84.最悪の怪物
菌糸とおぼしき触手が伸びてくる。
本来茸のそれは目に見えないものである筈なのだが、もう何でもアリなんだなと思うことにした。
隣に佇む怪物は勿論のこと、カオナシ、蜂、カマキリ、黒タールや蛇。そして……梟。他にも色々。
京子ではないけれど、既にこの身と周辺は非日常の中にある。理不尽や常識はずれも、さっさと受け入れた方がいい。……最近になって、ようやくそう思えるようになってきた。
「生きているだと!? 嘘だね。彼女は確かに……!」
「死体を見たかい? 息絶えるところは?」
鞭のようにしなる触手をヒラリとかわす。軌道が単純すぎて読みやすい。何より、操る本人が動揺しすぎている。
僕の指摘に松井さんはグッと唇を噛み、そのまま乱暴に腕を振るう。何十本ものクラゲの足を思わせるそれが、うねりながら僕らの方へ殺到し。
「じゃま」
即座に打ち落とされた。
怪物が腕を一閃する。それだけで毒液の噴射が刃のように振り抜かれ、切り裂かれた菌糸が地面に打ち捨てられていく。
異臭を漂わせ、ジュクジュクと泡を立てながら土に還っていく様は、腐ったチーズのようだった。
「くっ……! 京子!」
「……はーい」
叫ぶ松井さんに合いの手を入れるように、京子が進み出る。気だるげな口調のまま、彼女は首をコキリと一回転させ――。
驚くべき速さで、僕の眼前まで肉薄した。
「……あらん?」
「バレバレだよ」
もっとも、その行動自体は予想できていた。雪代さんや強襲部隊の女隊長の攻撃みたいな、読めてはいても反応しきれない動きとは違う。
後ろに数歩飛び退くことで、京子の抱擁から逃れきる。怪物としてのスペックの違いだろうか。動きのキレが、周りにいた京子達よりも洗練されているように見える。何より……。
京子と目が合う。雪代さんや、松井さん曰く、京子の死体に取りついた茸の怪物が、彼女の記憶を元に人格を得た存在。
生まれてくる茸達にも、それが影響しているのだという。だが、僕はもう彼女がそんな実験動物じみたものではないと分かっていた。
「……君は」
「レイ君の想像通りだよ。非日常ね」
「悪夢の間違いだろう」
鉤爪を切り返す。だが、これは簡単に避けられてしまった。勿論これで仕留められるとは思っていない。本命は――。
「レイから……離れて……!」
静かに。だが、隠しきれない怒りを露にした少女が、僕らの間に強襲してくる。
蜘蛛糸や毒の噴流が四方へ撒き散らされ。黒いタール状の液体を纏わせた蜂の手槍と蜘蛛の脚。そして蟷螂の鎌が、周囲の地面を切り開いていく。
「……すっご」
攻撃を受けた京子は、僕らから何とか距離を取りつつも、感心したように口笛を吹く。右腕と、左の脇腹が抉り取られ、身体中が痛々しく爛れているが、本人は大して気にした様子はない。
それどころか、痛手を受けたのは此方の方だった。
「んっ……! なん、で……?」
「――っ、黒タールを引っ込めて! 今すぐに!」
怪物が、困惑した様子で膝をつく。見た目には変化はない。だが、その体内では確実によくないことが起きていた。
四の五の迷っている時間はなく。戸惑う彼女に心の中で謝りながら、その白い手の甲に歯を立てる。
狙うのは、能力の中枢だ。
「排出」
静かにキーワードを囁くと、彼女の指先からトロリとした蜜が流れてくる。読み取る限り、消化した栄養が蜜に変換されるのは分かっている。
今は黒タールによる無差別の消化と急速な吸収により、悪いものを身体に取り込んでしまった状態だ。ならば多少強引だが、能力を停止させながら、よくないものを吐き出させるのが手っ取り早いだろう。
「レイ?」
「ごめん。よく聞いて。黒タールは使っちゃだめだ。京子相手には、少し部が悪すぎる」
なんでなんで? と、首を傾げる怪物。無理もない話だが、やはり現状をまだ把握出来ていないのだろう。
彼女は戦闘においては多少傷ついてでもごり押ししていく傾向がある。今までは圧倒的なスペックで何とかなっていたかもしれないが、今回は……。
「話し合いとは、余裕だな」
背後から、男の声と、触手が滑る音がした。だが、京子以上に遅いその攻撃を、僕は怪物を庇いながら、蜘蛛糸を噴射する事で相殺する。
「京子はともかく、貴方は……やはり怖くない」
「……っ、お前も何処までも――!」
「〝俺をバカにするのか?〟」
言葉を刃に。すると、松井さんはあからさまに顔面を醜く歪めてみせた。
「……なにを、言っている」
「おや、図星ですか? もしかしてと思いましたが」
触手が六本迫ってきた。
払い落とし、怪物の手を引き、飛び退くようにして下がる。
当たりはしないが鬱陶しい。京子の特性からして、短期決戦を仕掛けるのは決定事項なので、そろそろ動く必要がある。
「……貴方は、エリザの力を知ってから、徹底的に距離を取ったと聞きました。それこそ、自分の計画を部下の強襲部隊の面々に話さず、しかもかなり曲解させて伝えるくらいには」
「それが……どうした……! 誰もが傀儡になるなど御免な筈だ。だから君だって抗ったのだろう!」
「そうですね。それは否定しません」
松井さんも僕も、それが嫌だったのは間違いない。けど、彼にはもう一つ、見逃せないものがあった。
「エリザからしたら気紛れで貴方は地位を得た。結果、貴方は怪物の研究に今は携わる事が出来ている」
「言ってくれるね。その後に、ありとあらゆる研究に貢献したのは俺の実力だ!」
「然りです。けど、ふと思ったんでしょう? 所詮エリザの心次第。それで今の最高の環境を失いかねない……と」
だから、彼は茸の怪物を研究することに力を注いだ。エリザを倒し、自分の今を確固たるものにする為に。
エリザの欲望が、全部僕に向けられていたのも幸いしたのだろう。水面下で行われている、エリザに対抗する怪物の実験。その実態を、彼女は最期まで知らなかった。
そう考えると、エリザからある意味で逃げきってみせたのは凄い事だと思う。
「貴方の計画が途中で露呈すれば、エリザに殺される。だから全ての準備が終わるまで、姿を見せなかった。貴方はエリザが怖くて仕方がなかったんだ」
「――っ、だから何だっていうんだ! 彼女は死んだ! いや、仮に君が言うように生きていたのだとしても、俺の実験は成功した! もうアイツに心を読まれる事もない! 操られもしない!」
「……〝寧ろいるなら出て来て欲しい。今までの屈辱を倍にして返してやろう〟とかですか?」
「……っ!?」
目を見開き、僕の方を凝視する松井さん。何を驚く事があるのだろう。僕は言った筈だ。〝エリザは生きている〟と。
静かに呼吸を整える。身体がまだ慣れていない。けど、そこで弱気になりはしない。
隣で僕をキョトンとした顔で見つめている怪物の手を優しく握りながら、僕はもう一度、自分の心と見つめ合う。
幾度も死ぬような目にあってきた。けど、そんな時に思うのはただ一つ。この娘と共に生きていたい。それが、照れ隠しなど余計な感情すべてを取り払った、僕の本心だった。
だから、その為なら……。僕は鬼にでも怪物にでもなれる。
「お前……まさか。いや、あり得ない。そんな……仮にそうだったとして……」
「〝俺の心が読まれる筈がない〟ですか。そうですね。確かに、エリザならば無理。彼女自身もそう言っていました。ただし……」
狼狽え、後退りする松井さん。彼を今塗り潰している感情は、恐怖一色だった。
そうなって貰わねば困る。今日の惨劇や、これから僕が背負わせられる負債は半分がエリザで、もう半分は松井さんが原因だ。
落とし前と。今後更なる悪意を振り撒かぬように……。ここで徹底的に心を折る必要がある。
「彼女だけだったなら、ですけれど」
背中に焼けるような熱さが立ち上る。初めての体験に、ほんの僅かだが僕の身体が無意識に強張って……。
その時。胸の奥底で不思議な幻覚を見た。
いる筈のない奴が、腹の立つくらい完璧な嘲笑を浮かべている。
『私がリードしてあげましょうか?』
老若男女を虜にするであろう蕩けるような声と仕草で、そいつはわざとらしく僕に手を差し伸べた。
夜会のダンスにでも誘うかのような調子に、僕は顔をしかめつつ、蜃気楼を思わせる朧気な手を振り払う。
「いらないよ。押し掛けて来たのはお前の方だ。お前が合わせろ」
気を抜けば、全てが引っくり返されそうで。それでいて、僕の全てを支え、包み込むような変な感覚だった。
悪くない。と、思うのが悔しいので、ここでは沈黙する。
コイツに大しては文句しかないけれど。それでも……。
『はぁい。それじゃあ旦那様? 共同作業と行きましょう』
コイツを背負うと決めたのは、僕の意志なのだ。
※
松井英明は自分をよく客観視していた。
ちっぽけで、嫉妬深く、意気地のない。それでいて、性格は悪いという自負もあった。それなのに野心だけは一人前にある。
そんな汚ならしい自己を自覚しながらも、英明は卑屈な部分を上手に隠し、無難に生きてきた。
怪物という、常識から外れた存在を知るまでは。
その力に。美しさに。非現実さに、彼は歓喜し、魅了され、心を囚われた。
感情が爆発して、生まれて初めて英明は己の狂気に触れたのだ。
そこからは止まらなかった。
得るなら、最強の力がいい。
再現なく浮かぶ自分でも笑える位に下衆で承認欲求にまみれた望みを抱えながら、英明は情報を集めつづけ……。
見つけたのだ。古くから怪物を、未知の生き物を探求する組織や団体の存在を。
そして……最強を名乗る、恐るべき怪物にも。
きっかけは、最強が起こした気まぐれだった。最強の怪物は、伴侶を求めていたから。そして、英明はそれを見つけ出すことに協力することに同意した。
手に入るものは全て手に入れて。山城京子の死体を研究の元手にしようとした矢先――。
彼は、最強の由縁を知ることになる。
その瞬間。今更ながら英明は、自分が乗る船がツギハギだらけだと自覚し、恐怖した。
英明は、臆病な男だった。
恐怖は、エリザに読み取られていただろう。
同時に自分が抱える欲望も。
その時彼女が浮かべた嘲笑は、今も英明を惨めな気持ちにする。
見下しやがって……! という怒りと。同時に彼女の支配から逃れねばと思い立てたのは、エリザが完全に目の前から消えてから。
今にして思えば、恐怖のあまり彼女の目の前で害意を浮かべる事が出来なかったという、情けない理由なのではあるが、それがまたしても、幸運な方に転がった。
弱者でありすぎたからこそ、英明はエリザから逃れられたのである。
策を弄した。
持ちうる頭脳を全て使い、かの最強を破滅させるために。
それが出来れば、自分の願いはきっと届く。
そう信じて。
そして……最強は倒れた。間違いなく。
報告ではあるが、致命傷を受け、再生力も失われている。もうあれは助からないだろう。
切り札の一人たる、強襲部隊の隊長はそう言った。
これで自分が恐れるものなど、もうなくなった筈だったのだ。
なのに……!
「嘘だ……!」
声が震える。夢なら醒めてくれと、拳を血が出る程に握り締めた時、目の前にいた男――。遠坂黎真が顔を上げる。
その瞳は、かの忌々しい最強の女と同じ。サファイアを思わせる蒼。そして……。
「止めろ、虫酸が走る」
悪態じみた言葉を、まるで傍に誰かがいるかのように青年は呟く。それは、英明に青年の口にしていた「生きている」という事実を裏付けるものに他ならなかった。
「いやだ……!」
弱音が漏れる。英明は恥も外聞もなく、来るな、来ないでくれ。そう叫ぼうとした。だが、声が出なかった。
青年が背中に褐色の翼を広げた時。英明は否応なしに悟ったのだ。
アイツは……エリザは青年の中にいる。
それは、恐るべき存在の力が、考えうる限りで最悪な者の手に渡ってしまった瞬間だった。




