血染めの花へ愛を囁く
目を覚ました僕の周りには、またしても彼岸花が咲き乱れる樹海が広がっていた。
内的世界。いわば心の形。ここに僕がいるということは、気を失ったか。あるいは命の危険にさらされている時であるのだが、今回はそういった心配は無用だと僕は悟っていた。
僕は彼女の理性を信じたのだ。死にそうな目にはあっているだろうが、死なないなら問題ない。
「……ある意味で狂気ね」
達観した面持ちで僕がその場にたたずんでいると、背後から聞き慣れた声がする。振り向けば、樹上に腰掛けたままこちらを見下ろす女性が一人。
エリザだった。
「……狂気って、僕が?」
「他に誰がいるのよぉ~。だって、まさか食べられちゃうのまで受け入れるだなんて……。我が宿主ながらちょっと怖かったわ」
「お前が怖かった? 冗談だろう?」
僕が鼻を鳴らせば、エリザは少しだけ不服そうに顔を膨らますも、すぐにいつもの超然とした態度を取り戻す。
にこやかに。だが、よく見れば暖かさを感じない。そんな表情だった。
「戸惑ってるみたいだから、報告ね。貴方はまだ死んでないわ」
「…………うん、知ってた」
「ホントにぃ?」
バカにするように首を傾げながら、エリザは鼻や目。唇を指さした。
「食べられちゃったといっても、顔面の表面だけ。今の貴方、ずべらん坊みたいになってるわね」
「……液状にしたから出来る技か」
「猟奇的プレイの幅が広がるわねぇ」
「茶化すな」
「まぁ酷い! 私はレイの為を思って明るく言ってるのにっ!」
プンプンと口で言うバカ梟。それを見上げる僕は、彼女の思念が手に取るようにわかる。もっとも、それは彼女もまた同じなのだろうけど。
「相変わらず、自信がないのね」
「……口にしなくてもわかるくせに」
「そうね。けど、いくら通じあってしまうとはいえ、無言は寂しいわ」
言葉は必要よ。エリザはそう呟くと、音もなく樹上から降りてきた。
ワインレッドのチュニックワンピースが翻り、足元ではより鮮やかな緋色が散る。死を連想させる花の群れ。その中を颯爽と歩きながら、エリザは僕の傍に近づいてくる。
「父親になるのが……怖い?」
「……それだけじゃない」
隠し事は不可能なので、僕は正直に答える。ある意味でコイツとのやりとりは気が楽だった。変に飾らなくていいのが、今はひたすらにありがたい。
「京子は……きっとまたくる。強襲部隊も、何処かでまた出会う気がしてならない。リリカ達みたいな、未知の怪物とも」
「貴方はもう、その辺の怪物には負けないと思うわよ?」
「君はそう思っていて、僕に負けた」
「あら手厳しい」
舌を出しながら頭を掻くエリザ。無敵は存在しないというエリザと対峙する上で勇気にもなっていた汐里の言葉が、今は僕に牙を向いていた。
「物凄く怖いんだ。わからないまま進むのが。そんな僕が、これから父親になるかもしれない事実が……怖い」
「産まれてくる子蜘蛛達には、家族って概念がないのだとしても? 貴方のお嫁さんが子どもを欲しがるのだって……本能からくるものなのに」
「……それでも、僕の子で、僕が負うべき責任なんだ」
産んで終わりだなんて絶対に出来ない。ましてや、産まれくる存在が人を襲うならなおのこと。それは野放しにしていい理由にはならないではないか。
だからある方法を考えたのだ。けど……。情けない話だが、僕はそれが果たして正しいことなのかわからないのが現状だった。
「怪物としてなら、愛する奥さんの要望を叶えたい。けど、人の心が、一度限りとはいえ人喰いの存在を産み出すのを許せない。……ジレンマねぇ」
「…………っ」
のらりくらりとエリザはかわす。僕はただ、下唇を噛み締めるだけだった。
「……〝誰か正しいと言ってくれ〟ね。……ごめんなさい、レイ。私は何とも言えないの」
だって私にもわからないもの。と、エリザはため息をついた。
「聞いたことないし、考えたこともなかったわ。怪物の本能そのものに精神干渉して、そのあり方をねじ曲げるなんて」
その考えが、僕のたどり着いた答えだった。
「君を取り込んだ時……君を通して色んな存在を見た」
その中にあった、桜塚さんとカイナのあり方。その時僕はも思ったのだ。
もし蜘蛛の姿のままで、感情を得られたら? そうすれば、昔の二人のように、誰かと寄り添うことだって出来るかもしれない。人を喰わなくても、生きていけるかもしれない。
「見かたによっては、洗脳よね」
「でも、このまま何も考えずに増えれば、きっと僕らは人に駆逐される」
「教授や松井さんみたいに、己の遺伝子で地球を埋めつくしちゃおうとかは考えないの?」
「興味ない。それに、きっとそういうのは失敗するように出来ているんだ」
「〝人間はあなどれない〟……か」
はからずもルイが愛した女性と同じ言葉が僕に浮かぶ。僕らの存在は人間ありきだ。だから何処かでブレーキが必要なのだろう。
「たくさん語りかけてあげたいんだ。親に無視されるのは寂しいものだから」
「そうね。貴方はそれをよく知っているもの」
近寄ってきたエリザが手を伸ばしてくる。綺麗な指が僕の頬を誘惑するようになぞっていく。僕が拒まないのを見て取ったのか、調子に乗ったらしい彼女が唇を近づけてきたので、そこには軽めに張り手をかましてやった。
『ひ~ど~いぃ』
『知るか』
という心の中での短いじゃれ合いを経て、僕らは目線を合わす。
思念が読まれるのは癪だけど、成る程。言葉にすることはやっぱり大切なのだと実感する。心が読めても、心を伝えるために。そう考えると、僕は怪物であっても人間であるのだろう。
「汐里が言ってたんだ。米原侑子……あの娘が怪物に影響を与えて、しっかりした感情が芽生えているって」
「彼女の役目を、貴方がこなすのね」
さながら父親の情操教育かしら? おどけるように頬を緩ませながら、エリザは胸の前で両手を結ぶ。まるで告白を待ちわびる少女のような仕草に僅かながら可愛らしさを感じてしまい、僕は内心で悔しさを噛み締めた。
僕の中での最強のイメージは、多分もう揺るがない。
だからこそ……。
「…………協力、して欲しい。きっと君を越えてみせるから」
強くなる。その意志は変わらない。けど、さっき判明したのだが、まだ精神操作能力の発動には、エリザの許可が必要らしい。私を乗りこなしてみろとは、まさにそのままの意味だったのだ。
するとエリザは顔を綻ばせて、小さく頷いた。
「元より私は、そのつもりよ。私は何処までだって、貴方に付き合うわ。忘れないで」
そう言ってエリザは僕にウィンクし、少しだけ寂しげに背を向けた。
内的世界が薄らいでいく。僕の意識が戻り始めているのだろう。艶やかな金髪をぼんやりと眺めながら、僕はなんの気なしに思ったことを口にした。
「……なんか、意外だな。君のことだから、協力するのを条件に理不尽な要求でもされるのかと……」
勿論、酷いものは無視してやるけど。そう内心で呟けば、エリザは「失礼ねー!」と、わざとらしいリアクションをしながら再び振り返り……。今まで見たことのない、優しい表情で微笑んだ。
「本当の愛は、何一つ見返りを望まないところに始まるのよ。疑うなら、何度でも言ってあげるわ。レイ、私ね――」
言葉は最後まで聞こえなかった。
多分それでいい。彼女が言いそうな事はわかっているからだ。
「……ありがと。僕は……まぁ、言わなくてもわかるだろ?」
その言葉を君に告げる日は来ない。ただ……それでも何故か、エリザは幸せそうに笑っていた。
※
ずっと昔の話をしよう。
しとしとと雨が降り注ぐ学校の帰り道。僕はふと花屋の前で足を止めていた。普段は素通りするそこから、優しくも切ない香りがしたからだ。
店先はビニールで覆いをされている筈なのに、その隙間から放たれる、見えない主張。それを感じたあくる日の僕は、まるで蜜に誘われた蜂のように、フラフラとそこに立ち寄った。
理由は覚えていない。ただ、兄さんが死んだ後だったとは記憶している。心も身体も冷えきった僕には、もしかしたらそんな何気ない発見が、少しの慰めになっていたのかもしれない。
「ごめんください」と、小さく囁きながら店に入る。匂いはますます強くなった。色とりどりの花を見て、高揚しなかったと言えば嘘になる。だってそれら全てが、きっと誰かに暖かい気持ちを呼び起こすものだから。
心の雨は、ずっと晴れなかった。止まない雨はないと言うけれど、そんなの信じられない。信じちゃいけないと……自分に言い聞かせてきた。けど、こんな雨の中ですら匂いを届ける花達を見た時に思ったのだ。
そばに花が……。やすらぐ誰かがいて欲しい。許されないとわかってはいる。けど僕は寂しかった。誰かと、寄り添っていたかったのだ。そして……。
月日は流れる。色んな出会いがあった。
雨の中を歩き続けて。色んなものを喪って。僕は……。
「……おはよ、レイ」
囁くような綺麗な声が、僕の耳をくすぐった。
目を開ければ世界が肌色で、次に感じたのは血とミルクと花の香りだった。
「ん、あ?」
頬にフニュフニュした感触が当たり、思わず首を動かせば、すぐに後頭部に手が添えられる。僕の視界が真っ暗になり、柔らかさが顔面を支配していた。……多分どころか絶対に男としては天国な状況なのだが、僕が意識を向けたのは別の要因だった。
「……生きてる」
伝播する体温から、触れあっているのがわかる。同時に手足が意思にしたがって動くことを確認し、僕は大きく安堵の息を吐いた。
四肢切断かつ、身体の液状化状態から脱して、僕は何とか生還を果たしたらしい。彼女は完全に狂気に飲まれてはいなかった。ただ愛情表現が過激なだけ。その事実が、今は喜ばしかった。
「……レイ、美味しかった」
「うん、何かもう……一周回ってそれでいい気がしてきた」
マズイとか言われるよりはマシだ。なんて思うあたり、僕も相当毒されてきているらしい。
苦笑いぎみにハグを解けば、怪物は少しだけ不満顔。それをなだめるように頭を撫でてあげれば、その表情は喜びでコロリと明るくなった。
甘えるようにぐりぐりと手のひらに頭を擦り付けてくる怪物に目を向ける。
ベッドに投げ出された白く肉感的な裸身は、血まみれだった。
常人が見れば、卒倒しかねない絵面。なのに……。
「……綺麗だよ」
ただ、心に従ってそう口にする。すると怪物は珍しいものでも見たかのように目を丸くして。すぐに意味を噛み砕いたのか、目を潤ませながら震えはじめた。
……そういえば、あまり褒めたこともなかった気がする。振り返れば振り返るほど、僕はダメな旦那さんに一直線だった。
「ねぇ……今更かもしれないけど……っぶ!」
照れくささを圧し殺し、僕がエリザには言わなかった言葉を口にしようとした瞬間、感極まった風に怪物が抱きついてくる。頬擦りされるわ、胸を押し付けられるわ、脚を絡めてくるわ。しまいにはキスの嵐が到来して、僕はなす術もなく、血だらけのシーツに沈められた。
「ちょ、今、僕……!」
「レイ、レイィ……っ、嬉しいっ!」
珍しく、本当に珍しく勇気を出してたのに。と、言おうとするが、それは怪物に封殺される。
この様子では対話は無理。そう察した僕は、いさぎよく諦めて割れた寝室の窓ガラスから空を仰ぐ。
空の東側が、薄ぼんやりとだが白んできていた。夜明けはもうすぐ。そうして今日も……僕らは人とは外れた道で……修羅場を体現するかのような、野生の世界で生きていくのだ。
「あぁ……私の旦那様……、私だけのレイ……!」
「まっ、ちょ……! どこにもいかないから落ち着きなよ……」
そんなことを言いながら、覆い被さってくる怪物を優しく抱き締める。それだけで多幸感が溢れていくよう。
彼女は僕にとっての花だった。たとえ血の雨の中でだって見失わない、幸せの香り。
だから、彼女の興奮が収まったら、さっき口にできなかったメッセージを贈ろう。
時間はこれからも流れていく。それを止めるつもりもない。だから……。
血染めの花へ「愛してる」という言葉を捧げて。
僕はこれからも、この女性と生まれてくる命を……守っていこう。
……因みにその言葉を囁いた直後、両方の意味で朝から滅茶苦茶食べられたのを追記しておく。
※
僕らの日常は続いていった。
汐里は相変わらず僕らと共にいるが、カオナシ達をお供に旅行へ行く事が多くなった。本人曰く傷心旅行であり、幸せ探しの旅らしい。
汐里が帰って来た時に出てくるお土産や旅先の話を、秘かに僕と怪物が楽しみにしているのは……多分彼女は気づいてないのだろう。汐里は今も僕の師匠であり、姉であり、良き相談相手だ。
リリカと洋平は、僕らや汐里とはまた別のコテージにて生活している。女王たる怪物から離れられない以上、当然といえば当然の帰結だと言えるだろう。
週に数回。一升瓶を手に蜜をもらいに来るリリカが、毎回怪物の玩具にされるのはお決まりの光景になりつつある。なんだか醤油のお裾分けを貰いにくる子どもみたいだ。と、冗談混じりに言ったら容赦なく殴られたのは苦い思い出だ。
洋平にはほぼ毎日。リリカや怪物が見守る中で稽古をつけてもらっている。あまり長くやると怪物が嫉妬して、洋平が地面に埋められるのはご愛敬である。
また、そんな生活をしているうちに、ちょっとした一騒動もあったりしたのだが……。そんな時、二人は僕にとって頼もしい味方となってくれた。つくづく奇妙な共闘関係だと思う。出会いが出会いだったので、正直こんな形に落ち着くとは想像すらしなかった。というのは、僕と蜂な二人による共通の弁である。
シベリアンハスキーのシュバルツは、樹海の中で野生化している。彼はそういう生活の方がしっくり来るらしかった。
ただ、たまに怪物とボール遊びやフリスビーをしているのを見たことがあるのだが……。その時の猛烈な尻尾の振りようは、彼の名誉の為に口を閉ざしておこうと思う。
斜に構えてるが、元は飼い犬だ。誰かと遊ぶのが恋しい日だってあるだろう。
大輔叔父さんは……どうなったかわからない。命は助かったと、汐里がこっそり教えてくれてから、情報は何もない。
勿論気にならないと言ったら嘘になるけど、もう僕らは住む世界が違うし、会いにいけば迷惑になるかもしれない。だから、これでいいのだろう。
エリザはエリザ以外の何者でもないから、特に語ることはなし。ただ、頼むから夢に毎回出てくるのは勘弁して欲しい。
そして…………。京子は、今も行方知らずだ。決戦が終結した彼の地は今も立ち入り禁止。ただ、不気味な蠢く茸が静かに存在する危険地帯となっているのみ。大神村の核は死んだ。だが……あくまでそれは、あの場を取り仕切っていた核。
つまり……既に次の世代の核が、この世には存在しているのだ。僕は半ば確信に近い形で、そう予感している。
いずれまた、目覚めた彼女は前以上の狂気を携えて、僕らの前に現れるのだろう。
思いもよらない方法で。彼女は今もどこかで……。
※
〝ようやく意識が戻った〟森島美智子はすえた臭いが漂う中で身を起こし、込み上げてくる吐き気を圧し殺した。
時刻は明け方。窓から射す弱い日差しが、現在自分が根城とする部屋を照らしている。
布団にミニテーブル、衣類収納用のカラーボックス。洗濯機や冷蔵庫などの電化製品。七畳の簡素なワンルームに、必要最低限の家具を詰め込んだこの場所が、今や天涯孤独となりった彼女の世界だった。
失うものなどもう何もない。邪魔だった娘ももういないし、家族は全員死んだのだ。混乱に乗じて家の財産は持ち出した。あの村を生きて出られたなら……それだけで、自分は勝ち。これからはもう、自由に生きてやる筈だった。
なのに……。なのに……!
『おはよう、気持ちの悪い朝ね』
頭の中で女の声がする。綺麗なソプラノのそれは、あまりにも清廉な響き故に、かえって不気味さを際立てるようだった。
異変が起きていた。命からがら故郷を離れてから……美智子の中に誰かがいるのだ。
それはふとした時に美智子の意識を奪い取る。その間、自分が何をしているのかわからなくなり、彼女は恐怖に震えながらも何も出来ない。そんな日々が続いていた。
今だってそうだ……。自分は一糸纏わぬ裸身で、男の上に跨がっている。招いた覚えもない、身体を許すことなどあり得ない、見知らぬ男の……。
「――っひ!」
情事の熱で火照る自分の身体とは裏腹に、男と接している肌だけがやけに冷たかった。
『あ、気がついた? 貴女、死体と燃え上がってたのよ~。ちょっとした悲恋っぽくて……非日常だったわぁ』
正気を疑う事実が述べられて、美智子はその場で嘔吐する。食べた覚えのない不気味な……茸だろうか? それらしき胃の内容物が、男の死体にぶちまけられていく。
気が狂いそうだった。そもそもどうして自分はこんな目にあっている? 何なのだ、この声は……! まるで自分が自分じゃなくなっていくような……。拒絶するように死体から目を背けると、部屋の一角に姿見があった。
あれも自分が買った覚えがないもので……。
「あぁ……あぁあ……!」
両頬から、涙が流れていく。なんだこれはと叫ぶことすら出来なかった。そこに映っていたのは、既に自分ですらなかったのである。
茶色のショートヘア。瑞々しい肌や肢体。明らかに十代か、二十代前半の女がそこにいた。
「私は……」
『誰でもないわ』
「嘘よ、違う! 私は……!」
『違わないわ。……貴女はもう、何にもなれないの』
その宣告はまるで毒のように美智子を侵食していく。
抗えない。そう察した時。美智子は生まれてはじめて、心の底からの絶望を感じた。
失うものは何もない? 嘘だ。今まさに、それは奪われようとしている。
自分の命。そして……名前を。
『もういいの。後はあたしに任せて。さぁ……』
あたしに、貴女を頂戴?
その声が合図だった。森島美智子の……いや、名も無き誰かの意識は永遠に閉ざされた。そして……。
『Hello, World! あはっ、非日常だわぁ……!』
今日もまた、世界のどこかで〝名前のない怪物〟が産声を上げていた。
~fin~




