86.適者生存
翼を広げ、音もなくこちらへ低空飛行してくる青年を、英明は歯軋りと共に睨み付けた。
落ち着け。大丈夫だ。仮に奴が忌々しい梟の力を継承したとして、そんなにすぐ使いこなせるものか。そもそも、精神操作は自分には効かないのである。先程思考を読み取られはしたが、あれは当てずっぽうに違いない。
認めがたいが、エリザは頭がよく回る。それによる予想がたまたま的中してしまったから。それだけのことだ。
「京子ォ!」
「……はいは~い」
命令一つで伴侶は動く。彼女と自分さえいれば……。
「……大丈夫って思ってるらしいけど、背中を預ける相手が間違ってることに、そろそろ気づいた方がいい」
青年の一言が、英明を凍りつかせる。
理解が追い付かなかった。何故そんな憐れみを込めた目で自分を見るのか。それよりも、また心を読まれたのは、一体どんなからくりか。
英明が混乱しながらも分析出来たのはそこまでだった。
背中にぴたりと小さな手が添えられたかと思えば、英明は背後から唐突に、前方へと押し出される。
「……は?」
間抜けな声が漏れた時、目の前で禍々しい鳥の鉤爪が開いていく。逃げる事も出来ず、文字通り全身を鷲掴みにされた英明は重力を無視した浮遊感の中で、己に致命的な一押しを下した張本人に目を向けた。
京子は……まるで昆虫でも観察するかのような暖かみの欠片もない視線を英明に向けて……。ただ嗤っていた。
「なん、……え?」
「あはっ、レイ君ナイスキャーッチ! ねぇねぇそこからどーするの? 潰しちゃう? たぶん無駄だよ?」
「……どうしてこんなことを。ってのは、聞くだけ野暮なんだろうね」
戸惑う英明を捕らえたまま、彼の心情を代弁するように、レイが京子に問いかける。すると彼女はクククと邪悪に笑いながら、ゆっくりと己の胸に手を当てた。
「ねーねー松井さん? あたしね。培養を覚えたよ?」
「……は?」
脈絡のない京子の言葉に、英明は再び硬直する。
「今じゃ菌糸も伸ばせるし、自分で自分も増やせる。小さくて動けない時から松井さんのそばにもいたからねぇ。色んな実験のノウハウだって覚えたし、偉い人とのやりとりも……人脈の在処も。強襲部隊の采配や命も。あたしは松井さんと同様に握ってるわ」
語るのは今まで英明が重ねてきた功績や努力だった。それを一つ一つ思い起こす度に、英明は説明しようもない寒気と、吐き気を覚えた。
「……凄いでしょう? 頑張ったのよ? 今じゃ松井さんが知っていることはあたしも知ってるし、松井さんが出来ることはあたしにも出来る」
「だ、だからなんだ! 何が言いたい!」
唾を撒き散らしながら英明は喚く。頭の端に浮かびかけたある考えを否定する。あり得ない。嫌だ。そう繰り返し意識すればするほどに、英明の身体は冷や汗で湿っていった。
「……言っていいの?」
「聞くだけは聞いてやる! だが、俺はお前の伴侶だぞ? 切り捨てるなんて真似をすれば……」
「やっぱりわかってるじゃない、松井さん。てか、おかしな事言うのねぇ」
震えながら虚勢をはる。だが、目の前でクスクスと忍び笑いを漏らす茸の怪物は、キラキラした瞳で英明を見上げる。そして……。
「茸で夫婦とか、ウケるんだけど。それでも科学者なの? まぁいいや。最終的にあたしが何を言いたいかっていうとぉ……」
言葉が発せられる。それはまさに、彼の首を叩き落とすギロチンに等しかった。ここにきて、英明はようやく、レイの言葉の意味を理解した。怪物すら捩じ伏せる精神力。それをトレースした人格は自分にとって最強の刃になる。茸の怪物の、繁栄の本能も手伝って、自分の野望にも賛同してくれている。英明はそう信じて疑わなかった。
だが、彼は山城京子を見誤っていた。彼女は……。
「松井さん、貴方もう、いらなくない?」
最初から、英明を見ていなかったのである。
怪物を飼い慣らしていたつもりが、餌と知識を与えていたのは英明の方だった。それに気づくのが、あまりにも遅すぎたのである。
「うう……おぉ……あ、ああっ、……ああ……!」
意味をなさない嘆きの声が上がる。どうにもならない絶望感に苛まれる中で英明が最後に感じたのは、パキンという指鳴りの音と、「今、楽にしますから」という、何処か感情を圧し殺したような呟きで。
「――あ」
サファイアを思わせる二つの瞳が英明を見つめていた。その光が瞼の奥に刻まれた瞬間に、英明の意識はブラックアウトした。
※
サイコパスの条件というものがある。
例えば平然と嘘をつく。
良心の著しい欠如。
無意識に人を操ろうとする。
常に刺激を求め、衝動的に行動し。
行動には責任を取らず、非は認めない。
他者には冷淡だが、にもかかわらず表面上は魅力的であり、社交に優れた多才の者。
かつて汐里やルイは、原種の怪物の宿主となった桐原を天才と評していた。
短い間ながら彼と接し、ルイの助けを借りながら戦った僕は、今思い出しても彼の非凡さにゾッとする。
アレが、僕のように怪物としての経験を積んだらどうなっていたのかを想像して。だからこそ、見えなくなっていたのだ。あの夜、彼と並び立っていたもう一人の存在を。
驚異的なメンタルで。並外れた狂気で僕らに迫ってきていた京子。彼女の経歴を省みれば。桐原と対等に会話を交わしていたのを思い出せば。そして、今まさに目の前で起きている事案に目を向ければ向けるほど、それは精神力だけでは説明がつかない。
「……思えば、ただの美術教員志望の君が、彼処まで犯罪の才能を開花させている時点で、何かがおかしかったんだ」
藤堂から、殺人の快楽を学びとり。
汐里から怪物との戦い方を。
桐原からは己の怪物化のメカニズムを。
非日常に憧れ、非日常に順応し、死して尚、茸の怪物の宿主に選ばれて、松井さんの元で学習し、知識を吸収した。疑いようもなく、彼女もまた天才だったのである。そして……。
「君は、本物の京子なんだね」
「そうだよー。あたしも驚いたんだよ? まさか自分が〝幽霊〟になっちゃうだなんて!」
非日常だわ! と、喜ぶ京子。僕はその破天荒さに頭がいたくなるばかりだった。心が読めるから、それがどうしようもない真実だとわかってしまう。
エリザが出会ったという非日常に生きる二人の人間が言っていた現象が、今まさに目の前にいる。
怪物なんているんだ。今さら幽霊がいるなんて……ビックリはするし、戸惑うけど、全否定までは出来ない。けど思うことは一つ。
なんでよりにもよって、そんないかにも厄介極まりそうなものに、あの京子が行き着いてしまうのか。手に負えないことこの上ないではないか。
「言ってたでしょ? あたしはいつだってレイ君の後ろにいたって。まぁ、手は出せなかったんだけど。幽霊だし」
「だから僕に所謂……取り憑いていた?」
「身体乗っとれないかなーって思って。でもダメね。弱りに弱ってるときに会話するくらいしか出来なかったもん。凄い必死になっても、手首を引くので精一杯」
だから、色々頑張ったの。
そう言って京子は屈託なく笑った。
「時間はあったからね。色々試したのよ。ほら、分霊なんて、よく小説で読んだから。出来ないかなぁってやってみたりとか」
「分……なに?」
「分霊よ。つまりぃ? お化けなんだから魂分裂出来ないかなって?」
「……出来たの?」
「出来たよー。身体は茸に犯されてたからかな? それとも元来精神が分裂気味だったのか。結果的にあたしは何人かに別れて、各地を飛びまわったわ」
破天荒すぎる実体験の披露に頭がパンクしそうだった。京子はいつだって、僕の想像の先を行くのだ。
同時にいつかの夏を思い出す。名も知らぬ調査員に、開拓者の恐らくはプロトタイプで狙撃された日。あの日も僕は京子と対話していた。エディに気絶させられた時もだ。あの時もまだ、京子は僕の傍にいた。
だが、ついさっき、京子は松井さんともいたと言っている。すでに昔から分裂していたなら……それも一応は納得がいく。
「今の君は……一つになってるんだね」
「この度の実験で、培養プールから、めでたく地上に出れたからね。魂をここに集めるの、苦労したよ。薄切りにしすぎたのか、記憶喪失になってたあたしもいたし」
分身は身体だけでいいって実感したわ。なんて共感しがたい事を口にしながら、京子は苦笑いした。
。
「でも、こうしてようやく、あたしは舞い戻ってこれた。作られた怪物の身体と、幽霊のあたし。非日常同士だから、相性は良かったのよ。幽霊のままじゃレイ君は捕まえられなかったけど……今は違う」
「正真正銘、久しぶりなご対面ってことか」
「ええ、そうよ? でも、そんな感じは全然しないね。ちょくちょく会ってたし?」
その言葉に、背後にいた怪物から無言のプレッシャーが発せられた。
落ち着け。今のは比喩だよ。頼むから睨まないでくれ。
心底空を飛んでててよかったと思いつつ、僕は脚に掴んでいた松井さんを離す。彼はもう退場だ。精神を破壊し尽くされた彼は糸の切れた人形のように地面に落下した。
「そういえば、どうやって心を読んだり……今みたいに松井さん操ったの? これに関しては絶対不可侵だって、松井さん大威張りだったのに」
「……君に教える義理はないよ」
「えー、ケチ」
ぷくー。と、膨れる京子。その精神は既に切り替わり、僕のからくりに関する興味は一瞬で失われていた。
気にはしても執着はしない。実に彼女らしく。それ故に、松井さんと違って、京子は心を読めはしても操れないことを再確認する。
茸らの心は、エリザ単体ならば読めないだろう。膨大にあるノイズまみれな意識から真意を読み取るのは、不可能だからだ。だが、そこに僕の直感が加わり、同時に運用すれば話が変わってくる。
心を読めるが、何処が真実かわからないから、解答を直感で選ぶ。
暴論かもしれないが、そうすることによって数多の集団意識の中で、核となる心を読み取る事が可能になったのだ。
ただ、依然として操れないという課題はクリアしきっていない。ではさっきはどうやって松井さんの心を折ったのかという話になるが……。
「まぁ、いいや。ねぇレイ君。松井さんはその通りダメにしちゃったけどぉ……。あたしはどうするつもりぃ?」
それに関しては、今は置いておこう。出来ないなら仕方がない。残るは目の前にいる京子をどうするか。だけれども……。
「京子、松井さんの跡を継ぐんだね?」
「遺伝子で埋め尽くす云々は全然やる気ないよ。興味ないもん。でもぉ……。せっかく力があるなら、それで好き放題生きるのは悪くないと思うのよ」
わかりきっていることを一応確認していると、京子の指から触手が伸びてくる。それは倒れた松井さんに絡み付きかけて……そこに、銀色の蜘蛛糸が絡み付く。怪物の仕業だった。
「……あんたが守る男じゃないでしょ?」
「オマエがやることは全部悪いこと。……だから、思い通りにはさせません」
「え、最後のナニ? 急に清楚な路線行ってもキモイだけよ?」
京子の煽りに心なしか、怪物の怒気が増した気がして、僕は若干肌が粟立つのを感じながらも、ゆっくりと地上に降りる。
静かに、京子と視線が交差する。ふと、何故だろうか。いつかに京子が恋人だと信じていた時に一緒に行った、水族館を思い出した。
あの時僕は思ったのだ。……このまま、彼女とずっと一緒にいられたらだなんて。
……酷い願いの成就もあったものだ。
「……君がひっそりと生きてくなら、僕はこれ以上どうする気もなかったんだけどね」
「あはっ、わかってるくせにぃ。そんなの、絶対に無理よぉ」
菌糸が蠢く中で、京子は歪に笑う。
僕もまた、鉤爪と翼を広げたまま、ゆっくりと腰を下ろす。
互いに臨戦態勢を取った、一触即発の緊張がその場を支配する。もう、どうしようもなかったのだろう。
「ねぇねぇねぇねぇ。もう一回、聞いてもいい? レイ君、あたしのものになる気、ない? 今のあたし達が組めば、きっと敵なしだと思うの」
「わかってるくせに。そんなの絶対に無理だ。君の組むは……僕らをオモチャにするのと同義。認められる訳ないだろ」
「それも、あたしの心を読んだのね。……エッチ。やらしいんだぁ」
「君の悪辣さには負けるよ……君をどうするか。だったよね。ごめんね。もう決まってるんだ」
「……聞かせて。あたしも今、やりたいことを言ってあげる」
あの日、お互いの真実をさらけ出し合った日から。僕らはきっとこうなる運命だったのだ。
京子は明確な僕らにとっての宿敵で。それは、京子からみた僕らも同じ事。
彼女の遺伝子や心に刻まれてしまっているのだ。僕らの破滅を願う強い意志が。それはきっと、どちらかが抹消されるまで止まることはない。故に……。
「殺してあげる。レイ君」
「殺してやるよ。京子」
僕らが互いに立ちはだかり合うのは、必然だった。
直後、地を踏み蹴る音が響き渡り、最後の生存闘争の火蓋が切って落とされた。




