28.黒衣の女神
あまりにも唐突に意識を奪われてから、いったいどれくらいの時間が流れたのだろうか。
何かに湿った物を擦り付けるような音と、鼻を突くような異臭で、僕はゆっくり目を開けた。
身体中が鉛のように重い上に、頭と胸を焼きつくような痛みが走っていた。
そうだ。スタンガンからの鈍器による殴打で昏倒させられて、それから僕は……どうなってしまったのだろうか?
「あっ、目が覚めた? よかった〜……このまま起きなかったらどうしようかと思ったよ」
少しぼやける視界の中で、ソプラノの声が響く。忘れもしない愛しい声。それが今は酷く不吉に聞こえてしまう。
思わず立ち上がろうとして、僕はそこで初めて手足が全く動かない事に気がついた。
現在の僕は、椅子に座らされたまま、手は後ろ手に拘束。足は鎖でぐるぐる巻き。分かりやすい拉致監禁の構図と化している。
冷たい手錠と鎖の感触が何だか物悲しい。こんなことを誰がやったのかだなんて確かめるまでもない。
ここには僕と彼女の二人。つまりはそういう事だ。
「……夢じゃ、なかったんだね」
「うん、これは現実だよ」
僕の呟きに目の前の人物は笑顔で答える。
ああ、夢であって欲しかった。こんな現実認めたくなかった。
なのに眼前で絵筆を振るうその人物は、悲しくなるくらい見覚えがある女性だった。
山城京子。僕の恋人であるその人は、壁一面を覆うかのような大きなキャンバスの前に立っていた。
「ここは……?」
「あたしの部屋。実はここ、2LDKなんだ。一部屋は寝室、で、もう一部屋がここよ。素敵な部屋でしょ? ちょっと見渡してみてよ。その状態でも首くらいは回せるよね?」
容赦ないなぁ……と、ぼやきながら、僕は何とか首を動かす。
カーテンで完全に締め切られた部屋。
僕から見た左右の壁には完成した作品が飾られている。どれもが素人目でも素晴らしいと思える作品ばかりで、彼女の絵への熱意が窺えるようだ。
そして正面。キャンバスの手前には大きめの机があり、その上には画材などが並べられている。
目につくかぎり多種多様の絵筆がペン立てのようなケースに入れられ、絵の具らしきものと、赤黒い液体が入ったビーカーが数個。
更には何故か置いてある謎の機械。アレは……ミキサーだろうか? テレビで野菜や果物を入れて一気に潰し、ジュースにしていたのを見た記憶がある。
そして、最後に目についたのは部屋の片隅に何故か置かれた冷蔵庫だ。作業中にお腹が減るのか、それとも他に絵を書く上で何か入り用なのか。芸術やらに疎い僕には用途が想像できない。
こんな具合に、一部妙な物も見受けられるが、ごく普通な絵描きの作業場のような部屋だった。
僕が部屋を見渡したのを確認すると、京子はゆっくり両腕を広げる。それは嫌になるくらい既視感のある光景だった。
つい先日入り込んだ、死の世界の中心で笑う殺人者の姿が、僕の脳裏に浮かんでくる。
「ようこそ。山城京子のアトリエへ」
得意気に笑う京子は、いつもの柔らかい表情のまま。なのにその出で立ちはいつもの彼女からはかけ離れた姿だった。
「……君が、『黒衣の女神』だったのかい?」
「うん、修一郎はあたしのことをそう呼んでたな。ただの作業着だって言ってるのに、随分と仰々しい名前で呼んでくれたもんだわ」
僕の質問に吐き捨てるように答える京子の姿は、漆黒のワンピース姿。に黒いベレー帽。
普段はガーリーな服装を好む彼女が纏う事の少ない、シックな雰囲気が醸し出されていた。
「藤堂は……自分一人でやったって言ってたけど……」
「うん、それは間違いないよ。あたしはただ、純粋な興味と、少しの利益のために見学していただけよ」
「見……学?」
冷ややかな笑みを浮かべる京子。変わり果てたその笑みに僕の胸に再び痛みが走る。スタンガンの焼けつくような痛みとは別の、どこか張り裂けるような切ない感覚だった。
「まぁ、修一郎はよくやってくれたわ。少し話し相手になっただけで、あたしの言うことは何でも聞いてくれた。多少自分の芸術に傷をつけてでも、私に”アレ“を捧げてくれたんだもの」
少しうっとりしたような顔で京子は絵筆を振るい、キャンパスに彩りを与えていく。
「……どうして、純也を?」
「勿論、最初は殺す気なんかなかったよ? けどね。あたしの作品を完成させるには、どうしても彼が必要だったの」
「作品?」
「うん、これよ。あたしの人生全てをかけた作品って言っても過言ではないかな」
誇らしげに、自分が今現在描いている絵を見せる京子。
僕はそれをゆっくりと眺めた。
描かれているのは湖。
昇る朝日に照らされて、湖面は単純な青ではなく、様々な色合いが組合わされている。
湖岸に建てられた風車と、それらを囲む森。そして、真ん中に浮かぶ小舟。細部にまで製作者のこだわりが窺えるようだ。
しかし……。
「湖の絵……だよね?」
湖面や湖岸も、森も、空も、太陽でさえ、その世界の色合いは、赤や紫に近い色合いばかり。
どこまでも暗くて陰鬱な雰囲気の絵だった。思わず湖なのかと確認せねばならないほどにだ。
すると京子は静かに首を横に振る。
「厳密には違うわ。この絵のタイトルはね。『人間』なの」
「人……間?」
どの辺が? といった顔を僕がしているのに気づいたのか、京子はクスクスと笑みを漏らす。
「あたしはね。人の一生を例えるなら、湖と、そこに浮かぶ船こそが最適だと思うの。川や海と違って、湖には大きな流れや海流が無いでしょう? だから船を浮かべれば、どんな方向にも行ける。向こう岸にたどり着くも、当てなくさ迷うのも、湖底へ沈むのも……」
京子の言葉を聞きながら、改めて僕は目の前の巨大な絵に視線を向ける。
「周りの森や空、太陽は生きる上で遭遇する事象や思い出。この絵全体で、一人の人間を表現しているの」
藤堂の時も思ったが、こういった訳の分からないものを作るから故に芸術家なのだろうか? 正直な話、理解しかねる。
「勿論、これだけだとただの絵よ? でも私は、革新的な〝材料〟を使うことによって、人間を描く……」
そう言いながら京子は大きな冷蔵庫の扉を開け、中から何かを取り出した。
「……タッパー?」
ステンレス製の銀色の容器を、僕は不審げに見つめる。ズキンと殴り付けられた頭部が痛みを発し、僕は思わず顔をしかめた。
なんだろう? とてつもなく嫌な予感がする。
京子はゴム手袋をはめると、タッパーの蓋を開け、中へ手を入れる。
水がはねるような嫌な音が響いた。
「あ、そうそう、修一郎の絵は見たけど、〝本人〟と対面はしてないよね」
タッパーの中身を引っ張り出しながら、京子は無邪気な表情を浮かべる。
僕の顔は、今どうなっている事だろう? 少なくともいい顔でないことは確かだ。
そんな僕の顔を満足気に眺めながら、取り出したしわくちゃのホースのような肉を、京子はうっとりと眺める。
ヌラヌラと光るソレ。
赤黒い液体を静かに滴らせながら、ゴム手袋をはめた京子の手の中にあるのは、紛れもなく生き物の内臓だった。
「ほら、レイ君、純也君だよ。会えてよかったね」
そこが限界だった。
「うっ……ぼぇええ……!」
胃の内容物が逆流し、僕の服を、床を汚していく。
「うわー。レイ君汚ーい。もう、困るなぁ……出来ればレイ君は綺麗でいてほしいのに……」
呆れたような京子の声が僕の耳に否応なしに入ってくる。
僕が大好きだったその声が。
「因みにこれは、純也君の腸の一部だよ。流石に全部は取り出せなかったんだけど……凄かったなぁ……」
やめろ……。
「凄いと言えば、修一郎が純也君の皮を剥いだ時よね。医療系の大学出身っていっても、普通、あんなこと出来ないよね。才能ってやつ?」
もう……やめてくれ。
「それに私が顔を見せた時の純也君の顔ときたら……濡れちゃいそうだったよ。悲鳴も素敵だったなぁ……」
嫌だ……聞きたくない。
「ねぇ、レイ君? 聞いてるの? こっち向いてよ。無視しちゃ嫌だ……なっ!」
右肩に何かが叩きつけられ、凄まじい痛みが走る。
涙目になりながら顔を上げると、京子はこれまで見たことのないような笑顔でこちらを見ていた。
手には部屋の丸椅子が握られている。
「もう、こっち見なきゃダメだよ。今から創作活動したいから、レイ君には見ていて貰いたいの。ほら落ち着いて。純也君もいるよ?」
そういいながら京子は僕の頬へ内臓を擦り付ける。冷たく湿った感触と、むせかえるような生々しい臭いに僕の口一杯に酸っぱいものが再び込み上げてくる。
もうたくさんだ。何故ここ数日のうちに、友人の死体を描いた絵とか、本人の内臓に直面しなければならないのか。僕や純也が何をしたというのか。
僕は精一杯の憎悪の表情で、ゆっくり京子を睨み付けた。
「この、人殺……し……」
僕の小さな罵声を受けても、京子は笑顔を崩さない。
「違うよ」
京子は笑いながらキャンパスの前に戻り、振り返りながら京子は言った。
「表現者。そう呼んでほしいな」
いつかの水族館で見せてくれた可愛らしい顔で、黒衣の女神はそう告げる。
その言葉と共に、僕はガックリと肩を落とした。もうあの頃には戻れない。そういった確信・実感が僕の胸を締めつける。
いや、あの日々こそ幻想だったのだ。京子はどうして僕なんかに近づいたのだろうか。
ただの材料としてか、遊びだったのか、そもそも恋人だと僕が一方的に勘違いしていたのか。
飛び上がらんばかりに嬉しかった、京子からの「好き」という言葉。あれも嘘だったのか?
気がつけば頬を雫が伝っていた。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
そんな僕の目の前で、新たな絶望が口を開けた。
「き、京子……? な、何を?」
震える声をあげた僕の目の前で、京子はその作業を始めていた。
「何って、最初に言ったじゃない。この絵は〝特殊な材料〟を使ってるって」
そう言いながら京子は純也の内臓をミキサーの中へ詰めていく。
「ざい……りょう?」
嫌な想像が頭をよぎり、絵と京子。そしてミキサーへと、僕の視線が移動する。
まさか……。
「よ、よせ……やめろ、やめてくれ! 京子!」
「あっ、そうだよね。お別れ済まさなきゃね。ほらレイ君。純也君にバイバイして。した? したよね。じゃあ始めるよ」
僕の懇願を無視して、京子は勝手な一人芝居の後に、ミキサーのスイッチに手を添える。京子が何をするかわかっていても止められない。
「やめろぉぉおおおお!!」
響き渡る僕の叫び声。その瞬間、目の前で機械のモーター音が炸裂する。
トマトを潰したような音と繊維を引き裂く音が交互に鳴り響き、僕の耳を蹂躙する。
「さよなら、純也君。あたしからあなたのに告げる言葉は……特にないわ」
視界が歪む。京子の言葉がやけに遠くから聞こえる。
「もう……嫌だ……」
僕の口から、無意識にそんな呟きが漏れる。誰でもいい。何でもいい。僕を……助けてくれ……。
※
それは、空中を飛ぶように跳躍していた。
家の屋根から屋根へと、音もなく翔る。
黄昏に沈みゆく町並みの中、その漆黒の影は、ある一点を目指して矢のように突き進んでいた。
黒衣に身を包んだ少女の姿をかたどるソレは、風に黒い髪を靡かせながら、遠くに見えるある建物を視認する。
その瞬間、その名も無き怪物は、人知れず微笑んだ。
――見つけた。
そう言っているかのような、歓喜に満ちた微笑み。
それはどこまでも美しく、妖艶な香りを漂わせていた。




