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名前のない怪物  作者: 黒木京也
第一章 魅惑の檻
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1.真夜中の音

 不意にカサリという音が聞こえ、微睡みかけた意識が現実に引き戻された。

 授業のレポートでほどよく疲れた身体を休めるべく、ベッドで横になった矢先の事だった。

 最初は、風の音かと思ったが、小さな物音はどうやら外ではなく、僕の部屋からしているらしい。

 何かが擦れるような音は絶えず鳴り響いている。大きくもないが、かといって小さすぎもしないその異音に、僕は訝しげに眉を顰めた。

 マンションに一人暮らしの大学生。部屋は角部屋、隣は空室。まさに静寂の世界と言い切っていい環境に僕は住んでいる。そんな部屋にこういった物音がするということは、僕以外の生き物が部屋に侵入している。という結論が導き出されるだろう。


 一番可能性が高いのはゴキブリだろうか。いや、音の大きさからして、鼠の可能性もある。一応部屋は清潔に保っている自覚はあるので、ああいった害虫・害獣の類いが入ってくるはずはない。入ってくるはずはないのだが、相変わらず部屋には何かが擦れるような小さな物音が響いている。これはどう説明すればいい?

 ベッドの上で仰向けのまま、僕は暫くの間耳を澄ます。音は全く止む気配がない。それこそ、安眠が妨害されかねない程に絶妙な間隔で耳に入ってきていた。

「……うるさいなぁ」

 疲労による億劫な気分を抑え込みながら、僕はベッドから静かに起き上がった。

 電気を点け、部屋の片隅から新聞紙を引っ張りだす。それを棒状に丸め、部屋をゆっくり見回してみる。……何もいない。

 続けて天井を見る。見慣れた白い天井。相手が鼠なら上れはしないだろうが、ゴキブリならば天井すら這い回れるだろう。しかしそこにも生物の影や形はなかった。

 残るは本棚やクローゼット、あるいはベッドの下だろうか? そう僕が考えたその矢先、再び何かが擦れるような音が、僕の耳に届いた。


 視線を向ける。新聞紙を握り締める力が、自然と強くなるのを感じながら、僕はその音の発生源を睨んだ。

 音は、ベッドのすぐ上に備え付けられたエアコン。その中から響いているようだった。

 電源は入れていないので、機械そのものの音ではないのは明確だ。ならばやはり、何らかの生き物があの中に入り込んでしまったのだろう。

 丸めた新聞紙をテーブルに置く。これでは駄目だ。もっと細くて、なおかつ硬い何か――。

 ふと、僕の目に止まったのはテーブルの上に置かれたペン立て。そこに入れられている物差しだった。

 これが適任だ。

 二、三度確認するかのようにそれを握り締め、静かにエアコンを睨む。

 お前に恨みはない。けど、僕はさっさと寝たいのだ。害虫風情には悪いが、ここで退場願おう。

 大きく深呼吸した後、僕は手にした物差しをエアコンの噴出口に勢いよく差し入れた。

 何度か出し入れし、手応えを確かめる。ゴキブリなら勿論、上手くいけば鼠だって殺せる勢いで突いてみたが、不思議と何かを捉えた感触はない。

 上手く避けられたのだろうか? ならば。と、続けて真横に動かしてみるが、同じく手応えはなし。はて。と思い耳を澄ませてみると、物音はパタリと止んでいた。

 逃げてくれたのだろうか。

 ならいいかと安堵の溜め息を漏らしながら、僕はエアコンからそっと物差しを引き抜いた。

「……ん?」

 その時、僕は不思議な違和感を覚えた。物差しは確かに引き抜けた。引き抜けたのだが、それの見た目が様変わりしていた。

 形が変わっただとか、色が変わっただとか、そんなことではない。具体的には、物差しの丁先端――。丁度エアコンに差し入れ、掻き回した部分に、何かが付着していた。


 白にも、銀色にも見える〝ソレ〟は、エアコンの中の埃なども引き連れて来たのか、えらく汚れている。しかし、それ以上に僕の目を惹き付けたのは、その白とも銀色ともつかない物質が、明らかに粘性をもって物差しにこびりついている事だった。

 何だ? これは……?

 思わずソレを凝視する。どこかで見たことがあるような、無いような。そんな既視感を覚えながらも、僕はそっとその物質に指で触れてみた。

 絡み付き、纏わりつく感触が、僕にえもしれぬ不快感を与える。

 思わず首を傾げた直後。再三僕の耳に届いたのは、あのカサリという音。それもまた、頭上のエアコンからだった。


 導かれるかのように、僕は顔を上げる。――そして、それを見てしまった。


 エアコンの噴出口。そこから、黒くて長い何かが覗いていたのだ。

 髪の毛では勿論ない。アレは……脚。そう、脚だ。

 僕は瞬時にそう直感した。黒くて長い、不気味な虫の脚が四本。それが空を掻くように蠢いていた。

 脚は目測だが、三十センチは位はあるだろうか? 太さは人間の指と同程度。更に先の方には鋭い鉤爪のようなものがあり、そのフォルムに凶悪さを加味させていた。

 ゴクリと。唾を飲む音がやけに大きく聞こえる。気がつけば、手にした物差しを力強く握り締めていた。柄にもなく動揺してしまっているらしい。

 僕は大きく深呼吸し、未だに何かを掴もうとするかのように蠢く、黒い脚を睨む。

 黒い脚が続く先――。エアコンの奥には何も見えない。だが、そこには確かにいるのだ。こちらを伺っているのか? それとも脚を闇雲に動かしているだけなのかは分からない。だが、少なくともあれは作り物の動きではない。間違いなく生きた何かが、そこにいた。

「蜘蛛……なのか?」

 思わずそんな一人言が漏れる。信じがたいが、該当しそうな虫はそれくらいしかいない。考えてみれば、さっきのネバネバした物質は、蜘蛛の糸だったのだろう。

 脚の動きは、ますます早くなっていく。

 まるで手招きするかのようなその動きに、僕は呆然と立ち尽くしたまま、ただ見ていることしか出来なかった。

 あり得ない。という考えと、今まさに目の前にそれがいるという根拠が、頭の中でせめぎ合う。

 こんなに大きいサイズは見たことがないし、聞いたこともない。だが、目の前にはそのあり得ないサイズの存在がいる。これで混乱するなという方が無理な話だろう。

 身体は金縛りにでもあったかのように、その場から動けなかった。どれ程の時間が経っただろうか? 永遠に続くかと思われた、その脚との無言な対峙。それは、脚の方がゆっくりエアコンへ戻っていくことによって、ひとまずの終わりを迎えた。

 不意に、物差しが床に落ちる乾いた音が僕の耳に届く。緊張の糸が途切れたのか、強ばっていた身体が、脱力してしまったらしい。

 すると、何かが蠢くような不気味な物音がまたしても響いてきた。音はエアコンの奥深くへと消えいるように小さくなり、やがて何も聞こえなくなる。

 今度こそいなくなった? 一瞬よぎった、楽観的な考え。僕はそれをすぐさま否定する。

 違う。あのサイズで、エアコンから出られる訳がない。恐らくあの蜘蛛は、あの中で息を潜めているのだ。

 唾を飲み込む音が、いやに大きいような錯覚に陥る。

 静寂に包まれた部屋。その中に、僕と、僕でない生き物の気配が存在している。それは例えようのない不安感を煽るようで、どうにも落ち着かなかった。 

 前触れは、特になかった。

 エアコンの中に突然現れた大きな蜘蛛。

 どうやって入った?

 そもそも、どこから来た?

 疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消える。

 そこで初めて、僕は身体が震えていることに気がついた。


 虫など平気だった筈なのに。僕は今、確かに目の前の存在に恐怖していた。


「何なんだ……? お前は?」


 通じるはずも無いのに、僕は思わずそんな問いを投げ掛けていた。

 当然ながら、返答はない。ただ、無音の空間がその場を支配するのみ。

 それはまるで、これから起こる〝良くないこと〟を暗示させるような。そんな不吉な沈黙だった。

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