切る必要があるの。ちょうどそこには、”天涯孤独も同然の男“がいるんだもの……。拉致して奴隷にするには丁度いいと思わない?」
その言葉と共に、京子の足音がやけに大きく聞こえた気がした。
耳鳴りにも似た、ラジオのノイズを大音量で聞いているかのような感覚。
誰にも話したことのない、僕の過去。
今もたまに夢に見る、トラウマのエピソード。
何故、京子が……?
「不思議そうな顔してるわね。ええ。調べたのよ。奴隷にするなら、レイ君が抱える絶望を、前もって知っておきたくてね。本当はレイ君に語って欲しかったんだけど、まぁいいわ。驚いたなぁ……昔レイ君が通り魔に襲われた被害者の一人だったなんて。しかもお兄さんは死んで、レイ君は生き残ったんだよね?」
脳髄に響くような、ギリギリという音がした。自分が歯軋りをしているという事実に気がつくのに、一瞬の間が空いてしまう。
「しかも死んだお兄さんって、当時地元ではちょっとした有名人。片や生き残った凡才なレイ君は、未だに暗い顔をしてる……。もしかして、当時周りから随分と冷たい目で見られたんじゃない?」
拘束された手を握り込みすぎて、手のひらから血が滲んでくる。やめろ……掘り起こすな。僕の胸の内で、メラメラと何かが燃えはじめる。
「あっ、確証はなかったけど、その顔は図星だね〜。ますます理想な奴隷の形だよ! 加えて今は夏休み……。親友の死に絶望した大学生が自分探しの旅に出た末、行方不明に……なんて、いいシナリオだと思わない?」
「君は……僕に何をさせたいんだ?」
自分でも吃驚するくらい低い声が出た。
すると京子はメスを僕の頬に突きつけながら微笑んだ。
「何度も言ってるじゃない。自分と非日常を共有出来る人が欲しいの。共有ついでに出来ればあたしの代わりに材料を調達する役をやってもらうとありがたいけど……まだレイ君には無理よね。じっくり……時間をかけて調教しなきゃね」
まるで遊びに行く予定を立てるかのように京子は顎に指を当てながら言う。今から楽しみ。といったウキウキした表情だった。
「一応、恋人である君に警察が事情を聞かないとも限らないよ?」
その娯楽混じりの雰囲気に僕が水をさすと、その瞬間――銀色の閃光が瞬き、鋭い痛みと共に僕の頬を生暖かいものが流れていく。
切りつけられた。そう自覚した瞬間、声にならない悲鳴を漏らしながら、僕はもがく事も出来ず、身体を震えさせる。
「その辺は一方的に別れを告げられた。で、大丈夫よ。修一郎の事はレイ君以外誰も知らないもの」
無表情のままメスに付着した僕の血を舐め取ると、京子はメスをポケットにしまい、再び近くの丸椅子を手に構える。
「手元が狂うと危ないからね……あ、悲鳴上げても無駄だよ? ここ、元々は音大生向けに作られたとかいう酔狂なアパートらしくてね。結構しっかりとした防音設備になってるんだって――さっ!」
フルスイング。風を切る音と共に、僕の左肩が強打され、激痛が走る。
「もう一丁!」
鈍い音と衝撃が僕をダイレクトに震わせる。ご丁寧に同じ部位に丸椅子がぶち当てられ、思わず僕は呻き声を漏らす。
「は〜い。反対行きま〜す。痛かったら手を挙げてね。挙げてないから大丈夫よね?」
今度は右肩を立て続けに二回。次は腹、左太股、右太股、両足の脛。頭、両頬……。
身体が軋むような音を立てているのを他人事のように聞きながら、僕は痛みの嵐に晒される。
やがて、永遠に続くかと思われた殴打地獄は唐突に終わりを告げ、僕は椅子ごと床に引き倒された。
「ねぇ、痛いでしょう? 苦しいでしょう? この痛みから逃れたくない?」
耳元で京子の声がする。誘惑するような猫撫で声。薄れそうな意識の中、僕はなんとか京子の方を見る。
「んふ。でもまだ離してあ・げ・な・い。レイ君が完全に陥落するようにあたしもこれから頑張るよ。痛いだけじゃない。気持ちいいこともしてあげる。楽しみにしててね」
そう言って舌舐めずりする京子は、僕の頬をペタペタと撫でる。
虫を弄ぶようなその手つきに、僕は再び歯噛みする。こんな奴を罪から逃すために。その為に純也は最初の生け贄にされたというのか!
コイツのあんな馬鹿馬鹿しい望みのために……!
「……狂ってる! こんなことの何処が楽しいんだよ! そんなに……そんなに人を苦しめて楽しいのか! 返せよ! 純也を返せ! 返せよぉ!!」
慟哭を漏らしながらあらんかぎり叫ぶ僕。
もう彼女を女どころか人間と見るのすら難しくなってきた。どうすればこんな歪んだ人格になれる? どうすればここまで他人に対して冷酷で無頓着になれる?
そんな僕の浮かべた疑問を嘲笑うかのように京子は小首を傾げ、心底面食らったかのように口を開いた。
「楽しいよ? てか、レイ君何言ってるの? 純也君は壊れちゃったんだから返す。なんて無理に決まってるじゃない。あっ、液状にした内臓ならあるけど……いる? 少しなら分けてあげるよ」
あんまりな京子の返答に僕は呆然と虚空をあおぎ、目を見開いた。そこに――。
「ああ、もう。そんな怪物を見るような目で見ないでよぉ。濡れちゃうよ」
淫靡な表情で艶かしく指を加える京子。一方、僕はそれから目を背けられなかった。
その瞬間――。僕は絶望を通り越し、感極まって涙を流したくなっていた。
同時に確信する。ああ、これはもう……ダメだ。こんな反応を示す自分が信じられない。よりにもよってこの状況に”歓喜“している自分がいる。
度重なる肉体的・精神的苦痛の末、人としての軸がもうブレてしまったとでも言うのだろうか?
「あっ、そうだ。もうすぐこの『人間』が完成する訳じゃない? そしたら今度は別の方法で絵を描いてみようと思うの。テーマはぁ……なんと! レイ君を使って絵を描いてみよう〜!」
わぁ〜パチパチ! と、一人盛り上がる京子の声ももう耳に入らない。僕はただ、その一点を見つめていた。
「あっ、内臓は使わないよ? 流石にそれやるとレイ君死んじゃうし。次はね。レイ君の『血』だけを使って絵を描いてみようと思うの。流石に全部抜いちゃうとヤバイから、毎晩少〜しずつ頂くね」
毎晩血を抜かれる……。何だか何処かで実際に体験したような状況だなぁ……それ。なんて事を僕は思う。
「夜な夜な奴隷の血を採取して、自分の快楽に利用するの。まさに血の芸術家ってやつ。凄くミステリアスで絵になる情景だと思わない? あっ、描くのは吸血鬼にしようかな。下僕の血を吸う美しい怪物が描いた自画像! うん、これよ!」
自分を吸血鬼に見立て、満足気に顔を綻ばせる京子。
あれほど魅力的に思えた、太陽のような笑顔。今もそれと同じ顔で、楽しげな表情になっている彼女。それを僕はもはや関心の外に置き始めていた。
目の前にいるのは狂った殺人者だというのにだ。
でも、まぁ……これは仕方がない。なんと言うか、存在感が違いすぎる。
それに今更拉致して血を頂く。何て言われても何も感じない。感じるわけがない。
京子には信じられないだろうが、僕にとって、それらはもう二番煎じなのだから。
「……レイ君? ねぇ、何か言ってよ。何? その顔? あたしが初めて部屋に行った時と似た顔してるよ?」
流石に自分に注意を向けられていない事に感づいたのか、京子は訝しげな視線を向けてくる。
「殴られ過ぎて頭が可笑しくなっちゃったの? ねぇ、ほら見て! あたしを見てよ! 表現者にして殺人傍観者。血の芸術家であり、怪物・吸血鬼……なのに、何であたしを見ないの? あたしは特別なのに! 非日常を体現する存在なのに!」
今更だけど、この子って結構どころか、かなり痛々しい所あるよなぁ……。なんて思う。
少し前の僕なら、そんな一面も愛しく思えたのだろうか?
そんなことを考えながら、僕はそこで顔を上げ、ようやく”京子“に真っ正面から視線を向ける。
身体が痛い。意識も朦朧としている。
鉄の味――。唇が裂けているらしい。
正直顔を上げるのも声を発するのも億劫だ。
けど、この言葉は京子に突きつけてやりたかった。
「無理だよ京子。人はどんなに頑張っても、〝人である限り〟、一人では怪物になれないんだ。君は……ただの狂った女だよ」
「な……何を言うのよ。レイ君。あたしをただの変な女だって言いたいの? ただの……女? 怪物ではなく?」
ワナワナと震える京子に、ああ。せいぜい三流止まりだよ。と、告げる。
そして僕は、ついさっき覚えたゾワリとする違和感、不気味な戦慄の正体。そして、図らずも数日ぶりの再会に歓喜してしまったその存在に目を向けた。
「〝本物の怪物〟は案外身近にいる。ほら、今は君の後ろにいるじゃないか」




