29.閑話二・ある男女の邂逅
中学高校時代の山城京子を一言で言い表すならば、「優しい女の子」であった。
家はそこそこ裕福。
両親もきちんとした人格者で、そんな両親を京子は愛し、京子自身も愛されて育った。
夜遊びをするわけでもなく、悪い友人とつるむわけでもない。
差別をすることもなく、誰とでもすぐ打ち解ける処世術を、京子は幼少の頃から持ち合わせていた。
故に家族やその親族、学校での友人や教師達の間における彼女の印象は、「優しい普通の女の子」だったのである。
ここだけ聞くと、一見なんの問題もないように見えるだろう。
だが、当の本人は、自分に与えられたその称号――具体的には、「普通」の部分が大いに不満であった。
平凡に穏やかに進む日々。それが山城京子には耐えがたいほどに苦痛だったのである。
周りとは少し違う道を行く人、自分では想像もし得ない世界で生きる人。そういった普通とは違う人間に対する憧れが、京子は昔から人一倍強かったのだ。
後に彼女が芸術の道を志したのにも、小説や物語に出てくるような、世捨て人じみた芸術家に憧れた。そんな何とも子どもっぽい幻想を見たのが始まりだった。
だが、京子のそんな憧れとは裏腹に、人格者たる京子の両親は、京子がそういった周りから逸脱した行動をとろうとすることを極端に嫌う傾向にあった。
そんな自分の少しズレた憧れに、両親が賛成するはずがないという事を京子自身も十分にわかっていた。
なので、良い子であれと育てられてきた京子は、自分の内に眠る憧れを圧し殺し、日々を生きてきたのである。
時は流れ、親元を離れた京子は、ついに念願の大学生活をスタートさせた。
表向きは美術の先生を目指して。内心では自分はきっとどんなことでも出来るに違いないという、新たな期待と共に。
だが――。そこで京子を待ち構えていたのは、親元にいたときと変わらない、ごく普通の刺激も何もない生活であった。
大学生活に多大な期待を込めすぎていたというのもあるかもしれない。
唯一の救いは、絵を描く事を昔以上に真剣に取り組めるくらいで、後は特に何もない。
自分の中で表現したものに、ありきたりな評価を下す周りの学友や教授達。
コレじゃない。と、京子は常日頃から感じていた。
自分が求めていたのは、こんなものではない。
もっと五感を震わせるような、何もかもが新鮮な感じ。「良い子の京子」では決して味わえない、スリリングな日々……。
そんな京子の焦燥と渇望は、五月……大学生になってから初めてのゴールデンウィークを過ぎた頃から、格段に大きくなっていた。
ゴールデンウィークを境に、「何かが違う」と、大学を去った者。専門学校へ行く事を決意した者。果てはなんと結婚してしまった者までいた。
そんな英断――当人の葛藤も知らずにそんなことを言うのもおかしな話ではあるが、京子にはそう見えた。――を下した他の学生達を尻目に、京子は相も変わらず大学で課題をこなす毎日だった。
自分には他の学生達がしたような事は出来ない。そんなこと、両親はきっと許してくれない……。
そう思った時、京子の心は恐怖した。自分はどこに行っても「良い子」である事に縛られているのではないだろうか? ありのままの自分が出せる日など、永遠に来ないのではないか?
その気づきは、京子にとってまさに絶望の呈示と同義であったのである。
その絶望を認識してからしばらくたったある日のこと。
京子は大学で、どこか暗い目をした青年と知り合った。
絶望に慣れたかのような青年の目。それは、京子の興味を惹くに充分だった。
最初は然り気無く話し掛け、次第に会うたび挨拶を交わすようになり、いつしか週末は二人で出掛けるようになる。
孤独を生きてきたからなのかは分からないが、自分に話し掛ける人物は、青年からすれば相当珍しいものだったらしい。それ故、青年が京子へ向ける視線に恋慕の情が混じり始めるのに、時間はかからなかった。
やがて、京子と青年は正式に恋仲という形で取り敢えず落ち着いた。
京子が青年に近づいたのは、その目を曇らせていた絶望が何なのかを知ることだとは露知らず、青年は少しぎこちないものの、幸せそうに笑っていた。
その瞬間、またしても山城京子の心は、闇に閉ざされてしまった。
ああ、この人も「普通の良い人」になってしまった。と。
結局。恋人を作るという、今まで経験したことのない事柄も、京子の心を震わせるまでには至らなかったのである。
そして――。
「ああ、キミ。見てしまったんだね。弱ったな……」
それは、次の課題のイメージ収集に、廃墟や古い工場を渡り歩いていた夜のことだった。
寂れたカビ臭い深夜の工場。そこで山城京子は、死神に出会ったのである。
死神は名を藤堂修一郎と言った。驚くべき事に、京子と同じ大学の美術専修の男だった。確か、教授や周りの学生達からの評価は余り高いとは言えない、京子もどちらかと言えば苦手な部類に入る人間だった。
しかし……。
「むぅ……重機で頭を潰す。という悲劇的な構図を演出してみた訳だが……普通だ。大きな音も鳴るし、これは芸術的ではないな。さっさと逃げた方がよさそうだね。もっとも……」
死神――藤堂修一郎は、ゆっくりと京子に無機質な瞳を向ける。
「傍観者を片付けてから……ん?」
その瞬間、藤堂の目は見開かれた。京子はさっきまでの昆虫のような冷たい目が、人間らしい驚いた表情になるのを少し可笑しいと思いながら、ゆっくりと、惹かれるように潰された死体の傍に歩み寄った。
「…………凄い」
そんな言葉が自然と京子の口から漏れた。なんという非日常な光景だろう。
親戚のお葬式で見た、清められた亡骸とは違う、ドラマや小説に登場するような惨殺死体。それが目の前にあり、更に自分はその殺人者によって口封じをされかけている。
これを非日常と言わずして何だと言うのだろうか。
京子がそんなことを考えていると、藤堂がゆっくりと此方に歩み寄ってきた。
「……山城かい? 驚いた。同じ大学の人に創作活動を見られるなんてね」
そう言う藤堂の顔は、心底驚いたような表情を浮かべながらも、油断なく京子を観察していた。
「あ、やっぱり芸術のつもりだったんだ?」
京子の問いかけに藤堂修一郎は肩を竦める。
「うん、でも失敗だったよ。もう少し凄い感じにするつもりだったんだけどねぇ」
「……キャタピラで潰しちゃうとかは?」
「それもいいけど、少し長居しすぎたよ。そろそろ逃げなきゃね。キミの返答しだいでは場所を変えて”もう一仕事“しなきゃなんだけど」
そう言いながら此方を見つめてくる藤堂に京子はクスリと笑みを漏らす。
「心配しなくても、誰にも言わないよ。それよりもあたし、藤堂君の芸術についてもっと話が聞きたいな……」
恋人にすら見せたことのないどこか淫靡さすら交えた声色で、京子は藤堂を上目遣いに見る。そんな京子を、藤堂は再び驚いたような表情でじっと見つめていた。
「……嬉しいな。夢みたいだ。ボクの芸術に興味を示してくれたのはキミが初めてだよ。女神にでも出逢った気分だ」
大袈裟に両手を広げ、芝居がかった口調で藤堂は微笑んだ。それに対して、京子も満面の笑みで応える。
「不思議ね。あたしも夢みたい。殆んど初めて話すのに、あたし運命すら感じるわ。探していたの。あなたみたいな非日常を生きる人を……ず〜っとずっと探していたの」
そう言って京子は、歩み寄ってきた藤堂にそっともたれ掛かる。
まるで、ようやく王子様に出逢えたお姫様みたい。そんなガラにもないことを考えている自分が可笑しかったのだろう。
肩に回された藤堂の腕の感触を感じながら、京子は殺人者の胸に顔を埋めた。
ここにいるのは自分と殺人者と、潰された死体のみ。まるで映画のワンカットのようではないか。
沸き上がる高揚感に、京子は人知れず、歓喜のため息を漏らしていた。
――こうして、神の悪戯か、悪意のなせる業か、とある殺人者と、些か思い込みが激しい女は、手を取り合った。
後に世間を震撼させることとなる猟奇殺人事件。その元凶たる、二人で一つの〝怪物〟が生まれた瞬間だった。
※
「ねぇ〜レイ君? ちゃんと見てる?」
湿った音を部屋に響かせながら、絵筆を振るう京子が不満げに僕を見る。
茶色に近い、ベットリしたものをキャンパスに走らせ、京子は湖の絵。――作品名『人間』に更なる彩りを与えていく。
「純也君にも話したんだけどね。あたしは物質が構成する全ての要素を描くのを信条としているの。で、この『人間』は、人間の概念や人生観を描きつつ、素材の絵の具にも人間そのものを使ってるってわけ」
歌うように、自慢するように京子は言う。目の前で純也の内臓だったものが、絵の中の風景になっていく。
「ここは胃。こっちは肝臓。そこはすい臓……さすがにすり潰した液体だけだと色合いが出せないから、そこは絵の具で重ね塗りしたわ。一見すると普通の絵なのに、そこには紛れもなく、人間が〝染み込んでいる〟の。凄いでしょ? ゾクゾクすると思わない?」
うっとりした表情の京子。それを僕はぼんやりと眺めていた。手足に力が入らない。椅子に拘束されているので、どの道動くことは敵わないが、僕は既にもがく気力も失せていた。
「……まだ、ちゃんと聞いていない。どうして純也を殺したんだい?」
未だに溢れる嘔吐感を圧し殺し、僕は掠れた声で問いかける。
ただそれだけ。それだけが僕の頭の片隅に引っ掛かっていたのだ。
芸術のためと京子は言うが、あの殺人はほとんど無差別に行われていたのではないのか。だとしたら何故純也が標的に選ばれたのだろうか?
すると京子は、絵筆で内臓だったものの液体をかき回しながら、小首を傾げて此方を見る。
「う〜ん……そこそこ長めの話になっちゃうよ?」
「いいよ。もう」
ため息混じりに僕が頷く。
視線の先には気味の悪い色の液体で満たされたビーカー。脳裏に先程の嫌な映像がフラッシュバックしかけ、僕は再び吐き気を堪えた。
僕にはもう、聞くことしか出来ないのだ。藤堂の家に乗り込んだ時とは訳が違う圧倒的な孤独感に僕は苛まれながら、僕は京子を見上げる。
「わかった。え〜と……じゃあ、どこから話そうかな〜?」
そんな僕の視線を気持ちよさげに浴びながら、京子は再びキャンバスに絵筆を走らせた。




