59.姫の黒近衛
色恋沙汰は、はっきり言って苦手だ。
まず考えてしまうのが、相手の気持ちが見えないこと。気持ちなんて恋人になろうが分かる完璧に訳がなく、通じ合うなんて幻想だ。それは分かっているし、当たり前のことだ。が、僕は見えないことが堪らなく怖いと思う。京子がいい例だ。彼女は僕に対して、愛情というには複雑すぎる、歪んだ想いを抱いていた。だから……気持ちを伝え合うなんて芸当は僕には難しい。
それに人は平気で嘘をつく。考えてみれば京子なんて、恋人時代に吐く言葉の八割位は、嘘だった。
他人に接するのも得意ではない。これは僕の事情もある。人付き合いを遠ざけていたのも否定しない。だから、相手から来ると凄い助かるというのが、僕の本音だ。
身近だと怪物とか、京子とか、ルイに汐里……。基本的にやっかいごとも向かって来ていた事に今気がついた。
何より……愛することが、怖い。
いつかのカオナシ騒動で、僕は一応怪物の傍にいることが幸せだと、彼女には伝えた。伝えたけども……。やはり未だにキスだけで身体は強ばるし、くっつかれただけで柔らかいやらいい匂いやら緊張で気絶しそうになる。
だから、結局僕は、今ですら彼女が望むあらゆることに二割も応えられてはいなかった。
だからこそ、今回の本当の夫婦になろう。という発言は、その実、結構僕なりに頑張っていたりする。
のだけれど……。当の怪物はキョトンとした顔で首を傾げて一言。
「レイと私。もう夫婦だよ?」
…………ああ、うん。君の中ではそうだったのか。
思わず苦笑いしつつ、僕はコホン。と咳払いしてから、諭すように彼女へ話しかける。
「いや、考えてみて。僕、君に旦那さんらしいこと……してあげれてた?」
「旦那さんらしいこと……って何?」
「……OK。じゃあ試しに君の不満を言ってみよう」
僕がそう提案すれば、怪物は「んー」と、考え込むような仕草を見せてから、改めて、僕の方を見る。
「言ったら……レイ、直してくれるの?」
「あまり過激なことじゃない限り……ま、前向きに検討するよ」
政治家みたいなことを口走り、一応の避難所を作れば、彼女はまた考えて……。
「キス……レイからしてくれない」
「…………あー」
「……してくれない」
「い、いや……前に一回……!」
「それ、私から逃げる為に。私を騙した時」
「あ、うん。そんな気もしてきた」
「してくれない」
ねだるような視線が僕に絡み付く。下手に逃げても「今がいい」と返ってくるだろう。僕は軽く深呼吸。そっと怪物の華奢な肩を抱き寄せて……
「今も、私に言われたから」
「こ、これかりゃ……いや。これから頑張る」
本当に? と、怪物の恨めしげな視線を感じながら、優しく軽い口付けを落とす。……やはり、慣れなかった。けど、当の怪物はにへー。と、嬉しそうな笑顔を浮かべながら、僕にますます身を擦り寄せてきた。
「抱っこも。レイからしてくれない」
「たまに運んでるじゃないか」
「基本じゃまがいる」
「……そんな気もする」
「いつもくっつくのも、私から」
頑張るよ。と、繰り返す。お堀が容赦なく埋められていく、城の主になった気分だった。
「あと、パンツのおじさんといる時、私といるより嬉しそうだし。しおりんにはデレデレしてる」
「…………君も汐里はそれで呼ぶのか」
「好きに呼べって言ってたから」
いつかに僕が暴走して、汐里と共闘した時かな。と、推測した。僕でもこいつについて知らなかった事がある。その事実が少しだけくすぐったくて、嬉しかった。
「デレデレはしてないよ」
「してるもん」
「女性に慣れてないだけだって」
「でも何かやだ。レイ、アイツといるとき、安心してる」
「そりゃ、汐里はお姉ちゃんみたいな感じで、それで……」
「……うん。レイにとって大事だって。わかる。パンツのおじさんみたいに」
「……その呼び方やめてあげなよ」
「だってパンツになるから」
「パンツになるけども」
他愛ない会話を交わす。こんなにも穏やかな時間は、随分と久しぶりな気がする。だから……今ならば言える気がした。実は一度も言っていなかった言葉を。
「僕はね……君が、好きだよ」
「…………?」
私もだよ? と、彼女の目は語る。……こいつは本当に僕からことごとく主導権を奪ってくるというかなんと言うか。いや。もう諦めよう。きっとこれからも、こういった関係上で僕が彼女に勝てることはないのだろう。尻に敷かれるという言葉が一瞬よぎったが、それには全力で目を背けた。
再び深呼吸。大丈夫。やれる……筈だ。
意を決して怪物を引き寄せる。腕の中に柔らかい感触にクラクラしながらも、しっかりと彼女を抱き締めると、流石に吃驚したのか、怪物は身体をピクンと跳ね上げた。
「……レイ?」
といっても、それは本当に一瞬で。怪物はすぐに力を抜き、僕の方へ身を委ねてくる。首筋に冷たく濡れた舌が這い、ちゅ。と、軽い口付けが落とされる。
「…………言ってなかったから。ずっとバタバタしてたしさ。君が連れ去られた時、本当に気が狂いそうだったんだ」
いや、実際には狂っていたのだろう。
この手で撃ち殺した、蜂の男を思い出す。普段なら絶対に躊躇うだろう行動を、ああも躊躇なく出来たのは、一重に僕が焦燥に駆られていたから。
刺し違えてでも蜂は潰す。そう思っていたが……。あろうことか、救いだす相手が敵の首領を喰らい、蜂全体を隷属させるとは誰が予想できようか。
「無事で……よかった」
「……うん、レイも。助けにきてくれて嬉しかった」
「怖かったろう?」
「最初だけ。リリーがいっぱい私に嫌がらせしたから……後で同じ事してあげたの」
「……怖いなぁ」
キラリ。キラリと光る目で、楽しげに嗤う怪物に、背筋が寒くなる。変な虐め癖がつかないことを祈るばかりだ。
「んっ……ね、レイ。そういえばね」
怪物のぬくもりと香りに酔いしれていると、不意に耳元を聞き慣れたウィスパーボイスがくすぐった。
「どうしたの?」
「レイ、疲れてる?」
「……え? うん。まぁ……そこそこ」
多分これから更に疲れる事は予想できるけど。という独白を伏せてそう言えば、怪物はチロリ。と、獲物を見つけた獣のごとく、赤い舌を覗かせた。何故だろう。猛烈に……。
「ね、ねぇ。どうし……」
「私に……任せて」
「へ? もっ、ごっ……!?」
嫌な予感がした時には既に遅かった。
細い腕が僕の後頭部を捕らえ、顔が引き寄せられる。いつもの、僕にはいささか過激すぎるキス。
ニュルリと舌が僕の歯を割って口内に侵入し、そのまま、生きた蛇のように、憐れな獲物……もとい、僕の舌へ絡み付く。
「むっ……ちょ……! んっご……!?」
「あむ、んちゅ……、逃げちゃダメ……今、出すからぁ……」
「だしゅっ……て、何を……んんっ!?」
想定外なことは、慣れたつもりだった。だが……そんな慣れは怪物の前では意味を為さないことを、僕は再び思い知らされた。
「な……ん……これ……あっ……ま……!?」
「んむっ、レイ、れい……飲んで。ね、のんでぇ……」
口の中にトロリとしたものが流れ込んでくる。それは未だに貪られる僕の舌にねっとりとまぶされて。気が狂いそうなくらいの甘い味が僕の全てを支配する。
その時、懐かしい感覚を思い出した。奥底に封じていた幼少時代の記憶。
家の戸棚に隠された、蜂蜜のボトル。あれの中身をこっそり拝借するのが僕は好きで……。
「んっ、……はぁっ……」
「う……あ……んぐっ」
ようやく彼女の拘束が緩められた。解放された僕は酸素を求めるべく口の端から溢れそうになるそれを、必死に嚥下する。広がる暖かさが頭のてっぺんから爪先にまでを走り抜け……。たちまち僕の身体に力がみなぎってきた。
「……何だ、これ?」
多少の傷は再生力を節約するためにほったらかしにしていたのだが、それも全て塞がっている。驚愕したまま怪物を見ると、彼女はうっとりと、蕩けた眼差しを此方に向けながら、柔らかそうな口元を拭いとる。白い指先には、琥珀色のトロミがある何かが付着していた。怪物はそれを悩ましげな仕草で口に含む。
ちゅぴ。と、湿った音がするのと、僕の喉が再びゴクリと音を立てたのはほぼ同時だった。
「これ……蜜?」
「うん。リリーが煩いから、やってみたら出来た。……色んなとこから、出せるよ?」
身体を屈め、上目遣いで僕を見つめる怪物。期待が込められた熱視線を何とかかわし、僕は小さくため息をついた。
少しの独占欲。これを他の誰かに与えたくないという感情が芽生えかけたが、それを封じる。どこからでも出せるなら、僕みたいに飲ませる必要はないのだ。
「ね。凄い? 私凄い?」
「うん、びっくりした」
「もっと……飲みたい?」
「……いや。今は、やめとく」
「……むー」
話が進まないのでもう一度。優しく彼女を抱き寄せて、僕は話題を元に戻す。
「もう一度、言わせて。僕は……君が大好きだ。今までみたいに、君に流されるだけじゃない。心の底から……大切にしたい」
「……レイ、今日は大胆」
「頼むから話の腰折らないで。大事な話なんだ」
「私達が一緒にいられるならそれでいいもん。レイは……私の」
「……うん。僕も、これからそうありたい。だから……」
「だから、何処にも行かないで。私を置いていかないで」
心臓を、鷲掴みにされた気分だった。
弾かれるように僕が彼女から離れると、怪物は悲しげな顔で立ち上がる。
「……やっぱり。レイ……難しいかお。今までで、一番」
「何を……」
「レイが、そんな顔するとき。わかる。私が嫌なことする」
「そんなこと……」
「じゃあ、一緒にいて? 出来るよね? 夫婦になるんだもん。これから帰って、二人で暮らすの。出来るよね? レイは私が大好きなら……私から離れるなんてない。そう約束、出来るよね?」
一歩彼女が足を踏み出し。僕は合わせて一歩後退する。
うなじが再び沸き立つような危機を告げてきて。僕は胸が締め付けられそうになる。
「一緒に、いるよ。でも……」
「ダメ、後からは嫌。今から」
「……それは……」
「出来るよね?」
「…………出来ない」
バギベキと、小枝が折れるような異音がする。彼女の両肩から……蟷螂の腕が生えてきて、音もなく、鋏が開閉するかのように蠢いた。
「…………どうして?」
「どうしてもだ。僕はこれから、少し用事がある。その為に……君には安全な所へ行って欲しい」
「どうして?」
「君が危険だから」
「どう、して?」
「相手……さっきの女、見ただろう? 君は覚えていないだろうけど……。さっき僕以外は全滅して……」
「どう……してぇ?」
震えながら、イヤイヤというように、怪物は首を横に振る。
悲しげな表情で、ゆらりと上半身を揺らせば、蜘蛛の脚が細い腰からズルリとはみ出てくる。糸を絡めたそれは、飢えた獣の顎を思わせた。
「僕が……君とずっと一緒にいたいから。だから、アイツは僕が倒さなきゃいけない。アイツをどうにかしないと……僕らが夫婦になることすら……」
「私が守るもん!」
「君は強いよ! でも……でも強いだけじゃダメなんだ。アイツは……そういう強さが通用しない! 対抗できるのが僕だけで……」
「やだ! やだやだやだ! レイの傍がいい!」
「ワガママを言わないでくれ! 君も操られたんだよ!」
「そんなの覚えてない!」
「だからだよ! 僕だって一緒にいたいさ! でも……でも……アイツの傍はダメだ! アイツは、アイツは……君の想いだって……、消しちゃえるかもしれないんだ……!」
心を塗りつぶし、僕以外に今の想いを向けさせたり。あるいは……自らを植物人間のように成り果てさせることだって。
そんなの、考えただけでどうにかなりそうだ。
「嫌なんだ。君が僕の前からまたいなくなるなんて……もう嫌なんだよ!」
「――っ! でも、でもぉ……!」
癇癪を起こし、地団駄をする子どものように怪物は目を潤ませながら、僕を睨む。スカートの下から、蜂の下半身が飛び出して。背中にはオレンジの羽が伸び、空気を掻きむしるように振動する。
どうしよう。どうしよう……と、何度も呟きながら、怪物は視線をさ迷わせ……。やがて、その手を蜘蛛の鉤爪に変え……。ゆっくりと、僕に虚ろな目を向けた。
「お、おい……」
「……そうだ。リリーが私にしたみたいに脚をもいじゃお」
「……は?」
脚? 何の話だ? と、僕が問う直前。身体にバキン! と、衝撃が走る。
操りの力。だが、リカとの戦闘であり得ない程の経験を積んだ僕には、それを最小限の力で相殺するなど、造作もないことだった。もっとも、我が奥さんはそれがご不満の様子だけれども。
「レイ……何か最近、私の言うこと聞いてくれない」
「ぼ、僕にも人権はあるぞ!」
「私のモノって言ってくれたのに……嘘つき。嘘つきぃ……!」
蟷螂の腕が交差する。僕が慌ててその場から飛び退けば、彼女は抉れた地面から、ノロノロと、僕の〝四肢〟に目を向ける。
その瞬間、僕は彼女が考える事を直感し、寒気が走った。
「ま、待て……もぐって、まさか……」
「脚をもいじゃお。何処にも行かないで。次は腕も貰うの。手だけで逃げたら大変だもん。そしたらビリビリするお注射して……反省するまで生やしてあげない」
「……おい、奥さん」
それは色々と発想が飛び過ぎではなかろうか?
「蜜もちゃんと飲ませて上げる。さっきみたいにする? それとも赤ちゃんみたいに飲む? ……あ、そうだ! もっとちっちゃくなろ? 脚をもいだレイをちっちゃい蜘蛛にして……私の赤ちゃんのお部屋に隠すの。そういう蜘蛛もいるんでしょ? そうしたらあの女も追ってこれなくて……」
「待て待て待て待て待てぇ!」
急にどうしたんだ! まるで気が狂ったみたいに……。
そこで、洋平の言葉がよみがえる。喰らい者の性質を。まさかとは思うが、興奮するとこんな感じに精神がおかしくなったり……。
「だって、だってじゃないとレイが何処かに行っちゃうもん! レイだけ大丈夫って何!? そいつにレイが勝てなかったら……レイが私を嫌いになるんでしょう!? 私じゃない女と一緒になるんでしょう!?」
いや、言動はぶっ飛んでいるが、芯はブレていなかった。全然安心できないが……。もう、これ以上刺激するのはやめておこう。ただ頼むしかない。……現実逃避とも言う。
「……お願いだ。逃げてくれ」
「やだ。レイも一緒」
「絶対に見つかる。そういう奴なんだ。今は強襲部隊がいないけど……下手したら次は同時に来るかも知れない。いや、そんな時間すらくれないかも……」
「…………だったら。だったら……」
怪物が、身体を一際震わせる。
来るか? と思った矢先――、その腕から、黒いタールのようなものがドロリ。ドロリと滴り落ちて、地面を汚していく。
「……っ!? おい、それは……!」
ポケットを確認しようとして、僕はそれが意味のない行動だと気がついた。
カイナを相手にした時、僕は一度服を捨てた。その時……黒タールの肉核はあの場に置いてきて……。
嫌な汗が一気に吹き出す。あの後、僕はカイナや桜塚さんを尋問して……リリカや洋平。そして怪物は暫く自由時間。僕はその間、彼女らの行動を全く把握していない訳で……。
「つかぬことを聞くけど……それ、どうしたの?」
「拾った」
「バカヤロォ!」
ペッしなさい! ペッ! と言っても後の祭り。
黒いタールの塊は彼女からどんどん分離し、巨大な蜘蛛や蜂。蟷螂の姿を象って一匹。また一匹と増えていく。
悪夢のような光景だった。
単独で強い蜘蛛。奇襲性に優れた蟷螂。制空権を主張する蜂。それらが徒党を組み、軍として機能したとしたら?
「てけり・り。てけり~」
歌うように、怪物が謎めいた言葉を口ずさむ。
それはまさに、蟲の姫君を守る近衛隊の顕現だった。過剰なまでの戦闘力は、単純なぶつかり合いならば、間違いなく最凶といえるだろう。こんなのリリカでなくとも、勝てる気がしないのは頷ける。だが……それでも……。
「レイ、私ときて。」
「…………っ」
脚が震えている。黒近衛共は虚ろな複眼で僕を睨み、姫君への服従を迫る。
……わかってはいたのだ。リカとの一騎討ちの前にこうなるなんて予想はしていた。だけど……。
僕の腹部に鉤爪を突き刺した怪物の姿がフラッシュバックする。彼女が覚えてなくて、よかった。
本気の憎悪を向けてきた怪物。あの時僕の精神がいかに削られたか。筆舌に尽くしがたい酷さが僕を蝕んだか……。それでも、それを怪物が知らずに済んで、本当によかった。
あんなのはもう、二度とごめんだ。
「私と来なさい、レイ」
「――断るっ!」
「……聞こえなかったの? レイ。もう一回いって」
恋慕と哀愁を有した姫君の目に、新たに激情が宿る。衝撃的に振り上げられた手は、彼女が京子や汐里を蜘蛛の大群で凌辱した時と同じ。彼女が相手を屈服させる最終手段だ。
しかも今度は、サイズが段違いかつ、蜘蛛以外のオマケ付き。更にタチが悪いのは、怪物が悪意や害意を持ってそれを使用しないこと。これに尽きた。
あまりにも重た過ぎる愛。それでも僕は引くわけにはいかなかった。
妻の愛。……うん、きっと愛。それを受け止めずして、夫として彼女の隣に立てはしない。全て受けきり、その上で外敵のリカを倒す。それしかもう道はない。だから……。
「何度でも言ってやる! 断る! 家に帰ってなさい!」
きっぱり僕が言い放てば、怪物の顔が瞬時に無表情になる。潤んだ瞳から、一筋の涙が伝い落ち。各部の武器や気管が、不気味な軋みを上げた。
「……っ! だったら……いいもん。もういいもん……!」
こうなったら、私がレイを捕食るから。
ぞっとする宣言と共に、姫君の手が振り下ろされ――。奇声を上げる蟲の大群が、僕の元へ殺到した。




