サイバー・ブレイン《中編》
異界じみた部屋に縁があるな。なんて、僕はここに足を踏み入れる度に思う。
その筆頭はかつて住んでいた蜘蛛の巣まみれなマンションの一室だろうか。殺人鬼、藤堂修一郎のアトリエや第四実験棟の地下室あたりも衝撃的だった。極めつけは大神村の体育館だ。何十人ものクローン京子がただようプールなんて、ただのトラウマものだし、時々夢にまで出てくる始末。……本当に冗談じゃない。
そして……。ここ、ルナちゃんの部屋もまた、僕の目には別世界のような場所だった。
入ってすぐに目に入ってくるのは、いくつもの引き出しが搭載されたキングサイズのベッド。組み立てるのに苦労したらしいその収納スペースには、生活に必要な衣類や彼女のお気に入りな書籍。あとは工具一式と、ありとあらゆる電子部品が詰め込まれているらしい。
次に目につくのは、その両側を挟み込むかのように置かれた巨大なパソコンラックだろうか。そこにはいくつものハードウェア筐体が安置されていて、低い稼働音を発しながら、所々が虹色に輝いている。久しく行っていないが、ゲームセンターみたいで少しだけワクワクしてしまうのは、僕だけの秘密だ。
正面……ベッドの頭側には広めのディスクが取り付けられておりそこにディスプレイが八つとキーボードが三つ。サイドテーブルや座れる巨大クッションも完備。冷房は常に最大出力。
楠木教授の部屋は三方の壁全てが本棚だったのに対して、こちらは壁がほとんど機械で囲まれている。といえばより分かりやすいだろうか。
寝るかパソコンを弄るかしかしないぞという無言の宣言が聞こえてくるかのようなサイバールーム。
これがルナちゃんの聖域にして、電子の怪物が潜む巣穴だった。
「ネットにする? 生き血にする? それともルナ?」
「……今思ったんだけど、これ広い目で見たら全部ルナちゃんにならないかな?」
「確かに。まぁ、冗談はこれくらいにして。……今日も定時報告会でいいの?」
ベッドの上に座ったまま、ルナちゃんがポンポンと隣のスペースを叩く。お望み通りにそこに座ると、僕の膝上にいくつもラッピングされたお菓子が積み上げられていく。
極彩色にカラーリングされた、蛙、蛇、蛞蝓に蚯蚓、そして蜘蛛を象ったグミ。
リアルなものではなく、可愛らしいマスコットキャラクターに見えるようデザインされたそれは、ルナちゃんの手作りである。
「変わったことはなかった?」
「ルナ自身にはないよ。お家もいつも通り、ハルくん以外はレイくんの傀儡だよ」
アレ? ハルくんもちょっと弄ってたんだっけ? と、首を傾げながら、ルナちゃんは笑う。
僅かにうなじがざわつく感覚は、単に僕が彼女を畏怖しているだけなのか、それともこの状況が危険だとしているのか。判断はつかない。ただ分かっているのは、彼女との交流を絶やしてはならないこと。そして……ここが非常に難しいことこの上ないのだが、それでいて近すぎず遠すぎずの距離を保てということだった。
他ならぬ僕の能力における直感がそう言っている。理由はわからないし、何なら特定の誰かに対してこんな反応を見せるのは初めてだった。ここまで来ると未来予知みたいだと思ったら、エリザ曰く『私と貴方の能力が極限まで研ぎ澄まされれば、それも可能になるかもね』とのことだ。
背負うと決めていたけれど、それはそれとして荷が重く感じてしまうのは、まだ僕が弱いからかもしれない。
現にこうして自分自身の能力に振り回されているのだから。
「今日は取り敢えず、色んな研究機関に“遊び”に行ってたの。後は息抜きで動画サイト見たり」
「……何か面白いものは見つかったかい?」
「そうだね〜。何か最近までゴタゴタしてた、地球外生命体対策課と地球外生命体強襲部隊が合併されたお話とか。沖縄で山猫の怪物が発見されて、そのまま米軍基地の秘密研究機関に拘束されてるとか。あ、島根の方でまたキナ臭い動きもあるみたいだよ〜」
「……ああ、うん」
情報過多にも程があるが、これが彼女の恐ろしさだった。
理屈はわからないが、ありとあらゆるパソコンに一切の痕跡を残さずに侵入し、この部屋の中にいながら、世界中のあらゆる情報を手にすることを可能とするハッキング技術。彼女曰く、ネットに繋がってさえいれば、あらゆる監視カメラの映像をリアルタイムで観測できるし、フェイクの映像を入れるのもお手の物だそうだ。
システムだって思うがままであり、とあるお菓子メーカーが有する工場の作業ラインを、全部グミに書き換えた……という、素敵な武勇伝を持っていたりもする。
才能の無駄遣いだと思った人は、僕と握手しよう。ただ、こうして彼女がくだらないことに全力を出せるということは、それに見合うだけの能力も持ち合わせている。という証明にもなるだろうか。
事実、彼女は表には出せば一部の界隈が震撼しかねない危険な情報も多数所持している。なので本気でアクションを起こせば、一夜にして社会的に死亡する人間が大量に現れることになるだろう。
かくいう僕も、彼女に弱みを握られていると言っても過言ではない。
油断というべきか、明確に弱点を突かれたというべきか。
苦々しい記憶だからあまり思い出したくはないけれども。
「レイくん? どうしたの?」
「……なんでもないよ。初めて会った時のことを思い出してただけさ」
僕がそう言えば、ルナちゃんは少しだけ目をパチパチさせてから、やがで気が抜けたかのように破顔した。彼女からしたら……多分いい思い出なのだろう。
「にへへ……運命的だったよね。ルナの世界がまた広がった、記念すべき日〜」
「僕からしたら、予想外な形で死にかけた日だけどね」
出会いの夜は偶然訪れた
同時に、師でもある汐里が度々口にする『自然界における最強や無敵ほど脆いものはない』といった考えを、嫌というほど実感した日でもあった。
なるほど。僕ら怪物は、いわば頂点捕食者というべき位置に君臨している。互いに喰いあったりもするので厳密な分類をしてしまうと例外のカテゴリーに入るのかもしれないが、概ね普通の生物には負けないと言っていい。
だが、それは汐里の言葉通り、あくまで自然界での話だ。
僕はもう知ってしまっている。
今もなお悪夢として僕の脳裏に焼き付いている、人類という生物種が見せた、底知れぬ悪意を。
怪物を殺せる者は存在する。その為の手段もまた、進化を続けている。
だからこそ、僕はルナちゃんとの出会いを経て得られた予感が確信に変わりつつあるのを……震えながら受け入れるしかなかったのだ。
予言しておこう。多分そう遠くない未来で、怪物と人間。そのどちらかが淘汰されるか、完全な支配ではないにせよ、なんらかの形で一方が他方の管理下に置かれることになるだろう。
人間社会は怪物の存在に気づき初めており、怪物側もまた人間社会からの視線が増えつつあるのを察知している。
これが意味する未来はまだ読めないけれど……。多分たくさんの血が流れ、命が消えていくことだろう。
ウイルスや疫病で喩えれば、分かりやすいかもしれない。あまり気持ちがいいものではないが、僕らが病原体側だ。
新たな生命体……それも、既存の種を脅かすものが大量に生まれた時、生存競争は始まる。
人がワクチンや対処法を見つけるか。あるいはある程度の犠牲は仕方がないものとして共存していくか。前者なら人が怪物を研究しつくし、ある程度支配したと言っていいし、後者なら僕ら怪物は明確な生存域と食料を得たと言っていい。
中世のペスト菌然り、その後何度か時代の合間で現れた病原体によるパンデミック。
僕ら怪物の出現は、規模や速度は静かながらも、それに近いものなのかもしれない。
……なおこの喩えは受け売りだ。何を隠そう、僕にその現実を突きつけた女性。ルナちゃんによるもの。
僕はその日……未来に恐怖し、唖然とし、そして抗う決意をした。
昔とは違い、喪いたくないものが多くなりすぎたからだ。
故に教訓の一つとして。恥ずべき記憶として、僕はあの夜を忘れない。
もしもルナちゃんの性格がもっと過激だったのなら。
もしも死にかけた僕が、あの場で冷静さを取り戻せていなっていなかったなら。
“僕達の命運“はそこで尽きていたか。あるいは緩やかに破滅へと向かっていただろうから。
※
それは、僕がかねてより考えていたパトロンをゲットするべく、拠点から少し離れた街に出掛けた夜の出来事だった。
不法侵入を狙うのは、いかにもお金がありそうな街で一番大きなお屋敷だ。
まずはミニマムサイズな蜘蛛の姿で、ドアの隙間よりお邪魔する。
首尾よく玄関まですすめたら人間に戻り、すぐに服を製作して身に纏う。勿論裸で突撃してもどうせ記憶を弄るので何ら問題はないのだが、流石にまだ人としての心を失った訳ではないのでそこはちゃんとした。
続いて、心を読む『精神感応能力』を使用。周辺にいる人間は四人。心と記憶を少し覗いて血縁関係や個人情報を確認していく。
甲斐谷家。家族構成は五人。一人……長女である甲斐谷月は私用で不在。外出理由は不明。元々滅多に部屋から出てこない人間らしいが、今日は何故か昼間から外出している。
家族からの印象。満場一致でニート娘。
いきなり濃い情報が出てきたなぁと思いながらもサーチを続行。
家主、甲斐谷剛は配偶者である甲斐谷志保と次男の甲斐谷陽斗とリビングに。長男の甲斐谷流星は屋敷裏の庭にいるようだ。何だか心の波動が癒やされている。彼は池らしきものを覗き込んでいる。これは……錦鯉? 趣味なのか。
ちょっとだけクスリと笑みが溢れたのを感じつつも、意識を家主へ戻す。次は記憶の中で経済状況を確認……しようとしたところで、僕は能力の索敵範囲内で強烈な負の感情をキャッチした。
出処は……次男の陽斗君だった。
深い悲しみや絶望。僅かな嫉妬と抑えこもうとしている諦観。そして……強烈な渇望と劣等感。
どうやら両親と揉めている様子だった。
『親父、どうしてだよ! 俺にも少しくらいやりたいことやらせてくれよ!』
『お前にも欲しいものは与えてきたし、やりたいことはやらせて来ただろう』
『……っ! でも、将来を完全に決めるだなんて聞いてない! 何で興味ない親父の会社に入らなきゃならねーんだよ!』
『流星は次期社長だ。お前はそれを支えろ。もっとも、今のままでは使い物にならんから、学べ。そう言ってるだけだが?』
『だから! 兄貴はいいよ! 昔から親父の仕事を継ぐって言ってたし、それが兄貴が望んでることだから! でも俺は……』
『お前と流星の能力差を考えたことがあるか? アイツがライオンなら、お前はネズミだよ。コネで将来を約束してやってるだけ、ありがたく思え』
『俺はそんなこと頼んでない!』
『黙れ。誰のおかげで今まで生きてこられたと思っている?』
凄い修羅場だった。
自分の将来を自分で決めたい陽斗君と、それを認めない剛氏。ありがちな話ではある。だが、二人の心の底を覗くと、そこまで単純なものではない様子で……。
“これ”の利用価値はない。ないくせに夢は語るから厄介だ。この出来損ないが何処かで家に恥をかけるのだけは避けなければ。
ずっと昔からそうだ。親父は兄貴だけ見て、兄貴だけは名前で呼ぶ。俺はいつもオイ。か、お前……。
心と記憶を読み取る程に闇の深さが露呈していく。それと同時に、僕は不思議な親近感を陽斗君に覚えていた。
陽斗君とお兄さんとの関係はそこまで悪いものじゃない。ただ、昔から比べられ続けていて。両親からは期待されていない。どっかの誰かさんそっくりだった。
いや、状況は当時の僕より悪いかもしれない。
なにせ一番通したい主張は通らず、それ以外のどうでもいいものはお金に任せて与えられる。結果、虚しさや自分の無力さだけが突きつけられていくのだろう。
少なくとも僕の場合は兄さんが生きていた頃、両親共に優しかったし、将来を縛るなんてこともしてこなかった。あの通り魔事件が全てを台無しにしただけで、それまでは僕らの家は普通の家だった筈なのだ。……そう思いたいと、最近は考えられるようになっている。
尚、実際に今の僕が両親に逢いに行けば簡単に答えを知れたりもするのだが……その勇気はない。ヘタレと笑いたければ笑って欲しい。
『……変なこと、考えてるわね?』
「うるさいな」
心の中でエリザの嘲笑が響く。気がつくと拳を握りしめてしまっていて、それを解いて冷静になった頃には僕の中で迷いが生まれ始めていた。
『やればいいじゃない。迷うことはない筈よ?』
「……でも」
『だいたい、心操って金づる……もといパトロンにしようとしてるのよ? そんな貴方が今更、常識や人道を気にするの?』
傷口を。痛いところを的確に指で弄くり回されている気分だった。
元々エリザがこういう奴だとは分かってはいたけれど……改めて突きつけられてみると心が軋むようだった。
『今更好きにいじっても同じだし……何より、色々なことを試すのは、能力を磨く上ではいいことだわ。レイ。貴方は怪物よ。それでいて、私という厄介者を取り込んだ以上、もう綺麗事だけでは生きられない。……本当はわかっているでしょう?』
「…………ああ」
心を凍りつかせながら、静かに能力の範囲を広げていく。対象はこの家にいる人間全員。外にいるらしいもう一人は……帰ってきてから調整しよう。
「つくづく思うけど……僕って本当に運がいいだけだったんだな」
昔の自分が聞いたら白目を剝いて気絶しそうなことを口にしつつ、僕は能力を開放していく。
命令するのは深い強制睡眠。そうして次に彼ら彼女らが目を覚ます頃にはいつも通りの日常……のようなものが待っている。
ちょっと定期的にお金を投資したくなる将来を期待した若者がいて。
長男は優秀で。長女はニート。そして次男はお笑い芸人を目指していて、それを家族が応援している。
窓口役には次男を選ぶ。彼だけは僕の正体の断片を知っているし、記憶の全てを奪わない。彼だけは家族に起きた一部の事件を知っている。……この辺はエリザに言わせれば甘さだろう。万全を期すならば、次男の認識も奪うべきだが……僕は昔から押さえつけられていた彼に、偽善と分かってはいても選ぶ自由を与えてあげたかった。
『あら、どうして?』
「だってさ、見ろよこの有様」
家にいる人間全てが倒れたのを感じながら、僕は我が物顔で屋敷の廊下を進んでいく。道中でいくつかの円盤型のお掃除ロボットとすれ違う。縦横無尽に動いて部屋を綺麗にしてくれる優れもの。学生時代にちょっと欲しいな。何て思っていたやつだった。
帰りに一個貰っちゃおうかな。なんて邪な考えを抱きながらリビングにたどり着く。静かに眠りについた住人を目にした時、僕は小さな恐怖を必死に抑えつつ自分の手のひらに視線を向けた。
どうとでも、出来てしまうのだ。今回お金を貰う為に利用はするけれど、その気になれば他にも色々なことを実行できる完璧な支配。それを持つ存在が、かつては僕と敵対して……もとい、僕を手に入れるべく暗躍していた。
エリザだったから付け入る隙があっただけ。彼女がもう少し過激だったなら……僕は今ここにいなかっただろう。
「君はある意味で無害だった……なんて思う日が来るなんて。悪夢でも見てる気分だ」
『あら酷い。言っておくけど、私は今は幸せ大絶頂よ。夢みたいな日々だわ』
「死んでしまえ」
いや、本当に死なれたら困るから、僕らは一つになったのだけれども。それを口に出しはしない。どうせコイツには筒抜けだろうから。
さっさと終わらせて帰ろう。あんまり遅くなると、怪物が拗ねるし、間が悪いと融かしたり囓ったりしてくるのだ。
『傲慢に振る舞ったっていいじゃない。私達は怪物だもの』
「お前この間、能力に頼りすぎるなって言ってきたじゃないか」
『時と場所と場合によるわ。知ってるでしょ? 女は気まぐれ。男は基本不誠実よ』
「人生って素敵だね」
投げやり気味に他愛のない会話のキャッチボールをする。いつものズレた日常だ。
闘争や策謀とは無縁で。痛みや恐怖もない。ただ成すべきことを成して帰るだけ。その……筈だったのだ。
奇妙な音が耳に届いた。思い出したのは小学校での工場見学。用途は分からなくても何だか凄そうな機械が一斉に駆動する、その場にいた僕らにとって非日常な音。それに似たものが――僕のすぐ後ろでしていたのだ。
「なん、だ?」
ノロノロと振り返る。そこには円盤型のお掃除ロボット達が……まるで隊列を組むかのように一列に並んでいた。
「……んん?」
何で? という疑問が浮かびかけて……次の瞬間、目の前で起きた光景に僕の思考は完全に真っ白になってしまった。
小さな機体が唸り声を上げるような音をさせて変形していた。それは丸みを帯びたフォルムから徐々に鋭さを増していき、やがて見覚えがある獣の顎のような“銃身”をさらけ出した。
いつかの山村で見た、怪物を殺す為に進化していく技術の結晶。開拓者の銃口が、変形したお掃除ロボットから伸ばされて、僕に照準を定めていた。
「――っ!」
『レ、レイ! 逃げ――』
狼狽えたエリザの声は最後まで聞こえなかった。日本の一般家庭ではあり得ない発破音が鳴り響いたのは、その直後だった。




