94.遠坂黎真に安息なし
蜘蛛の中には、交尾の際に相手を食べてしまう種がいくつか存在するらしい。
食べてしまう理由は、単に獲物と勘違いする場合と、そもそも繁殖用の脚が使い捨て。かつ臨死体験の刺激で作用するという、どうにもならない能力が由来するものであったりと、諸説は様々だ。
そして……繁殖の際に起きる捕食行動において、もう一つ。ほぼ不変と言っていい事実がある。
それは、食べられちゃうのが、大抵は雄であること。そもそも、蜘蛛の世界において、雄は笑えるくらいに弱いのである。
「さぁ、レイ。おいで……」
ワシャワシャと脚を動かしながら、巨大な蜘蛛が腹を揺らしながら迫ってくる。パタパタと黒いタール状の液体が床に落ち、それはまるでスライムのように気味悪く歪み……。やがて小さな子蜘蛛達の姿を象った。
「…………っ」
部屋を見渡す。今いるのは寝室だ。出口は奥さんが身体で塞いでいるから脱出不可。力ずくでねじ伏せるのは、出来ればしたくない。エリザの能力を使うのは論外。
あくまでも、彼女の怒りが鎮まり、話し合いに応じてくれるまで逃げ続ける。これが大事である。
窓はカーテンが締め切られているが、ぶち破れば逃げられるだろうか……。
「……レイ、また私を置いてくの」
逃走プランを頭で練っていると、拗ねたような声が巨大蜘蛛から聞こえてくる。子蜘蛛達の数も少しずつ増えていき、まるで僕を取り囲むかのように床と壁を覆っていた。モタモタしてる時間はなさそうだ。
「まず、弁明させて。僕は浮気なんかしてな……」
「した」
「いや、待って。待ってくれ。僕は、その……君を。君だけが……」
「身体に、あんな女を染み込ませるなんて……!」
「聞いてよ! ああしなきゃ危ないくらいに、エリザは危険で……!」
然り気無く後退りしながら、僕は釈明を述べる。
だが悲しいかな。能力たる超直感は、無理だ。諦めろ。即刻逃げることを推奨する。といった具合に白旗を上げていた。
巨大な蜘蛛と化した彼女を見る。当然ながら表情など読めない。だが……。
「…………一緒なら名前なんかいらないって思ってましたけど。やっぱり、ズルいです」
「――え?」
耳に残るいつもと違う口調に、僕の中で時間が止まった。聞き間違いだろうか? 確かに今……。
「ね、ねぇ。君は……」
「もういいもん。――食べちゃいますね」
「……OK。なら僕は逃げるぞ」
感傷よりも生存欲求が勝り、僕はすぐに彼女に背を向ける。
なりふり構わず窓ガラスを蹴破って外へと逃げ出せば、慣れ親しんだ樹海の風が鼻をくすぐった。
湿った地面を踏み締める。まずは樹海の更に奥へ……。そう考えた時。不意に真上から、ミルククッキーに似た甘い香りが漂った。
襲撃。ざわめく勘でそう察した僕は反射的に横っ飛びし、その場から距離をとる。
衝撃はすぐに来た。軽い地鳴りと不安感を煽るような虫の羽音がする。顔を上げれば、さっきまで僕が立っていた場所に、見知った顔があった。
「リリ、カ?」
「はぁい。レイ。ごきげんは……悪そうね」
何故か僕を憐れむような表情で、元蜂の女王が滞空していた。小さな手を無骨な毒槍に変え、ニットワンピースの後ろに蜂の腹部を生やした姿。明らかな戦闘を意識した気配に僕が眉をひそめていると……唐突に多数の思念を読み取ってしまう。
『私情は捨て、女王の命令通りに』
僕は再びその場から飛び跳ねた。翼を広げ、夜の帳へ。
近くに自生する木から、シベリアンハスキーのシュバルツが流星のように飛び込んでくるが、この攻撃は予想の範囲内。両肩を手で抑え、そのまま下へ。
まだ飛行能力を会得していないらしい彼は、きりもみ回転しながら落ちていく。
その顔に、犬にはあるまじき笑みを浮かべながら。
「悪いな。俺は囮だ。クソッタレは上から来るぞ」
シュバルツの陽動に、僕は釣られない。死角になる後ろ斜めから、物凄い勢いで何かが突撃してくる。
網を張る時間はない。勢いが殺しきれぬまま、槍に貫かれる未来を視たからこそ……。最善策は決まっていた。
「――っと!」
手を鉤爪に。横薙ぎに相手の手槍に叩きつけ、その勢いを利用してその場で回転し、体勢を整える。
第三の襲撃者はそんな僕の対応に「ヒュー」と、口笛を吹いた。
「危機察知能力が上がっているな。あの女を取り込んだ影響か」
落ち着いた男の声。京子と戦っている時、気配が微弱になっていたのを感じていた。もしかしたらもう会えないかな。なんて思っていたが、そうでもなかったらしい。
リリカの側近にして、歴戦の猛者。洋平がそこにいた。
「…………生きてたんだ」
「がっかりしたかな?」
「無事でなによりだよ。ただ、この場においては……」
最悪だ。
あえて口に出さないまま、僕は身構える。背後からリリカがジリジリと忍び寄ってきていた。そちらに注意しつつ、眼前の洋平を見据える。
エリザの力で怪物を捕捉し、ひたすら逃げ回る算段だったが、手勢が増えると少し厄介だ。
二人とも機動力があり、地面には犬特有の嗅覚でこちらを追跡できるシュバルツがいる。一対三。いいや、怪物も含めれば四だろうか。
「えっと、何で襲ってくるか聞いてもいい?」
心は読める。だが、返ってくる答えがわかってはいても、問いかけずにはいられなかった。
怪物が蜂の女王になったのは今更だけれども、まさか彼女がリリカ達と手を取り合うとは思わなかったのである。
「いきなり召集がかかったのよ。レイを捕まえてって」
「生憎と俺達は逆らえん。これで蜜も貰えないならタダ働きもいいところだが……そうではないことを願おう」
「俺の主人はあの子だ。レイ。君には借りがあるが……悪いな。犬は順位を優先するんでね」
「……蜂の本能か」
酷いとは思わない。元々僕らに仲間意識なんてものはないのだから。
向こうからすれば、蜜の供給源たる怪物の機嫌を損ねる訳にはいかないので、全力で僕を捕まえにくるだろう。
こうして考えると、彼女もなかなかどうして、女王様が板についてきたのかもしれない。
「悪いけど……蹴散らしていくよ?」
だが、生憎と僕も引くわけにはいかなかった。こんなでも、元は人間なのだ。怪物が今まさに僕にやろうとしている仕打ちに耐えられる気はしないし、単純に嫌なのである。あと怖い。
そんな僕の切実な願いを知ってか知らずか。リリカは挑発的に顎をしゃくった。
「蹴散らす……ね。あまり強いことばを使わない方がいいのではなくて? てかなんで嫌なのよ? あなた達夫婦でしょう? セックスレスになるの早すぎ……」
「その夫婦の営み。相手が蜘蛛の姿で、僕は食べられながら。って形なんだけど、本当に逃げるのダメ?」
半ば愚痴みたいに僕が告げれば、場に沈黙が流れた。
リリカは絶句し。洋平は頭を抱え。シュバルツは尻尾をショボンとさせていた。僕はといえば、泣きたくなるのを我慢していた。
何が悲しくて蜘蛛に食べられながら、いわゆる初めてを特殊すぎる形で迎えねばならないのか。怪物な僕が言うなという話だが、普通がいいんだ。当たり前だろ。それを望んで何が悪い。
だいたい浮気だって言いがかりだ。エリザには色々されたけど、僕の心はこれっぽっちもアイツに愛情を向けてやしないのに。
「……レイ、あの。なんというか……」
「すまない。可哀想だが俺達にはどうにもならん」
「レイ。骨は拾ってやるよ。残ってたらだがな」
そして、蜂達は同情こそしても、僕に慈悲はこれっぽっちも向けてくれなかった。三人から僅かな畏怖の気配が噴出する。
「レイの、ばか。……もう許さないんだから……」
静かな怒気を滲ませた声が響き渡る。見下ろしたさっきまで僕がいたコテージの屋根で、何かが動いていた。……怪物だ。
小型の像程もある体躯がゆっくりと、木造建築を覆っている。その周囲には、猟犬の群れのごとく。黒い虫達が隊列を組んでいた。
更に……。
「おい……本気すぎるだろ」
思わず悪態をつきながら、僕は翼をはためかせ、身を反転させる。途端、三本の火柱が僕のすぐそばを通り抜けて。新たな気配が四つも増えた。
「ダンナー! ゴメーン!」
「デモ、シカタナインデス! 逆ラウノ無理ィ!」
「オ嬢コワイ。シオリンモコワイ。ピピュウ……!」
僕らの拠点には、中央の広場を囲うように四つのコテージがある。その一角の屋根に、火を吹き終わったカオナシ達が揃ってペコペコこちらに頭を下げていた。
……君らもか。もはや何も言えず、僕が顔をひきつらせていると、カオナシ達を掻き分けるようにして、一人の女性が進み出てくる。
ウェーブのかかった長めの茶髪は一房のおさげに纏められている。やっぱり理科の先生とか似合いそうな印象を受ける彼女の出で立ちは、初めて出会った時を連想させる白衣にパンツスーツ姿だった。
「汐里……!」
無事だった……! その安堵がまずは胸を満たす。
ルイが身体から出ていって、すっかり衰弱していた彼女だったが、見る限りでは元気そうだった。だが……。
同時に僕は、何故か寒気にも似た嫌な予感を感じていた。
「レイ君こんばんは。……どうしましたか? せっかく最強の怪物を愛人に……もとい体内に囲っているのに。震えているではありませんか」
彼女特有の鈴を鳴らしたかのような綺麗な声と、嗜虐的な笑み。それを目の当たりにした時、僕の不安は加速する。
どうして彼女は……このタイミングで出てきたのだろうか?
そんな考えが頭によぎった時、汐里はにこやかに自分の胸を指さした。
読んでみろ。それに反射的に従った僕は、その日一番の衝撃を受けた。
『バレバレかもしれませんが、一応。今回私はあの娘側なので、悪しからず』
「な、なんでぇ!?」
思わず子どもみたいな叫びを上げてしまう。だって汐里だぞ? 僕の不幸にニヤニヤすることはあれど、彼女は中立を保ってくれると思っていたのに……!
すると汐里は首もとを。多分ルイが出てきたであろう部分を愛しげに撫でながら、しおらしく目を伏せた。らしくない仕草に僕が二度目の衝撃を受けるなか、彼女は語り始めた。
「ルイが……言ってくれたんです。君が死ぬなんて耐えられないって。だから決めたんですよ。私はこれから、自分の為に生きようと……」
「それがどうしてこうなるのさ!」
「……おや、わかりませんか? 好きに生きるんです。だから、彼の遺言だって守りますよ?」
胸を張る汐里。僕はそれを絶望に満ちた顔で見ているしかなかった。
「ルイはあの娘の幸せを願いました。なら……可愛い義娘の願いに協力するのは当然でしょう?」
お師匠様がいつの間にかお義母さん(後妻)になっていた。それでいいの? と怪物と汐里を交互に眺めるが、どちらも既に僕へ狙いを定めている。
僕は静かに天を仰ぐ。もう、覚悟を決めるしかないようだ。
勿論それは――。
「いいよ。なら、まとめて相手してやるさ」
受け入れるという意味ではない。抵抗はするし、説得は続ける。ただしそれは、怪物に対してだけだ。
申し訳ないが他の皆には……反則技を使わせてもらう。
背中の翼を大きく開き、僕はそのまま地面まで落ちていく。着地と同時に、全神経を集中。周りから息を飲む気配を無視して、僕は怪物以外の全員に、エリザの精神操作を試みる。
命令は……。
「全員部屋に帰れ! 暖かくして就寝!」
うなじがざわめく。水を打ったかのように周りが静かになり……。ほぼ同時に、汐里、リリカ、洋平、シュバルツ、そしてカオナシ達が不思議そうに首を傾げた。
「…………………………あれ?」
でも、一番驚いていたのは僕だった。
何でだ? どうしてエリザの力が発動しない?
戸惑いながら「おい」と胸に手を当てる。返答はすぐにやってきた。
『前にも言ったでしょう? 能力にあぐらをかくのはやめなさいって。私の手綱を握りたいなら、貴方自身も強くなくちゃ困るのよ』
……いや、待て。
「無茶、言うなよ……」
『大丈夫。いける。いけるわ』
「いや、無理だろ流石に。てか、能力使う決定権、お前にあるのかよ」
『貴方がまだ私をもて余してるだけよ。だから私が細かく調きょ……。調整してあげてるの』
「……今なんか聞き捨てならない単語が出た気がする」
『気のせいよ。大丈夫。貴方ならきっと私を乗りこなせるようになれる。信じてるわ』
「今まさにその未来が閉じようとしている件については?」
『死ななきゃ安いわよ』
「スパルタ過ぎだろ!」
『信じてるわ』
「黙れよ!」
僕の魂の叫びがこだまする。すると、強烈な憤怒の思念が流れ込んでくる。
怪物が……身を震わせながら鋏のような顎をガシャガシャ鳴らしていた。周りの皆は、あるものは同情するように。またあるものは興味深そうに僕を眺めていた。
「……やっぱり……! レイ……!」
「成る程、体内で生きてると。キメラとしてはかなり珍しい……のかもしれません。調べたら楽しそうですね」
「うん、擁護は無理ね。奥さんの前で愛人と逃走の相談するなんて」
「王よ。経験から言わせてもらえば、こういうのはひたすら謝るが吉だ。なぁに。少し怖い目を見るだけ。死にはしないだろう。……多分」
「旦那、生キロ……! 超生キロ……!」
三者三様の反応を見せる怪物達。共通するのは、僕を狙っていること。
逃げ場は……ない。目尻に涙が浮かんだのは、気のせいではないだろう。
「ま、ま……負けるかぁあ!」
心が折れそうになりながら、僕は鉤爪を振るう。
夜の樹海で怪物共の饗宴が始まった。
ざわめくような争乱はそこから暫くの間、鬱蒼と繁る木々を揺さぶり続ける。そして……。
※
痛め付けられ、ぼろ雑巾も同然となった僕は、もといたコテージに連れ戻され、蜘蛛の巣に磔にされていた。木造コテージ特有の優しい匂いと、一緒に住んでいる存在が放つ花みたいな香りが僕の鼻腔をくすぐるが、生憎とそれすら今は恐怖に拍車をかけるスパイスになっていた。
身体がバカみたいに震えている。恐れていた事態が、現実のものとなってしまった。
もう僕にはどうすることもできないだろう。
底知れない絶望感に苛まれながら、僕はいつのまにか荒くなっていた呼吸を整え、再び祈るような眼差しを前に向ける。
そこには、揺らぐことのない、あまりにも残酷な現実があった。
「レイ、捕まえた」
そう言って、目の前にいた大蜘蛛は頭を上げ、顎を手入れするように前肢をワシャワシャと動かした。
不気味な八つ赤い目から放たれる熱視線。普段は黒曜石のような黒だった筈。この色からして……多分コイツは今、狂気というべきか蜘蛛の本能が勝っているのだ。
「こんなの……あんまりだ……」
頭を掻きむしりたくても、両手は動かせず。僕はだらりと頭を垂れながら、静かに嗚咽を漏らした。
僕がエリザを取り込んだのが気に入らなかったのはわかる。けど、だからといってまさか本当に……僕は蜘蛛に文字通り喰われてしまわねばならないのか? そう思ったら、嘆かずにはいられなかった。
嫌な予感は……していたのだ。
彼女が次々と他の怪物を捕食し始めた時から。どんどん愛が重く、濁り、ドロドロとしていき。こうして歪んだ独占欲が向けられるようになった。今さらだが元の彼女は怪物だ。人間としての感性を学びつつはあっても、そこが根本的に僕と違う。それを今更ながら思い知らせた。
「……僕を、食べるの?」
「うん」
「どうして?」
「…………私どんどん、おかしくなって、欲張りになってるんですよ」
「……っ、君は……」
また口調が変わった。それは果たして光明か。あるいは地獄への入り口か。わからないままに僕は踏み込んだ。
「抱き締めたい。キスしたい。いっぱい甘えたい。それは……〝ワタシ〟が〝私〟から学んだものでした。あの時ワタシは子どもで……だからそれだけでよかったんです。レイと、ずっと一緒にいられたら、それだけで……」
怪物が八脚を動かし、音もなく僕に忍び寄ってくる。
「でも……レイが私と同じになってから、変になった。身体がどんどん大きくなってく。レイがどんどん欲しくなってく。止められなくなりそうな時、私はレイと引き離された」
銀色の糸が、寝室に撒き散らされる。内装が怪物の領域で塗りつぶされていく。それは、虫一匹すら入ることを容認しない、怪物の心を体現していた。
当然そこには、僕を逃がさない為の意志もあるのだろうけど。
「そこで気づいたの。私の気持ちと本能を。ワタシの欲望が、生まれ始めた。一緒にいたい。赤ちゃん、作りたい。レイを……食べちゃいたい。私だけみて欲しい」
フワリと、蜘蛛の巨体が宙に浮く。僕は、声を上げることが出来なかった。
僕の腕や胸。腹や顔を、蜘蛛の姿をした怪物が優しく弄ぶ。毛むくじゃらの脚が一本。また一本と僕の四肢に絡み付き。冷たい蜘蛛の大顎が首筋をくすぐっていく。
「手足千切りたい。頭から爪先まで溶かしちゃいたい。骨をしゃぶりたい。あの女が染み込んでて、どうしても出せないなら……レイの心を、もっと私でいっぱいにしなきゃ……」
歯が、カチカチと音を鳴らしていた。本気だ。
もう止められない。怪物には今、少女の恋心と本能的衝動が混在している。二人が共存している以上、これはもう引き離せないのだ。
「うわきしたの、許せない。けど、きっと私は、どうやってもこうなってたの。こう、なってしまったんです……」
ただ、僕はその時、彼女の心にもまた、一抹の恐怖が根付いているのを垣間見た。
「そうか……怒ってたけど、君はそれ以上に怖かったんだね」
読心を封じる。これはフェアじゃない。ちゃんと僕も……読むのではなく考えて対話すべきだと思った。蜘蛛は、身を震わせている。どうしてか、僕にはその中に、迷子になって泣いている女の子の幻影を見た。
「だって……レイが、あの女を受け入れた。嫌だったの。私を守る為でも怖かった。レイが取られちゃう……でも、どうしたらいいかわからない。私は、こんなで……だから……! ………………食べなきゃ」
その結論に至るのだけはどうしても理解できなかったけど、その時に僕は多分、覚悟を決めたのだと思う。
彼女は既に狂気の中にいる。ならば……伴侶となる僕もまた、そこへ沈まねばなるまいのだ。
震え、麻痺しきった心がそう言った。
ゆっくりと口を開く。もう一度。少しの望みをかけて。
「……ごめん、いっぱい心配かけて。ごめん。でも、何回でも言わせて。僕は君一筋だよ。言っただろう? 夫婦になろうって。それは……今も変わらない」
「………………本当に?」
「ああ、本当に」
「……受け入れてくれるの?」
「僕は、旦那様だからね。多少の無茶だって……聞くよ……」
声が震えてるのはご愛敬だ。けど、これでしっかり彼女に信じてもらえるなら。あわよくば酷い仕打ちも回避できたなら……!
「……嬉しい」
まるで蜃気楼が崩れるかのように、蜘蛛の姿が霞んでいく。
僕を抱き締めていた八脚は、柔らかな少女の腕に変わり。胸に預けられていた毛むくじゃらの頭部は、見慣れた黒髪になっている。
内心で猛烈にガッツポーズをしながらも、僕が恐る恐る下を覗き込めば、歓喜に頬を紅潮させた少女の怪物が僕を見上げていた。
「レイ、大好き」
蕩けるような笑顔が花開く。それを見た時、僕はどうしてかに涙が溢れそうになり……。
「じゃあ、もう……遠慮するのはやめますね」
直後、興奮で少し上擦ったウィスパーボイスを耳にして、肌がヒヤリと凍りついた。
「……え? う――ひぃぃあ!?」
どういうこと? と、聞く暇もなく、僕の首筋に痛みと痺れが走る。随分久しぶりに思えた、怪物の噛みつきは……。明らかにおかしい勢いをもって、僕を混乱の渦に叩き込んだ。
「ちょ、待っ……何――う、ぁああ?」
「んっ、ダメですよ……動かないでください。……流し込みにくいじゃないですかぁ……」
吸血。ではない。そもそも吸われてはいないのだ。ただ……本当にブシュゥウ……! なんて音が聞こえてきそうな勢いで、僕の身体に何かが注入されていた。
「なにを……して……?」
今までにない未知の行為に、僕は必死に恐怖を押さえ込みながら問いかける。すると、僕の首をようやく解放した怪物は、悪戯っぽく目を細目ながら、白い指を唇にあて。チロリと、舌なめずりした。
「レイにも、気持ちよくなって欲しいから……隠し味です」
怪物は妖しく笑いながら、僕の身体をツンツンとつつく。「まだお肉、固いかな?」という怖すぎる呟きが聞こえてきて、僕の身体に鳥肌が立った。
恐怖に突き動かされるまま、封じていた読心の力を引き戻し、彼女が何を考えているのかを把握しようとする。だが……。残念ながらもう遅かった。
そこでようやく、僕は何を打ち込まれたか把握したのである。
能力が、完全に使えなくなっていた。これが意味するのは……。
「蜂の……毒?」
あはっと、怪物の唇が弧を描く。雄弁に語られた、肯定の微笑。それは、完全に僕の逃げ場や抵抗手段が封じ込められた瞬間だった。




