77.血の芸術家の哄笑
正直に言ってしまえば、強襲部隊なんて怖くなかった。怪物が何体来ようが、僕は僕を保っていられたし、何より他の皆といれば、負ける気なんてしなかった。
思想や目的がバラバラのチームで蜂の連中の拠点に突撃する時だって、心は乱れはしても、決して絶望はしなかった。刺し違えてでも彼女を救い出す。この気概が炎となって、あの時の僕を突き動かしていたから。
エリザの時は……多分、今の心境に一番近いだろう。今までにない怖さがあったし、実際に策とはいえ、僕の精神は一度屈服させられた。終わらぬ酷い仕打ちの末に勝ちを拾った、二度とやりたくない戦い。あれが多分、僕の中では人生一番のトラウマになるのだろう。そう……思っていた。なのに……。
「レイくぅん……!
「ああっ、レイくん!」
「レェェエイクゥウン!」
狂乱の輪唱が響き渡る。
「嫌だぁ!」と、恥も外聞もなく逃げようとしても時は既に遅く。僕はあっという間に京子の波へ押し流された。
咄嗟に鉤爪を出そうとするが、既に精神が極限まで追い詰められていた僕に、身体の方はついてこない。結果、振るわれたのは、まっさらな人間の手。攻撃性すら乗せられなかった弱々しい手は、すぐさま複数の柔らかな女の手によって捕らわれてしまう。
「う……あぁ……!」
「あっ、レイくん捕まえた!」
「フフッ、捕まえちゃった!」
「もう離さないよぉ?」
前を見ても、横を見ても京子。京子。京子。
耳に届くは全て京子の声。
鼻腔を支配するのは、死臭と花を混ぜ合わせたような京子の香り。
肌を掴み、弄び、爪を立てて絡み付くのは、何十本もの京子の腕だ。
僕は悲鳴を上げたかった。だが、声が出なかった。
そうこうしているうちに、身体は余すとこなく京子で埋め尽くされ、倒れているのか立っているのかすら分からない状態になってしまう。
視界が京子の顔でいっぱいになる。頭を押さえつけられた状態で、京子は貪り喰わん勢いで僕の唇を蹂躙し。口内を舌で犯していく。
否応なしに痺れを伝播させるような男殺しのキス。僕がせめてと抵抗すべく口を閉じようとすれば、京子はそれを察したのだろう。
巧みに僕の舌を捉えて吸い上げると、そのまま限界まで引き伸ばしてから、歯を突き立ててきた。
「あぎゅ!?」
「いふぁふぁきまぅふ……♪」
目を見開けば、天使のような笑みが見えて。グチャリと、肉が引きちぎられる。間違えて舌を噛んでしまった時に出る、ざらついた音。それが何十倍にも増幅され、僕の中で反響する。
激痛と一緒に、戦慄で身体が急速に冷えていく。一方京子は、奪いとった僕の舌をまるで珍味でも味わうかのように咀嚼していた。
触れ合う唇の先で、コリッ。コリッ。と、気味の悪い音が響いている。吐き気に見舞われた僕は、せめておぞましい彼女から逃げようと身をよじるが、悪夢はそこで終わってはくれなかった。
「レイ、くん……」
囁き声が両側からして、刹那、僕の耳に嵐が訪れる。
耳を飲み込まんばかりにじゃれついて来た京子。蛇かナメクジのように京子の舌が耳の中に差し入れられ、僕の思考ごと掻き乱される。
届く筈もないのに、僕は彼女が頭蓋を突き破り、脳を直接ねぶっているような幻覚を見た。同時に、次に何が起こるかも、ここでわかってしまう。
「や、め……」
「イクよ、レイくん……同時にイッちゃうからね……!」
軟骨を噛み砕く音が、僕の両耳に轟いた。「あぐぅぁお!?」という、悲鳴を押し潰された低い音だけが、口のなかで暴発した。
痛い……痛い……。と、嘆きが渦巻く。そのうちに、生暖かいねっとりとした血が肩を濡らしていき、冷たい息が傷口に吹き掛けられた。
ゾワリとした寒気に僕が涙を流せば、京子達の顔は、興奮でますます蕩けきっていく。
「どうしよう……どうしよう……ねぇねぇレイくん……!」
「止まらないの……!」
「責任とって?」
「目玉……次は目玉がいいわ」
「あたし、鼻!」
「小指欲しいわ! 指切りげんまんしましょ!」
「嘘ついてもつかなくても針千本……ああっ! 針がないっ!?」
「指切った! しょうがないわ。切った指を全部飲ませましょ」
「針……そうだ、骨から作らない? ちょっと前にいいインスピレーションを得たの!」
「そんなのいいから。時代は薬物よ! レイくんの! ちょ~っと狂ったとこ見てみたい!」
「そんなっ! ダメっ、薬もないわ!」
「ないないづくしじゃない! ふざけんじゃないわよ!」
「取り敢えずレイくん食べよ?」
「そうしましょ!」
取り合いが始まる。唇が。歯が、舌が僕を凌辱する。
気がつけば、視界が血で溢れていた。
鼻が噛み千切られ。指をねじ切られた。口には肉か骨かわからぬものを飲まされ、キスで塞がれる。
服などもう、ぼろ布がひっかかっている状態だ。
どうにかなりそうで声をあげるにも、さっきから喉笛に執着してくる京子がいて、それも叶わない。
痛みや絶望が、僕の心を容赦なくへし折っていく。
力任せに振り払いたくても、相手は怪物化した。かつ、僕のトラウマをこの上なく想起させる存在である。力の差も、身に宿した念の重さも違いすぎた。
ああ、無理。
認識した時、僕の中で、どうしようもない気持ちが溢れ出す。
だって考えてみてくれ。一人でも手に負えなかったんだ。それがこんなにポンポン増えて……全部僕に何とかしろっていうのか?
無理だよ。無理無理。
「ちょっと、早く噛んでよ!」
「あっ、また肉が戻って……も~! 引きずり出せない~!」
「再生するから何回も遊べるけど……だめ、これは問題だわ。メスがあればよかったのに」
「どうする?」
「どうしよ?」
僕をぐちゃぐちゃにしながら、彼女達は井戸端会議を開始する。幸い、再生能力だけは据え置きなので、現状は恐ろしいことに、致命傷だけを免れていた。
近くにオリーブオイル付きのナイフかメスがあったら、僕は今頃死んでいたに違いない。
キノコの怪物は、多分火力はちょっと強い人間程度。正面から怪物を打ち倒す力は……。
「あ、そうだ。……ねぇ、レイくん。あたしと赤ちゃん作らない?」
諦感が、一瞬で砕かれる。この子は今、何と言った……?
僕が目を見開くのを見た京子達は、クククと笑いながら、嗜虐に満ちた目で僕を見下ろしていた。
「ちょっと反応見たいからあなた下がって」という声がして、喉笛に食らいついていた京子が引き剥がされる。だが、それを目で追う暇は与えられなかった。
「んっ……」と、京子が身体を震わせる。すると、その白い裸身から、先端が緑色の菌糸らしきものが、ポコン。ポコンといくつも顔を出し始めた。
「まぁ……正確には、あたしの赤ちゃん身籠って。が、正しいかな」
「あっ、でも、レイくんのもあたしに取り込んじゃってよくない?」
「つまりダブル妊婦?」
「レイくんは妊夫ね」
「非日常だわ! 貴女天才? あ、あたしか。当たり前ね」
かしましい騒ぎなど、もう聞こえない。僕はもう、何度目かになる恐怖の奔流に飲まれ、身体がバカみたいに震え出していた。
「僕が……。じ、冗談だろ? 京子……?」
「は? そんな訳ないじゃん。本気よ?」
「頭おかしいよ……!」
「天才ですから」
話が通じない。そんなわかりきったことを今更になって再確認する。身体が羽交い締めを通り越して、肉の鎖と化した京子達は、僕に絡み付いたまま、艶かしく身体をくねらせる。
「やり方は色々あるの。あたしのイチオシは、椎茸形式かな」
「椎茸って原木にドリルで穴を開けて、そこに菌糸の塊みたいなのをトンカチで打ち込むんだけど……」
「ドリルがないのよねぇ。だから今は、傷口ほじくって、再生前の皮下に打ち込んであげる」
「勿論……全身に、ね♪」
甘くて酸っぱい香りが更に強くなる。興奮した京子は荒い息を整えもせずに僕にますます身体を擦り寄せる。
肌のいくつかの箇所に、女の湿りを感じ、僕は思わず顔を伏せた。すると、今度は視界の端にゼンマイの形をした緑が入ってくる。一人や二人ではない。今や全員の京子が、僕を苗床にすべく、その身から菌糸を伸ばしていた。
「あ……ひ……」
塗るついた冷たい何かが、ピタリ。ピタリと僕にあてがわれる。それは、今まで生きていて絶対に感じた事のない、未開拓の恐怖だった。
「あっは! その顔! その顔よ!」
「それが見たかったの!」
「さぁ、始めましょ。だいじょーぶ。あたしの中も触手もきっと気持ちいよ?」
「メロメロにしちゃうんだから……」
身体中に、再び噛み傷が刻まれる。鮮血が花火のように舞い、ただでさえ血塗れだった京子の身体を真っ赤に染め上げていく。
そうしてほぐし、広げられた傷口に弾力のある異物が捩じ込まれて――。
「私の旦那様に……ナニさらしてくれてんのよぉお!」
その時だ。怒髪天を衝く勢いで、巨大な褐色の塊が乱入してくる。エリザだ。
翼を広げ、下半身を鳥の怪物に変貌させた彼女は、隕石のように菌糸の饗宴に割って入る。
「彼で子作りとかそんな羨ま……! ……んんっ! 返しなさい! 返して! レイは私のよ! キノコ蜘蛛とか笑えないわ! 彼は私と、細やかで幸せな家庭を作るんだからぁ!」
獲物を捉え、一撃で窒息死に至らしめる鉤爪が、僕のいる一帯を京子ごと鷲掴みにする。
直後、締め上げるような圧迫感に襲われた。
「あぎ……げぇ……」という、潰れたカエルのような声を上げながら、数人の京子の頭部や四肢が切断される。擂り潰された残りの肉が、出来の悪いスライムみたいにぶちまけられ、肉片や首を巻き込んで、小規模な水溜まりを作るのが見えた。
「エリ……ザ……」
「ごめんなさい、遅くなったわ。枷が緩まるまで、助けたくても助けられなくて……」
僕とジューサーにかけられた果物のようになった京子を掴んだまま、エリザは音もなく体育館の上を飛ぶ。
枷……そうだ。彼女もいた。マズイ、このままじゃ京子だけでなく、彼女までも野放しに……。
「待って! 今だけはダメ! 後で好きにしていいから、今はじっとしてて! 貴方は私が絶対に守――」
「あたしの彼氏返せやこのクソアマァア!」
回らない頭を正常に戻そうとしていたら、地の底から沸き上がるような、低くドスの聞いた声が響く。
真下。すぐそこに……京子が迫ってきていた。己の身体をピラミッドみたいに積み上げて、僕の方へ手を伸ばしている。
「う、うわぁああぁあ!」
一人が届かなければ、もう一人がそれを足蹴にし、それでもダメなら更なる一人が二人を土台に先へ進む。うねりながらゆっくりと伸びてくる肉の連鎖に、思わず情けない悲鳴が上がった。
もうやだこの娘。怖い。無理。勝てる訳がない。そんな感情が支配する中で、身体は重力に逆らい、更に上へと浮かび上がる。
エリザが頬に汗を伝わらせながら、活路を探すように必死で辺りを見渡していた。
「松井さんは、もう無理か。地上に降りて倒してるうちに囲まれる。なら……」
出るわよ! そう叫んで、エリザ体育館の窓に突進する。ガラスが砕け、夜空にばら蒔かれた。月明かりを乱反射させる破片の雨を降らせながら、エリザはゆっくりと旋回しつつ、舌打ちした。
「悪夢だわ」
苦々しげな呟きを聞いた僕は、恐る恐る辺りを見渡して。
「そん……な……」
今僕らを取り囲む現状に絶望する。
地上には、さっきいたキノコに支配された人間達が、ケタケタ笑いながら僕らを見上げている。全員のうなじや肩が、人一人分位の大きさに膨れ上がっていた。彼処に何が入っているかなんて……もう考えなくてもわかる。
肥大した肉胞からは、見覚えがありすぎる女性の腕が、卵から這い出そうとする雛鳥の嘴のように、蠢きもがいていた。アイツら全員の中にも、京子がいるのだ。
地上を進むのは地獄。ならば空は? ……結論から言うならば、そちらも難しそうだった。
機械的な駆動音が周囲からする。闇夜に紛れた黒い円盤形の群れが隊列を組み、僕らの周りを巡回していた。地下にある蜂の根城で遭遇した、開拓者を搭載したドローン達。それが僕らを完全に包囲していた。
「……せっかく能力が戻っても、機械や下にいる変態キノコには無意味と。……酷いわねぇ」
私、基本的にはインドア派なのに。と、ぼやきながら、エリザは身体を屈めて腕を伸ばし、鉤爪から僕を引っ張り出す。
「……ちょっとだけ。許して?」
血やら体液でベトベトになった僕を、エリザは躊躇なく抱き締める。地獄に等しい世界で、彼女は幸せそうに笑いながら、そっと僕の頬に唇を落とす。
手で拒む暇は勿論、避けることも不可能な、短い。ほんの一瞬だけのバードキス。
僕が呆然と目をしばたかせていると、エリザは悪戯が成功した子どものように舌を出し。そのまま甘えるように額をグリグリ押し付けてくる。
「うんっ、充電完了。今なら負ける気がしないわ」
嘘だ。
僕の能力が由来していない直感がそう囁く。凄まじい数の暴力に加えて、相性は最悪。
彼女が最強だった由縁は、誰にもその能力がうち破れなかったからであり、こんな状況に持ち込まれたら、そんな称号は容易く吹き飛んでしまう。事実、彼女の手は、少しだけ震えていた。
「待って。エリ……」
言葉を遮るように、エリザは僕をしっかりと抱きしめる。
翼が風を捉えるのを肌で感じた時。完全に心が無防備になった僕の耳元で、指が弾けるような音がして――。抗えぬ命令が下された。
『小さな蜘蛛に。そのまましばらく動かないで』
その途端、僕の身体は意志に反してみるみるうちに小さくなり、やがて、手のひらサイズにまで縮小する。
エリザはそのまま蜘蛛になった僕をつまみ上げて。「大サービスよ」と、おどけるように言いながら、僕を柔らかな双丘の片側に突っ込んだ。
「安心して、レイ。貴方は……貴方だけは絶対に守ってみせる」
私の命に変えてでも……!
エリザはそう僕に囁いてから、大きく息を吸う。
己を鼓舞するかのように、彼女の身体が小刻みに揺さぶられる。鳥類特有の高い体温は、そのまま彼女の感情に呼応するかのように、更なる上昇を見せた。
出し惜しみなどない。肌でビリビリと感じるそれは、紛れもなくエリザが全力を出した証だった。
「――かかって来いやぁ!!」
普段の飄々とした態度からはかけ離れた、激情に満ちた叫びが上がる。
銃声が響き、地上にいる狂った女達がざわめく中で、最強の怪物は空を切り裂くように飛翔した。




