22.決別
あれは確か、大学が始まってから間もない頃。僕達が知りあってから、すぐのことだったと思う。
「レイってさ。意図的に人を避けてねぇか?」
「……なんだい。藪から棒に」
大学の食堂で一緒に昼食を摂っていたら、不意にその男が僕に問いかけてきた。
突然の話題に僕が怪訝そうな表情を作ると、男は頭を掻きながら話し始めた。
「いや、何て言うのかな? この間の合コンの時もそうだったけど、必要以上に人と関わらないようにしてるっていうかさ。何か壁作ってるっていうか……」
「……人見知りなんだよ。それに、どうしても深く関わろうとするのに躊躇いが出てしまう性格なんだ。こればかりはどうしようもないよ」
肩を竦めながらそう言う僕に、その男はふ〜ん。と、不思議そうな表情を浮かべながら昼食のカレーを口に放り込む。
口元に付いたカレー付きご飯粒は教えてやるべきだろうか?
「んじゃ、俺がこうやって関わってくるのも辛かったりするのか?」
そのストレートで率直な言葉に僕は口をつぐむ。
僕の心に少しだけ問いかけるような言葉に、僕は身を固くする。
この男と関わって、苦痛か、そうでないか。
知りあって数週間。実はそこまで深く考えた訳でもなかったりした。大学で会えば挨拶するし、こうして行動を共にすることも誘われればある。
ん、待て。これって人見知りな僕にしては珍しい事態なのではないだろうか?
僕は自分の状況に首を傾げつつ、比較するつもりで今まで僕に関わろうとしてきた人達を思い浮かべた。
単に好奇心旺盛で根掘り葉掘り事情を聞いては、人のトラウマをほじくり返す無自覚に残酷な人間。
孤立気味の僕に”気遣いをしてやる“ことで自分の善人ぶりに酔う、偽善者な人間。
足並みを揃えない奴が気に食わなくて、僕や他人を自分が納得するカテゴリーに納めようとする傍迷惑な人間。
他にも色々いたが、陰鬱な性格な上、悪い噂付きの僕に対して友人関係を築こうとする人間など、今まではいなかった。
悪い噂は消えている大学においても、この性格が災いして、他人と話すことが僕にはなかなか難しかった。
だからこの男のような例はかなり珍しいといえる。
偽善を振りかざすわけでもなく、自分と同化させようとするわけでもなく、ただ純粋に共に時間を共有する。
それは大学の授業であったり、休日にナンパに出かけたり、他愛のないことで笑ったりする。それだけの関係。
そう考えると、人の気持ちに敏感だった僕には、変に表裏がないこの男は一緒にいてもそれほど苦痛ではなかったのだろう。
結論が出たのでその旨を男に告げると、男はニッと男臭くて快活な笑みを浮かべた。
「なんだ。ホッとしたぜ。ダチだと思ってたのは俺の方だけじゃなかったんだな」
ダチ……友達。久しく聞かなかったその響きに、僕は戸惑いながらその男を見返す。カレーが頬にこびり付いていても、その豪快な笑みはどこまでも男らしく、同性の自分から見ても素直にカッコいいと思えた。
それと同時に、解せない事も一つあった。何故、この男は僕を友達と言うのだろう? 僕が彼だったら、こんなのと関わろうとは思わない。何かメリットがあるとも思えない。
疑問は気がつけば口から飛び出し、男はその質問に目を見開く。
その次の瞬間、僕はその男から強烈なチョップをお見舞いされていた。
「あのな。メリットデメリットで付き合うなんて、それもう友達じゃないだろ。理由なんざ特にない。それじゃダメなのかよ?」
「ダメとは言わないけどさ。正直信じられないんだよ。僕を友人だって言ってくれるなんて」
そう言う僕に男は静かに溜め息をつく。
「あー。お前に昔何があったかは知らんし、聞かん。でも少なくとも俺は、お前といても苦痛じゃないぜ。ちと暗いのが難点だが、歯に衣着せることなく、裏表無しで真っ正直に接してくれる奴なんて、なかなかいないからな。俺も似た性格だから楽なんだよ」
柄にもないこと言わせんな! と、その男はグリグリと僕の頭に拳をめり込ませる。彼なりの照れ隠しなのかもしれない。
そうか……久しぶり過ぎて忘れていた。友達ってこんな感じだったよね。僕が感慨深げに頷くと、その男は思い出したかのようにポン! と手を叩いた。
「ああ、そういや理由らしい理由一個あったわ」
そう言って男は僕の昼食を指差す。正確には昼食のミートソースパスタの隣、コーヒーの入った僕愛用のステンレスボトルにその指は向けられていた。
「俺コーヒー飲めないんだよ。ブラックで飲める奴とかスゲーカッコいいと思うし、憧れる」
そう言って、男は再びニッと笑う。これが、僕の中で知り合いという認識だった男が、本当の意味で友人に変わった瞬間でもあったと思う。
友人になることに、理由らしい理由はいらない。彼らしいシンプルなこじつけだった。
僕にはそれが擽ったくて、何より嬉しかった。
「僕はね。スポーツ全般が全然ダメなんだ。センスがないって言っていいと思う。だから君みたいに運動部から引っ張りだこな人は凄いと思うし、憧れだよ」
だから取り敢えず、お返しに誉め返してみた。だが、それを僕の照れからくる行動だと分かったのか、その男は心底可笑しそうに笑いを堪えていた。僕ってそんなに分かりやすいのだろうか?
でも仕方ないじゃないか。誉められるのは馴れていないんだ。やり場のない気恥ずかしさに頬を掻く僕を「やっぱ面白いよお前」と男はからかうように言う。よし、頬に付いたカレーは黙っておいてあげることにしよう。僕は密かにそう決意した。
「お前さ、自分が冷酷か、冷淡だと思ってるクチだろ?」
「さぁ? でも、どちらかというと冷たい人間に入るんじゃないかな?」
僕はそう答えてボトルのコーヒーを口にした。そんな僕を見た男は、何が楽しいのか笑いを漏らす。さっきから笑いすぎではないか? この男?
「いや、違うね。怒らないで聞いてくれよ。恐らくお前は……」
あの時、彼が言った言葉は今でも覚えている。あの言葉で、僕はほんの少しだけ前向きになれた。
結果的に周りの人間とも少しずつ話せるようになったと思う。
恩人とも言える男の名前は阿久津純也。僕の無二の親友と言っていい存在だった。
彼の前では決して口には出さなかったが、僕にとって、かけがえのない存在だった。
その純也が死んだだなんて……殺されただなんて、僕には耐え難い事実だった。
※
「がぁあああぁぁああ!!」
意味不明な雄叫びを上げながら、僕は怪物に掴みかかり、一気にベッドに引き倒した。
心臓が狂ったように早鐘を鳴らし、血液が全身を物凄い勢いで循環しているのがわかる。
身体が熱い。脳はまともに機能していないに違いない。身体が操られると分かっていても、逆らい続ければいずれ血が吸い尽くされてしまう可能性がある事を分かっていながら、僕は怪物に襲いかかっていたのだから。
僕はそのまま、怪物の華奢な身体に馬乗りになり、黒いセーラー服の胸ぐらを掴む。
「なぁ……お前が殺したのか? 純也も、隣人さんも……お前が喰ったのか?」
僕の問いかけに怪物は答えない。それどころか戸惑ったかのように僕を見上げるばかり。……惚けているのか?
「なぁ、答えろよ。僕が逃げ出したりしたから、純也を襲ったのか? それとも、たまたま僕の向かった先に獲物がいたからなのか?」
相次ぐ質問にも怪物は答えず、そっと両手を伸ばし、包み込むかのように僕の頬に触れる。
虫酸が走るような感覚にとらわれ、僕は思わず身震いする。
なにも感じない。当然ながらコイツは人の死に何も感じていないのだ。
純也は、どのように殺されてしまったのだろうか?
無念だったろう。
痛かっただろう。
恐ろしかっただろう。
でも、そんなことよりも僕は理不尽さと悔しさを感じていた。
それは純也がこんな形で人生を終える事になってしまった事。なにより、怪物に捕らわれていた僕と関わってしまったがために、彼は命を落とすことになってしまった事に。
傍迷惑という次元ではない。間接的に僕が殺してしまったようなものではないか。
歯がギリギリと音を立てる。
「なぁ、何か言えよ! 言い訳があるなら話してみろよ!」
浮かぶのは悔恨の念。血が滲むかと思うほど拳を握りしめ、僕は怪物を睨み付ける。未だに頬に添えられる手を感じながら、僕は慟哭するように怪物をまくし立てる。
怪物は相変わらず無言のまま、僕を見つめてくる。無機質なその目が、少しだけ戸惑いの色を見せているが、もう僕には関係なかった。
ゆっくりと拳を振り上げる。
最初からこうするべきだった。僕がその後に背負うリスクなど考えず、僕が行動を実行していれば、少なくとも純也は死ぬことはなかったのだ。
僕が最初から、コイツを殺していれば……!
拳を降りおろす。狙うは怪物の腹。だが、それをコイツは許さなかった。
バキン! という音が、不意に僕の脳髄に響く。……ああ、そうだよな。生身の僕が殴りかかった所で、怪物には何の脅威にもなりえない。わかってはいた事だ。でも……。
簡単に死んでやるものか……! ひとりでに動く身体のなかで、僕は意識だけでも怪物を睨む。
狙うは肉体所有権の効力が切れるその瞬間。その一瞬があれば十分だ。
惨めでもなんでもいい。今はコイツに少しでも痛みを与えてやりたかった。なのに……。
「…………」
怪物は無言のまま僕を抱きしめ、背中をさするように撫でてきたのだ。
この体制では怪物の表情は見えない。だが……何だこれは? よりにもよって、僕に怒りを沈めろというのか?
唐突にカメラに映されていた、あの映像が僕の脳裏にフラッシュバックする。
口元を血に染め、何かを補食する怪物。アレは、怪物が食べていたのはきっと、純也の……。
戸惑いで一瞬冷えた頭の血が再び沸騰する。証拠なんてもういらない。相手は怪物だ。元よりおかしな存在なのだ。
バキン! という音と共に、僕は怪物の支配から解放される。ゆっくりと僕から離れた怪物は、そっと僕の顔を伺う。怒りが収まったかどうか確認しているのか、僕をただ見たいだけなのかは定かではない。
いや、そんなことはもう、どうでもいい。
自由になった僕は、再び怪物をベッドに引き倒し、拳をそのまま怪物の腹に叩きこんだ。
殴打による嫌な音の後に怪物が苦しげに蹲る。容赦はするな……! 僕はもう一度拳を振り上げ……。
バキン! という音がした。僕の身体は再び支配され、僕と怪物は互いに向かい合って正座する。怪物はそのまま僕の手を取ると、殴り付けた拳をゆっくり擦る。まるで殴った僕の方が痛いだろうとでもいうかのように。
何故だ。どうしてお前が僕の心配をする?
そこまで考えた僕の身体にバキン! という衝撃が走る。自由になった僕は無心のまま再び二発。怪物の腹部に拳を叩き込む。鈍い音と共に怪物はよろめき、崩れるようにベッドに倒れるが、それでもまるで僕に縋るような視線を向けてくる。……やめろ。そんな目で僕を見るな。
響く脳髄の衝撃。再び僕を支配した怪物は、まるで愛しい者にそうするかように、今度は僕の頭を自分の膝に乗せ、静かに僕の髪をとく。手が震えていた。怪物も……コイツも痛みを感じるというのだろうか?
解放の時間が到来し、再三自由になった僕は、そのまま下から怪物の顎を殴り付ける。骨と骨が激突し、嫌な音が部屋に響き渡る。震えながら顎を押さえてベッドに踞る怪物。僕はそれを無表情に眺めながら、拳の骨を鳴らす。
そっちが何もしてこないなら……このまま遠慮なく攻撃を続けるまでだ。
さっきから何故か刺すようにと痛みはじめた胸を振りきるように、僕は怪物に襲いかかった。
僕を支配した怪物が、僕の胸元に頬擦りをすれば、解放された僕はそのまま怪物を押し出し、思いっきり壁に叩きつける。
支配した僕の髪をいじくり回してきた時は、解放された時にそのまま鳩尾に拳を入れた。
怪物は力なくその場に膝を着き、僕を見上げてくる。口元が切れ、赤い血が流れていた。そうか。お前の血も赤いのか……。
そんなことを考えながら、僕と怪物は何度も何度も、近づいては離れ、近づいては離れを繰り返す。
何度も何度も何度も何度も何度も……僕を支配し、縋りつき、甘えるように擦り寄ってくる怪物。それを僕は、解放されるたびに幾度となく暴力によって突き放した。
殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る……いつしか拳が悲鳴を上げるのも気にも留めず、僕は怪物の頭を、胸を、腹を、背を、ところかまわず殴打し続ける。
「くそ……畜生……!」
何に悪態をついているのかもわからず、僕は殴る手を止め、荒い息のまま目の前を見る。ぐったりと身をベッドに横たえる怪物は、時折痙攣するかのように身体を跳ね上げていた。
拳が、その奥の骨が鈍い痛みを発している。そして何より、身を切るような謎の切なさが僕を襲っていた。
コイツが……あの怪物なのか? 思わず僕は疑問を口にする。幾度も僕を支配し、恐怖させた存在は、今はまるで、理不尽な暴力に身をさらされた、ただの少女のように見えた。
……違う! 僕は慌てて、一瞬浮かんだ考えを否定する。
コイツは怪物だ! 無慈悲に臓物を喰らい、夜な夜な血を啜る化け物だ! 僕の友人を殺した張本人なのだ!
だから、コイツに、慈悲はいらない。冷徹に冷酷に、コイツに引導を渡すのが、人間として正しい筈だ。犠牲者はもう出させる訳にはいかないのだ。
僕はゆっくりと怪物を仰向けにし、その上に馬乗りになる。
心なしか、肉体所有権の剥奪の時間が短くなっている気がする。コイツが弱っているからなのか、別の要因かは分からない。だが、これはチャンスだ。
「……恨んでくれても構わない。出来るなら僕を、許さないで欲しい」
そんな言葉が無自覚に漏れる。コイツを痛め付けた所で、心が晴れることはない。純也が戻ってくる訳ではない。それに気づくのが遅すぎた。
もう一思いに楽にしてやるのがお互いのためだろう。
軋みを上げる手と、胸の奥の何かを抑えこみ、ゆっくりと僕の両手が怪物の喉にかけられた。
怪物と僕の目が合う。
痛々しく腫れ上がった頬は、白い肌も相まって赤みが目立つ。
乱れたセーラー服。所々伝線し、破けた黒ストッキング。この分だと服の下には痣がいくつも浮かんでいることだろう。
自分自身にこんな獣性というべき一面があったことに驚愕しながら、僕は怪物を見下ろした。
怪物が倒れ伏すその姿は儚げで、手折られた百合の花を思わせた。
傷ついて尚美しいその姿を、僕は呆然と眺めていた。
見惚れていた? いや、違う。僕の目が引き寄せられたのは別の要因だった。
あの怪物が……泣いていたのだ。
泣き声をあげるわけではない。目に涙を浮かべ、静かに透明な雫を落とし、真っ直ぐ僕の目を見据えていた。
「何でだよ……お前、人の臓物を食べるような怪物なんだろう? 何で僕に殴られただけで泣くんだよ。どうして僕に何もしないんだよ?」
手が震える。痛い。力が入らない。
コイツは純也の仇の筈だ。なのに何故動かない? 仇なのにどうして……。
怪物の顔に水滴が落ちた。怪物の目から流れた涙ではない。僕はそれの正体を理解し、ますます絶望する。
どうして僕は……泣いているんだ?
驚愕する僕の頬に、いつかのように怪物の手が添えられた。
「あ……?」
声を出す暇もなく、唇が重ねられる。弱々しく差し入れられた舌が、突然の出来事に目を見開いた僕の口内を、優しく撫でていく。
驚いた事に、コイツは今、初めて肉体所有権の剥奪を使わずに僕にキスをしてきた。つまり、僕は今、動くことが出来る。
怪物を振り払うことも、その舌を噛みきることすら出来るだろう。
なのに僕は何も出来ず、ただ怪物の目を見つめていた。
やがて、ゆっくり怪物の唇が僕から離れる。キスは血と涙が混じりあったような味がした。
怪物は、いつものように幸せそうに、それでいて何処か悲しげに微笑んだ。
「……お前は……」
僕が声をかけようとしたその瞬間、怪物はいつかのように唐突に姿を消失させてしまった。
ただ一人。部屋に残された僕は、怪物の血が少しだけ付着したベッドをただぼんやりと見つめ続けていた。




