62.夜の狩人
夜風が吹き荒ぶ樹上から、再び柔らかい地面に降り立った時、僕は思わず顔をしかめた。
何とも嫌らしい手を打ってくれるものだ。
エリザがわざとらしく逃げ込んだ先は、視界の悪い木立。もちろん、喩え一寸先が闇であろうとも、普段の僕には全く問題ない。
有する超直感と、怪物として常人の倍以上は夜目が効く以上、敵が近くにいるのならば、それを見失う事はないのである。だが……。
「僕は寝るぞ。…………また、か」
少し前、ルイに助けられた時を思い出す。
あの時と同じで、エリザの気配そのものが、限りなく探知しにくくなっているのだ。
能力で僕の感覚を鈍くさせている? それとも息を殺して気配を消しているのか。……いや、どれも違う。これは……。
「――っ、そこ!」
手を振るい、蜘蛛糸を網状にして投擲する。放たれた銀色の散弾が、確かに気配のした場所に殺到し。それは、誰もいない一本の木に張り付いた。
「……ぐ」
外した。そう思った瞬間、糸を出した方の手に鈍痛が走る。いつの間にか、手の甲がベロリと向け、生暖かい血がそこから吹き出していた。
「――こ、の! 今起きた!」
悪態をつく間もない。
確かに近くにいる何かは音もなく僕の傍を通り抜け、気づいた時には、僕の身体の何処かが切り裂かれている。速い訳ではない。ただ、あり得ないほどに……音がしないのだ。
「…………なら、僕は寝るぞ!」
糸を四方八方に噴射する。
当たるなら儲けもの。当たらないなら当たらないでいい。そんな気持ちで放った蜘蛛網は、なんの結果も残せずに木立に張り巡らされ、月下で鈍く銀色に輝いた。
「……お見通しだろう? 来なよ」
挑発には乗る。そういう女性だ。
案の定。見え透いた罠の水面下に仕込んだそれが、僕に彼女の位置を正確に知らしめた。
真後ろ。斜め上から! 呼吸を合わせ、鉤爪を一閃する。ガギン! と、硬質な音がして、そこで僕はようやく、姿が見えない狩人と対峙した。
「………あからさまな蜘蛛網はフェイク。本命は極細にして張った、拘束力すら皆無の糸。姿や音はしなくても、そこに在るならば、糸に触れた振動で私の位置を捕捉できる……と」
「蜘蛛は巣にかかる振動で、獲物の情報を判断する。その応用だよ。今起きた」
拮抗する押し合い。
エリザは、いつかのように半人半鳥の姿をとっていた。恐らくは、それが彼女の本気なのだ。
その姿を苦々しく睨みながらも、一度彼女を押し戻し、僕は再び距離を取った
「あらあら? 逃げちゃうの?」
「近づきすぎるな。そう直感が囁いた」
「……鋭いわねぇ。わかってたけど。まぁ、そうじゃなきゃあ……」
面白くもないけどね。
そう囁きながら、エリザは更に此方へと距離を詰めてきた。僕は牽制がわりに網をばら蒔きつつ、彼女の蹴りを掻い潜る。
攻撃の一つ一つが想像よりも速く、重い。まともに撃ち合うと、僕の鉤爪が軋みを上げた。
武器の頑強さは、もしかしたら向こうの方が上かもしれない。その分、手には確かな手応えがある。よく見れば、羽毛に覆われた彼女の脚は所々裂け、出血していた。切れ味は、僕の方に軍配が上がるらしい。
「というか、やっぱり猛禽類じゃないか! 君は……梟? 僕は寝るぞ」
「あら、よくわかったわね。……ああ、唐沢汐里の知識ね。知ってる? 動物好きな彼女の隠れた趣味は……っと、もぉ~乱暴~」
「何とでもいえ! 今起きた!」
ちょっと気になるが、それに対する反応で隙を作ろうとしているのは丸分かりだった。再びの切り裂きをエリザは両足で受け止めて、一定の距離をキープする僕に微笑を向けた。
「近づくのが、怖いの?」
「嫌な予感がする。君が梟ならば、なおのこと」
かといって、離れすぎるのもよくない。特殊な形状の風切り羽と、独特の滑空に近い飛行術。それが梟の音を立てない飛翔の秘密だ。だからこそ……。
「ミッドレンジで攻めつつ、私の首を一撃で切り落とす……物騒ねぇ」
「君が僕らにやろうとしてることの方が物騒だ!」
「ちょっと夫婦になって、前妻は栄養分になってもらうだけじゃないの」
「洒落にならないよ!」
再び地を蹴る。狙うは首もと。彼女は脚を梟のものにするだけ。手は変えられないらしい。ならば首を狙い、ガードで上げた両腕を切り落として……。
「まぁ、落ち着きなさいな。……少し。〝眠るといいわ〟」
「僕は寝るぞ! ……っ!?」
肉薄したその瞬間、僕の身体に二倍以上の重圧がかかった。
咄嗟に両腕を怪物化し、防御姿勢を取る。強烈な衝撃が身体を突き抜けた時、僕の視界には夜空が広がった。
「……っ、そ!」
仰向けに吹きとばされたのに気づいた時、うなじにガリガリと警告の痛みが走る。
慌てその場から転がるようにして逃げれば、さっきまで僕が倒れていた場所に、エリザの両足がめり込んでいた。
「ほら、寝ましょう?」
「今起きた」
「次は寝るでしょう?」
「ぐ……っ」
視界が歪む、その瞬間、エリザの顔がすぐ目の前に来ていた。
「そう、一秒はギリギリ妥協できるラインよ。けど、眠るのが二秒。あるいは一秒とその半分くらいになればどうかしら?」
「――っ、く、そっ!」
放つ爪が、エリザの腕で受け止められる。返り血がお互いを汚すが、エリザは気にも止めずに舌舐めずりした。
「あら、どうしたの? 眠らないの? ほら、防壁追加しなきゃ。あらあら。別のキーワード考えてるの? 眠るか意識消失以外で私の能力に対抗する手段なんて……ないわよ?」
強烈に肉体が叩きのめされる音が僕の脳を揺らす。エリザの脚が、僕の腹部に前蹴りを食らわせていた。よろめく暇もなく、うなじに。いや、僕に課せられる「眠りなさい」という命令。僕はそれを毎一秒半から二秒の覚醒の中で解除しながら、必死に打開策を探していた。
やっていることは至極単純だ。命令のズラし。即ち僕が寝て起きるその間へと、綺麗に眠れという命令を挟み込む。身体が肯定する動きに同調させることで、エリザは逆に僕から行動する時間を奪ってみせたのだ。
眠る身体に更なる眠りの命令の重ねがけ。結果、僕の身体は格段に動きが鈍ってしまい……。
「つ・か・ま・え・た」
恐れていた最悪の事態が降りかかる。
瞬きの瞬間にエリザの姿が視界から消え……直後、先程以上に巨大になった鳥の鉤爪が、僕の身体を背後からがっしりと鷲掴みにしたのだ。
「梟の爪はね。切り裂くためじゃない。ぎゅ~って締め付ける為のもの。大抵の獲物は、捕まった時点で窒息させられちゃうのよ。……貴方が直感で私から距離を取っていたのは、一度でも捕まれば、逃げられない。そう無意識に感じ取っていたからかもしれないわね」
拘束された僕は、そのまま無様にうつ伏せで押し倒された。口の中に土と血の味が広がっていく中で、僕は耳元で興奮したようなエリザの息づかいを感じ、身体に嫌な戦慄が走った。直感で、エリザが僕に何をしようとしているのかがわかってしまい、僕の身体が鋭敏に拒絶反応を示した。
「ぐ、離っ……」
「無駄よ。貴方はもう少し激しく、私を責めるべきだった。……まぁ、明らかに行動に制限がかかってたから、無理な話ではあるけれど」
頑張った方よぉ。と、エリザはそう宣いながら、僕の後頭部をを優しく撫でた。
「色々考えてるわね。蜘蛛と人間の姿を交互に取りながら奇襲をかける? ダメよ。確かに蜘蛛と人間ならば操り方の勝手が違うから、戸惑うでしょうけど、操れないなんてことはないの。小さい蜘蛛になって今この拘束から逃れる? ノン。私は梟よ? 目も耳もいいの。貴方がどんなに小さくなっても、見つけて捕まえちゃう」
「僕は……寝る……ぞ」
命令が来る。僕の精神を支配せんとするものが。だが、それには抗える。このまま拘束して僕の能力が切れるのを待つのだとしたら、それこそ結構な時間がかかる。その間に打開策くらいは……。
「それもダメ。今からさせないわ。ねぇ。レイ。今夜はエリザちゃんの楽しい怪物講座よ。能力ってね。やはりだけど、本人が自覚してなきゃ使えないの。勿論今貴方がしてるみたいに、身体に刻んだ無意識なものは除くけど」
クスクスと、エリザは何が楽しいのか忍び笑いを漏らしてから、唐突に片足を僕から離した。腰から下が急に解放された僕は、一瞬呆気にとられたが、すぐに体勢を整えるべく膝を立てようとして……。不意に、ズボンの中に違和感を覚えた。
「は、え?」
「心が乱れれば、それは能力が上手く制御できない事に繋がる。こういう傾向は人間から怪物になった輩に多いの。人間だった頃の痛みを知っていて、今も痛覚が残ってるから。さて、ここで問題よ」
顔が地面についているので、状況は未だにわからない。だが、確かに……僕の下半身にエリザの手が伸ばされて、トランクスの奥へまで侵入を許していた。
「お前、何を……!」
「私はね。今貴方の防壁追加を止めさせたい。つまり、能力を一時的に使えなくしたいの。少なくとも貴方の中で自動に機能する百八回分の能力が使い尽くされるまで」
優しく労るような手つき。だが、僕はそれに、最大級の恐怖を覚えた。
思考を止めるのが、能力を使わせない手? では、どうやってそれを実現する? 心が乱れる条件は? 何故彼女はそれに関して、痛みを言及した?
「ねぇ、胡桃を素手で割る方法、知ってる?」
悪夢のような囁きが僕の耳にこびりつき。同時にエリザの手が僕の……陰嚢を包み込むように握り込む。全身の血の気が、急速に引いていくのが分かった。
「一個じゃダメ。割るには二個必要で、結構コツがいるの。ちょうどこんな風に……ね♪」
プチュン。
と、間の抜けた音が僕の脳髄に響き渡って……。
「あ、ひぎゃああああああぁあぁあぁぁ!?」
視界がスパークし、夜の闇が白夜にでもなったかのようにうすぼんやりしたものに様変わりする。
痛みを越えた痛みでのたうち回ろうにも上半身は動かすことが叶わず。僕は悲鳴を上げながら脚をばたつかせる事しか出来なかった。
「大丈夫。ちゃんと元に戻るわ。ああ、でも、まだ少なく見積もって、百八秒もあるのよねぇ。じゃあ、仕方ないわね。もう少し、頑張らなきゃね」
そう言って、エリザの指がガリガリと、潰れたそこを引き裂き、中身を掻き出さんばかりに蠢いた。気絶しそうな痛みで僕の目の端に涙が滲み、気がつけば、下唇が食い破られていた。
痛い。痛い。痛い。痛い。
今までにない痛みだった。
メスで切りつけられたことはある。
生きながら喰われたり、毒針で滅多刺しにされたり。強烈な銃弾で意識を飛ばした事もある。
痛い思いはそれなりにしても、僕は生きていた。
だが……これは、元々人間であったからこそ、強烈なまでに僕の思考を真っ白に染め上げた。
生存本能を根こそぎ引き抜かれるようなそれは、僕を一瞬で追い詰めていく。
「あぎっ! いぎが……!」
「ほら、旦那様の財布の紐も。手綱を握るのも、妻の仕事でしょう? 勿論夜に握るのは……いやん」
「がぐっ……! はなっ……ぜ……!」
「あら、凄い。まだ心が折れてないの? ……じぁ、もっと凄いことしてあげる」
「っ!? ぎ、ぐ、ああぁあああぁ!?」
「フフ。引きずり出しちゃった。……さて、補習の時間よ。私の能力ってね。感覚の全てを使うの。今貴方は私に触れて、私の匂いを。声を。もたらされる痛みを味わってる。五感に訴えかける事象が多いほど、私の能力はより深く相手に浸透するの」
「ああっ、が、お……」
不意に身体の締め付けが弱まる。圧迫から解放された上半身が軽く痙攣した。
「っ……!」
立て。早く、能力を……。そう思うや否や、身体がひっくり返されて、目の前にエリザの顔が来る。サファイアの熱を帯びた視線が僕を絡めとる最中に、再び梟の脚が僕の身体を捕まえて、万力のように締め上げた。
「レイ、私の目を見て。匂いも分かるわね? 声は聞こえる? 今私達、触れ合ってるのよ? ねぇ……」
能力は、もう使わないで?
その命令は、じわりと身体の隅々まで浸透して……。
※
カサリ。と、草木が擦れる音で、僕は自分の意識が現実に立ち戻るのを感じた。
身体が、鉛のように重い。節々に残る痛みの名残が僕の精神を苛むようで……。
「――っ! そうだ!」
何をしている、早く壁を……! そう思った時。僕はいつも以上に〝周りが暗い〟ことに気がついた。
なんだ、これは? まるで……。
「まるで人間だった頃みたい? まぁ、概ね正解よ。今の貴方は、身体の頑強さ以外は人間と同じに貶められている」
すぐ後ろから女の声がする。僕が弾かれたように上体を起こし、そちらへ振り向けば……。暗がりに、一糸纏わぬ女が佇んでいた。
「――っ!?」
僕が思わず目を白黒させると、女――、エリザは騒がないでと言うように人差し指を口元に立てる。
「私の勝ちね。さぁ、レイ……私と、夫婦になりましょう?」
長年の恋が叶ったかのような夢心地の表情で、エリザは僕の方へ両手を広げ、柔らかく微笑んだ。




