87.蜂と熊と人間
熊が発する特有の体臭に顔をしかめながら、洋平は目の前敵を見据えていた。
名前など知らぬ。だが強襲部隊との戦いで何度か見かけた女の顔だった。
「……因縁といえば因縁なんだがなぁ」
浅く息を吐き出しながら、洋平は蜂の手槍を構え、リリカを然り気無く後ろへ導く。「むー」という、不満げな可愛らしい唸りは聴こえないフリをして、洋平は一歩前に出た。
「……お前に、怪我をさせる訳にはいかん」
「酷いわね。私がテディベアごときにやられると思ってるの?」
「そうじゃないさ。ただ……」
げしげしと、後ろから軽めに脹ら脛が蹴り飛ばされる。あまり痛くない抗議を甘んじて受けながらも、洋平はチラリと、自分等が背中を預ける羽目になった蜘蛛の夫婦を確認する。
援軍は……期待できるか分からない。向こうは何やら因縁がある様子。こっちはこっちで生き延びて。かつ、あの二人と共にこの地を脱出する必要があるのだが……。
「次にいつ蜜を貰えるかわからん。クソ女王の気が変わるかもしれんのだ。力は節約した方がいい」
「なら尚更、二人でさっさとあの熊を叩けばいいじゃない」
「それも然りだ。だがリリカ。よく考えろ。この場で数多くいる筈の強襲部隊の中で、何故あの熊が出てきた? 俺達が脚をもぎ、毒で無力化した筈の奴等が」
「……それは」
謎かけめいた問答に、リリカは軽く首を傾げるが、やがてすぐ、ハッとしたかのように息を飲んだ。
「……誰かが、回復させて助け出した?」
「そういうことだ。俺達があの熊に気を取られたところで、後ろから不意討ちをかまそうと目論んでいる奴がいるんだよ。すぐ近くにな」
一緒にいた長髪の男は除外する。蜂の毒を受けた上に、手足を折られているのだ。まず動けはしないだろう。
真っ先に頭に浮かんだのは強襲部隊の隊長の女だ。あるいは、もう一人。蛇の怪物と共にいた、サングラスの男。このどちらかの仕業と見るべきか。
「リリカ。周囲を警戒してくれ。近くに潜む人間の気配なら察知できるだろう?」
「……それは、そうだけど」
リリカはそれでも唇をへの字に曲げている。明らかに不満な様子だった。
「君が俺を心配してくれるように、俺も君が心配なんだ。男として……少しは格好つけさせてくれ」
「でも……」
「俺の強さは君が認めてくれている。あんな熊に俺がやられると思うか?」
「……卑怯だわ、そんな言い方」
一際強く踵を蹴られてから、洋平の後ろにあった気配が遠ざかる。それを確認した洋平は短く安堵の息を吐くと、再び前を向いた。
数メートル先に立つ羆は、牙を剥き出しにして唸り声を上げている。真紅の瞳が、怪しい光を灯しながら洋平を見据えていた。
「……さて」
手槍を構え、肩の力を抜く。背中の布が弾け飛び、オレンジ色の羽を広げた洋平は、目を細めたまま戦闘体勢に移行した。
敵の力を再分析。
日本においては地上で最大にして最強を誇る羆の怪物。
怪物になってからまだ年を重ねていないのか、戦い慣れしていない様子が見受けられるが、それでも天性のタフネスと恵まれた力を持ち合わせた存在だった。
事実、この羆は過去に多くの同胞や、幹部にまでのしあがった個体を捩じ伏せている。
三メートル以上はある巨体から繰り出される攻撃は、どれも即死級。
特に爪の一撃だ。蜂の堅牢な外殻すら容易く砕いてしまうそれは、単純な破壊力ならばレイの鉤爪や蟷螂の怪物、斎藤の鎌を上回る。要回避。
ただ、脅威となる攻撃手段はこの一つのみ。突進や噛みつき攻撃を用いることもあるが、そこまで致命的なものではない。蜘蛛のように豊富な搦め手を使うことも皆無。総じてパワー重視の戦士である。
防御面。
平凡。硬い体毛と筋肉の鎧で覆われているため、打撃攻撃はそこまで効果はないものの、毒針の手槍による刺突は有効。ただ、身体のサイズが大きいため、毒の回りは悪い。
先の戦闘では開拓者によって著しく弱体化した所へ毒を打ち込んだ為に封じることが出来たが、今回はどうなるか不明。
何らかの手段を持って短時間で回復した事から、免疫力自体は非常に強いが、レイや女王のような毒に対する耐性を持ち合わせている訳ではないと推測される。
怪物としての再生能力は平均より低め。
加えてレイからの情報により、強襲部隊の怪物には山城京子の茸が植え付けられているため、この羆もまた理性を失い、正常な判断力が皆無である可能性が高い。
以上の点から導き出される戦術は。
「……いくぞ」
大地を蹴り、洋平は夜空に飛翔する。狙うは単純に相手の死角。爪も牙も届きようがない、うなじの部分だ。
人間としての思考を持ち合わせた時ならばともかく、理性がないただの獣ならば、空からの襲来に対応出来る訳がない。――筈だった。
「……む」
高速でジグザグ飛行しながらも背後に回り込み、空中から槍を振るおうとした洋平は、沸き立つような寒気に眉を潜めた。隙だらけではある。だが、そのわりに羆は地面に鼻面をつけ微動だにしない。目の前で男が空を走ったにも拘わらず、まるで身構えるかのように。
「…………いいだろう」
確かめるつもりで、洋平は敢えてその釣りに乗る。旋回し、奇襲の急降下からの槍による一点突破。その瞬間、校庭に硬質なものが擦れ合う異音が響いた。
やはりか。と、洋平は確信すると共にすぐさま次の行動へ頭を切り替える。
〝受け止められた〟上にもう片方の熊手によるカウンターブロー。これを洋平は冷静に身体を屈め、蜂の腹部を繰り出すことにより難なくいなす。
衝撃を殺し、空中で横回転。そのまま後ろに向けて地面を蹴り、距離を取るが、相手は休む暇を与えたくないらしい。
口から涎を撒き散らしながら、羆は猛烈な勢いでこちらに突進し、洋平の頭部目掛けて爪を振り上げた。
「……あまり舐めるなよ? お嬢さん」
当たれば確実に致命傷。だが、それを易々と受け入れる訳もなく、洋平は打開の道へ素早く入り込む。
狙うは頭部。羽によって身体を浮遊させつつ、遠慮なしに足で踏みつける。そのまま体重移動を加え、勢いを転用し、余分な圧をかけていく。さながら闘牛士のような翻弄の技。これには流石の羆も堪えきれずにバランスを崩し。結果、自滅に近い形で地面を横転する。
後に残るは吹き上がる小規模な土埃と地響きの音。
刹那的な攻防を終えた洋平はそのまま危うげもなく地面に着地した。
「まぁ、かすり傷にもならんだろうな」
苦々しげに洋平が舌を鳴らせば、その向こう側で羆は体についた汚れを落とすようにブルリと身震いする。してやられたと言いたげなその顔は、形は獣のそれでも、明らかに理性的な笑みを浮かべていた。
「…………おかしいですねぇ。大抵の蜂さんは、こうやってがーって一気に襲い掛かればぺしゃんこに出来たんですけど」
「残念。勢いだけで圧倒できるのは、一兵卒までと思うべきだな」
厳つい体躯には不釣り合いな、通りのよい女の声だった。
「いやいやいや。私、結構偉そうな蜂さんも倒せたんですよ? 貴方達、皆元は人間でしょう? 普通は熊が襲い掛かってきたら怯みますって」
「今までお前が対峙した奴等には通用したのだろう。だが……俺には効かない。それだけのことだ」
「えー」
有り得ない。と、首を振る羆。それを洋平は改めて観察する。茸は生えていない。レイの言っていた、B.Aとかいう意味不明な言語もなし。かわりに……。
「理性を、失っていないのか」
「……ほぇ? ああ、私達に埋め込まれてるやつですよね? さっき詳細聞いた時はビックリしましたよー。他の皆は軒並み狂っちゃったみたいですし。松井さんも凄いの作ったなぁ……って」
あっけらかんとした様子で答える羆の口元が醜く歪む。
さっきまでは気づかなかったが、そこの毛は赤黒く変色し、パキパキに固まっていた。何より鼻をつく微かな生臭さ。これは……。
「回復の為に喰ったのか。一緒に転がしていた強襲部隊の男を……」
「そのままじゃ餓死しかねなかったから、仕方ないんですよ。それに貴方、私の手足だけしか封じなかったんですもん。首と顎が動くなら、後は……ね?」
急速に熊の身体が霧に包まれていく。気がつけば、そこには妙齢の女性が、恥ずかしげに身をくねらせながら立っていた。
「前から、ちょっと気になっていたんですよ? 磯貝さん。筋肉と脂肪の度合いがちょうど半々で。……私はもう少しふっくら柔らかな方が好みですけど」
肉感的な凹凸を有した肢体を惜しげもなく晒しながら、女は自身の腹を優しく撫で付ける。ほんの僅かながらなだらかなカーブを描くそこに何がつまっているのか。それを軽く想像した洋平は、思わず口笛を吹いた。
「お互い怪物の身だ。人喰いに関してはどうとも思わんが……仮にも同僚だろう? 知人をあっさり喰う気持ちは……残念ながらわからんな」
「あら、そうなんです? まー、そこが私と貴方。ついでに、ジョンさん達との違いですかね~」
ニヘラと女は笑うと、静かにその手を空へと伸ばす。白い女の手が羆のそれに変わっていくのを見つめながら、洋平はこれ以上の分析を放棄した。感覚で分かる。彼女はその有り余るパワーを武器にすぐにでも襲い掛かってくる気なのだ。
「あの茸の特性は、常人を狂人に。犯罪予備軍を理性なき犯罪者にしてしまう。けど、元から壊れてる犯罪者には宿主に害を加えない限り、理性をそのままに適合する」
「……そんな話だったな。では、君は犯罪者とでも?」
「自覚はないんですけどね~。私……所謂人喰い熊の類いでして。こう見えて、強襲部隊に捕縛される前はニュースになった事もあるんです――よっ!」
得意気な顔のまま、女は此方に突っ込んで来る。爪の攻撃。単純な軌道ながら、少しでも擦れば腕を持ってかれない勢いは、素早くバックステップから左右にフットワークを繰り返した洋平のスーツの一端を、風圧だけで削り取った。
「いっぱい食べて、隠したんです。食べるのも好きですけど、私特に焼き肉が好きでして。色んな部位に見立てて、働いてたお店の網を使ってぇ……あ、ちょっと美食家っぽくないです?」
「君が悪趣味だというのは認めよう。我々蜂も人を笑えんが、君はそれに輪をかけて酷い――、な!」
「あははっ、凄ーい! お兄さん、多分今まで戦った蜂の中で、一番強いかもです!」
爪と針が幾度もぶつかりあう。いなしては、お互いの身体を切り裂き合う応酬の中で、女は羆と人間の姿を不定期に行き来していた。簡単でいて効果の高い撹乱戦法。変身のスピードが群を抜いている事を脳内のデータに追加。その傍らで、洋平は時折ヒビを入れられる蜂の外殻を最低限ながら修復しつつ、嵐のような攻勢を耐え忍ぶ。
何度か目の打ち合いでパワー負けし、腕が軋みを上げ始めるが、洋平の口元は笑っていた。
これくらいは大したことはない。
敵の性格は、大体把握した。本能に忠実で、素直な女性なのだろう。故に深く考えることもしない。だからこそ……やりやすい。
「自力で回復して、ここまで来たのか? またやられるとは思わなかったのか?」
「そうですよ~。てか、あの時はパンツのおっさんにビックリして不意を突かれただけですぅ~! だいたい、貴方こそ考えなしですか? 蜂が熊に勝てる訳ないでしょうが!」
六発目の激突で、ついに手槍が嫌な音を立てて破損する。
やむを得ず片手を庇い、後退する洋平。それを好機と見たのか、女は熊の姿に身体を切り替え、押し潰さんばかりの勢いで洋平に覆い被さった。
「ぐ……ぬ……!」
「あはっ、ゲットォ!」
レスリングもさながらに組み合う男と羆の力比べが始まった。端から見れば結果は一目瞭然だが、そこは異形の物同士。この段階において、両者は一歩も譲らずに力を均衡させていた。
「ほら、ほらほらほらぁ! 噛み噛みしちゃいますよー! 貴方、肩の筋肉が素敵ですね。私、腱の部分をしゃぶってコリコリ噛むの大好きなんですよ?」
洋平の身体が揺さぶられる。隙あらば頭から丸かじりにされそうになるのを何とか免れているのは、ひとえに洋平自身の、絶妙な体さばきの賜物だった。
力任せな押しや引きに合わせた、脱力と力の絞り出し。柳のように受け流したかと思えば、突然山のように不動となる。
幾多の戦闘を越えてきた技術を駆使して、洋平は今、単純に力負けしている筈の相手と、正面から渡り合っていた。
「っ、の……! もぉ~っ!」
捕らえたようで捕らえきれていない現状に流石に焦れが滲んできたのか、羆が苛立ちを孕んだ声を上げる。
上手く立ち回れない。敵が妙に冷静。戦闘という極限の状況の中で芽生えた様々な要因は、確実に羆を絡めとっていく。
大雑把になっていく動き。
次々と見え始める心の隙。
歴戦の勇士である洋平が、それを見逃す筈もなかった。
「熊に蜂が勝てる訳がない。と言ったな。――その通りだ」
「……は?」
心理的な揺さぶり。そうとは知らずに羆は対話に耳を傾けてしまう。それが洋平の策略だとは微塵も気づかずに。
「熊の体毛は硬く、蜂が束になろうとも絶対に敵わない。……それが本当に、蜂と熊であるならばだがな」
「何を……言って……?」
「自然界においては、最強や無敵は言葉遊びに過ぎない。天敵である蜂を相手に一歩も引かなかった男の言葉だ。お嬢さん。忘れてはいないかな? 俺達は蜂と熊。だが……人間としての特性をも持ち合わせた怪物なのだ。……枠に捕らわれるのは、よくないぞ?」
そう言って、洋平は羆が反論する暇すら与えずに攻撃に転じた。
まるで空気が抜けるような噴射音と共に洋平の口から何かが噴射され――。轟くような悲鳴が上がった。
「あ……ぎっ!? あ、ああああああああっ!?」
悶え、のたうち回る羆。それを無表情で眺めながら、洋平は自由になった両腕を蜂の槍に変える。
蜂の毒液噴射による目潰し。いかに身体が頑強でも、目という鍛えようもない部分を狙った奇襲攻撃は、完全に羆の力をもぎ取った。
「君はさっき、俺に一人で来たと教えてしまった。迂闊すぎたな。おかしいとは思わなかったのか。地上にいる君相手に何故俺が飛びながら戦わないのかを」
「え、ああ……え?」
訳もわからずふらつく羆の両肩に焼けつくような感覚が連続で走る。それが蜂の毒針だと気づいた時、羆の身体は火箸で引っ掻き回されたかのような痛みに苛まれた。
「簡単だ。近くからの銃撃がないならば、最も体力を節約出来る戦い方をすべきと判断した。飛ぶのは意外とエネルギーを使うからね。君のパワーは素晴らしいが、扱いきれていないのが見え見えだった」
続けて数撃。悲鳴を上げて横転する羆に、容赦なく針を打ち込んでいく。毒の回りが悪いなら、何度でもくらわせるまで。シンプルながら確実な方法を洋平が選択したとわかったのだろう。羆の表情に、明らかな怯えが走った。
「ま……、待って……」
懇願するような声に、洋平は目を細める。
「……王ならば、三度目までは見逃すと言っていたが。悪いな。俺はそこまで甘くなれん。だから……」
ここで――死ね。
暗にはそう告げずに、洋平は槍を突き出した。直後――。肉体の破壊される音が耳の奥で轟いて……。
彼の視界は真っ暗になった。
※
洋平の推測は概ね当たっていた。
怪物にとって致命的な開拓者の射程内に、羆――、宗像明美の味方はいなかった。
そもそもこの地に現存している開拓者は小野大輔が手に持つ一丁だけ。他は全て破壊されてしまっているのではあるが。
そして、明美が単体であの場所に来た。これもまた正解だった。
現在、強襲部隊はほぼ壊滅。動けるのはこの近辺にはいない桜塚龍馬と蛇の怪物、カイナ。そして――。
「腕がないのがもどかしいわね。今日はもう肉弾戦は出来そうもないし。コレの反動は痛いし、対怪物用じゃないから殺しきれない。……泣いちゃいそうだわ」
洋平の推測は概ね当たっていた。彼にとっての誤算は、その敵が現地から想像以上に離れた場所にいたこと。この一点に尽きた。
「血が足りないわ。……帰ったら、焼き肉ね。そうしましょ」
もう一人の生き残り。強襲部隊の隊長、竜崎沙耶はそう言って荒い息を整えるように深呼吸する。
満身創痍。今の彼女には、この表現が一番ふさわしい。
額には玉の汗が浮かび。片腕は失われ。道行く人が見惚れるであろう光沢のある長い黒髪や、端整な顔立ちは血と泥にまみて酷い有り様になっていた。
だが、それでも。その目だけは爛々と輝いている。さながら獲物を目の前にしたライオンのように。
「ゴミはゴミ箱に。援護しますよ宗像さん。相手は蜂ですから。熊らしく虐殺してくださいな」
セミオートマチック式のスナイパーライフルに寄り添い、沙耶は笑う。まだ自分は戦える。その悦びに酔いしれながら。
静かな狂気を身に秘めた美しい戦鬼は、更なる災厄を戦地に送り込むべく、スコープを覗き込んだ。




