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名前のない怪物  作者: 黒木京也
続章エピローグ:闇の底にて産声を
214/221

93.蠱毒の後に

 小野大輔が目を覚ましたのは、大神村での騒動が終結してから、丸々二日後だった。

 最初にいたのは集中治療室らしき場所。そこで酸素マスクに加えて身体中にチューブが何本も取り付けられているのを目の当たりにし、そういえば重傷だったと自覚しつつも、大輔は生きていた事に心の底から安堵した。

 自分はどうにも事件に取り掛かっている間は捨て身になってしまうが、やはり根っこの部分では人の子なのだ。そう再確認しただけ、大輔にとっては収穫だった。

 自分は、狂気に落ちるわけにはいかない。人であり、刑事。命があってこそ、誰かを守れるのだから。

 だが、そんな具合に生存を喜んでいた大輔の平穏は、すぐに終わりを迎えた。

 意識が戻るやいなや医者やナースがバタバタと行き来して、最終的に大輔の身体はストレッチャーに拘束され、別室に運ばれる。

 そこからありとあらゆる薬剤がチューブごしに投与され、大輔はそれをぼんやりと眺めていた。身体も動かせないばかりか、声も出せなかったのである。

 素人の大輔ではわかり得ぬ、いささか過剰にも思える検査の嵐。そこで初めて、大輔は最後の戦闘で、自分が怪物にされかけていた事を思い出した。

 ……なるほど、奴さん達から見れば、俺は化け物か人間か……。まだ分からないってわけか。

 自嘲するように大輔は独白する。ふと、眼球で見渡せる範囲に、見覚えがある赤毛が見えた。スーツ姿に、優雅なシニョンが印象的な少女。桜塚龍馬の傍らにいた蛇の怪物――。カイナがそこに立っていた。

 大輔の視線に気づいた彼女が愛想笑いを浮かべながら小さく手を振る。万が一の場合に備えた、処刑人といったところか。

 そんな推測をしつつ、大輔は目を閉じる。

 残念ながら、今の自分には出来る事はない。回復した暁ににどんな采配が下されるのか……。それを待ち続けるより他になさそうだった。勿論、ただでやられる気は毛頭ないのだが。

 意識を闇へと落としていく。

 雪代はどうなった? 山城の姿をした怪物は?

 胸を過る気がかりの数々。それらを知るために大輔は休養を優先する。

「図太い方ですぅ……」という、カイナの感心とも呆れともつかぬ声が聞こえた。それに少しだけ小気味良い気分になりながら、大輔は心の中で悪態を返した。


 何も知れないまま、死んでいくなんて……ごめんなんだよ。


 ……その後、大輔は驚異的な回復力を見せ、丁度一週間後には面会が許可される事になる。

「野性動物か君は」と、医者も苦笑いしたのだが、彼にはそんな評価はどうでもよかった。

 そして……。


 ※


 現在、大輔の病室にはそうそうたる顔ぶれが揃っていた。まずは大輔の直属の上司にあたる梶原(かじわら)署長が大輔のベッドの右隣に。

 反対側には強襲部隊の隊長、竜崎沙耶と、その部下である桜塚龍馬が丸椅子に腰掛けており、その背後にはそれぞれ、ジョン・杉山とカイナ……怪物の二人が護衛のように佇んでいた。

「さて……どこから話しましょうか。一先ず、小野大輔警部。回復おめでとうございます。怪物化や後遺症も残らず何よりです。杉山さん、お祝いの品を」

「おめでとう、ミスター小野。……そら、リンゴだ。私が育てた。美味しいから皆で食べようではないか」

「……いや、一週間前まで腹に穴空いてたからな? まだ流動食だぞコラ」

「おや、そうなのかい?」

 残念だ。と言いながら、ジョンは童話にでも出てきそうなデザインの籠を引っ込める。渡される先を見失ったそれは、となりのカイナに手渡された。

「……大神村は、どうなったんだ?」

 ポーチから果物ナイフを取り出した(なぜ携帯しているかは聞かないことにした)カイナを横目に、大輔は問いかける。すると沙耶は目を伏せながら、静かに両手を前にして、「パー」のジェスチャーをした。

「現在あの村は、立ち入り禁止区画となっています。山城京子による侵食は、あの茸達の核が死んだため、一応は食い止められましたが……。それでも、あそこに放置された死体の山には、微弱ながら未だに生体反応がある」

「それは……」

「故に、関係者以外は立ち入り禁止だよ。入り込めばお化け茸の餌食。報道後に面白半分に侵入したフリーのジャーナリストがいたらしいが……めでたく茸まみれな死体で見つかった」

 あそこは確かに誰もいない筈なのにね。と、付け足しながら、ジョンはシニカルな笑みを浮かべた。

 当初にあった蜂の脅威は去ったと言えよう。だが、それ以上に厄介な存在が残されている事実に、大輔は顔をしかめるより他になかった。

「当面は、あの怪物茸をどうするかですね。どういう訳か、あの茸はもう自分達のテリトリーからは抜けられない様子です。人の姿を取る訳でもなく。ただ胞子を撒き散らすだけ。核が死んだのが原因かと思われますが……詳細は不明です」

「駆除は出来ないのか?」

「無理だ。地中深くまで侵食してるからな。除染みたいな方法を取るのも手だが……確実ではない上に、あの場に染み込んだ山城京子を、死体とはいえ別の場所に移すのはリスキーだよ」

 ……確かに、あの女は何でもありだ。変な賭けをするよりは、しっかりとした対策が出来てからの方が無難だろう。

「雪代と宮村はどうした。源さんの遺体は?」

「それについては、私の方から」

 龍馬が手を上げる。チラリと沙耶の方を伺い、彼女が頷いたのを確認してから、龍馬は抑揚のない声で語り始めた。

「宮村佑樹は……こちらに攻撃を加えてきた上に逃亡を謀ったので、私が射殺しました」

「っ! ……そう、か」

「……やはり貴方は優秀だ。アレが野に放たれれば、簡単に蜂が増える。逃がすわけにはいかないとわかっている」

「心から納得した訳じゃねぇ」

 何か方法があれば……。そう願って拘束していたが、結局、処分を避けられなかった。その現実は、大輔の心に重くのし掛かっていく。関わった時間が短すぎた。もしもう少しだけでも信頼を重ねられていたら、未来は変わっていたのかも。そう思えば思うほど、大輔の胸に悔しさが募るようだった。

「次に、大鳥源治の死体ですね。彼は体表に無数の茸を確認したので、回収は叶いませんでした」

「……っ、それなら……」

「ええ。彼はあのまま、風葬という形になります。死体が残らなかったと、ご遺族には話しましたが、納得されていましたよ」

 納得ではなく、無関心だろう。そう大輔は直感した。

 源治の口から家族の話が出たのは、後にも先にも一度だけ。対策課が出来る前に飲みに行った時だ。独身で、既に両親は他界しており、年の離れた弟や妹とは疎遠になっていたらしい。

 このまま彼は、肉親にすら忘れ去られていく。筆舌に尽くしがたい寂しさに、大輔は唇を噛み締めた。

「……雪代は?」

「雪代弥生は……怪物化を果たしました。現在、オリーブオイルを定期的に投与しながら、厳重に隔離しています。警部としても、彼女には聞きたいことが多いでしょう?」

「…………ああ。そうだな」

 彼女に前科があること、その相手とコンビを組んでいたのは自分だ。故に彼女に罪を償わせ、然るべき裁きを受けさせることは、大輔が果たすべき義務だった。

「彼女は現在、唯一生きている茸の怪物です。なので、今後対策を立てる場合において、切り札になりうるでしょう。松井英明が保有していたものはあそこに集められていたようなので、生体サンプルが残されていないのですよ」

「……実験台ってわけか」

「異論はありますか?」

「……今は、何も言えん」

「表向きにされてないだけで、人類の歴史なんて鬼畜外道の所業に溢れてるものですよ。まして相手は怪物で犯罪者ですから」

「桜塚、お前は……」

「はぁい。リンゴが剥けましたよぉ~」

 大輔が咎めるような言葉を口にしようとした瞬間、カイナの甘ったるい声が割って入る。紙皿にはウサギの形にカットされたリンゴが乗せられていた。

「大輔おじ様は、ダメなんですよねぇ……。カイナがかみかみして、柔らかくしますかぁ? スムージーみたいに」

「いらん」

「わぁよかったぁ。欲しいなんて言われたら、もう一生目を合わせないところでしたぁ」

 じゃあ聞くな。と思いつつ、大輔はカイナから無言の圧力を感じていた。龍馬を責めるな。そんな強い意志がこちらに叩きつけられている。

 混乱が抜けきっていない今、はっきりした意見は出せないか。そう判断した大輔は、矛を収めたという意味を込めて、無言で頭を振ってみせた。

「それで? あんたらは結局何がしたい」

 聞くべきことはあらかた提供された。そろそろ本題に入ってもいいだろう。挑むような大輔の視線に、ジョンが「ヒュー」と口笛を鳴らす。

「何故そう思うのです?」

「……あんたらがただの人間な俺を見舞う理由がない。それなのにわざわざこうして情報を寄越す。疑うなって方が無理だ」

 同じように大輔を冷たく見返す沙耶に、大輔は更に切り込む。ひりついた空気がその場を支配していた。署長が居心地悪そうに身を縮こまらせているのがチラリと見える。気がかりなのは彼だ。どうしてこの場に呼ばれたのか。その意味は……。

「人質か?」

「…………いいですね。大輔さん。その洞察力、素敵です」

 ここで初めて、沙耶が笑顔をみせた。常日頃から女の笑みの奥に不吉な気配しか感じてなかった大輔にとって、彼女からの褒め言葉は突きつけられたナイフと同義だった。

「貴方の場合、自身より他人の命に刃を向けた方が効果的だと思いまして」

「…………てめぇ」

「そうカリカリするな。ミスター小野。貴方にとっては間違いなくいい話……」

「杉山さん、話してるのは私で、なおかつ今は交渉中です。横槍入れない。私以外は煽らない。……オリーブオイル入りの除草剤、また飲みたいの?」

「オ、オーケーだボス。私が悪かった」

 ひきつった顔で引き下がるジョンをもう一睨みしてから、沙耶は再びこちらに目を向ける。

 正面から対峙した大輔は、彼女のスーツの袖から肩までに違和感を覚えた。

 異様に平べったい。いや、寧ろ……。

「アンタ、腕……」

「ご心配なく。開拓者(パイオニア)か、対怪物用のナイフを仕込んだ義手を作って貰う予定です」

「…………正気か」

「最低でも命と脳があればいいんです。身体なんてパーツに過ぎません。故に鍛え、武器として研ぎ澄まし、ダメになったら方法を考える」

「アンタ……」

 本気で言ってやがる。そう悟った大輔は思わず身震いした。何がここまで彼女を駆り立てるのか。これではまるで……。

「鬼みたい?」

 涼やかに笑いながら、褒め言葉ですよ。と呟いて。沙耶は改めて真剣な顔で大輔を見た。

「単刀直入に言います。小野大輔。私の部下になって欲しいの」

 その言葉に、大輔は一瞬だけ思考を止められた。

「……何故、俺だ」

「強いからです」

「それだけで……」

「理由の一つにはなりますよ。先の事件で対策課は壊滅。人員補充は行われるでしょうが……正直、そんな中途半端な鉄砲玉にするには、貴方は惜しすぎる」

 牽制するように署長を横目で見ながら、沙耶は話を続ける。

「そして、ご覧の通り私が所属する部隊も、現在壊滅寸前なんですよ。殉職したり、山城京子に取り込まれ、意識が戻らなかったり。あの戦いから生還出来たのが、この場にいる全員です」

 改めて、一人一人の顔を確認する。人数はかなりいたと記憶している。それが軒並み……。

「松井英明、本当にやってくれましたよ。まぁそんな彼も死亡。息がかかっていた面々も、所詮あの梟女の操り人形でしたから、軒並み失脚しました。後に一新され、本来のものに戻るでしょうね」

「松井さんが……!?」

 思わず身を乗り出した大輔に、沙耶は頷く。

「彼は少し、暴走が過ぎました。恐らく山城京子の反撃にあったのでしょうね。今もあの村で横たわり、ただの苗床に成り下がりましたから」

「……っ!」

 道が違えたあの夜から、いつかはこんな日が来るのではないか。そんな未来予想は出来ていた筈だった。それでも……。大輔にとっては友人の一人には変わりなく。

「今日は……訃報ばかりだな」

「そのうちそれが日常になりますよ。怪物に関わっていれば……ね?」

 淡々とそう言いながら、沙耶は「どうでしょう?」と首を傾げた。

「桜塚さんから聞きました。甥っ子さんとは決別したと。それが本当ならば貴方にとって彼は殲滅対象の筈」

 ここだ。

 心臓が高鳴り、背中を一筋の汗が伝う。

 決別。確かにそうだろう。だが、それは大輔にとっては違う意味をもつ。

「奴を撃つのは、もう一度かち合った時だけだ。市民に手出しをするなら、俺は止めねばならん」

「なら……」

「だが、アンタらは違うよな。ただひたすら怪物を探し、駆逐する。人の心があろうがなかろうが」

「否定はしません。ですがそれは、一応危険度が高い存在のみです。それ以外は捕獲。あるいは利用する」

「……対策課と変わらんと言いたいのか」

「違うのは、怪物も人員に加えていることだけですよ。強襲部隊は一応、警察組織にも根を伸ばしています。貴方を含めた対策課のような組織が対処しきれなかった案件に関わっているものでして。だからひたすら殺しまくる集団だと思われているんです」

 変人ばかりいるのは事実ですが、失礼な話です。と付け足しながら、沙耶はリンゴを一口噛る。形のいい歯並びが果実の半分程を削り取っていた。その最中に大輔は龍馬に再び視線を向ける。室内ですらサングラスを外さない彼からは、やはり何の感情も読み取れなかった。

「むやみやたらと殺したがらない方もいました。それに関しては私も否定はしません。関わりかたは人それぞれ。かつて不幸にも殉職した優秀な方は、死ぬまで捕獲とカウンセリングに徹していました。逆に桜塚さんみたいに、開拓者(パイオニア)抹殺者(ニゲイター)しか持ち歩かない方もいる」

 早い者勝ち。獲物の権利主張は、仕留めた人に委ねられるんです。と、楽しげに沙耶は語る。「ただのスタンドプレー集団じゃねぇか」という大輔の感想を、その場にいた誰もが否定しなかった。

「弱肉強食。それがうちの方針ですので。さて、どうします? 大輔さん。こちらに来るか。また一から人員を育てるか……」

「断ったら?」

「……さぁ?」

 チラリと、沙耶の目が署長に向けられる。本当にやるか、否か。そんなものを考えるだけ不毛だろう。この場では何も言わないし、何もしないに違いない。それはわかるのだ。

 入った時の利点は? まず間違いなく、怪物に関する情報は今まで以上に入ってくるだろう。それを利用せんとする、松井英明のような存在についても。

 次に、仮に入らなかった場合を考える。再び対策課は結成されるのか? 強襲部隊が上位組織であり、かつさっきの対策課のような組織の扱いを聞いた限りでは……。

「条件が三つある」

「……聞きましょう」

 立場を利用して更に圧力をかけるかと思ったが、存外沙耶はぬらりくらりと受け入れた。自分が欲しいと言っているのは、恐らく本心か。そう察した大輔は、指をまず一本。見せつけるように掲げた。

「一つ。俺がそっちに入ったなら、少なくとも俺の後任は立てるな。俺がいた対策課は完全に解体しろ」

「……なるほど、これ以上犠牲者は出すなと。いいでしょう」

「二つ。俺は余程危険だったり、人的被害を出していない限りは、捕獲か、観察対象に指定する。それでも構わないか」

「……懐かしい主張ですね。ええ。了承しました」

 トントン拍子に話が進んでいく様を不気味に思いつつ、大輔は三本目の指を立て、最後の条件を口にする。ある意味で一番重要かもしれないこと。それは……。

「桜塚が……怪物は駆逐すべきと主張しているのはよく分かる」

「ええ。彼、分かりやすくて可愛いですよね」

 炎が燃え広がるようにカイナの方から怒気が立ち上る。だが、それにたじろいだのは署長だけだった。

「アンタはそれを肯定している?」

「そうですね」

「にもかかわらず、俺の主張も肯定すると」

「ええ。言ったでしょう? 人それぞれですよ。私は受け入れます。〝否定は〟しません」

 微笑みながら、沙耶は頷く。「第三の条件は?」と、再び問いかける彼女から、大輔は目を逸らさない。

「アンタの主張を聞かせろ。上司になるかもしれねぇ奴の意見や方針は、一応聞いておきたい」

 大輔がそう言うと、沙耶は静かに立ち上がり、懐から名刺を取り出した。彼女の連絡先。それが書かれた紙片をポンと大輔に投げ渡しながら、彼女は静かに口を開いた。

「怪物なんて、本当はどうでもいいんです。駆逐も共存も興味ない。私は戦うのが好き。そうしてるうちに気がついたら長く生き残ってて……ここの統率者になっていた」

 可笑しいでしょう? と、舌を出しながら、沙耶は片目を閉じた。

「生きてるって、実感するんです。仕事ってそうじゃなきゃダメだと思いません?」

 その時大輔は、沸き上がるような寒気を感じた。その反応を満足気に見つめた沙耶は、まるでロボットのように機械的に握手を求めてきた。

「私は、合格ですか?」

「…………んなわけあるか。落第だ。だから……」

 俺がいつか、引きずり下ろして楽にしてやる。その意味も込めて、大輔は、渾身の力を込めて沙耶の手を握り締める。

 どうせ関わることからはもう逃げられない。大輔は怪物の存在を知ってしまったから。ならばもう、より深くまで足を踏み入れてしまおう。どのみちそうしなければ……レイに語った理想が嘘になってしまう。

「……歓迎しますよ。小野大輔さん。ところで……甥っ子さんについては聞かないんです?」

 探るような目線。恐らくはまだ、疑っているのだろう。故に大輔はその日初めての獰猛な笑みを見せた。

「アレはもう、俺の手に負えん。あの野郎、逃げるとき俺を殴り倒しやがったからな。……どうせアンタらも把握できていないんだろう?」

 大輔の挑発に、沙耶は能面のような顔のまま「ええ」と頷いた。

「危険すぎる個体ですよ。アレはまさに、見つけたら即抹殺すべき存在です。まぁ、これも……早い者勝ちですけど」


 期待してますよ。だから今はいっぱい休んでくださいね。

 沙耶はそう言い残し、他のメンバーを連れて病室を後にする。残されたのは署長のみ。横から向けられる遠慮がちな視線に肩を竦めて見せながら、大輔は努めて明るく、元上司に話し掛けた。

「署長。取り敢えず、ナースコール頼んでいいですか?」

「え?」

 目を丸くする署長に、大輔はヒラヒラと、さっきまで握手していた手を見せる。指一本、動かせなかった。何故なら……。


「折られました」


 あのクソ女……! と、内心で悪態をつきながら、大輔は窓を見る。丁度夕陽が沈もうとしていた。

 これからも自分は戦い続けるのだろう。対策課にいた時と変わらずに。多分そういう運命なのだ。

 楽しいとは、思わない。だが、誰かを守る事に繋がるのは……大輔にとって、せめてもの救いだった。



 ※


 突然だが、泣いても構わないだろうか。

 かの島根での騒動から一晩経ち。ようやく回復した僕は、底知れぬ恐怖に苛まれながら天井を仰いだ。

 慣れ親しんだ、蜘蛛の巣まみれな樹海のロッジ。いつもならリラックスするその空間に……僕の安息は既にない。

 我ながら、今回は頑張ったと思うのだ。

 敗北もあった。喪ったものも沢山ある。けど……大切なものを守れた。そう思っていたのに……。

「待ってくれ。落ち着いて話し合おう」

 震えながら、僕は目の前の存在と対話を試みる。だが、返ってきた返事は「やだ」の一点張りだった。

(ワタシ)言ったもん。帰ったら覚悟してって」

「そ、それは覚えてるよ。けど……」

「レイ、うわきした」

「いや、誤解だよ!」

「うわきだもん。(ワタシ)じゃない女食べた。匂いはもうしないけど、羽生やしてた。ってことは……いるんでしょう?」

 ダラダラと、全身から汗が吹き出す。

 こんなのあんまりだ……。そう心が叫びたがっていた。

 だが無情にも、判決は下される。僕に弁護士はいなかった。

 カシャリ。カシャリと、鋏が擦れるような音がする。

 愛すべき僕の奥さんは、今や全身から黒いタールを吹き出す、巨大な蜘蛛の姿をしていた。

 それだけでもとてつもなく恐ろしい光景なのに……。彼女はもう一度。僕を絶望させる発言を繰り返す。


「さぁ、レイ……赤ちゃんつくろ」


〝蜘蛛の姿で〟彼女は甘く蕩けるような声で僕に迫る。

 僕はもう一度。震えながら彼女に懇願した。

「ねぇ……せめて、その……初めては人間の姿で」

「それはダメ」

「いや、でも……」

「出来るけど、今日はダメ」

「……なぁ、怒ってるの?」

「うん。だから……赤ちゃんつくろ」

 いや、その理屈おかしいよ! そう叫ぶ余裕はなかった。(ワタシ)を受け入れて? そんな無言の圧力が、僕にかけられる。

 どこの世界に所謂愛の営みが罰になる夫婦がいるというのか! そう考えた時、僕はふと怪物に混じっている、ある存在を思い出した。

 蟷螂。……まさか。

「ねぇ、僕ってもしかして……」

「うん。最期は食べちゃうよ?」


 よし、逃げよう。

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