72.切っ掛け
実のところ、エリザは最初から伴侶を求めていた訳ではない。
元々は精神操作の力を思うがままに振るい、ある時は怪物を。またある時は人間を翻弄しながら、好き放題に遊びまわる。ある種の災害じみた厄介者だった。
嘘と欺瞞に満ちた家庭を崩壊させたり。
汚職を働いた政治家を社会的に抹殺するなどお手の物。
ある時は妻を失った青年の認識を弄り、妻のフリをして現れたり。
またある時は、姉弟を禁断の愛に走らせる。
老若男女を周りに侍らせる日もあれば。
少しスリルが欲しくて、村全体から親の仇のように狙われて、そこから脱出してみせる。なんてゲームを考案したこともある。
おおよそエリザに出来ないことはなく、絆を構築するのも粉々にするのも自由自在だった。だからこそ、エリザは生けるものの脆さや虚しさ。儚さに汚さを見つめながら、今日まで生きてきていた。
心が読めるとは、そういうこと。見たくないものまで見えるからこそ、エリザの中では真の絆なんてものはないと結論付けていた。
遊びで近づく事はあっても、心を開くことなど決してなかったのである。
最初はそれでよかったのだ。
綻びが生まれたのはいつからだったか。具体的には覚えていない。だが、全能に近い力をもて余したが故に生じた、飽きや虚しさ。それが、遊びの刺激に勝るようになり始めていた時だったのは疑いようもない。
そんな中で迎えた、今年の夏の始まりに……。エリザは衝撃的な出会いを果たした。
不思議な雰囲気を纏った二人の〝人間〟だった。
精神を覗き見た結果、怪物ではありえない。だから人間と言わざるを得ないという、実に曖昧なものではあったけれども。
それはある日突然、秩父にある、エリザの拠点近くにやってきた。
「そうだ、秩父に行こう。何かいたら嬉しいな」
という、あまりにも適当かつ異様な理由を引っ提げて。
何かいたら。という言葉が意味不明だが、有り体にいえば、ただの旅行者だろう。エリザはそう思い、最初は特に気にも留めなかった。ただ、いつもの癖で、縄張り近くに来た人間の顔は見ておく。その程度の軽い気持ちだったのだ。
時々魚を拝借させてもらっている釣り堀にて、並んで釣竿を足らす、若い男女二人。それをエリザは少し離れた木の上で、梟に姿を変えて観察する。
もはや考えるより先にやってしまう、精神の読み取りをしながら。
身分は大学生。同い年。
恋人ではない。ただ、女の方は明らかに男を意識しており。男の方もまた、心の奥底にて女を愛おしく想っている。
絵に描いたかのような友達以上恋人未満ぷりに、エリザは思わず嘲るような笑みを浮かべる。それは、玩具を見つけた子どものようにも見えた。
確かな絆と、信頼がそこにあった。そして、全能を司る梟の気紛れな采配は、それを悪い方へ拗らせる方へ傾いた。
男の方に命令する。
その場で全裸になれ……と。
さぁ、女の方はどんな反応を見せるかな? ワクワクしながらエリザは動向を見守り……。
「……え?」
その場で目を丸くした。
男は不意に釣竿を置き、自分の服に手をかける。そこまではよかったのだ。だが、次の瞬間には、まるで何事もなかったかのように釣竿を再び構え直してしまったのだ。
「…………おかしいわね」
首を傾げている男に、それをしたいのはこっちだ。と、悪態をつきながら、もう一度精神に干渉する。
釣り堀に飛び込め。
その場で三点倒立。
早口言葉。
隣の女にセクハラ。
ありとあらゆる嫌がらせな命令を重ねるうちに、エリザの表情が険しいものになっていく。男は一瞬よろめくだけで、すぐに元に戻る。
ならばと今度は女の方へ干渉を施すが、これもダメ。それどころか、その女はよろける様子すら見せないのだ。何だかダルい。そんな表情でこめかみを押さえるだけ。
ちょっと待て、ふざけるな。
エリザはそう叫びたくなった。信じがたいが、あの二人には能力が効かない。生まれて始めて味わう未知の経験に、エリザは純粋に焦りを感じて……。
直後、二人の会話や思念を読み取った時、生まれて始めて恐怖を覚えた。
「さっきから、変な声がする」
「奇遇ね。私も聞こえたわ。声というか……命令かしら?」
そんな会話を交わしながら、男と女は手を重ねる。
『気づいてる?』
『うん、……見張られてるね』
二人が振り返る。驚くべきことに、エリザが止まる木の方へ。その瞬間、三人の瞳は確かに交差した。明確に、お互いの存在を認識したのだ。
私を忘れろ!
即座にそう叫ぶ。だが、いつの間にか手を握りあった二人は、真っ直ぐこちらを見つめつつ、訝しげに「フクロウ?」と、眉を潜めた。
どうして? 何で? と、エリザの混乱は加速して……結果、彼女が最終的に選んだのは、なりふり構わぬ突撃だった。
能力が効かない。それがどうした。相手は人間だ。自分が今まで、散々弄んできたものに過ぎないのだ。
いつの間にか、玩具で遊んでいた認識は消えて、身体を巨大化させる。怪物梟となったエリザはそのまま鉤爪を振りかざし、二人めがけて急降下。
だが、それに対して男は怯まなかった。女を庇うように前に出て、カウンターの要領で拳を突き出す。それは、エリザの胸部を強かに打ちすえて……。
「ふぇ?」
思いもよらない結果を引きずり出した。
たかが人間の攻撃など、大した痛手にはならない。事実、エリザにそこまでのダメージはなかったし、当たり負けした男は、現に今、宙を舞っていた。――〝人間の姿に戻ったエリザと一緒に〟
「……あ、れ?」
一方で、男の方もまた、目を白黒させていた。目の前で巨大梟が、全裸の女に早変わりしたばかりか、その人間砲弾に等しい勢いは殺しきれず、まともに直撃を食らったのだ。
結果――。エリザと男は、受け身も取れずに、二人仲良く釣り堀に落下した。
泥臭い川の水を飲み込みながら。エリザは、次々に浮かぶ疑問や想定外の事象で頭がパンクしそうになっていた。
何故、自分の意志とは無関係に怪物化が解けた?
男が殴りかかる刹那に念じた『消えろ……!』というあまりにも強い意志。あれは何だったのだろう?
何よりも、自分に対して下した二人の分析だ。『幽霊? いや、怪異?』
……あれは、恐怖や混乱から来る現実逃避ではない。明確に、エリザの正体を看破しようとする思念が感じ取れた。まるで、そういった存在と普段から接しているかのように。
そして……。
『ヤバいわ……私って……泳げなかったのね……』
然り気無く露呈した、自分の弱点に、エリザはもう言葉も出なかった。
結局、川底でもがくエリザは、他ならぬ男の手で救出された。
全裸のエリザを抱えて帰還した男に、連れの女が目を三角にしていたのは、また別の話。
ともかく、このような形で、エリザは生まれて始めて、自分の力を打ち破った存在と遭遇したのだ。
※
「……で、その男性と女性は、結局何の怪物だったの?」
「いや、レイ。気持ちは分かるけど、人間だったのよ」
話を聞いていて、どうしても信じられなくてそう問えば、エリザは困ったように肩を竦めた。納得はいかなかった。だってそんなの、どう考えたって人間業ではないではないか。
「油断していたというのもあるわ。自分の能力が効かなくて、動揺していたのもある。怪物の力にものを言わせてごり押しすれば、殺せない相手ではなかった」
この辺はレイと違うわね。と付け足しながら、エリザは懐かしむように目を閉じる。
「だからこそ、興味を抱いたの。この二人は何者か。そんな訳で出来るだけ調べるために、私の素敵なツリーハウスに招待したんだけど……その過程で、おかしな思念や記憶を読み取ったの」
そこからエリザが話した内容は、あまりにも突飛なものだった。
曰く、幽霊や妖怪。都市伝説がこの世にいるということ。
エリザが出会った二人は、そういった者共が視える。
だから、エリザを見た時、幽霊か怪奇の類いだと思ったのだという。
「信じ……られないとも言えないなぁ」
「あら、意外ね。もう少し時間がかかると思ってた」
意外そうに目を丸くするエリザに、僕は自分とエリザを交互に指差した。
僕らの存在自体が、既に非日常な事案なのである。そう考えれば、他にそういったものが存在すると言われても驚きはしない。
「私はね。怖いけど、ワクワクもしたわ。非日常な存在は土地や時代で姿や在り方を変えてきた。神様も同然に崇められていた怪物もいる」
「そう考えれば、僕らもまた、彼らが言っていた怪奇の一部に過ぎないと?」
僕の言葉に、エリザは頷く。
「私達には理解できない。手出しも出来ない幽霊なんてものがいる。それにも驚いたけど、何より心がときめいたのは、私の力と拮抗しうる者も、きっといる……その事実だった」
熱を込めたエリザの目が僕に向けられる。
「色んな話を聞いたわ。その最中に何度もちょっかいかけて、怒られて。それを楽しいって感じる私がいた。そんな人間らしい感情が浮かんだ時、思ったの。目の前の二人が羨ましいって。私も……パートナーが。理解者が欲しいなぁ……って」
「……よく、そこの二人に襲いかからなかったね」
「神聖視していたのかもしれないわ。私に新しい世界を教えてくれた人達って。あとやっぱり……人間だし。根底では相容れることも、並び立つことも出来ないのよ」
私は貴方の怪物ちゃんや、蜂の連中みたいに、人を怪物にすることは出来ないから。そうエリザは言い切った。
「……それが、理由? 今回の騒動を起こした」
「レイを知ったのは、本当に最近なの。あの二人とわかれてから、すぐに。運命を感じたわ」
「そんなものない」
「……いけずぅ」
ぷぅ。と、頬を膨らますエリザ。それを見つめたまま、僕はいい機会だからここでもう一度宣言することにした。
手を振るい、鉤爪をエリザに突きつける。彼女は眉一つ動かさずに、僕を見つめていた。
「……気持ちは、変わらない」
はっきりと、そう言葉にする。
「僕は今も君が怖い。何より、この騒動を起こした君を許せない」
エディと蜂はどのみちぶつかっていたのかもしれない。
ルイだって、時間が来たら必ず死を迎えただろう。
それでも、時計の針を動かし、運命を加速させたのは……。目の前にいるこいつ、なのだ。
それがたとえ、歪んではいても自分の幸せを追求する為に動いていたのだとしても。
僕の超直感が反応しなかったのは、真なる意味で、こいつの害意が消えていたからなのだとしても。
僕は……。
「君は、全てが終わったら僕が処理する。……変わらない」
「…………そう」
エリザに。何より自分に言い聞かせるようにそう宣えば、エリザは目を伏せて。「寂しいわ」とだけ呟いた。
※
屋敷の外の空気は、変わらぬ秋夜の匂いを含んでいた。
後ろを振り返れば、ちょこんとお座りした形になった、ハスキー犬。
意識が戻り、シュバルツと名乗った彼には、あるお願いをしたのだ。
「じゃあ、頼んだよ」
「ああ、任せておけ。必ずお前のつがいと……協力者の元に届けるぜ」
身体を人獣に変え、ルイと優香ちゃんを大事そうに抱え、シュバルツは頷くと、そのまま風のように駆け出して、あっという間に見えなくなった。
彼は蜂だ。つまり、今の女王である怪物を本能で追うことが出来る。その性質を利用して、ルイ達を安全な場所に運ぶと共に、言伝てを頼んだ。
「僕は無事。何の心配もない」……と。
これで、背中を気にせずに動く事が出来るだろう。その時だ。うなじが少しざわついた。
「飛んでいくの?」
「いいや、まずはさっきの強襲部隊の女性にちょっと聞きたいことが出来てさ。まずはさっきの広場に戻ろう」
「I’m a B.A」
背後にとてとてと寄ってきたエリザにそう答える。ふざけたような謎の言葉は無視をした。本当にコイツは僕の神経を逆撫でするというか……。
「……? 了解よ。まぁ、彼女が口を割るとは思えないけど」
「能力で自白させるさ」
「I’m a B.A」
「うわー、レイ鬼畜ぅ」
「君が言うなよ」
「I’m a B.A」
「――っ、あとさ。変な合いの手止めろ。どこからこんな野太い声出してるのさ」
「……合いの、手?」
「I’m a B.A」
「ほら、こんな風……にっ!?」
間抜けが。と、最初は自分を叱責する。
うなじがざわついたという事は、妙なのが近くにいるということ。エリザだと最初は思ったが、彼女は違うとさっき不本意ながら証明されたばかりだというのに!
「誰だ!」
鉤爪を剥き出しにし、鋭く叫ぶ。
周囲に人影なし。気配探知……。上?
「I’m a B.A」
再び野太い声が朗々と響く。振り返った先――。屋敷の屋根に仁王立ちしていたのは……。
「……ジョン?」
虚ろな表情のままで身体を震わせる、強襲部隊の怪物の姿だった。




