81.共に先へ
『愛してるわ。だから……痛く、激しくして? 貴方が決して、私を忘れないように……』
全てを語り終えた後にエリザが残した最期の言葉は、僕の耳の奥にこびりつき。心に深い深い爪痕を残した。
彼女は最後の最期までブレることなく、僕を翻弄し、惑わせ。そして奈落に突き落としたのだ。
全くもって酷い女性だったと思う。僕の人生でもダントツでナンバーワンに躍り出る程に。
忘れられるのが怖いと泣いていたが、どの口がほざくのだと問い詰めたい。
だってもう、あんなことをされた以上、僕は彼女を消し去る事はないのだろうから。
彼女は僕を極上の恐怖で苦しめて。その真っ直ぐ過ぎる想いで僕を魅了した。そして、自らの死によって、僕を永遠に捕らえることに成功したのだ。
「…………ふざけやがって」
涙で滲む視界を何度か拭う。口から出てくるのは悪態ばかりだ。
甘く痺れるような感覚が、全身に広がっている。エリザを看取る短時間で、肉体と精神を有り得ないくらい消耗しすぎた。
得たものも大きく。失ったものも大きい。それでも、立ち止まっている訳にはいかなかった。あれは、僕が選択したことだ。
沸き上がる吐き気を抑え込み、僕はふらつく足取りでエリザを看取った木立を抜ける。他の皆はどうなって……。
「レイ……何でまたいなくなるの?」
視界を黒が覆い尽くす。
足元から煙が立ち上るように現出したそれは、返り血で汚れた美しい少女の姿をしている。
怪物が……虚ろな漆黒の瞳を揺らめかせながら、僕の目の前に立っていた。
「い、いや……君が飛んでっちゃって……」
「あの女、あぶないから。だから皆殺しなのに……レイがいなくなってた。リリーを吊るして聞いたら……女を抱いて森に入ったって……!」
怪物の背中から六本、蜘蛛の脚が生えてくる。いつもの僕ならば「ヒエッ!」と、悲鳴を漏らすところだが、今はきっと感覚が麻痺しているに違いない。
恐怖よりも、愛しさが勝る。壊れてしまった訳ではない。ただ、彼女が嫉妬し、怒り狂うのは、元々取り込んだ米原侑子の性質から来ているのだろう。
本質は愛が深い、だけど自分には自信がない臆病な子。だから力をかき集めるのだ。僕が離れていかないように。
それが今は何となくわかるから、僕はそっと彼女を引き寄せた。
「…………あ」
最初はポカンとしていた怪物は、すぐに破顔して、僕の抱擁に身を委ねる。血と花の匂い。それをいっぱいに吸い込みながら、僕は彼女の背中。蜘蛛脚の付け根を優しく指で掻く。「はう……」と、艶かしい声が怪物から漏れた。それに思わず身体が震えるが、やめるなとばかりに怪物が僕の肩を甘噛みするので、僕らはしばらくの間そうしていた。
ふと、遠くに視線を向ける。
そこはまさに死屍累々の地獄絵図だった。そこに……他の皆もいる。
カオナシ達が汐里の指示を受けてせっせと京子の死体を集めていて。シュバルツはハスキー犬の姿のまま、ぼんやりと月を見上げている。
その傍らでリリカは木に逆さまに吊るされていて、涙目でこちらに助けを求めているし、洋平はまるで映画のワンシーンのようにこれまた逆さまで地面に上半身だけ埋められていた。……これは多分、怪物の仕業なんだろう。
「あの、アイツ。名前忘れた……」
「洋平かな?」
「ああ、うん。そんな名前。リリーであそ……質問してただけなのに、私に襲いかかってきたから」
それでああなったのか。
だが、ああして生かしている辺りは、汐里が言う通り、少し位は話が通じる……ようになったのかもしれない。
「後で掘り返してあげてね」
「やだ。出たいならかってに出ればいい」
「いや、でも……まぁ、いいや」
洋平なら案外自力で脱出出来そうだが、最悪僕が助けよう。それよりも今は……。
怪物を、そっと引き離す。名残惜しげな顔をしたので、頬っぺたを優しくつついてあげれば、また楽しげな笑顔が花開く。それを横目に僕は生臭く湿った地面を踏み出した。
最初に駆け寄ってきたのは、汐里だった。
「おや、案外かかりましたね」
「ちょっと話が長引いて。……あと少し、厄介なことも」
「そうですか。……まぁ、深くは聞きませんよ」
彼女の目線が、まるで検分するかのように僕の爪先から頭のてっぺんまで行き来する。最後にズボンやジャケットについた解れを見て、汐里は少しだけおかしそうに笑った。
「こだわりでもあるんです? そこ」
「……なんだろうね。馴染み深すぎてるのか、僕がやるとこうなるんだよ」
他愛ない話で肩をすくめれば、背後から怪物の手が伸びてきて、僕の首をきゅっと絞めた。
「す、少し余裕持とうよ」
「私はまだおこってるの。レイから、あの金髪女の匂いがする。説明して」
「あー。そこそこ一緒にいたから……かな」
「違う。それだけじゃない。血の匂いがべったり」
「……うん、だろうね。だって……」
「レイィ……たすけてぇ~……!」
彼女には僕がとどめを刺したから。そう答えようとしたところで、リリカの涙声が割って入る。「血が上るのぉ……!」と訴えながら、元蜂の女王は吊るされたまま振り子のように揺れていた。
「王よ、掘り起こしてくれ。クソ女王め、ご丁寧に上半身の殆どに毒を撃ち込んでな。出られんのだ」
「そりゃあまた……ああ、てか今気づいた。君、僕を王って呼ぶの、実は嫌がらせだろ」
「…………何故よりにもよって今気づく」
「……正直でよろしい」
リリカを抱え、吊るす糸を切り、そのまま洋平の脚を掴み、大根抜きもかくやに引っこ抜く。
二人とも、外傷はない。多分京子の集団も無傷で捩じ伏せたのだろう。その辺は流石だ。
「おかえり、レイ。今更だけどあの梟女に勝ったのね」
「感謝する。しっかり殺したか? あんなのがまた襲ってくるのはごめんだぞ?」
思い思いの労いを聞き流しながら、僕は二人に頷いた。すると、その背後からハスキー犬がのそのそと歩み寄ってくる。シュバルツだ。
「やぁ、身体は大丈夫?」
「大丈夫だ。犬種的にもタフなんでね。……あんたも無事でよかったぜ。女の群れにたかられていた時は、てっきりもうダメかと思ったさ」
そう言って、シュバルツは鼻を鳴らす。エディみたいに笑わないのかと思ったが、今思えばエディの方が何かおかしかったのかもしれない。何でアイツは犬なのにニタニタ笑えたのか。
ともかく、全員無事。その事実に安堵していると、背後から湿った視線が向けられているのに気がついた。
「……あー、そんな顔しなくても……」
「気がつけば、他の奴と話する……」
「き、君を蔑ろにしてる訳じゃないんだよ?」
「でも……レイ、最近なんか浮気性……」
「いつも思うけど、どこで覚えるんだよ」
「先日、私と暇潰しに観た昼ドラ辺りですかね」
「汐里ィ……!」
思わず和やかな雰囲気になりかけて、必死に頭を振る。違う、そうじゃないんだ。こんなことしてる場合じゃない。
「それで? 王よ、これからどうする?」
流石に見かねたらしい洋平が助け船を出してくれたので、そのままそれに乗る形で僕は思案する。
やることはあと二つ。
どちらも人数にものを言わせれば、多分簡単に出来るだろう。だが、油断は許されない。まだ安全になったとは言いがたいのだから。
静かに目を閉じる。うなじのざわめきはそのままに、僕は直感で対象を探す。――いた。けど……これは。
「京子……ああ、あの大量にいた女性の名前だけど、彼女はまだたくさんいる」
「……本当に、あの執念には目を見張るものがありますね」
「あいつ、やだ」
僕が少しうんざりするようにそう言えば、怪物と汐里がそれに同意する。僕だってもう嫌だ。だから……ここで根を断つ。
「エリザから聞いたんだ。アイツらはキノコの群体だ。だけど、一体一体が、完全に独立している訳じゃない。あいつらには原木というべき、核になる存在がいる。全員が見えない菌糸で、そいつと繋がっているらしい」
「成る程。ではその母体を叩けば……山城京子の軍勢も止められる。という訳ですね」
「そういうこと。場所も今見つけたから……僕は今から……」
「私も」
「…………い、いや」
「私も」
「……あの」
「だめ。私もいく」
「あ、あぶない……」
「やだ」
「……〝僕ら〟が。行って潰してくる」
正直、彼女にはやって欲しいことがあったのだけど、こうなれば梃子でも動くまい。エリザのような酷い相手ではないのが救いだった。……いや、京子は京子で、別の方向性で酷いんだけども。
ガックリしながら僕が渋々そう言えば、汐里はクスクス笑いながらも僕の肩を叩いた。
「私はどうします?」
「汐里は……隠さないで言って。まだ本調子じゃないだろう?」
「……まぁ、そうですね」
「なら、お願いだ。カオナシ達と一緒に逃げて欲しい。僕らが母体に向かえば、敵の殆どがそっちに向かうだろうし、汐里達は簡単に逃げられる」
「……嫌だと言ったら?」
「……それを言われたら、僕は君に強制できないよ。ただ……君が死ぬと、僕は間違いなく泣くぞ」
「では私は……幽霊なんて概念があれば、それを見て笑い転げるでしょうね」
汐里は基本的に友人であり、お師匠様だ。僕の頼みに答える理由がないのである。今回だって、旅行先から駆けつけてきてくれたんだから。
それでも、祈るように汐里を見れば、彼女は笑いながら首を横に振り、僕に一匹の蜘蛛を差し出した。
「これ……君が支配した蜘蛛?」
「私は自身の心のままに生きると決めてましてね。貴方を見届けるのは、ルイが私に願った事で、それを成すのが、私の一番したい事なんです」
「それじゃあ……」
「貴方が望むなら、命は大事にしましょう。でも、ただ逃げはしませんよ。師匠ですから、弟子の成長を見ないといけませんし」
僕の肩にちょこんと乗った蜘蛛は、マーキングするように僕に腹を擦り付ける。普通なら背筋が凍るとこなのだが、もう慣れてしまっていた。
「どうしようもない時は、その子を潰しなさい。私に急報が来ます。それまでは適当なとこに隠れつつ、残党狩りでもしてますよ」
全員で突っ込んでくなんて、間抜けな真似はしないでしょう? そう含み笑いをしてから、気をつけて。と言い残し、汐里は一歩下がる。……僕の単純な考えは、どうやら彼女にはお見通しだったらしい。
カオナシ達が汐里の元に集まり、何故か敬礼ポーズを取るのを横目に、僕は今度はシュバルツの方を見る。
「君は……」
「好きに生きるさ。もう野良犬だし、エディの仇は取れたからな。ただ……そこのお姫様なしじゃあ、俺は生きれんらしい」
「そうだね。なら、定期的に訪ねて来てくれたら……」
「待て待て。……飯を用意してくれる奴が苦労している時に逃げるほど、俺は犬として終わっちゃいないぞ?」
あまりバカにするな。と、再び鼻を鳴らすと、シュバルツは獣人の姿をとり、僕の方に手を差し伸べた。
「後で、俺の……死んでいった仲間達と、その主人らの墓を作ってやりたい。生きた人間はいなくても、ここの土地を取り返したいんだ。あんたがここで戦うなら、俺はついていくぞ」
「……ありがとう」
毛むくじゃらな大きな手と、硬い握手を交わす。蜜とやらはドックフードに混ぜてくれ。というリクエストに頷いてから、僕は最後に、リリカと洋平の方に向きなおった。
「もう逃げるべきと、進言するわ」
「右に同じだ」
真面目な顔でそう言う二人。それもそうだろう。この二人にとっては、僕らが生きていなければ困るのだから。だけど……。
「そうはいかない。京子は……ここで根絶やしにする」
「あれだけ数がいるのに? どんな因縁があったか知らないけど、キノコでしょ? もうとっくに第二第三の原木やら苗床が作られてると見るべきよ。ここを潰したところで、また来るかも」
「……まぁ、それもあり得るね。けど……今逃げるのだけはダメだ」
「王よ、理由は?」
苦虫を噛み潰したような顔でそう言う洋平。僕はそれに対して「理由は二つある」と、指を立てる。
「まずは、核。これを潰して、本当に京子らが止まるのか。この検証が必要なんだ。核があるのもエリザからの又聞きだからね。まだ原木があるなら、尚更これは知らなければならない」
「……今後の為ってことかしら? なら、もう一つは?」
「松井英明。彼は……ここで仕留める。危険な発想は放置出来ない。彼がいるだけで、京子は更に進化してしまうかもしれない。今この場に彼がいるんだ。逃がす訳にはいかない。寧ろ……逃げられたら、もっと酷いことが起こる気がしてならない」
あくまで直感ではあるけども。と、僕が締めくくれば、リリカと洋平は顔を見合せ、殆ど同時にため息をついた。
「……まぁ、こう反発しても私達に拒否権はないんだけどね。わかったわ。乗ってあげる」
「王よ、再び言うが、頼むから死んでくれるなよ? 俺が貴方をこう呼ぶ理由は……」
「誰にも負けるな。って腹いせ混じりのプレッシャーをかけてるんだろう? 僕が倒れたら、全てが終わるから」
「……胸糞悪いくらいに察しがいいな。その通りだ」
洋平が、疲れたような顔で眉間を指で揉む。普段のボディーガードみたいな毅然とした。何処と無く機械的印象からは離れた人間臭い仕草。それを見ていたら、僕はちょっとだけ、洋平の心に触れてみたくなった。
「どうでもいい事だけど……もしかしてチェス、好きなの?」
「む、お前もやるのか?」
「いや、やった事はないけどさ。…………王が死んだら終わりって口振りから、何となく」
僕がそう言えば、洋平は何処か懐かしむように目を閉じて、空を見上げる。傍らのリリカは、少しだけ悲しげに彼を見上げていた。
「他の蜂達と、よく楽しんでいた。斎藤以外は皆弱くてな。……いや、俺の昔話はどうでもいいか」
命令を。と、僕に顔を向ける洋平。正直、このやり取りが苦手だった。人に指示を出したこともないし、性格上リーダーみたいな役割をした経験もない。
大輔叔父さんがいてくれたら。と思う。彼ならば、どんな風に人を動かすのだろう。
「シュバルツを含めた三人には、後方支援を頼みたいんだ。具体的には僕らから離れすぎない位置で、他の京子らの掃討を」
「二手に分かれる理由は?」
「囲まれて、一網打尽にされない為に。あと、核を破壊したら即逃げるつもりなんだけど、その時は退路の確保をしたい。だから後ろに援軍が欲しいんだ」
「……ねぇ、今気づいたんだけど、これ、後ろでお姫様が暴れて、私か洋平がレイと一緒に……ヒィッ!」
進言しかけたリリカは、怪物に睨まれてすかさず洋平の後ろに隠れる。……そう、僕も最初はそうするつもりだったのだ。ただ、これ以上離れると、本当に彼女が激怒しかねない。
京子も怖いが、怪物も怖いのだ。
「ま、まぁ、女王が前線で暴れるのもアリだろう。……寧ろどこに投入しても大丈夫だと思うがな」
まるでミサイルか何かみたいな言われようだが、正しいから困る。ともかく、単純明快。ゴリ押しに等しい電撃作戦だが、残念ながら僕にはもうこれ以外思い付かない。
ふわりと、後ろから腕が絡み付いてくる。艶やかな黒髪が僕の頬をくすぐり、続けて、フニフニした唇が頬に押し当てられた。
「はやく行こ。邪魔者いないとこ」
「……つかぬことを伺うけど、君は今からやること、わかるよね?」
何だか怪物はこのまま帰る気満々にも見えて、僕は恐る恐る問いかける。すると怪物は、いつもの妖艶な笑みを浮かべながら、うん。と頷いた。
「あの女潰して、匂いが一番濃いとこを食べちゃえばいいんでしょ。そしたら私が操れるようになるから、こんどこそ皆殺し」
……ああ、ダメだこの子。
しかも本気で言ってるからタチが悪い。
「……いいかい? お願いだからよ~く聞いてくれよ?」
頭を抱えながら、また一から説明する。本当に言い聞かせなきゃ、大変な事になるのだから。
結局、説得するのに五分程費やしてから、僕らはそれぞれ出発した。
目指すは核がある、最初に人間達が拠点とした大神村の分校だ。そして。
「…………酷い話だ」
思わずそんな独白が漏れる。ぼんやりとだが、直感が囁いていた。
そこに、待っている存在がいるのを悟ったからだ。
いつかは、ただ疑惑が芽生えただけだった。再会したさっきも、状況も手伝って、離れていた間の事は聞けずじまいだ。だが……今はもう確信が持てる。
雪代弥生。叔父さんの右腕だった彼女は……間違いなく怪物化していた。




