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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第一章 魅惑の檻
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2.忍び寄る糸

「ひどい顔だ……」

 鏡にはまだ少し寝惚け眼な僕が映っている。寝起きの自分の顔と対面した開口一番の感想がそれだった。

 結局、あの蜘蛛の脚が衝撃的過ぎたのが原因で、僕はあれから二時間程しか眠ることは出来なかった。

 それでも朝にいつもの時間に目が覚めるのは、個人的に素晴らしい事だと思う。いい習慣を持った自分を褒めてやりたいくらいだ。

 睡眠不足の影響で、目元にくっきりと隈が浮かんだ酷い顔を晒しているのを除けばだが。

 最も、眠れなかったのは無理もないと自分でも思う。あの心臓を鷲掴みにされたかのような、何とも表現しがたい戦慄はなかなか味わえるものではないだろう。昨夜のアレは、まさに未知なるものとの遭遇だった。

 ブルリと身震いをしながら洗面台を離れる。すぐ脇のキッチンに移動した僕は、トースターにパンをセットし、そのままリビングに戻る。

 ベッドのすぐ上を見ると、件のエアコンが視界に入ってきた。

 この部屋に移り住んでから備え付けてあるそれ。今は物音一つなく、怖いくらいに沈黙を保ったままだ。

 いや、本来ならばそれが正常なのだが、僕にはその正常さが逆に不気味だった。

 今にもあの暗い噴出口から、黒くて長い脚が延びてくるのではないか? そんな気がしてならなかった。

 僕が縫い付けられたようにエアコンを見つめていると、甲高い電子音が耳に届く。パンが焼けたらしい。

 僕はリビングから再び台所へとんぼ返りすると、トースターから焼きたてのパンを取り出した。手際よくブルーベリージャムを塗りながら、片手で食器棚からマグカップを取り出す。何時もはここで豆を挽いてコーヒーを作るのだが、何だか今日は気分が乗らないのでインスタントにした。

 いつもの簡素な朝食を手に、僕は足早にリビングへ戻る。

 リビングに入って、前方――。部屋の中央には食事兼勉強用の小さなテーブルが置かれ、そのすぐ後ろにベッドが鎮座している。

 ベッドとテーブルを挟んだ空間には、小さなラックとスタンドライト。そして丁度ベッドから起き上がると、その視線の先にはテレビが来るようになっていて、実はこの配置が結構気に入っていたりする。

 テレビの右隣には壁一面に本棚が並べられており、その一部のスペースは本ではなく、自分の趣味でもあるコーヒーへの嗜好――。それらをバックアップするコーヒーセット達が並べられている。

 ゲームなどの娯楽品も何もない。生活に必要な最低限のものだけがある、結構簡素な部屋だと自分でも思っている。

 もっとも、あまり物を持つのは好きではないので、簡素な位が丁度いいのだが。


 いつものように、ベッドを背にテーブルの前に腰掛ける。

 そのままテレビを点け、ニュースの確認。これもまた、毎日の習慣と化したものである。


 政治家の汚職。

 芸能人のスキャンダル。

 重機を使用した猟奇殺人。

 借金返済を苦にした会社員の銀行強盗事件。

 某大学教授、未だに行方不明。


 ありふれたものから、物騒なものまで目白押しだ。それを僕は無感動に眺めながら、黙々とトーストを咀嚼する。ブルーベリーの爽やかな味が、疲れた身体に嬉しい。その傍らで、マグカップに淹れた温かなコーヒーを胃に流し込むと、寝起きの身体をほぐすような苦味が、全身に行き渡る。

 心地いい感覚に、暫し酔いしれる。

 まさに至福の朝食だ。だが、その穏やかな時間は、バッサリと切り落とされた。

 

 背中に走った、こそばゆいような謎の感触によって。


「はぇ?」

 思わず変な声が、口から漏れる。それくらい唐突な出来事だったのだ。

 背中を……なぞられた?

 そう察した瞬間、弾けるようにその場から飛び退き、背後を振り返る。

 そこには、何もいなかった。ただ――


「ん?」


 その時だ。ふと、妙なものを見つけたのは。

 枕と壁の間。そのスペースに何やらネットのようなものが見えたのだ。

 当然ながら心当たりはない。首を傾げながら、もっとよく見ようと僕は顔を近づけて……。全身が硬直した。

 

 枕元の何か。それは紛れもなく、蜘蛛の糸――。否、蜘蛛の巣そのものだったのである。


 声にならない悲鳴が漏れた。

 巣を形成する蜘蛛の糸は、枕のすぐ横の壁から斜めに何本も伸び、絡み合っている。そうして、丁度僕が眠り、頭を預けていた枕のすぐ横。そこに歪な紋様を思わせる大き目の巣が出来ていた。

 直径約四十センチ程だろうか? 女郎蜘蛛などの大型の蜘蛛が作るような、しっかりとした造り。もし僕が壁側に寝返りをうっていたら、朝起きた僕の顔面は蜘蛛の巣だらけだったに違いない。

 なにより、巣が枕元に存在している。それが問題だった。何故ならそれは、僕が寝ていたほんの一、二時間の間、すぐ傍で蜘蛛が巣を作っていたということを意味しているのだから。


 心臓の鼓動がやけに早く感じる。夕べのように短く荒い息を吐きながら、僕はエアコンの噴出口を見た。

 噴出口の奥は、やはり何も見えない。それが僕にはますます不気味に思えた。

 昨晩に見た蜘蛛。あれは脚から判断する限り、見たこともない大きさであることは容易に推測出来た。

 あの蜘蛛は……今もエアコンの中に潜んでいるのだろうか?

 いや、枕元に巣が作られていたということは、少なくとも一度あの中から出て来ている筈だ。あのサイズでどうやって? といった疑問も浮かぶが、こうして動かぬ証拠が出ている以上、それが真実。それに加えて、ついさっきの、なぞるような。いや、何かが這うような感触は……。

 僕は思わずベッド下を、部屋中をくまなく見渡した。嫌な想像ばかりが頭を支配している。

 咄嗟に自分で自分の頬に張り手を与え、落ち着け落ち着け……。と、何度も自分に言い聞かせていく。

 大きいかもしれないが、たかが蜘蛛だ。二十歳にもなる大の男が何を恐れているのだろう……と。

 僕は大きく深呼吸してから、そっと胸に手を当てた。

 昨日は疲れていたのだ。そんな時にあんなものを見たから、僕はこんなにも動揺している。それだけだ。そうとも。冷静になってみれば、怖がる必要も恐れる必要も何もないではないか。

 僕は言い聞かせるように、何とかそう結論付け、そそくさと大学へ行く準備に取りかかった。

 一瞬、足元にも何かが絡み付くような感触を覚えたが、恐らくそれも気のせいだろう。

 気持ちが動転しているから、ありもしない感覚に捕らわれているのだ。

 きっとそうだ。きっと……。

 粘つく足元を振りきるように、僕はそう自分を納得させ、部屋を飛び出した。


 背後から、何かの視線を感じたような気もするが、それもきっと気のせいだろう。


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