90.激突
少女の怪物は不機嫌だった。
つがいの青年をようやく取り戻したというのに、お邪魔虫があまりにも多すぎることに。
ついでに、青年から妙な気配が……。具体的には、最近警戒していた女の臭いがプンプンしているのが、また彼女のムカつきを加速させていた。加えて……。
「殺してあげる。レイ君」
「殺してやるよ。京子」
どうしてコイツらは、自分をそっちのけで言葉を交わしているのだろうか。怪物は無意識に頬を膨らます。
青年は世界で一番嫌な女と、真っ直ぐお互いを見つめあっている。それが怪物には不快すぎて……。そんな感情に振り回されているうちに、二人は走り出してしまう。取り残された怪物は、その後ろ姿を見送って……すぐに身体を変貌させた。
蟷螂の腕。蜂の腹部と翼。蜘蛛の鉤爪。一つ一つのパーツに殺意を込めて、少女の怪物もまた、遅れて大地を蹴る。空気が、あり得ないほど美味しくない。天地全てにあの女が染み込んでいた。
こんなところにいたら、青年に自分じゃない女の臭いがどんどんついてしまう。それが怪物には我慢ならなかった。
「はやく……つれて帰らなきゃ」
そうしたら、たくさんたくさん、可愛がろう。愛してるっていっぱい伝えて。
どこにもいかないように閉じ込めて。逃げてもわかるように糸をつける。
臭いも消さなきゃならない。女の残り香を全部自分ので塗り潰して。そうしたら……。
「食べちゃうの。……全部全部……。夫婦だもん」
青年が聞いたら慌てふためきそうな言葉を漏らしながら、少女の怪物は舌で唇を濡らす。その瞳の奥には狂気と恋慕が揺らめいていた。
※
鉤爪を繰り出すのと、京子の身体が不自然に跳ね上がるのは同時だった。無防備な心臓を狙った刺突。それは、何やらぶよぶよした感触を貫いただけに終わる。
地面から、巨大な人肉に似た繊維が盛り上がっていた。そこから鉤爪を引き抜けば、カビ臭い香りと一緒に、生暖かい血が噴水のように吹き出した。
「……っ、茸……か?」
「あはっ、レイ君ったら、激しいんだからぁ」
真上から、京子の声が響く。突如出現した足場を踏みしめて、僕の攻撃を回避した彼女は、裸身から無数の菌糸を生やしながら、僕の方へ降りてくる。
あまりにも無防備だ。それが罠だと感じた僕は、直ぐ様その場から横っ飛びする。
刹那。さっきまで僕が立っていた場所に、無数の手が何本も飛び出してきた。
「……っ」
寒気が、背中を走る。あのまま降りてくる京子を迎え撃てば、背後から捕まっていたかもしれなかった。
「逃げないでよぉ……! ほらほら、あたしを殺すんでしょお!?」
ケタケタ笑いながら、京子は地面に手を当てる。すると、周囲の土が不自然に盛り上がっていき……。やがて、ゾンビ映画もかくやに、他の京子が僕の名を叫びながら、たくさん生えてきた。
のべ十人弱。だが、これらの相手をしている暇はない。そうなれば、彼女の思うつぼだと直感が囁いていた。
現れた群れを盾にするように、核の京子が僕から距離を取る。アイツらは時間稼ぎだ。
死と花の香りがする空気を最低限取り込みながら、僕は狙いを定める。
長居はいけない。時間を掛ければ掛けるほど、この場は不利になる……そう予感した。
京子に向けて急降下。だが、彼女の両側にある新しい土が掘り起こされて、追加で五、六人の京子が現れて、ギラついた視線を僕に向けてくる。囲まれた――。そう理解するが、僕は他の京子に対しては完全に無視するつもりだった。何故なら――。
「レェイくんびゅらぁ!?」
嬉々として襲いかかってくる京子の首や腕が、奇声と一緒に宙を舞う。背後には、頼もしくも恐ろしい奴がいた。
「……レイに、触らないで」
フンスと鼻を鳴らしながら、怪物が祈るような仕草をする。両肩から生えた血染めの鎌が不気味に伸び縮みし、オレンジ色の蜂翼が大気を震わせた。
「ありがとう!」
礼もそこそこに、僕は京子の死体を踏み越えて、核の彼女を追跡する。菌糸が身体のあちこちから伸びているから、実に見分けやすい。
「京子ぉ!」
「そんな情熱的に呼ばないで――よっ!」
顔を恍惚に歪めながら、彼女はバックステップを繰り返しながら腕を振るう。
すると、千切れた菌糸が矢のように僕の方へ飛んできた。僕はそれらを糸で絡め取り、わきに打ち捨てながら更に進む。地面に落ちたそれは、ぐねぐねと蠢いていたが、これも無視。数秒後、「ぺげっ!」という悲鳴と一緒に、濡れた雑巾を叩きつけたような音がした。
「……狙うのは、あたし一人?」
「当然!」
余計な京子は、怪物が相手取ってくれる。だから僕は、その多対一の戦況を終わらせるべく、核を叩くのに集中した。
鉤爪を水平に振り抜く。だが、それは京子の前に再び出現した、巨大な茸の柱に受け止められてしまった。
「ぐっ――!」
「ざんねぇん。ほぉら! 頑張れ頑張れー」
気の抜けるような掛け声をかけながら、柱の影から飛び出した京子は再び菌糸を伸ばしつつ……。突然、それらは槍のように鋭く硬化て、ギラついた先端が僕の方へ突きだされた。
「――っと!」
「あらん? 完璧に刺したと思ったけど……」
「勘がいいんだよ!」
紙一重で身をかわし、そのまま反撃。鉤爪による逆水平チョップは京子の胸板を強かに打ち、恐らくは鎖骨を叩き折った。
手応えあり。怯んだならそのまま片手で心臓を抉り出す――!
そうしようとした瞬間、不意にうなじがざわついて、僕は衝動的に地面を蹴る。
距離を取れ。直感はそう囁いた。だが――直後にその距離とは、思っていた以上に遠くだったと、僕はすぐに実感することになる。
空を飛ぶ僕が自分のすぐ上を見上げれば……。
京子の雨が降ってきたのだ。
「う――、おおぉ!?」
どうなってる!? と、混乱する頭を何とか冷やし、僕はがむしゃらに翼を羽ばたかせた。
上から落ちてきた京子達はめいいっぱい両手を広げ、僕に組みつかんとしてくる。それらを鉤爪で弾き、必死に避ける最中で、僕の身体は京子の返り血でべっとりと染められていった。
「く……そ……っ!」
ムカムカするようなおぞましさに、僕は顔をしかめる。まるで血液そのものにも意志があるかのような気配だった。多分これは、撒き散らされる胞子と同じなのかもしれない。そこには悪意と……京子自身の息遣いが聞こえるようで……。
「――っ、んっ、ぐ……」
あまりの異臭に僕は噎せ込んだ。京子の雨は、どうにかしのぎきれた。
ようやくクリアになった視界で周りを見渡せば、僕らから少し離れた校庭のすみに、矢倉のような巨大茸が生えている。その上に、京子がたくさん佇んでいて、組体操を思わせる陣形を取っていた。
「……冗談、だろ?」
それらが意味するものを超直感で把握した僕は、彼女のぶっとんだ思考回路に身震いする。
京子が断行したのは文字通りの人間砲弾。破天荒なやり方に見えるが、さっさと核を仕留めたい僕らにとっては、この上なく厄介な戦術だった。
誰が想像できようか。
打ち込んできた砲弾が、そのまま兵士を産む苗床になるだなんて。
「……うわ」
眼下の光景に、気がつけば呻くような声がもれる。
僕によけられ、弾き返された京子達は次々と地面に叩きつけられ、不気味なオブジェとなり積み上げられていた。
それはやがておぞましい音を立てながら絡み合い、カビ臭い白い胞子を撒き散らしながら、肉の繊維で束ねた団子のように密集していく。
そして……。
「――レイ君」
「レイ君」
「あははっ、レイ君レイ君!」
「コッチ、キテ……」
「イイエ、いま、行くね……」
死体の山から手が伸びてくる。微笑みが、熱視線が僕に向けられて、やがて、一人、二人。動かぬ京子の腹を突き破り、新たな京子が誕生する。
真っ赤な裸身で僕を誘惑するように手招きする京子達。小悪魔を思わせる微笑に僕が戦慄していると、再び、バケツをひっくり返したような音が轟いた。
「邪魔……!」
血や臓物の嵐がその場で巻き起こる。生まれたての京子や、出来立ての苗床が全てただの肉塊に変えられる。その中心には身体を紅色で彩った、異形の少女が立っていた。――とても不機嫌そうな顔で。
「…………」
無言で僕らは見つめ合う。何でコイツばっかり構うの? そんな声が聞こえたような気がして、僕はつい、誤解だと首を横に振ろうとして……再び、うなじが危機感にざわついた。
「イチャイチャ――、してんじゃないわよぉお!」
怒号が響き渡り、地面や空から。再び京子達が僕らに殺到する。
さっきとは比べ物にならない数だった。しかも、怪物が潰した筈の死体らも、まだ蠢いている。
「レイ君――! 溺れちゃえぇえ!!」
逃げて! そう怪物に叫ぼうとした矢先、翼や肩に、飛んで来た京子が飛び付いてきた。かぷかぷかぷと、肌という肌に歯を立てられ、ぬるついた血や粘液まみれの肢体が僕に絡みつけられていく。
重さは増していく、怪物の馬力を持ってしてもそれは耐えうる筈もなく、僕は地面に叩きつけられた。
「――っ! レイッ!」
悲痛な怪物の声が響く。蜘蛛の脚を。蟷螂の鎌を。蜂の槍を駆使して、彼女は僕を助け出そうと走り出す。だが、数で勝る京子達が、それを許す筈もなかった。
「通すわけないでしょお!? バァカ!」
肉のスクラムを組んだ京子達が、怪物に覆い被さるのを最後に、僕の視界は赤と肌色に埋め尽くされた。
生暖かい息と、湿った感触が全身を包み込み。京子の嘲笑が四方八方から聞こえてくる。
「捕まえた」
「捕まえちゃった」
「噛んじゃお」
「舐めちゃえ」
「苗床にしてあげるねぇ……」
ソプラノが耳障りで、僕は目を閉じる。
噛まれたり。少し菌糸が僕の身体をヌラヌラとなぞっていた。だが、そんな中でも僕の心は冬の湖のように静かだった。
京子は怖い。……〝怖かった〟
けど、今は違う。天敵。そう認識した時、僕の感情はどこまでも彼女に対する耐性をつけていた。
それ以上の恐怖を、僕はもう知っている。
失う怖さを。大切なものに手をかける怖さを。喉を満たす、柔らかい血肉の感触を。……あれに比べたら、こんなのが怖くなるなんてありえない。
そう心が決まった時。僕の中には燃えるような感情が広がっていく。
「レイ君?」
「お~い。無反応?」
「面白くなぁい。そんなんじゃモテないよ?」
「ほらほらぁ、触っていいよ?」
血と花とカビの臭いが煩わしい。誘惑するような猫撫で声が耳障りだ。何より……。
感覚を研ぎ澄ます。少し離れたところで、怪物の怒りが爆発しているのがわかった。
触るな――! 触れるな――! 私にも……、レイにも!
彼女は抵抗していた。組み伏せられていて尚、京子を少しずつ殺している。それくらいは出来てしまうのだ。彼女は今や、全身を凶器に変えれるのだから。
けど――。それでも僕にとっては、愛おしい存在なのは変わりない。
「生意気ぃ」
「どうする?」
「どうしよ?」
「……茸だしさぁ。コイツともいけるんじゃない?」
「あんた天才!? あ、あたしか」
「OK。じゃあ……レイ君共々、あたしを孕んで貰いましょ」
「夫婦で作った苗床……! 凄いわ! 滾る! 芸術的じゃない!」
再び、あの芸術家気取りが吠えている。
理解不能な、本人は芸術と言い張る悪意を、撒き散らそうとして……また、僕から大切なものを奪おうとしているのだ。
「――っ!」
ガチリと、奥歯が軋む。
煮えたぎるようなそれを……、僕はもう知っている。
『落ち着きなさい』
囁くような、女の声と一緒に、感情が流れてくる。思考は冷たく。けど心は炎のように。そうやって、自分の怪物を飼い慣らせ。
僕を恐怖させた女はそう助言した。
拳を握り、深呼吸。
集中。集中。集中。と、自分に言いきかせる。
同時に、過去の因縁が僕の中でよみがえってきた。
思い出せ。かつて僕から親友を奪い取ったのは誰だ?
寂しがり屋の梟をなぶり殺しにしたのは、誰だ?
誰だ? 僕の……!
感情が炸裂するその瞬間。閉じた瞼の裏には、彼岸花が咲き乱れる夜の樹海が。僕の内的世界が広がっていた。
幻覚か、白昼夢か。ただ、何となく分かったのはそれが合図なのだということだった。
誰かの精神に手を伸ばすなら、まずは自分自身と向き合うこと。それを忘れないために、僕はこれから精神操作を奮う度に、ここを思い出すのだ。
ゆっくりと、顔を上げる。紅い死人花を内包した樹海には劇場の舞台を思わせる窪地がある。そこだけは木々の天蓋が存在せず、星が煌めく夜空が広がっていた。
月の光は、まるでスポットライトが当てられるかのよう。その中心には金髪の美女が……エリザが立っていた。
『…………準備はいいかしら?』
蕩けるような微笑を浮かべながら、エリザは僕に手をさしのべる。
それは、恋い焦がれた男と夜遊びに向かう町娘にも。
悪戯を思い付いた子どものようにも見えた。
視界が現実に戻る。そこでゆっくりと目を開ければ……。京子達が僅かに怯んだのを感じた。
警戒。
疑惑。
好奇心。
ありとあらゆる感情を感じ取る。それでいい。もっと皆で僕を見るといい。それが君の破滅に繋がるのだ。
君が芸術家? 笑わせるな……! そんな安っぽい存在が――。
「僕の奥さんに……、手を出すな!」
人生でもなかなかない、大声を出す。
それは確かに、京子達の心を揺さぶって――。
刹那――、僕を覆い隠していた京子達が風船みたいな音を立てて弾け飛んだ。
血の洪水が起こる。その中で僕がゆっくりと立ち上がれば、辺りは血の海と、今まさに怪物に群がる京子の山。
そして、唖然とした顔で僕を見る、京子の核だった。
「…………は?」
流石に予想外だったのか、京子は目を丸くする。驚いてる今なら出来るだろうかと思い、彼女の精神に手を伸ばすが、そこは京子もさるもの。あっという間に平静を取り戻してしまう。直感が否定する。今の彼女は、丸め込めない。その辺にいる、劣化コピーの京子達とは文字通り格が違うのだ。
「何を、したの?」
「いちいち教えてやる義理はないよ」
ちょっとした、反則技。そう心の中で呟きつつ、僕は片手を鉤爪に変え、怪物を救出しようとし……。
ふと、そこが黒いタールの山になっているのに気がついた。
「――ちょ、それは止めろって……!」
「……関係、ないの」
慌て制止に入ろうとした時、タールがパチンと弾けた。すると中から息を荒げた怪物がフラつきながら起き上がった。
コホコホと、軽い咳をしている。胞子が舞う中、これだけの数の京子を溶かしたのだ。負担だってバカにならない筈なのに、怪物は己の身を抱き締めた。
「私は、レイのもの……」
あげないもん。そう囁いて、怪物は僕の方へ近づいてくる。
絶対に傍に。護る。それだけを心に、怪物は僕に寄り添った。
「…………っ、君は」
「やだ」
もう逃げて。そう言おうとすれば、怪物はすぐさまそう答える。頑として聞かない体勢を崩さない。鉤爪を構え、京子を睨み付けながら、「もう、あの人には負けられないんです……」と、怪物は唇を噛み締める。
その姿を見た時、僕は説得を諦めた。彼女には、ずっと助けられてきた。だから今度は……僕が。
「……腹立つなぁ」
密かに決意を固めていると、京子が吐き捨てるように呟いた。彼女の菌糸はうねうねと蠢き、絶えず胞子を吹き出していた。
早くしないと。直感がそう囁く。
手遅れになる前に。と、僕の身体が焦っているような……謎の薄ら寒さがあったのである。
そして……。嫌な予感は的中した。
「うん、夫婦苗床、やーめた。ありきたりすぎだもん。だから……」
猛禽類を思わせる目が、怪物に向けられる。
「弱ってるみたいだし、ソイツから殺すね。どんな芸術にするかは、死体にしてから考えるわ」
いつまで護っていられるかしら? そう言って京子は不気味に嗤った。




