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名前のない怪物  作者: 黒木京也
続章ノ四 愛憎の最終紛争
203/221

85.血まみれの夜遊

 それは、京子達と対峙する、約一時間前の出来事だった。


「最期に少し、お話をしましょう。レイに伝えたいこと。教えたいこと。そして……頼みたい事があるのよ」

 エリザの死に水を取ろうと付き添っていると、彼女は弱々しく息を吐きながら、そう言った。

「……また、随分と唐突だね」

「実は、いつかは貴方に話さなければならなかった事でもあるわ。夫婦でも、お友達になったとしても伝えなきゃいけない、大事な話。……聞いて、くれる?」

「……わかったよ」

 ここで突っぱねるほど僕も鬼じゃない。

 小さく頷きながら了承すれば、エリザは嬉しそうに片方の手で僕の頬に触れ、優しく指を這わせる。

 血と、彼女自身の甘い香りがした。

「頼みについて。これは、あくまでも私の希望よ。貴方が嫌だと思ったなら、断ってくれてもいい。けど……出来たら聞き入れて欲しいわ。私の未練と希望。そして、貴方の未来のために」

「……壮大過ぎない?」

「聞けば納得するわ。きっとね。そして教えたいことは……。さっき山城京子らに囲まれた時、少しだけ読み取れた事についてよ」

 意味深な言い回しに、僕は暫し考えてから、再び耳を傾ける。口は挟まない方がよさそうだ。彼女の言葉を、今はただ聞く事に集中しよう。

「頼みは、後にしましょうか。まず、山城京子について。彼女は確かに群体よ。けど、どんなに大きな規模とはいえ、必ずそこには核となる個体がいる」

「核って……リリカらでいう女王みたいに?」

「当たらず、遠からずね。だから身体が癒えたなら、まずはソイツを叩きなさい。素直に全滅はしてくれないでしょうけど、間違いなく他の茸達は弱体化する筈よ」

「……了解。探してみる」

 よろしい。と、エリザは微笑むと、暫く沈黙し、僕を見つめ始めた。

 真っ直ぐ、ただひたすらに恋慕を込めた眼差し。僕のような女性に免疫がない存在からすれば、正直言って落ち着かない視線に思わず目を背ければ、エリザはおかしそうに肩を震わせた。

「もぉ……可愛いんだから」

「やかましい。教えたいことは、京子の事だね。なら、頼みたい事は?」

 僕がそう問いかければ、エリザは少しだけ迷うような素振りを見せる。言うべきか言わないべきか。そう彼女が踏み出しかねているのだけが何となくわかった。

「……嫌なら、君のお言葉に甘えて断るよ」

「ええ。そうね。でも……うん。そうね。予言するわ。貴方はきっと、断れない。……断らせないわ」

「……え?」

 対決した時以来になる、エリザの低い声。その変貌ぶりに僕の思考が一瞬麻痺するのと、うなじが激しくざわついたのは、殆ど同時だった。

「エリ……」

 身体が強張って。判断が遅れた。直感が告げている。これ以上はコイツの話を聞いてはいけない。さもなくば絶対に悪いことが起きる。

 そう、分かっている筈なのに。僕はその場で竦み上がったまま、動く事が出来なかった。

「……っ、あ……」

「やっぱり、ね……。ありがとう。きっと今、貴方の能力は私を捨てて逃げろ。そう言っているのでしょうね」

 唇を噛み締める僕を愛しげに見上げながら、エリザはもう一度、弱々しく僕の頬を指でつついた。

「……何を、考えている」

 思ったままの言葉が出た。エリザはもう、何も出来ない。梟への変身は勿論のこと、心を読むのも、精神操作で僕を操るのも。それは間違いない……筈だ。

 だが、それなのに僕の本能が、この場に留まるな。早く離れろと進言している。

 周りには、僕ら以外は誰もいない。ならば、信じがたいがエリザが僕に害意を。あるいは脅威になる何かを隠している事になる。

「まず、誓うわ。私は今だって貴方に危害を加える気はない。それは信じて」

「……少なくとも、それは分かっているつもり。だから……解せないんだ。何で今の君に……僕の能力が反応したのか」

「貴方の超直感は、成長すれば間違いなく、全力の私と比肩しうるものよ。それは時に、貴方の想像を越えうる規模で発動する。……たとえば、未来の脅威とか」

「未来、の?」

 言われて初めて、僕は気づいた。相手の行動をある程度は先読み出来るという意味を。確かに、僅か先の未来を垣間見ていると言えなくもないかもしれない。けれど……。

「……それが、君と何の関係がある?」

「大有りよ。これは私という存在……。個体名はつけられたことがないから、梟の怪物とでもしようかしらね。その生態に由来するわ」

「だから、何を言って……」

「レイ、怪物の繁殖方法が、個体によって違うのは当然知っているわよね?」

 混乱する僕を遮って、エリザは話を続ける。

 時間がない。それを思い出した僕は、もう一度自分を律して、聞きに徹する事にした。

「蜂や茸みたいな特殊な例もあるけど、基本は伴侶となる相手と人間同様に増える。……中には混血でしか子を成せない怪物もいたけど、それは今いいわね。重要なのは、全ての怪物には、親が存在するということ」

 唐突に、楠木教授の日誌や、ルイの顔が頭に浮かぶ。原種というべき存在が、何処から来たのかは分からない。だが、それでも必ず、何処かで生まれ落ちた。その事実があるのは確かだ。

「ところが……私は、ね。それに当てはまらないのよ。私は、生き物が愛し合った果てに生まれた訳ではない。セックスは出来ても、生殖能力は皆無なの。ある日突然、聖母の処女懐妊もかくやに女の(はら)に宿り。その母体を喰らい尽くして誕生する」

 少しだけ寂しげに、エリザは肩を竦める。僕はといえば、あまりの衝撃にただ言葉を失っていた。

「……転生。そう表現すればいいのかしらね。事実、かなり昔のは無理だけど、先代や先々代辺りなら、私は記憶を朧気ながら引き継いでいる。この世に一体しか存在できない、絶対的な個。それが私。……故に、脈々と受け継がれてきた自分の特性から、この後に何が起こるかは想像できる」

「……まさか」

 そこでようやく、どうして僕のうなじがざわついたのかを納得した。転生の事実が正しいならば……それは、エリザと同じ力を持った存在が、近いうちに何処かで産まれてくるという事になるのではないか。

「……それは」

「理解したかしら。未来に起こりうる危機の理由を。仮に次の梟が私の記憶を受け継ぐなら……間違いなく、良くも悪くも貴方に興味を持つでしょうね」

「――っ、お前……!」

 ふざけるな! そう叫びかけて、言葉を飲み込む。コイツだって、好きで死んでいく訳じゃない。こうなってしまったのは、僕にだって責任があるのだ。

「……だいたいわかったよ。頼みたい事って、次に来る君の転生体についてだね?」

 迷惑をかけるだろうが止めてくれ。あるいは宜しくといったところだろう。……ちょっと置き土産が酷すぎる。これは何らかの対策を立てなければダメそうだ。

 僕がそんな呑気なことを考えていると、エリザは少しだけキョトンとした顔になり。続けて、ブンブンと顔を横に振った。

「違うわよ。言ったでしょう? 貴方の未来の為に頼むんだって。……私はこれからも貴方のものでありたいし、万が一にも、貴方がつがいちゃん以外の女に落ちるなんて耐えられない。だから……」

 私という種族が持つ転生の未来。これを確実に潰したいの。

 僕のうなじが相変わらずざわつく中で、エリザはそう告げて、妖しく舌なめずりした。

 僕の頬を弄っていた指がいつの間にか移動して、今は僕の唇をなぞるようにして滑らされている。

 ゾクリとした寒気が僕の身体を突き抜けた時、エリザは血に濡れた口を静かに開いて、その願いを僕に伝えた。


「私を……食べて欲しいの」


 僕はその時、一体どんな顔をしていたのだろうか。

 ただ、はっきりと分かるのは、静寂に包まれた心の中で、必死にエリザの言葉を反芻していたこと。それだけだった。

「意味が……」

「いいえ、分かる筈よ。私の狙いが何か」

「待って。待ってくれ……だって……」

「いいえ、待てないわ。今決めて。未来に来る梟の怪物と戦うか。ここで私ごと封じるか」

「そん、なの……」

 改めてエリザを見つめる。折れた翼と、欠損した片腕に片脚。血染めの白い肌。そして……、僕をずっと映し続けている、サファイアのような蒼い瞳。

 壊れたマリオネットみたい。そんな感想を抱きつつ、ようやく全てを意識した時、僕の身体は急激に冷え込み、カタカタと小刻みに震えはじめた。

 エリザを食べる? この手で、彼女を……。

「い、嫌だよ……! 無理だ。そんなの出来る訳ないだろう!」

「なら、それでも構わないわ。次に来る梟を倒せばいいんだもの。でも……勝てるかしら? 次の個体が私みたいに愛を求めているとは限らないのに」

 感情のままに叫ぶ。だが、エリザは目を伏せて僕を諭すように口を開いた。

「最悪の事態を考えなさい。貴方の心が折れうる、酷い未来を。正面から来るとは思えない。梟は必ず闇に紛れて、貴方の大切な存在を奪いに来る。……いくら貴方が私とそれなりに渡り合えたのだとしても、他の奴らはそうじゃないのよ」

「う……あ……」

 エリザとの戦いを思い出す。

 結果的に僕は勝利した。だが、そこに至るまでの間に、エリザの私情が絡んでいた事を忘れてはならない。

 もしも彼女が、最初から僕らの全滅を目的に動いていたとしたら……。結果は悲惨なものになっていただろう。

 最強の能力を持っていたのが他ならぬエリザだったから、僕は抗えたのだ。

「もう一度言うわレイ。私を食べて欲しい。……いいえ、食べるのよ。食べなさい」

「……っ!」

 嫌だ。そう口にしたくても声が出なくて、僕は首を左右にブンブン振ることしか出来なかった。

 口の中がカラカラに乾いている。その場から走り去りたい衝動にかられるが、僕の身体は座り込んだままエリザを横抱きにしているので、どうにもならなかった。

 羽のように軽い彼女を投げ出せばいいだけなのに。僕はどうしても、それが出来なかった。

 直感の警告は……僕の心への防衛反応であると同時に、エリザの死を傍観すれば、良くない未来が来る。それを示す予言だったのだ。

 逃げるは地獄。留まるのも地獄。

 最悪の二重拘束は、涙目の僕にしっかりと嵌められた。後はもう、僕がどちらを選択するか。

「……私は、知っているわ。貴方にとって何が一番辛いかを。だからこそ、ここで終わらせて欲しい」

「……よ」

 ざわめくうなじが僕を責めたてる。早くしろ。間に合わなくなる。そう言っていた。

「他の怪物を体内に取り込めば、気狂いになる。これは心配しなくていいわ。私は、貴方の心を襲わない。貴方を塗り潰すなんて、絶対に嫌だもの」

「……だ、よ……!」

 彼女が語る言葉を何度も確認する。だが、これに関しては一切うなじはざわつかない。

 嘘はない。本気なのだ。本気で彼女は、僕に捕食されることを願っている。でも……。

「だから……遠慮なんかしないで。寧ろ嬉しいの。貴方の力になれるなら、私は……」

「どうして……そんな簡単に言うんだよ!」

 何度目かになる叫びが森に木霊する。エリザはキョトンとした顔で僕を見上げていた。

「軽々しく、食べろだって? それがどれだけ重いか、分かってるのか!? 君は生きたまま……」

「構わないって、言ってるのに」

「僕が構うよ! 血を吸うのだって、慣れるまで結構かかったんだ! 同じ怪物を殺すのだって、彼女を守る為って何度も言い聞かせて、ようやく……! なのに」

 いきなり見た目は人間の女性であるエリザを……。一度は友人と定めた彼女を捕食するなんて、正気が保てる気がしなかった。

 そんな風に漏れ出した嗚咽を隠さずに彼女を見れば、エリザは静かに目を閉じた。

「…………なら、いいのね。彼女がいつか来る梟に操られても。貴方の大切なものが、全部失われても」

「それ、は……」

「……いいのね?」

 ギチリと、身体の何処かにヒビが入る音がした。

 何度も何度も。映画のフィルムが早回しされたかのように、ズレた日常の断片が胸を過っていく。

 出会いから、疑惑と決別。和解まで。

 探索と、最初の死。共に歩むと決めた夜。

 そして……。次に見えたのは、関わってきた人達の顔だった。

 兄さんや家族から始まり。

 京子、純也、叔父さん、ルイ、汐里、桐原に、松井さん。

 カオナシに雪代さん、対策課の人達や、エディと優香ちゃん。

 リリカや洋平。蜂の怪物達。カイナと桜塚さん。強襲部隊と、エディの友人達。

 失い、出会い、また喪い。そんな繰り返しを経て僕はここにいる。 

 気がつけば、ハラハラと涙が両頬を伝い落ちていた。

 最後に浮かんだのは、世界で一番大切な。黒衣に身を包んだ少女の怪物だった。

 視界がもう一度横にブレる。僕の意志を受け止めたエリザは、それでいいの。と言うように満足気に頷いて。

 冷たくなった手で僕の手首を引き、豊かな胸の谷間へ……。そこにある、ナイフの刺し傷へと誘った。

「ここに、私の怪物としての核がある。心臓の少し下。そこの肉よ」

 コクリと頷けば、彼女は「鉤爪、出して。後、十秒だけ麻酔を」と指示を出した。

 言われるままにノロノロと彼女の首筋にかぶりつく。命令の為に体液を流し込む最中、弱々しく頭に啄むようなキスが落とされたのを感じたが、僕の意識は暗い淵をずっとさ迷っているかのように、ぼんやりとしたものだった。

 鉤爪が、傷口を引き裂きながらエリザの中に入っていく。

 生暖かい温度が、ザラザラした僕の手を飲み込んで、時折ヒクヒクと、異物を押し出さんとばかりに蠕動する。

 やがてカリコリとした感触が爪の先に触れた。多分、肋骨。そこを数本寸断し、掻き分けるように開いて……。十秒。

 刹那的な麻酔に意味があったのかは分からない。けど、もしかしたらコイツは、ただ僕に噛んで貰いたかったのかも。そんな事をぼんやりと思った。

 再生力が落ちた身体に、多分今は容赦ない激痛が走っているのだろう。だが、エリザは苦痛の呻きを漏らしながらも、手は絶対に僕から離さなかった。

「――っ、もう少しっ……、下よっ……あっ……! そう……! そこぉ……!」

 責め苦を受けているとは思えない、甘く蕩けた声が僕を侵食していく。血と唾液で濡れそぼった舌が僕の耳をねぶり、湿らせて。最後はそこを優しく食みながら、エリザは囁いた。

「伝えたいこと、言わなきゃ……っ、ああっ……いいわ、広げて……! そのまま掴んでぇ……っ!」

「っ……!」

 血の気がどんどん引いていく僕とは対照的に、エリザは顔を紅潮させ、快楽に濁った目で虚空を仰ぐ。同時に直感が嫌になるくらい騒ぎだし、もう終わりが近いことを僕に知らせた。

 地面に、赤い水溜まりが出来ていて、その上で僕らの視線が絡み合う。

「……きっと、はしたない所をいっぱい見せちゃうわ」

「……何でだよ。意味がわからない」

「だって今から、レイと一つになるんだもの。そう考えたら……ダメなの。痛いのが、気持ちいの。おかしくなりそうだわ」

「……変態鳥女」

「幻滅しないでね」

「既にゼロより下だ」

「酷いわぁ~」

 僕の声と身体が情けなく震えているのを除けば、何回も交わしたやり取りだった。

 それがたまらなく嬉しいのか、エリザはもう一度、僕の頬にキスをする。拒絶する気力はもうない。

 そして、エリザが伝えたいことなんて、もうわかりきっていた。

 でも、それでもちゃんと。一回くらいは真っ直ぐに聞いてあげたい。本心からそう思ってエリザを見れば、彼女は肩を上下させながら、想いを告白する少女のように可愛らしく微笑んだ。

「レイ、大好き。愛してるわ」

「……うん、ありがとう」

 受け止めはするけど、返事はしない。それを彼女も分かっているのだろう。存在を確かめるかのように、己に突き刺さった僕の腕を撫でた。

「だから……痛く、激しくして? 貴方が決して、私を忘れないように……」

 それが、合図となった。僕は心を潰したまま、腕をゆっくりと引き抜いていく。

「もっと、強く……」

 ブチ。ブチ。ブチと、手のひらで何かが壊れていく。僕と同じくらいエリザの身体は揺らめいていた。

「もっと、……強くぅ……!」

 奥歯が砕ける音がした。無意識に食い縛ってしまっていたらしい。同時に、エリザの興奮しきった声が耳に響く。

 手の甲に切り開き歪んだ肋骨の先端が引っ掛かる。チクリとした痛みが走る中でエリザは熱に浮かされたかのようにまくし立てた。

「そのまま……引き抜いて! ぶっ壊してかまわない、から……!」

 頭がおかしくなりそうになりながら、僕はパニックを起こした獣みたいな声を張り上げ、滅茶苦茶に腕を振る。

 少しでも考えを巡らせたら、気絶してしまいそうで。それを誤魔化すための狂行だったが、それがエリザには堪らなくよかったらしい。髪を振り乱しながらあられもない嬌声をあげるエリザ。

 いっそ僕の鼓膜を破ってくれたらいいのに思いかけた時、肉が引き千切れる生々しい破裂音がして。

 瞬間、エリザの胸元で紅が弾けた。

 赤い噴水が僕らを容赦なく染め上げる。僕は血で塞がれた目を何度もしばたかせると同時に、片手に乗った一塊の肉塊を見て……。首の後ろが、ヤスリにでもかけられたかのように痛くなった。

 ここに、〝いる〟のだ。間違いなく。

「のん、……でぇ……」

 躊躇した僕を見抜いたのだろう。ビクン。ビクンと痙攣しながら、エリザはぐったりと僕に身を預けたまま、吐き出すように耳元で要求する。さっきとは比べ物にならない位に、呼吸が弱まっていた。だというのに、彼女の手は、最後の力を振り絞るかのように肉を握る僕の手を強引に口へ運んでいく。

「まっ……」

「だ、め……。お願い、私が生きてるうちに……みせて。私を……受け入れてぇ……」

 甘い血の匂い。そして、生暖かい湿った感触が僕の唇に当てられたかと思えば、エリザは僕の耳の横を強く吸い上げた。

「なに――っ、もぎゅ!」

 口が抉じ開けられて、肉塊が押し込められた。

 目を見開く僕の視界にエリザの顔が大写しになる。そこで初めて、僕は彼女の片腕が蛇のように一瞬で僕の首に絡み付いているのと、文字通り、口を封じられていることに気がついて……。

「あ、みゅび!?」

 世界がおぞましい音と味。そして感覚に包まれた。

 よせばいいものを、エリザの行動に虚を突かれた僕は、あろうことか顎を動かしてしまったのだ。

 ……その時思い出したものは、自分の舌を噛んでしまった時の記憶。そして、お刺身だった。

 まずはガリッコリッという、軟骨をもう少し柔らかくしたような、ただ己にとって致命的だと分かる戦慄が口の中で広がって。同時に僕の苦手とする食べ物が、一気に思考を支配する。

 幼い頃の記憶だ。両親の知り合いらしい板前さんが、新鮮な魚を捌いてくれた事があった。

 直前まで生きていた存在が解体され、皿に盛り付けられる。所謂、活け造り。何も知らない僕はそれを口に入れて……。

 その人の腕が良すぎたのだろう。

 死んだことにも気づかぬままに一瞬で綺麗に料理された魚は、肉片になって尚、〝まな板の上でもがいていた〟

 口内で歯を立てたあの瞬間。それはビチビチと蠢いたのだ。

 美食的には、活きのいい魚なのだろう。だが、僕にはそれがとても恐ろしい事のように思えて……飲み込めず、口の中で魚は泳ぎ……。以来、僕はお刺身が食べられない。

「むぐぉお! んぐ、ぇ……!」

 吐き気が込み上げる。エリザから取り出した新鮮な肉は、まさにそれだった。僕の口の中でふるふると動き、まるで忘れないでと泣きわめくかのように、僕の精神を切り刻んでいく。

 口から出したい。だが、エリザがそれを許さない。

 身体を艶かしくくねらせて、エリザは僕の抵抗を封殺していく。顔が無理やり上げられる。やがて、喉が嫌な音を立て、それを痛みと共に嚥下した。

「う……ぐぇ……」

 唇が剥がれて、僕らの間に血や唾の混じった赤い橋がかかる。解放されたというのに息がうまくできなくて、僕は思わず嘔吐しかけたが……。それを押さえるかのように、エリザの額がおでこにぶつけられた。

「いたっ――! なにす……ひいっ!?」

 ゴグン! と、せりあがりかけた吐瀉物が無理やり引っ込められる。突然の蛮行に思わず抗議しかけた僕は……。今度こそ、恐怖のどん底に落とされた。

 エリザが……狂ったように嗤っていた。

「あは……ひひっ……やった……! ああ! やったわ! やったぁああ! これで……! やっと……やっとぉ!」

 いつも以上に青白い顔でエリザは叫び、ますますいやらしく僕に身体を押し付ける。

 その時だ。僕にも……電流が走った。

「え……? あ?」

 腕が。足が。痺れていた。何でと思う暇もなく、僕の身体だけが勝手に動きだした。

「エリ……!」

「……予想外。けど、きっと神様がチャンスをくれたのね。――ごめんなさい。ごめんね、レイ。私、悪い女だわぁ……」

 直感が叫ぶ。欠片もそんな事は思っていないだろ! と。

 同時に、エリザを取り込んだからだろうか。彼女の声が、僕の脳内でエコーして……。悲しいかな。この後に何が起きるか分かってしまった。

「今、ね。ちょっとだけ貴方と繋がってるの。きっと私が完全に死ぬまでなのね。……だから、ごめんなさい」

「待て、待て……止めろ……!」

 意識も。声も出せる。ただ身体が操られているだけ。その意図すら分かる。コイツは、僕に自分を刻み付けるつもりなのだ。

 いや、それ以前に……。コイツは僕に敗北して、殺されると分かってから……ずっとこうするつもりだったのだ。

 自分を食わせて、僕の心の中で共に生きる。そこには恋慕はあれど、悪意はなかった。核たる部位を食べさせた以上、残る死体の処理は僕に任せて、逝く。その筈だった。

 だが思わぬ発見に伴い……ここで欲が出てしまった。

 生きたまま、不完全に融合した今……。肉体にまだ彼女が存命していて、怪物としての本質は僕の身体にあるこの瞬間だけ。

 彼女は僕の力を借りて、僕を操れてしまう。それがたった今判明した。

「今夜だけ、ね? ね? 私が死ぬまで、いいでしょう? 一回だけ。どうせ私の身体は無くなるから、あるうちに一回だけ……! レイを、好きにさせて?」

「ふざけ……! 何を……!」

 バカなことはよせと叫ぼうとするが、それはもう、エリザには聞こえていなかった。

 コイツは今この瞬間に、僕以外には死体を見せたくないだなんて……細やかながら僕には残酷過ぎる願望を抱いていた。

 その意味は……!

「核だけなんて、嫌! 私を喰らいつくして! 血も、肉も、骨も内臓も! 頭から爪先まで、髪の毛一本残さずに! これ以上ないくらい盛大に! 夢に見ちゃうくらい乱暴に! 犯して! 貪り喰ってぇ!」

 狂った命令が僕に下される。それは今際の際に孤独な梟が抱いた、最後の願いだった。

 怪物としての格は、エリザの方が間違いなく上だ。だからこそ、僕には抗う術はなく。

「やめろぉお!!」

 泣き叫んでも、僕は止まらない。飢えた獣のように僕の(あぎと)はエリザの肩にかぶり付き。食い千切る。

 柔らかく、だが喉に張り付くような不気味な舌触り。柔らかな肉と、ギチギチに硬い筋。そして砕けてざらついた骨の欠片が、僕の口の中で混ざり、合わさっていく。

 その悪魔的な合挽き肉を一噛みするごとに、僕の額に脂汗が滲んだ。

「やめ、で……!」

「ああ、レイ……! 今だけは、私のレイ……!」

 赤ん坊のように、エリザの乳房にしゃぶりつき、そのまま、歯を立てる。まるで葡萄を一房潰しきったような嫌な音が僕の神経をゆさぶって。僕の身体はそのまま、脂肪の塊をプリンでも食むかのように貪った。

「もう、わがっだがら……! ぜっだい、わずれないがら……ぁ!」

「私の……! 私のぉ! もう絶対! 一生! 離さないんだからぁ……!」

 恥も外聞もなく懇願する僕の声と心は裏腹に、僕は羊に止めを刺す狼のように、エリザの喉仏にかぶりつく。

 女性らしく細いそこは、意図も簡単に靴ひもが切れるような音を立てて破壊されて。口が離れたその瞬間、吹き出す血に混じって、カヒュ。と、空気が僕の鼻先を撫でた。

 目玉を啜らされた。

 爪が腹を裂き、臓物を引きずり出して、そのまま腹の奥を愛撫する。

 余ったるい血の匂いと、よく分からない匂いが鼻を支配してきた辺りで、僕はもう、声も出せなくなってしまった。

 まるで蛇が交尾するかのように、僕らは身体を絡ませて。いつしか僕の手はエリザの頭を掻き抱いて。唇は柔らかくも長い舌を吸い上げていた。

 もう、許してくれ……!

 聞こえているのは分かっていて、僕は白旗を上げる。

 火事場の馬鹿力とでもいうべきか。エリザの執念は凄まじかった。

 だが……それもここまでらしい。

 今や彼女の四肢からは完全に力が抜けていた。限界がきたのだ。

 同時に僕に最後の命令が告げられて。

 操られてた僕の口は、捕らえたエリザの舌に歯を突き立てた。

 同時に瞼が、開かされる。無事な方のエリザの瞳が、僕を見ていた。

 濁り、曇った血染めのサファイア。そこにあるのは、焼き焦がされんばかりの感情だった。

 ああ、怖い。

 素直にそう思う。これ以上ないくらい怖い女が、僕の中には入って来てしまった。

 それこそ……あんなに怖かった京子が霞むくらいに。

『もう、大丈夫よね?』

 エリザの声がエコーする。心の中の声だった。最後にイイ話で締めようったって無駄だ。お前が僕を分かるように、僕だってお前が分かるんだ。

 最期のお前は、欲望にしか走っていなかったじゃないか。やっぱりお前なんか……!

『……大っ嫌いだ……!』

『……うん、知ってる。でも離れてあげないわ。諦めて?』

 度重なるストレスのせいか、凄まじい頭痛と寒気が身体を苛んでいる中で、僕ははっきりと。それだけは主張する。

 だけど、それと共に「ああ、そうか」と、唐突に悟ってしまった。コイツに目をつけられた時点で詰みだったという事を。

 つまるところ、僕にはただ一つの勝利しか用意されていなかったのだ。

 怪物と……生きていく。唯一無二な僕の幸せを守りきること。それ以外は……全部この梟が掠め取ってしまった。

 最強の名は、伊達ではなかったのである。

『これで……私達は。ずっと……一緒よ』

 悪夢のような響きを最後に、ざらついた食感が口の中で弾ける。

 ひくついたエリザの舌を飲み込まされると同時に、ようやく解放された僕は、既にキャパシティの限界を越えていた。

「さい、あぐ……だ……」

 貧血に似た眩暈と耳鳴りがして。それっきり、僕は気を失った。


 ※


 樹海の中に、ぽっかりと窪地が出来ていた。そこには一面の彼岸花が咲き乱れ、夜風に血飛沫を思わせる花弁を舞わせている。

 月明かりが射し込む天然の劇場めいたその世界の中心に、憎たらしさしかない女が立っている。

 それを見た時、僕はとうとう観念した。

「……以前、僕の心は、彼岸花が咲いた夜の草原だった筈」

「ええ、そうね。因みに私は……樹海に何故かぽっかりと空いた窪地だったわ。真っ暗闇の、ね」

 嬉しそうに笑うエリザ。その背後、樹海の中にも、チラリチラリと紅色が見えた。

 月光でうっすらと照らされたそれは酷く陰鬱ながらも幻想的で。妖しくも美しかった。

「レイ。……ありがとう。私を受け入れてくれて」

「黙れ。押し掛けてきた癖に。受け入れた? 違うね。これはそう……隔離だ」

「それでもいいの。……たまには夢の中で愛してね?」

「あり得ない。頼むから、大人しくしてろ。ていうか死ね」

「ひ~ど~い~!」

 嘘泣きする彼女に背を向けて歩き出す。

 起きたらきっと、僕の身体は変わってる。

 おぞましいったらありゃしない。それでも……。


「……進むんだ」

「ええ、一緒に行きましょう」


 あの娘と穏やかに過ごすために。

 これ以上、有象無象に翻弄されるのは御免なのだ。

 その為だったら……!


 ※


 目覚めは酷いものだった。

 ざわざわと、周りがやかましい。

 否応なしに聞こえてくる誰かの声、声、声。

 成る程、エリザがひねくれる訳だ。慣れないうちは、吐きそうになる。因みにエリザがしていたみたいにオンオフを切り替えるのは……まだ僕には無理らしい。

 ゆっくりと起き上がる。身体がべとべとして気持ち悪い。

 川か、最悪沼か池は……ちょっと離れた所にあるようだ。

 だけど……。


「まずは、このバカか」


 視線を下げる。そこには、身体中がかじり取られ、最早人型の原形がない、肉の塊がある。

 最初は、ルイと同じように荼毘に付して手厚く葬ってやろうと思っていた。けど、予定は変更だ。

 痛む顎と、胃もたれ。ムカムカした吐き気を精神的な暗示で押さえ込む。

 直感で、能力を使用。腹立たしい事に、あのバカと能力面の相性は頗るいいらしい。

「……死体は残さないよ。京子みたいに利用されても困る」

 あんな試練を乗り越えた今、もう怖いものなんて何もなかった。この最悪は二度と更新される事はないだろう。間違いなく。

「……髪の毛一本残すな。だったよね」

 精神を意図的に、一旦解体する。物言わぬ死肉あさりの獣へ十秒弱。それだけで、仕事は完遂できるだろう。

 身体が毛むくじゃらの大蜘蛛に変身する。鋏に似た口がゆっくりとエリザの死体へ迫っていくのを感じながら、僕は三度意識を闇に沈めた。次に起きるのはすぐだ。

 そうしたら皆と合流して……やることを済まして。

「カエ、ロ……」

 人間性がまた更に大きく損なわれたのを自覚しながら、僕は怪物に身を堕とす。

『美味しく召し上がれ』

 なんて声が聞こえたが、無視。この騒がしさにも、きっと慣れねばいけないのだろう。

 

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