68.後は頼んだ
敗走する戦士達は、大きく迂回し、森島の屋敷。その裏口までたどり着いていた。
木々が伐採された、なだらかな平原。遮蔽物がない地形は、本来ならば避けたいところだが、向こうに銃はなく、更に捕捉しづらい何かがある。それを踏まえて、見通しがいい戦場を選んだのである。
「ダンデス……どういうつもりだ。この白いのは、もう……」
「戦える。戦えないが問題じゃないのだ。この人には、多分仲間がいる。その人が来るまで……」
不満気なシュバルツは、背負っていたルイを地面に下ろしながら、牙を剥き出しにする。傍らに寄り添うスズナは、ただ沈黙を保っていた。
「仲間、だと? 来るかもわからない奴にすがろうってのか! そんなもんの為にケビンは……!」
「なら! 他にどんな手がある!?」
「もうやめて! こんな時に……」
「止めるなスズナ! こんな時だからだ! シュバルツ! 俺達は力を手に入れた。だけど……わかった筈だ。それでも、アイツらを倒すことは叶わなかった」
「……っ、だが……!」
「なぁ、教えてくれ。他にどうすれば……何を犠牲にすれば、奴等に勝てる?」
絞り出すようなダンデスの声に、シュバルツは言葉を詰まらせる。
アリクイの男……。虎治は倒した。だがそれは、ルイが奇襲をかけてくれたからだ。それがなかったならば、自分達はどうなっていたか。
「俺達はもう何もない。主人も。帰る居場所も。友人も。だから、せめて友の大切なものを守り。友を殺した奴等に報いを……。その為に出来ることは何だ? 突っ込んで犬死にか? 違う!」
最善を尽くすことだ。そう言いきるダンデスに、誰もが口を開けなかった。
奇しくもそれは、人間と野生化していない獣の認識の違いだった。ダンデスは、静かにルイをみる。荒い呼吸を繰り返し、身体に脂汗を浮かべながらも、彼は歯を食い縛っていた。
ミチリ。ミチリと、肉の蠢く音は、犬達の耳にはっきりと届いている。
「見ろ。ゆっくりとだが、再生している。まだ、生を投げ捨てた訳ではない。背負うものがある以上、この人は最後まで戦うだろう」
「…………復活したとして、勝てるの?」
「わからん。だが、俺達三匹でかかるよりはマシだろう」
そう言ってダンデスは、ルイの身体を楽な姿勢に戻す。
シュバルツとスズナは、それをただ見つめていた。
「俺達が決死の覚悟で突っ込むか。あるいはこの人の回復や、仲間が来るまで奴等に食らいつくか。完全な勝率ゼロと僅かに残る勝利の可能性。後は……何もかもを忘れて、野良犬として生きる。どれを選ぶ?」
従えとは言わない。そう暗に匂わせる発言に、シュバルツは鼻を鳴らし、スズナは威勢よく尾を立てた。
「…………弱気な発言だった。許せ」
「そうね。逃げるのはありえない。死んだも同じだわ。なら、奴等がやられて嫌な事をやるまでよ……!」
決意が固まった。後は……。
「……死ぬ順番の相談は終わったかい?」
すぐ近くから、朗々とした男の声がする。ダンデスたちが弾かれたようにそちらへ目を向けると、そこには異形がいた。
「平地を選んだのは悪くない戦略だ。あのまま森の中にいたら、君たちは全滅だった」
人の形を保った、植物の集合体が、いつからそこにいたのか、音もなく、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「匂いが……しないわ?」
「いや、草や木と同じになってるんだ。成る程。おまけにその奇っ怪な見た目……。天然の迷彩ってやつか。それで俺達の目や鼻を欺いた」
「その通り。ギリースーツ……と、言っても、ワンちゃん達にはわからんか。森や山岳地帯で熟練者が纏えば、これ以上ないカモフラージュになり、狙われた獲物は、近くに狩人がいるのも気づかずに、餌食となる」
ジョンと同じ声で、植物の異形はそう言った。風に草木が擦れ合い、その音に乗るようにして、ジョンはまた一歩踏み込んでくる。
「いい加減に、イライラしてきた所だ。小野大輔といい、さっき向かってきた犬といい。綺麗な道を歩むために命をかけている輩が……私は虫酸が走るほど嫌いなんでね……!」
緑の男が、滑るように此方へ迫る。
ダンデス達は横に広がる陣形を取り、その怪物を迎えうつ。
「植物を引き剥がせ! 粘っこい蔦にだけは気を付けろ!」
ダンデスの号令に、シュバルツとスズナも応じる。
牙と、木々がざわめくような異音が、誰もいない広場に響き渡り。
そして……。
明星ルイは、幸運だった。
本来ならば、援軍など望めず。孤独な戦いに身を投じ、結果的に散り逝く。そういった定めだった。
だが、巡り巡った奇妙な縁は彼に味方する。
何とか再生を終えたルイが、薄れそうな意識の彼方から帰還できたのは、ひとえに彼が気絶している間に、外敵を食い止めてくれていた存在がいたからだろう。それがなかったら、今自分はどうなっていたか。それを想像できないルイではない。
「ここ……は……?」
自分はどれくらい気絶していた?
状況は?
そういった思考が頭を回りかけたその瞬間――。
ルイは、噎せ返るような血臭に顔をしかめた。
「おや、案外起きるのに時間がかかったね」
おどけるような声のする方へ顔を向ける。そこには、やれやれというように肩を竦めながら冷笑を浮かべるジョンと……その手で逆さ吊りにされている、シベリアンハスキーの姿があった。
「――っ、シュバル……ツ」
「ほう、こんな短い縁だというのに、名を覚えていたのかい? 泣ける話だ。目を覚ましたまえ。ワンちゃん。喜べ。君たちが待ち焦がれていた男が目を覚ましたよ? もっとも……虫の息だがね」
そぉら。と、適当かつ乱暴に、ジョンはシュバルツを放り投げる。バウンドすらせず、ゴロゴロと転がってきたその身体は、いたるところに傷を負い、一部の脚からは骨すら露出している。
「……ひでぇ、話だ。アンタの価値を一番疑ってた俺が……最後まで生き延びるとは」
血の泡を吹き出しながら、ぐったりとしたままシュバルツは唸る。ルイは無意識に唇を噛み締めながら、周囲を見渡す。首から上がと、四肢がもぎ取られた状態の大型犬の死体が一つ。身体の殆どが原型を留めないほどにドロドロな状態にされ、念入りに潰された小型犬と思われる肉塊が一つ。血で赤黒く染め上げられた平地に打ち捨てられていた。
「……酷い」
「勇敢だったよ彼らは。いや、やろうと思えば、瞬殺は容易だったがね。あまりにもキラキラと希望に満ちた顔で君を守ろうとするものだから……私もつい遊んでしまった」
「遊んだ……だとぉ?」
「そうとも。ああ、ハスキー君。君を生かしていたのも意図的だ。君は銀の為に戦うのを、最初は反対しただろう? そんな君には、これから銀へ行う拷問の、生き証人になってもらいたかったんだ」
溶けた死体を足蹴にしながら、ジョンは目を閉じる。口元には隠しきれない愉悦の笑みが浮かんでいた。
「アモル・アラーネオーススは、開拓者がなくなった以上、時間で自然に死ぬのを待つしかない。だからね。暇になってしまうんだ。そこにこうして迷い込んできたオモチャと……まぁ、仲間の仇。使わない手はないだろう?」
ぐちゃり。と、粘性をたたえた湿り気のある音が響いた。土と血肉を靴底で捏ね回しながら、ジョンがこちらを見る。ブルーの瞳が妖しげに光ると同時に、その手がみるみるうちに茨で構成された拳に変わっていく。
「私は……いや。私達強襲部隊の面々は、それぞれに事情がある。私や虎治、Miss鞍馬のように、人間から怪物になった者。Miss宗像や、カイナ嬢のような、所謂原種と呼ばれる存在が、人の姿を得たもの。背景に違いはあるが、皆共通して言えるのは、強襲部隊にいるのは、不本意だという所か」
忌々しげに自分の手を睨みながら、ジョンは続ける。
「我々のそれぞれに、守るべき存在や、誇りにしてきたことがあったのだ。だが、それを強襲部隊は踏みにじった。ああ、認めよう。私達は紛れもない怪物だ。だが、それを捕まえて利用せんとする人間の方が……余程恐ろしい怪物に見えるよ」
「何の、話だ……!」
「昔話さ。他愛のない……ね」
シュバルツの言葉を聞き流しながら、緑の拳が振るわれる。もう一体の骸はペシャンコに潰され、地面に赤黒い水溜まりを作っていた。
「私達の命は、既に握られている。だからね。鬱憤が溜まるんだよ。全く、実に良くできたシステムだ。時間と共に忠誠か。憎しみか、絶望が募っていく。どれが増えても上には損することが何もない。強い実験体が生き残れば、より怪物の解明や捕獲が進むという訳だからね」
自嘲するように笑いながら、ジョンはゆっくりと此方に歩み寄ってくる。ルイはよろけながら立ち上がり、何とか戦う構えを取ろうとするが、その瞬間、ジョンは稲妻のような速さでルイに肉薄し、その喉笛を捕らえた。
「既に限界だろう? 諦めろ。万が一にも、君には勝ち目はない」
「……悪い、ね。昔の僕ならともかく。家庭を持ったお父さんって奴は往生際が悪いんだ」
不敵にルイが笑えば、ジョンは不快げに肩を怒らせながら、力任せにルイを振り回す。
蔦状に伸びた腕がルイごと空に打ち上げられ、二度、三度地面に轟音を立てながら叩きつけられる。
額が裂け、身体の骨が再度砕かれた。
「……家庭とは異なことを言う。怪物に幸せなどあるものか。現に君は娘とやらに認識もされず、一人ではないか」
「一人じゃ……ないさ。家族は、いる」
「笑わせるな。そうやってヘラヘラ出来るのは、真に絶望したことがないからだ!」
茨の鞭が振るわれ、ルイの身体が更に切り刻まれていく。再生はもはや完全に機能を無くし、白い身体は鮮血色に染まりゆく。だが、そんな最中ですら、ルイは笑ってみせた。
「どうしたんだい? 何だか……妙に苛立ってるね。ダンデス達の戦いに、何か思うことでも?」
「……、奴等はただの犬死にだ」
「そんなことはないさ」
「強がるなよ。彼らの頑張りは、何の実も結ばない。君が今、私に惨たらしく殺されようとしているのが、その証拠だ」
巨大なハエトリグサが現れ、ルイの片腕を完全に飲み込んだ。
トラバサミに捕らわれたかのような激痛と同時に、すぐさま消化液が腕にまぶされていき、生きながらに肉が溶かし貪られていく。
流石のルイも顔を歪め、苦しげに悶えた。それを見たジョンは気をよくしたようにせせら笑いを浮かべる。
「痛いか? 苦しいか? なぁ、銀。私も鬼じゃない。一言告げればいい。娘は差し上げます。僕を助けてくださいってね。誇り高く生きるなんて疲れる道は捨ててしまえ。楽になるよ?」
「……まるで以前そうやって疲れた事があるかのような口ぶりだね」
「逆撫でが得意な男だ。変な想像はするなよ。私は単にのうのうと生きる怪物共を絶望に引きずり落とすのが。たまらなく好きなだけだ」
強襲部隊の面々は、大抵そんな動機を引っ提げた連中の集まりさ。そう付け足しながら、凄みを増させるジョンの顔を、ルイは無言で睨み付けていた。
「命乞いをしろ。そう言っているんだ、銀。これ以上の苦痛は味わいたくないだろう? 後ろからは、Miss鞍馬を起こしたMiss竜崎が来る。鞍馬は……怖いぞ。悪態をつきながらも、虎治に懐いていたからな。彼を殺した君は、楽には死ねないだろう」
「それを避ける為に、僕に娘を差し出せ。君はそう言うのか?」
「その娘だって、じきに死ぬんだよ。というか君、何でここに来た? 絶対に報われない事は……わかっていたろうに」
ハエトリグサが、追加される。
今度はルイの左足に。太ももの付け根から下が、徐々に溶かされていく感覚がルイの身体を更に冷たくしていく。
意識は……少しでも気を抜けば飛びそうだった。それでも今こうしてルイの気力を保たせているもの。それは……。
「夢、だったんだ」
「……夢?」
何の話だ。と、眉を潜めるジョン。その顔を、ルイは既に見ていなかった。目を閉じれば思い出す。
柔らかな慈愛の微笑を浮かべる、最愛の人が。
彼女はかつて言ったのだ。きっと自分が、幸せにしてみせる……と。
「いつか、可愛い子ども達に囲まれて。少なくても大切な友達と時々お喋りしながら、大好きな人と綺麗に年をとりたいって」
それは、アリサが抱いた、細やかな夢の話。
二度と叶うことがない望みでも、それの願いをルイは今も宝物のように抱えている。それはいつだって、ルイが全力を振るう源になっていた。
歪んだ形が成したものとはいえ、今この世には、自分の娘がいる。ならば、明星ルイの掲げる行動理念は、シンプルかつブレることはない。
「もう一度言おうか。子煩悩なお父さんはね……往生際が悪いんだよ!」
未練を絶つように鉤爪を振るう。自分の左足と右腕を、ルイはハエトリグサごと躊躇なく切り落とした。
「なっ……!」
流石に驚愕し、狼狽を見せるジョン。出きるならばすぐに反撃に転じたい所だが、ルイもまた、急に身体を文字通り軽くした影響で、敢えなく転倒してしまう。
腕と脚は、もう戻らない。だが、それがどうしたと言わんばかりに、ルイは再度、背中に蜘蛛脚を展開する。
「ジョン、誰もが最後は自分を優先すると思ったら大間違いだよ。誰もが打算や損得だけで動くとは限らない……!」
「……っ」
よろめきながらも六本足で身体を支えるルイを、ジョンは青ざめた顔で眺めるしかない。
ここに来て初めて、彼はルイの気迫に飲まれかけていた。
「誇りを笑うな。命を賭けたダンデス達の戦いが無意味なものか。こうして僕が今も折れずに君と戦えているのが、その証拠だ……!」
「…………戯れ言を」
僅かに込み上げた震えを断ち切るように、ジョンは再び両腕を変化させる。妙な遊び心はもう出すまい。この男は早々に葬り去るべし。そう決心したジョンは植物を再び身体に纏い始めた。擬似的なギリースーツは、剣であり鎧にもなるのだろう。もはや満足に動き回れる時間がないルイからすれば、あれを完成させる訳にはいかなかった。
だからこれが……恐らくは最期の一撃になるだろう。
覚悟と、少しの念を込めて、ルイは鉤爪を出す。小指が欠けた四本。拳はもう役にたたない。斬るのにも難儀するだろう。ならば狙うは……。
「おい、草野郎。俺の存在を……忘れちゃいねぇか?」
走り出すルイと、それを迎えうつジョン。だが、その横合いから乱入してくる影があった。シュバルツだ。
「ぬ……っ! のっ――!」
「遅ぇ!」
急遽振るわれた、緑の拳。だが、シュバルツはそれを犬から人獣の体格に変化させ、片腕を犠牲に捌ききり……最後には、ジョンの背後にがっぷりと食らいついた。
「――今だ! ルイ! 」
「――っ、おおおお……!」
俺ごとやれ! という決死の叫び受け取ったルイは、稲妻より疾く進撃する。
一歩ごとに身体の何処かが、電源の落ちたテレビのように停止していくのがわかる。
いや。実際にルイの身体は風化する彫像のように、徐々に崩れ始めていた。痛みすらもう越えて、ルイはただ走る。
実験場で出会った、同じ境遇の仲間達の顔が浮かぶ。色々本当にあったけど、もしあの世というものがあるならば、もう一度語り合いたいものだ。
次に見たのは憎らしき。だが、ある意味で自分の人生を変えた教授の顔だった。彼に関しては、ルイも複雑としか言いようがない。
そこから白衣が似合う愛情深い女性の顔を思い出した時、ルイの心は痛みと暖かさ。そして感謝が芽生えた。
大切な友達だったのに、たくさん泣かせてしまった記憶の方が多い。正直自分には勿体無いくらいの素敵な女性なので、本当に幸せになって欲しい。ルイはただ、それだけを願った。
続けて脳裏に映ったのは、まだ少ししか交流していない、優香と名付けられた少女の顔だ。結局、狂気を取り除いてあげることは叶いそうにない。ルイはそれを謝罪すると共に、だが、心配しなくてもいいと告げる。
ここでジョンを落とせば、強襲部隊には戦力は残らない。彼女の為に格段に時間が稼げるだろう。そうすれば……。
幽霊を思わせる。だが、優しくも頼もしい親友の姿を幻視する。
彼は本当に強くなった。だからこそ、難しい言葉はもういらないし、心配もしていなかった。
彼は必ず勝利する。根拠はないが、何故だかルイにはそんな確信があった。だから……全てを託せる。自分の遺志を汲んでくれるだろう。最後の最後で色々と押し付けてしまうことに少し申し訳なくなるが、不思議と、ルイは、その親友が苦笑いして肩を竦めながらも。任せてよ。と、手を挙げる姿が目に浮かんだ。
最後に浮かんだのは、美しい、黒衣を身に纏った少女の怪物だった。いつかの夜、並んで語らった時の情景だ。ルイの中で輝く、もう一つの宝物。
戸惑い、はにかみながらも、少女は花が咲くように微笑んで。
あのね、おとうさん。レイったらね――。
囁くような、ウィスパーボイスで、いじらしくノロケ話をする娘に頬を緩ませた優しい記憶。それが、ルイの見た走馬灯の終わりだった。
後は、腕を伸ばせば届く。その位置で、ルイは身体全体から力を絞り出し、鉤爪を槍の如く突き出した。
狙うは完全にガードが上がり、無防備になったジョンの左胸。シュバルツは噛みつきながら毒を喰らわしている。故に、植物の鎧が完成しきるより、ルイの刺突の方が速い。
「後は……頼んだよ。レイ君」
今は届かぬ言葉をルイは紡ぐ。
放たれた鉤爪の先は柔らかな肉を捉えて、ジョンの心臓を刺し穿つ――。
その直前。「ガキリ」と、硬質な音と共に最期の槍は何者かに受け止められた。
「…………っ!?」
思わず目を見開いたルイが見たのは、砕けた己の槍と、黒い円形の甲虫が、急速に、憤怒の形相を浮かべた裸の女に転じる光景だった。
「おおぉ……! ふぐぅぅうぉおおお……!」
ジョンの肩に噛みついたまま、無念の涙を流すシュバルツ。それが視界の端に僅かに見えた瞬間に、ルイは自分の身体がボールのように宙を飛んでいるのを自覚した。
「…………杉山さん、生きてます?」
「…………っ、ああ」
「あはー。ジョンさんが皮肉言わないとか、マジで追い詰められていたんッスね~。めずらし~」
ギャン! と、犬の悲鳴が聞こえ、何発か肉を叩きのめす音がルイの耳に届く。声が二つ増えている。沙耶と、気絶していたスカラベの怪物、美優だった。
「シュバル……ツ……!」
何とかそちらへ目を向けようとして、ルイは自分の身体がもう動かない事に気がつく。両腕は既になく、背中の蜘蛛脚は折れたり、何本か落ちている。残るは右足一本のみ。
「……銀さん。生きてますか~? 死なれちゃあ困るんスよぉ~。私、何の仕返しもしてないんでぇ」
髪の毛がむんずと捕まれて、ルイは無理やり上を向かされる。唇が触れ合わんばかりの近い位置に、美優の顔があった。
「ボス~。このイケメン。私が痛め付けても?」
「構いません。反撃にだけ気をつけて……いえ、もう無理そうですね。あまり時間はないので、程ほどに」
「えへ。やったぁ……。さぁて……。取り敢えずボールにして転がして。爪先から細かく切り刻んでぇ……」
サディスティックな笑顔を浮かべる美優は、息を荒げながら、ルイの頬に舌を這わせる。
その後ろでは、ジョンと沙耶が話し合っていた。
「Mr松井は?」
「相変わらずです。ただ、あまりにも遠坂黎真が見当たらないので……協力を仰ごうかと」
「……まさか〝アレ〟を?」
「効率はいいでしょう?」
「それは認めるが……知っているだろう? 我々からすれば、アレはただの災厄。諸悪の根源で、怨むべき敵だよ」
「でしょうね。ですが、贅沢は言ってられません。こちらの被害が大きすぎる。その屋敷に籠ったアモル・アラーネオーススは、松井さんに任せましょう。銀は処理した後に回収車へ。その後、引き続き、他のターゲットを」
淡々と狭められていく包囲網。それをルイが聞いていると、クスクスと、嘲笑が耳に届いた。
「〝アレ〟かぁ~。全く。うちのボスは本当に、やることなすことがエグいんだから……。銀さん銀さ~ん御愁傷様。貴方の娘さんね。この世でも多分、一番残酷な方法で殺されるみたいッスよ?」
ザマーミロ。と、ケラケラ笑いながら、美優はルイを再び地面に叩きつけ、足蹴にする。
半分が土で支配された視界の端には、こちらを無表情で見つめる沙耶と。何処か苦々しげに睨むジョンの姿。そして……。
「鞍馬さん。早めにとどめを」
「え、ちょっとぉ! まだ痛め付け足りない……ってか、全然やれてないッス! あんまりよぉ!」
「一分だけ待ちます」
「十分!」
「……三分」
「五分!」
「では、それで手を打ちます」
その言葉と共に、美優の手がルイの首を掴み、高らかに持ち上げる。近くの草むらにシュバルツが倒れているのが見えた。
「お別れだな。そのまま何もなし得ないまま、楽になるといい。……言い残すことはあるか?」
聞こえてきたジョンの声に、ルイは嘲笑を浮かべた。そうだ。確かにこれで、ジョン達とはお別れになるだろう。
だからこそ、ここで吐くべきは辞世の句等ではなく……。毒蜘蛛らしい言葉だった。
「シュバルツ……生きてるかい?」
「…………無念、だ……俺は……結局……」
「いいや。改めて。言い足りないけどお礼を言いたい。出来るなら、君ともっと語り合いたかった……」
涙で上擦った声をあげるシュバルツ。だが、ルイの言葉は淀みなく、晴れ晴れとしたもので……。
「だけど、今は喜ぼう。僕らの――粘り勝ちだ……!」
掲げられた勝利宣言。それにその場にいた全てのものが固まった時。
夜空から音もなくゆっくりと。天使のように羽が生えた女が舞い降りた。
「こんばんは。素敵な夜ね」
少しサイズが小さめなスーツに艶かしい肢体を押し込んだ、美しい金髪の女は、見る者を蕩けさせるような笑みを浮かべて。そっと手を開く。
白魚を思わせる女の掌には、黒く小さな蜘蛛がいた。
それは兎のようにピョンと夜の帷へと身を踊り出し……。
瞬時に、青年へと姿を変えた。
月明かりに照らされた顔立ちは、ごくごく普通のどこにでもいそうな男のもの。それでいて、どこまで暗い瞳だけが、唯一目を引く要素だった。
丈が膝裏まであろうかという、カーキ色のフード付きジャケットが夜風に靡く。ボロボロにほつれた裾や、青年自身が放つ陰鬱な雰囲気は、何処と無く幽霊を思わせた。
「――っ、お前は……?」
ジョンが目を見開き、反撃に転じるより早く、青年は腕を振るう。
それなりに彼と付き合いがある者が見れば、普段とはかけ離れた様子に驚く事だろう。いつもは光など灯さない彼の瞳は今……。黒い激情の炎が燃えさかっていたのだから。
「遠坂黎真。お義父さん兼友達を迎えにきた――、ただのヘタレな義息子だよ」
短くシンプルに、現出した青年は答える。
その瞬間。戦場に銀色の嵐が吹き荒れた。




