73.I’m a……
「I’m a B.A」
流暢な発音と共にジョンは跳躍し、地面に着地する。
直感から、次に取る行動が突進だと予測。回避行動を取った僕が見たのは、興奮した猪のようにその身でたたらを踏み、転がるように方向転換したジョンの顔だった。
……まさかコイツ、意識がない?
一瞬だけそんな考えが浮かぶが即座に否定する。
「I’m a B.A. I’m a B.A……!」
謎めいた言葉を発し続ける彼の口から、唾液が泡のように弾けて滴る。
確かに生きている。
けど、僅かな対峙で読み取った、あの理知的な雰囲気や、隙のない身体運びがそこにはない。外見だけ似ている別人と言われたら、即座に信じられるくらいに、今の彼は酷かった。
「……I’m a B.A!」
拳を振りかぶりながら、こちらへ走るジョン。僕はそれを見据えたまま、静かに手を振るう。
植物を使う様子もない。これでは、ただの荒くれ者と何ら変わらず。拘束は容易だった。
「I’m a……!」
「ちょっと黙って。何があったんです?」
「I’m a B.A……」
「…………失礼」
もがくジョンに対話を試みるが、反応はなし。やむ無く目の前で指を動かしてみるが、目は焦点が合わず、虚ろに見開かれていた。
困り果てた僕は軽くジョンの腕に噛みつく。ほのかなカビのような匂いに顔をしかめつつ、簡単な命令を施してみるが、これもダメ。
一瞬だけ身体は動くが、すぐにジョンは不気味な笑みを顔に張り付けたまま、「I’m a B.A……」と譫言のように繰り返すだけだった。
「……エリザ、何か知ってる?」
「いいえ。というか……どうみても正気じゃないわねぇ」
「でも強襲部隊は、君が操ってたんだろう?」
「誤解よ。前身となる組織が確かにあって、そこに松井さんをねじ込んだのは私だけど、体のいい戦力として数えてただけ。殆どは松井さんが仕切ってるわ」
「入り込ませたのは?」
「お、面白そうだったから……」
怒る? おこなの? と、白々しく震えながら僕を伺うエリザ。説明を。という無言の圧力をかければ、彼女は観念したように肩を落とした。
「松井英明の好奇心と着眼点は見事だったわ。彼はそれによって怪物……アモル・アラーネオーススの名を業界に知らしめると共に、多くの怪物達の存在を白日に晒さんとした。私はその考えに賛同しただけよ」
「何の為に?」
デメリットしか見えないではないか。という僕の顔に、「そうかもしれないわね」と、エリザは頷く。
「けど、必要だと思ったの。いつかに彗星が空を走った日、覚えてる? 多分貴方が怪物として生まれて間もない頃よ」
「……ミハイル彗星だっけ?」
結局何なのかわからないまま。あれと同時にカオナシ達が現れたから、関係あるのかな。と、思ったが、当の本人達はピピュ? と、首を傾げるだけだった。
あれ以来怪物の行動が活発になった。とは聞いていたけど。
するとエリザは少しだけ思案してから、ゆっくりと口を開いた。
「レイは、あれを見てどう思った?」
「え? 別に何も……ああ、そう言えば、たまに声は、聞こえた」
「ソッチヘイクヨ……って?」
僕が神妙な顔で頷けば、エリザは私も聞こえたわ。と言いながら目を細めた。
「私はね。あの星が何らかの怪物であるようにしか思えないの。そう考えたら、あの声は何だったのか」
「そのまんまの意味じゃないの?」
「どうして私達に?」
「それは……」
どうしてだ? 思わず考え込むが、答えは出ない。この感覚は久しぶりだ。怪物の正体を知ろうと躍起になっていた頃を思い出す。
「私は、二つ考えたわ。地球上に、……星の探し求める何かがいる。あるいは……単なる私達、全怪物への静かな宣戦布告」
「……まさか」
話が飛躍しすぎだ。と、僕が茶化すが、エリザは大真面目だった。
「そう思ったら、気になって、調べずにはいられなかった。加えて、人間である松井さんも、あの声を聞いたと言っていたわ。この男も、何かあるかもしれない。そう思ったから、私は強襲部隊のトップを松井さんにすげ替えた」
情報と傀儡が欲しかったのよ。人間と怪物。両方の。そう言ってエリザは空を見る。
「……でも、結局の理由は面白そうだからなんだろう?」
「…………っ」
その場に沈黙が訪れた。オイ。と、声をかければ、エリザは顔をひきつらせたまま目をそらした。
「君、さっきの理由は今考えただろう?」
「そ、そんなことにゃ……ないわ」
「……松井さんの好奇心が見事って言ってたね。まさか、彼を怪物関係の要職につかせれば、一体どんなことが起きるだろう……なんて、君が考えそうなことじゃないか?」
「……貴方みたいな勘のいい旦那様は大好きよ」
僕は無言でエリザの頬っぺたをつねり上げた。
「いひゃい! いひゃいぃ! DV! これDVだわ!」
「やかましい」
ベチンという音をさせて解放すれば、エリザの恨みがましい目がこちらを見る。だが、僕がにらみ返すと、いじけるように指を突き合わせ、そっぽを向いてしまった。
「だって、あの手の人間って色々とやらかしてくれたり、たまに大どんでん返ししてくれるから……つい」
暗躍が好きとか言ってたけど、今はっきりとわかった。コイツ……意外とノリで生きているというか、結構な快楽主義なのだ。
「じゃあ、その松井さんが何をやっているかは知ってる?」
「…………っ」
「……オイ」
「わ、私ね! こう見えてスタイルには自身があるの! 上から……」
「どうでもいい。こっちを見ろ」
「あぅう……」
涙目でしょぼんとするエリザ。何ともいえぬ気分になりながら、僕は内心で困り果てていた。
「君、もしかして組織じゃ孤立してた?」
「し、失礼ね! ちゃんとトップと関わりがある門外顧問的な風格を……」
「でもそのトップの情報はないと?」
「し、仕方ないじゃない! 松井さんったら私の能力を知るや否や、直接の対峙は徹底的に避けて、電話かスカイプばっかりで……!」
「周りから集めなかったの?」
「しようとしたわよぅ! けど……そういう態度は私以外の面々にも徹底してたみたい。秘書や助手も持たなかったし、拠点も転々としてたから、本当に情報は断片的なものばかりで……」
あんなアクティブな引きこもりは初めて見たわ。
疲れたようにそう言いながら、エリザはジョンに視線を移す。I’m a B.A。という譫言じみた言葉は、まだ続いていた。
「わかっているのは、彼は怪物に関わる実験を繰り返していること。そしてその計画の名前が……プロジェクトBerserker・Armaments。略して……」
「B.A?」
直訳すれば、狂戦士と武装だろうか。
「I’m a B.A……I’m a B.A……I’m a B.A……!」
ケタケタと笑いながら、ジョンは濁った目でこちらを見る。
歯を剥き出しにし、噛みつかんとばかりに身を捩る憐れな姿は、戦士というよりはゾンビのようだった。
『カイナ達の身体には、特殊な爆弾とナノマシンサイズの発信器が取り付けられてるの。だから強襲部隊に所属したら最後。組織からは逃げられないし、不要と判断されたら殺処分されちゃうんです』
蛇少女の言葉が甦る。あれは……爆弾とはもしかしてこの事を指していたのだろうか。思考の渦に僕が沈みかけた時。僕は不意に重大な事を思い出した。
「――そうだ、強襲部隊の、女の人は……!?」
ジョンがここにいたという事は、女の人も解放されている?
一瞬だけそんな不安が胸を過るが、ジョンの様子を見る限り、彼に今、理知的な行動を取れるとは思えないことに気づく。
何だ、これなら安心……。
「いや、まずい……」
「……レイ?」
焦ったような声を絞り出した僕の横顔を、エリザが不安そうに覗き込む。
説明する暇も惜しく、僕は急かされるように走り出した。
再度自分にバカが! と、悪態をつく。
考えてみて欲しい。もしも理性が蒸発した怪物の側に、拘束された生身の女性がいたら?
何も起こらないなど、有り得ない。寧ろ怪物は、高い確率で、その女性に襲いかかるだろう。
「くそっ……最悪だ……!」
逃げられて敵に回るか。喰われて情報が得られないか。どっちに転んでも悪い方にしか行かない未来に、僕は唇を噛み締めた。
「間に合え……!」
全力で大地を蹴る。何を祈るべきかすら分からなくなってきて、僕はただひたすら、夜の帷を疾駆した。
※
甘い香りと共に小野大輔が目を覚ました時、最初に視界に入ったのは、美しい少女の上半身だった。
燃えるような赤毛は丁寧なシニョンにされていて、身に纏う少女らしい薄桃色のブラウスにマッチしていた。だが、その下半身は何処までも凶悪な蛇の胴体だ。
愛らしいタレ目が、月下で柔らかい弧を描き。大輔はその無邪気な笑みに毒気を抜かれたかのように呆けていた。
強襲部隊。確か、桜塚龍馬といた、蛇の怪物少女……カイナだ。
「お前……っ!?」
何故ここに。という言葉を発しようとした瞬間、大輔はザラザラした鱗が肌に絡み付いているのを感じた。
絡み付かれている――!
そう察知した刑事の身体は一瞬で戦闘用に切り替わり……。
「あっ、待ってぇ。待ってくださいよぉ」
慌てたように手をパタパタさせながら、カイナはあっさり大輔を解放し、ずりずりと距離を取る。
身体をくねらせ、歪んだとぐろを巻くカイナの顔には、敵意が感じられず。自由になった大輔は、前への注意を怠らぬまま、ゆっくりと辺りを見渡した。
「ここ……は……?」
「大神村……の、外れですねぇ」
結構遠くまで来ましたぁ。と言いながら、カイナはゆっくりと、身体を屈める。そこには、眠ったままの龍馬が横たわっていた。
「ご主人様。ご主人様。起きてください」
ユサユサと揺すりながら、カイナは舌をチロチロさせる。恋慕だろうか。レイの傍に寄り添う、少女の怪物を思い出すような、熱が込められた眼差しだった。
「……他の、熊の奴は?」
「わかりません。カイナは取引に応じただけですから」
「……そうか」
ガクリと、大輔は肩を落とす。レイは恐らく、言っていた事を実行したのだろう。そう思うと、大輔は拳を握り締めざるを得なかった。
「……お優しいんですねぇ」
「……何が正しいかわからない。だから、必死に今あるものをかき集めて守る。そうしたいだけだ」
「へぇー」
たいして興味もないくせに聞いてきたのは、カイナなりに場をもたせようとしたからだろうか。
そんな中で、二人の間で呻くような声が上がる。
龍馬が目を覚ましたのだ。
「ご主人様っ!」
パッと嬉しそうに飛び付き、頬擦りするカイナをやんわりと手で制しながら、龍馬は素早く辺りを見渡して、すぐに大輔に目を向ける。
暫しの無言の対峙が訪れて。やがて龍馬は脱力したかのように肩を竦めた。それだけで、大輔は説明の不要を悟った。
対策課においても、龍馬は優秀な男だった。
「警部が、助けてくれたので?」
「助けようとしたのは事実だが、残念ながらワンパンノックアウトよ。頑張ってくれたのはそこにいる蛇のお嬢さんだ」
大輔がそう言えば、龍馬は能面のような顔でカイナを見る。
カイナは一瞬だけビクンと身体を跳ね上がらせてから、やがておずおずと小さくお辞儀した。龍馬はそれを無言で見つめ……やがて、観念したかのようにため息をついた。
「…………よくやった。カイナ」
「――っ!」
声にならない喜びの表情を浮かべながら、カイナが龍馬の胸に顔を埋める。
事実としては、レイがカイナの方へ交渉を持ちかけたのだが、細かいことはいいだろう。
「ところで警部。助けて貰い、こんなことを言うのも心苦しいが。ここに来たという事は、尋問を受ける覚悟はあると受け取ってよろしいでしょうか」
「……まぁ、そうなるのが妥当か」
手錠でもかけるか? と、おどける大輔に、龍馬は暫く考え込み……。そこで不意に龍馬の懐で鋭い着信音がする。
「はい、此方桜塚。……はい。…………はい」
淡々と事務的に返事をする龍馬。強襲部隊の上ということは、松井英明だろうか? そう直感した大輔は耳をすますが、生憎会話は聞き取れなかった。
「わかりました。では……離脱を」
そう言って通話を切った龍馬は素早く立ち上がり、「立てますか?」と、大輔の方へ手を差し伸べる。
「手錠は必要ありません。ここは今から、危険地帯になります。何があるかはわかりませんので、警部も気を抜かぬようお願いしたい」
「…………は?」
あまりにも唐突な話についていけず、大輔が目を白黒させる前で、龍馬はカイナの方に詰め寄った。
「カイナ。俺が分かるか? 身体の何処かが、おかしくはないな?」
「ふぇ? は、はい。カイナはカイナですよ?」
「……俺が怪物を駆逐する理由は?」
目をしばたかせながら可愛らしく首を傾げていたカイナの表情が、一転する。目を閉じて、拳を握り締めたままで、言葉を紡ぐ。それは、普段の甘くほわほわした彼女の声からかけ離れていて。冷たく危うげな、抜き身の刃物を思わせた。
「全てはこの世に起きうる、怪物の悲劇を潰すため。そして……千夏様を喰い殺したカイナを、一番最後に殺す為に」
震える声でそう唱和するカイナ。取り囲む空気はどこまでも悲哀に満ちていた。
「……そうだ。それでいい」
「あの、ご主人様? どうして今更、こんな確認するような事を……」
「余計な口は挟むな。ただ、違和感を感じたら報告しろ」
「……はい。わかりました」
臣下の如く一礼し、カイナが引き下がる。大輔は、完全に置いてきぼりだった。
「危険地帯って、何だ?」
「そのままの意味です。松井さんの実験が始まるならば、正直危険地帯になるのは確定だ。幸か不幸か、村人の生存者はいない」
「一応、一人はいる」
「遠くに逃げたと聞きましたが?」
「まぁ、そうだな」
森島美智子はもはや大輔一人では捕捉は出来ないだろう。夜が明けたら、応援を頼むしかない。
「そんなに、危険なのか?」
「ええ。間違いなく。ですが、この辺り一帯には人間はいないでしょう。ならば安心……警部?」
龍馬の声が、怪訝なものに変わる。急に大輔が、雷でも受けたかのように固まってしまったからだ。どうしたのか。と、戸惑う龍馬。
その一方、大輔は身体の震えが止まらなかった。
部下の殉職や怪物化による、事実上ではあるが対策課の壊滅。数多の戦いに、レイとの決別。あまりにも、濃すぎる一夜は残るは地獄からの脱出で幕を降ろす筈だった。
だが、大輔には刑事として。上司として、まだやらねばならぬことを今まさに思い出していた。
「雪代……!」
泣き黒子が特徴的な、女刑事を思い出す。
彼女は謎めいた言葉を残したまま、未だに行方知れず。
だが、もしもまだこの村にいるのなら……。
「……すまん、桜塚。用事が出来た」
「……はい?」
目を見開く龍馬に、悪いな。と、頬をかきながら、大輔は開拓者を。怪物殺しの拳銃を握り締める。
「雪代がな。まだ村にいるかも知れねぇ。しょっぴいたら、必ず後を追う。先に離脱してろ」
あの女は油断ならない。だが、このまま行方不明になり、平気かと問われたら、間違いなく大輔は首を横に振るだろう。
仮にも対策課が出来る前から相棒を組んでいたのだ。
「次に会ったら迷わず殺せ」と言われて、納得出来る筈もないのである。
制止する龍馬の声を無視して、大輔は走り出す。
先ずは何処へ行くか。村を目指すか? 分校は炎上していたが、他の建物の大半は無事だったはず……。
素早く思案を重ねる大輔。すると、背後から誰かが走ってくる気配がした。
龍馬だろうか。力ずくで止めに来たか。それとも監視の名目でついてきてくれたのか。
一応、無茶をするな。自分は逃げる気もないという意志を伝えておこう。
そう思った大輔は走りながら後ろを振り返り……。
「I’m a B.A……!」
不意に、謎めいた誰かの声を耳にする。
その瞬間――。目を見開いた大輔に、黒い影が覆い被さった。




