88.蜂の一分
初めて出会った時の記憶は、今もはっきりと覚えている。
始まりは、人気のない寂れた郊外の公園だった。
「ねぇ、お兄さんは、こんなとこで何してるの?」
甘ったるい。そういう表現していい女の声がして、洋平は横を見る。
そこには柔らかそうなニットワンピースを着た十四、十五歳くらいの少女……、リリカが微笑を浮かべながら座っていた。
「隣、失礼してるわ。お兄さん、こんなとこで何してるの?」
不審そうな顔をする洋平に、リリカは取って付けたような断りをいれて、もう一度先程と同じ質問を繰り返す。
まるで通りすがりの小学生が、捨て犬に話し掛けるような口調と雰囲気がそこにはあった。
事実、それに似た動機だったのだろう。洋平はそう回想する。
まだ日の高い時刻に成人男性が一人、ワンカップを片手に黄昏ている様は、酷く滑稽に見えたに違いない。
そして……。当時、まるで脱け殻のようにして生きていた自分は、彼女にこう答えたのだ。
「俺は……何もしてない人さ」
正しく、あの時の自分は生きた屍だった。怪物ですらなかったのだ。それに真の意味で命を吹き込んだのは他でもない。当時は、しがない働き蜂に甘んじていたリリカだったのである――。
※
激痛と共に、視界が奪われる。
強烈な衝撃が、少しの間隔を置いて二撃。自分の頭部……正確には眼球を潰したと把握した時には、洋平の身体は地面に仰向けに倒れていた。
何が起きた? 洋平は真っ暗な中で身を震わせる。怪物としての慣れを持ってしても、気が狂い、のたうち回りたくなるような苦しみが洋平を襲う。ただ、同時にそれは、洋平自身をゆっくりと落ち着かせる要因とも相成った。
意識はある。
呼吸も出来る。どうやら、頭が吹き飛ばされた訳ではなさそうだ。……仮にそうなったとしたら、再生出来るのか。試した事はないので分からないが。
ただ、こうして思考が途切れていないということは、この謎めいた攻撃は、少なくとも怪物殺しの力を有している訳ではないらしい。……それだけが、辛うじて残された幸いだった。
「ぎっ……! が……!」
静かに深呼吸をしようとした瞬間、間近にいた災厄が牙を剥く。叩きつけるような衝撃と共に、果物が潰れるような音が、自分の身体から響いた。
視界を奪ったさっきの攻撃とは比べ物にならない痛みの嵐が、舐めるように洋平の全身を包み込み。洋平は顔面に吹き付けられる、熱い吐息を感じた。
「お・か・え・しぃ~……! いただきま――べげぇ!?」
興奮しきった羆の声が、耳を抉ったかと思えば、それはすぐさまカエルのような汚い悲鳴に変わる。
何か巨大なものが転がされ、小規模な地鳴りが肌を揺さぶって……。直後、洋平は甘ったるい香りと不思議な浮遊感に包まれた。
「しっかりしなさい、洋平。しっかり……。ねぇ!」
運ばれているのだけが何となく分かるなかで、震えるような声か耳に届く。間違えようもない。リリカのものだった。
「すま……な……」
「いいから、もうしゃべらないで。後は私がやるわ。いいわね?」
有無を言わせぬ声に、洋平は「待て……」と引き留めようとする。謎の攻撃の正体が、まだ掴めていない。
そんな場所にリリカを向かわせるなんて、洋平には容認できる筈もなかった。
だが、悲しいかな。彼の両腕は、もはや動かすことは不可能となっていた。
「……貴方はいつも、私の為に未知の敵に立ち向かっていく。私が前の女王を引きずり降ろした時も。強襲部隊や、他の怪物達と衝突した時だって……。誰よりも戦い、怪我をするのは貴方だったわ」
何かを堪えるようにリリカは語る。柔らかい唇の感触が額に押し当てられて。洋平の身体が冷たい大地へ横たえられる。
「リリ……カ……」
「安心して。貴方の女王が、こんなところでやられる訳ないでしょう?」
羽音が遠ざかっていく。
絶望が近づいていく。
まただ。洋平の中で、悪夢の記憶が蘇る。〝もう二度と〟そう誓ったのだ。どんなにことがあろうとも、彼女だけは……。
「リリカ……!」
熱が身体を駆け巡る。意志は挫けていない。身体はまだ動かせる筈。
岩がぶつかり合うような響きと、糸がミシンで紡がれていくような音が、絶えず洋平の中で反復する。
遠くからは、羆の怒声と、リリカの羽音だけが聞こえてくる。あの未知の攻撃は……やはり行われているのだろうか?
治せ……! もっと早く……! まずは片手を。目に未だに残るこの異物を引きずり出したら、身体を……!
急くように洋平は自分の身体に鞭を震う。
脳髄の奥で、稲妻にも似た轟きが巻き起こっていた。まるで再生の酷使を警告するかのようなそれに、洋平は死神の気配を感じた。
これ以上は、お前が死ぬぞ。
そんな本能の囁きが聞こえるが、今の洋平に対して、その制止は何の意味もない。
彼にとっては、ここで動かないことこそ、死ぬことと同義だった。
「治れ……! 治れ……! 治れ治れ治れ治れ治れぇ……!」
鈍く骨と外殻が軋みを上げる。左腕修復。間髪入れずに片目を抉りだし、目玉の再生に尽力する。
――見えた。
「おお……! おおおおぉ……!」
呻くような声を上げ、洋平は翼を広げる。ようやく取り戻した視界に映る自分は、控えめに言っても随分と酷い有り様だった。
腕が一本修復できただけ御の字。羆の圧倒的パワーは伊達ではなかったのである。
制御不能な力は、巨漢の体重をも加えられて、倒れた洋平に容赦なく振るわれていた。
右腕と下半身は無惨にも完全に潰されている。羆の爪による複雑な破壊は、再生をより困難なものとしていた。全部を治すのには、相当な時間がかかるだろう。
「やむを得んな」
再生箇所を、飛行能力に支障をきたさぬ部分に限定。以降は腕と羽で戦うより他にない。自分は蜂だ。羽と針があるならば戦える。
「あうっ!」
遠くでリリカの悲鳴が上がる。再び訪れた謎の攻撃が、今度はリリカの両目を撃ち抜いたのだ。
「貰ったわぁああ!」
片腕を振り上げる羆。最高の援護を受けた彼女は、思う存分に力を震うことが出来る。悪夢というに相応しい、かつてない脅威がそこには存在していた。それでも……。
「させるかぁ!」
片腕で、地面を打ち、洋平は飛翔する。
敵の腕に体当たりではパワー負けは必至。矢のような速さでリリカの元にたどり着きそう判断した洋平は、リリカの襟首を掴み、全力でその場から距離を取る。
羆の爪が地面を抉り取った。回避は成功。だが、安堵する暇もなく、洋平は翼の付け根が怪音を立てるのを耳にした。
「ぬ……ぐ?」
「ちょっと洋平! 何で来ちゃった……きゃあ!?」
再びの襲撃。確かめようのない見えない攻撃は、洋平の翼を引き裂き、二人は地面に墜落した。
「つ……」
「なんなのよ……さっきから……! 死にはしないけど、絶妙にうざったい……!」
洋平と同じように両目を抉り出し、悪態をつくリリカ。その傍らで千切れた羽を再生しながら、洋平は無数のパズルを組み上げるようにして、その答えを弾き出した。
「狙撃手だ」
「え……?」
「間違いない。何処か遠くから、俺達を狙撃している奴がいる。何故怪物殺しの銃弾を使わないのかはわからんが……」
「いやいやいや! あり得ないわよ。敵の目玉を都合四回狙撃して、羽の付け根にも命中させるなんて、人間技じゃ……っと!」
会話の暇を与えずに、地響きを鳴らしながら羆が突進してくる。間一髪、それに反応したリリカが洋平を抱きかかえ、斜め方向へ飛ぶ。
「反転しろ!」
鋭い声にリリカはとっさに対応する。誰よりも信じる男の声だからこその高速反応。結果、それは事態を敗北から五分五分にまで持ち込んだ。
「……意味わからないわ。本当に狙撃だなんて……」
貫通した頬を撫でながら、リリカは身震いする。身体を動かさなければ、柔らかい虫の羽を撃ち抜かれ、地面に引き戻されていたことだろう。
洋平の背中を冷や汗が濡らしていく。沸き上がるような寒気は、姿見えぬ殺戮者への恐怖だった。
「リリカ、飛び回るぞ。とにかくジグザグにだ」
「了解。無理しないでね」
狙い撃ちを避けるために、洋平とリリカはジクザクに飛びながら、熊の回りを旋回する。
「……ねぇ、今から貴方だけでも逃げて、その間に私が狙撃手を探せば……」
「ダメだ。それでは意味がない。本来ならば真っ先にそうするが、俺達の立場は……それが出来ん」
狙撃手を探す為にここを離れるのは、レイ達の言いつけに背く事になる。女王の機嫌を損ねれば、自分達に未来はないし、何より、残った羆はライフラインであるレイ達に襲いかかるだろう。それは避けねばならない。
二人ならば、羆を倒せる。だが、攻撃に転じて、動きが定まった一瞬に狙撃が入れば……。
敵の腕前からして、有り得ない話ではない。そこからもたらされる羆の一撃は、確実に自分達を葬るだろう。
動かぬ自分の身体がもどかしい。せめてもう少し身体が万全か、もう一人仲間がいれば……。
「仲、間……」
そこまで考えた洋平の脳裏に電撃が走った。
敵を分析し、策を組み上げる。
狙撃手が自分の想像通りならば……。
「……いける」
ガチリと、歯車が噛み合った。残る問題は、自分の体力が持ってくれるか。
「……愚問だな」
「洋平? どうしたの?」
ほくそ笑む横で、リリカが不安げに問いかける。美しい顔を今一度脳裏に焼き付けながら、洋平は静かに口を開いた。
「リリカ、聞いてくれ。作戦がある。……時間はかかるが、確実な作戦だ」
「……貴方が犠牲にならない作戦なら、飲むわ」
震えながらそう言い切るリリカに、洋平は思わず破顔する。片腕が動くなら、しっかり抱き締めて、その柔らかい髪を撫でてやりたかった。
「犠牲になるつもりはない。結局これは、俺達の体力が持つかが問題なんだ。君は大丈夫だろうが、俺は俺自身と戦わねばならない」
崩れかけた身体に、リリカの視線が向けられる。「お願いだから逃げて」そう口にしたい気持ちがひしひしと伝わってくる。だが、洋平はそれを言わせる訳にはいかなかった。
この場に彼女を置いていくとは、羆と狙撃手を全て彼女に押し付けるのと同義。それは看過できない。
だからこそ、洋平は彼女を安心させねばならなかった。
「以前の俺ならば、自分自身に勝てなかっただろう。けど俺は君に会って強くなった。大丈夫さ。終わった後には疲れきって、暫くは使い物にならなくなるかもしれんがな」
「……絶対、負けない?」
念を押すように洋平を見つめてくるリリカ。それに対して洋平は、迷うことなく頷いた。
「負けないさ。君を一人にしたら、あのクソ女王から誰が君を守る? だから、君がいつか素敵な番を見つけるまで……俺は死ぬつもりはない」
その途端、潤んでいたリリカの瞳が、一瞬で乾き、美しい少女の顔はたちまち能面のような無表情になる。
そのあまりの変貌ぶりにおや? と、洋平が首をかしげていると、リリカはガックリと肩を落としながら、目に見えて膨れっ面になった。
「リリカ?」
「なんでもないっ! ええ、そうでしょうとも! 貴方は私のものだもの! 許可なく死ねると思わないことね!」
鈍感野郎! と悪態をつくリリカはペチペチと洋平の頬を叩く。
「さぁ、聞かせなさい! ヘボい作戦だったら踏んづけてやるんだから!」
勝ち気な瞳が輝いた。さながら悪戯を計画する子どものようなそれに妙な郷愁を感じながらも、洋平は同じように笑みを浮かべる。
「ああ、まずは……」
そうして、生存を賭けた蜂達の反撃が始まった。
※
「…………膠着、かしら。まぁいいけれど」
遠く離れた場所からスコープを覗き込みながら、竜崎沙耶は何度目かになる深呼吸をした。
止血したとはいえ、腕を丸々一本もがれているのだ。常人ならば気を失ってもおかしくない状況で彼女がこうして正気を保っているのは、鍛え上げられた肉体は勿論のこと、ひとえに彼女の驚異的な精神力が下地となっていた。
大丈夫だ。血の気は元々多い。多少排出されて、今は冷静だ。自己催眠と薬物の併せ技で今は痛みも感じない。
まだ戦える。まだまだ……異形を狩ることが出来る……!
フゥフゥと、獣にも似た呼吸を繰り返しながら、沙耶は唇を舌で濡らす。
蜂の二匹は、狙撃を恐れているらしく、羆……宗像明美の周囲を未だに飛び回っている。
明美本人は焦れたように爪を振り回しているが、あれに関しては放っておく。素では彼女は蜂達にやられてしまうのだ。だからこそ、狙撃のバックアップの元で暴れることが本領だった。
そうなると、あんな戦法を取っている蜂達の真意は?
負傷した雄の蜂が回復するのを待っている? あり得るが、効率が悪そうだ。事実、雄の蜂は未だにフラフラ。明らかに瀕死である。あれではもう戦えないだろう。
ならば、時間稼ぎか。具体的には? 遠坂黎真が茸の怪物らを倒してくれるまで粘る為に? それもまた現実的ではない。
「……何が狙いなの? まさか、打つ手がなくて未だに考えているとか?」
正直、どちらか片方が狙撃手である自分を探しに来る可能性もあった。だが、そうなったとしたら彼女は残った片方を明美と共に倒し、逃げればいいだけの話。
この場所は戦地からかなり離れている。いかに蜂とはいえ、あの場から探すのは不可能だ。
「……ま、いいわね」
ごちゃごちゃ考えるよりは、死体にした方がよさそうだ。そう判断した沙耶は、再びスコープを覗き込む。
飛び回るのは結構。ならば自分は動きを先読みし、ちょうど柔らかい虫の羽が来そうな位置に弾丸を放てばいいだけのこと。
何度か試行を重ねれば、そのうち当たるだろう。じっくりせめて……。
「こんばんは。木の上から狙撃だなんて。なかなかにとんでもない人なんですね」
その時だ。すぐ近くから鈴を鳴らすような女の声がして。
沙耶は反射的にホルスターからナイフを引き抜いた。
声のした方へ投擲しつつ、もう一本を取り出す。ナイフが飛んでいった先には誰もいなくて……。
「下ですよ」
予想だにしない位置から再び声がして、身体を動かすが、その時彼女は、すぐ目の前を黒い影が上昇していったのを捉えていた。
「――フッ!」
「――っと、危ない。貴女が万全だったらと思うとゾッとしますね」
フェイント。下から驚異的なスピードで跳躍し、上から襲いかかる。そんな相手の芸当を読み切り、見事に手持ちのナイフで対応してみせた沙耶ではあったが、それもついに限界を迎えた。
視界が銀色に染め上げられて。
気がつけば、沙耶は全身を蜘蛛糸まみれにされた挙げ句、手足を拘束された状態で地面に引き倒された。
「どうも。森島の屋敷ではお世話になりました」
「唐沢、汐里……!」
「おやまぁ、名前まで知って頂けてるなんて意外でした。……私は貴女の名前なんて知りませんけど」
浅葱色の浴衣を身に纏った美女が、月下に佇んでいた。長い茶髪を優雅なギブソンタックに纏め、はんなりと微笑む様は、不思議な色気に満ちていて……。だが、その穏やかな立ち振舞いとは裏腹に、目だけは虚ろな光をギラつかせている。
唐沢汐里。強襲部隊が標的としていた怪物の一人が、そこにいた。
「何故……」
「ここに? と? そうですね。当初は私、戦いに参入するつもりはありませんでした。こう見えて、身も心もとっても弱ってまして」
そう語りながら、汐里は手を振るう。スナイパーライフルが再起不能なまでに破壊され、隠し持っていたナイフも全て没収された。
「なので、まぁ松井英明が持ち込んだ研究資料をダメ元で漁り、後はさっさと帰るつもりだったのですが……救援の依頼が飛んで来ましてね」
「救援……ですって? そんな素振りは……っ!?」
なかった筈だ。そう言いかけた時、沙耶は見た。唐沢汐里の周囲を……小さな蜂が飛び回っているのを。
「この森は、来たばかりの頃は異様に蜘蛛がいましたが、今は静かなものでして。貴女を探すのには、そこまで時間がかからなかったとか」
長い指を伸ばして蜂をつつきながら、汐里はすぐ近くの茂みに目を向ける。現れたのは、大きなハスキー犬だった。
「俺は蜂として完全な覚醒をまだ果たしちゃいない。だから蜂を動かすことは出来ないが、蜂としてのライフスタイルは身に付いてしまってる」
心なしか苦々しげにハスキー犬は語る。その肩にもまた、蜂が止まっていた。
「原種ではない我々では、使役する虫の言葉は理解できません。ですが、ただ虫を追いかけては、貴方ほどの相手なら、ある程度近づけば存在を気取られる可能性がある。ので、私達は何としてもピンポイントの位置情報が欲しかったのですよ」
この辺は蜂と蜘蛛の違いですね。と、汐里は感心したように唇に指を触れ。ゆっくりと、滑らかに指を動かした。
「ミツバチのダンスをご存知ですか?、動物行動学者であるカール・フォン・フリッシュが発見したものでして。簡単に説明すると、ミツバチが仲間の蜂に新しく見付けた餌の場所を教えるために、コロニー内で行う独特の動きのことです」
八の字ダンスとも言います。お尻の振り方が可愛いんですよ。と、補足しながら汐里は動かした指を月に翳す。
「本来は餌……つまり花の蜜ですね。それがある場所と太陽が計算式に必要なんですが、そこは怪物らしく、常識に囚われなかったという事ですか。ともかく、このダンスは踊った地点からの角度と距離を……すなわち正確な座標を弾き出す事が出来るのです。様々な伝達手段を有する生物は数あれど、ここまで計算された美しい式を紡げるのは、蜂くらいのものでしょうね」
フワリと、汐里は沙耶の傍に腰を下ろす。嗜虐的な色を帯びた光をその瞳に見た沙耶は、観念したかのように息を吐く。
「殺すなり、辱しめるなり好きにしなさい」
「……そんな勿体ないことはしませんよ。同じ女ですから。ただ……私は知りたいのです。貴女が強襲部隊として暗闘を繰り返してきた末に出来た……秘密の隠し場所を、ね」
艶やかな唇が迫ってくると同時に白魚のような手が沙耶の目を覆い隠す。
やがて、首筋にこそばゆい感覚が湧き上がり……。それっきり、竜崎沙耶の意識は消失した。
※
出会って以来、洋平は公園で黄昏て。その隣にリリカが陣取るという日常はしばらく続いていた。
二人は名乗り合うこともせず、ただ隣にあるだけ。故にリリカの素性を知るよしもない洋平は、ある日こう尋ねたのだ。
「学校とかは、ないのか?」
「行ってないわ」
「いけないな。後から行きたいと思っても行けない所だぞ。若いなら行っておけ。何を得られるかは当人次第だが、求めれば与えられる。そんな公算が高い世界だ」
「知らないわ。生憎と私は、そんなお行儀いい世界では生きていけないように出来てるの」
「そうか。……跳ねっ返りも微笑ましいが、後悔のないようにな」
難しい年頃なのだろう。このくらいの歳の女の子なら尚更だ。
一年程前の暖かな記憶を引っ張りだしながら、洋平は苦笑いする。
〝あの子〟と同じくらいか。そんな事を考えた途端、洋平の胸が酷く締め付けられた。自分の傷は、まだ癒えていないらしい。
「なにもしてないって言ってたよね。お兄さんこそ、お仕事ないの?」
「…………ああ、一年くらい前にな。辞めてしまった」
「どうして?」
「もう意味がないからだ」
「……どうして?」
「……何もかも、なくなってしまったからさ」
あるのは自分の命だけ。それすらも、もう使い道を見出だせなかった。
「何の仕事してたの?」
「……君にわかるかなぁ」
「見くびらないでよ」
「潜水士としてな。海上保安庁に勤めていた」
「……海の警察さん?」
「……まぁ、似たようなとこだ」
肩を竦める洋平。対するリリカはキラキラと顔を輝かせていた。
「凄いわ! じゃあ、貴方、とっても強いのね!」
「……強いものか。俺は……何も出来なかったよ」
遠くを見つめる洋平の顔を、何で何で~? と、リリカは覗き込む。時折腕の筋肉の硬さを確かめるように遠慮なくボディタッチを繰り返すリリカをやんわり制止しながら、洋平は項垂れた。
そう、何も出来なかったのだ。転覆した旅客船から、最愛の妻と娘を助け出せなかった。無能でノロマな情けない男だよ。そんな自虐の言葉を飲み込んで。彼はただ、下を向いていた。
「何も出来ない、ね。……じゃあこのまま、お酒だけ飲んで朽ちていく気?」
「君には関係ない。いいからほっといてく……」
「質問に答えて!」
「……そうだな。それもまたいいかもしれん」
投げやり気味に洋平はそう答える。隠しようもない本心。だが、それが彼の運命を決定付けた。
「そうなの。それじゃあ、道端で腐ってるお兄さん。貴方の残された人生、私が頂いても構わないわね?」
「…………は?」
胸に、槍を穿ち込まれた。人間だった洋平が覚えていたのはそれまでだ。
以来、洋平はリリカと共にある。
どうしてそうなった。と、端から見る者には笑われるだろう。だが、その実、洋平にとっては、その強引さが救いだった。
道徳や良心。悔恨や絶望。果ては罪も罰もまとめて飲み込み、膝まずかせる傍若無人な。だが、誰よりも自分の愛した者達を守ろうとする女王様。彼女は洋平にこう望んだのだ。
「傍にいて。守って欲しい。貴方の力が必要なの」
家族を守れなかった後悔か。はたまた、意味のある死を求めてか。自分の事ながらそれは分からない。ただ……。女王の懇願は、人生をドロップアウトしかけていた男には、この上なく覿面だったのである。
そして……。
男は今、その誓いを果たし終えた所だった。
「やった……。勝ったわ。ねぇ、洋平、見えるでしょう? 狙撃手は無力化。それがいない熊なんて、私達の敵ではなかったのよ……!」
「……ああ」
血の臭いが充満した校庭のすみに、二人はいた。目の前には、全身を滅多刺しにされ、物言わぬ骸と化した羆が一体転がっていた。
「てか、強襲部隊の隊長と、パワーファイターを討ち取ったのよ? もう充分よね? レイも私達に泣きながら感謝するに決まってるわ!」
「ああ、……そう、だな」
満身創痍の洋平は、いつかのようにリリカの膝を枕にその身を横たえていた。肉体は未だに再生せずに。だが、唯一動く片腕を必死に動かして。それはやがて、リリカの幼い頬へとたどり着いた。
「洋、平……?」
「ありがとう。リリカ。嬉しかった……あの時君は、俺に生き甲斐をくれたんだ」
リリカが息を飲む気配に、少しだけ洋平は申し訳なくなる。酷く、眠たかった。果たして次に目を覚ます事があるのか。それが本当に分からないので、彼は改めて。いつも心に想っていたことをはっきりと口にする。
「今まで、ありがとう……リリカ。君が、俺の主でよかった。……君の傍で生きていけて、俺は、幸せだった……」
銀色の雫が数滴、洋平の頬に落ちてくる。震えた小さな手が、しっかりと洋平の手を包み込み、真っ暗になりはじめた視界の中で押し殺すような嗚咽が聞こえてくる。
「バカァ……! だった。じゃ、ないでしょ……! これからも、よ……! 死ぬみたいに言うんじゃないわよ……!」
鼻をすすり上げる音がして、リリカの額が洋平の手に押し当てられる。暖かさを共有し合う中で、洋平は穏やかな心地よさに身をゆだねた。
弱音等は吐かない。最後まで、リリカがリリカでいてくれた事を感謝しつつ。彼の呼吸が弱くなっていく。
「ありがとう……洋平。ずっと、ずっと守ってくれて……! 多分気づいてなかったでしょ? 私、番なんかいらないの……。私ね。貴方の事…………」
世界から音が消えていく中で、女王の座を追われた少女の声は確かに洋平に届いていた。
それは他ならぬ。彼の為だけにもたらされた福音だった。




