55.最強の怪物
香山リカ。
それは、リリカらとの戦いに敗れた後。身体に施した〝枷〟を汐里によって外して貰っている最中に聞いた名前だった。
「……実は、私自身もその正体は分からないのです。知っているのは、ルイと面識があり、あの彼が最強の個体だと認め、関わりたくないとまで言わしめる存在だということ」
事実。私も訳も分からないうちに無力化されちゃいましたし。と、付け加えながら汐里は苦笑い気味に僕の左脇腹に顔を近づけた。
上半身は裸の状態で僕は然り気無く拳を握る。枷を施す関係上、汐里には身体のあちこちを噛まれる事になる。こそばゆく、気恥ずかしいこの感覚にはどうしても慣れることが出来ず、無意識で身体が強張ってしまうのだ。
直後ヒヤリとした唇がそこに当てられる。すぐに酩酊に似た痺れが身体を駆け巡り、皮下に異物を刺し込まれる感覚がした。もう遠い昔のことのように思えてしまう、予防接種みたいだ。
「汐里が……あっさり?」
「はい。しかもまぁ、何と言いますか……その後に未知過ぎる体験をしましてね。レイ君。以前に桐原が話していた、〝内的世界〟を覚えていますか?」
「怪物が取り込んだ人間が眠り続けている場所……だったっけ?」
「魂。と、言っても言いかもしれませんね。……こう言えば何だか非科学的ですけど。要するにその人の精神的な世界です。私は自分自身のそこへ行き……ルイに再会しました」
少しだけ汐里は強めに僕の肌へ爪を立てた。
かつて汐里はルイを食べ、取り込んだ。あたかもアモル・アラーネオーススが肉体を得るかのように。となると、ルイがいるイコール、そこが内的世界だと確信した。こんな所だろう。
「…………って、待ってくれ。内的世界って、原種の怪物が持っているものじゃないの? なんで汐里に?」
「気づきましたか? そうです。得難い体験から学んだのはそこ。事例は少ないですが、私は考えました。内的世界とは、もしかしたら全ての生物が持ち合わせているのもの……即ち心を形にしたものではないか。ただ多くの人がそれに気づかないだけ」
ここまでくれば、最早オカルトの類いですね。と、汐里はため息をつく。
「一般人から突出した存在とは、皆一様に内面といいますか、精神構造が特殊か、鍛え上げられているものです。スポーツ選手は常に自身と戦い続けていますし、僧侶は悟りを開くべく修行という形で己の内面と向き合います。臨死体験で不思議な世界を見た。なんて人は、まさにその精神世界に行っていたのかも。そして私達は……肉体と精神に怪物を有している」
ふと、いつかの夜を思い出す。力の使い方を誤り僕が暴走してしまった時。あれは確かに僕の身体が。心が、内面の怪物に負けたと言えるのかもしれない。
「……その内的世界と香山リカがどう関係があるんだい?」
「……ああ、すいません。回りくどくなりましたね。私が驚いたのは、香山リカが私を意図的に内的世界へ連れていった上に、その場に現れ、語らったという点です。大輔曰く、私はその時意識を失っていて、香山リカもまた、傍で眠っていたとか」
「……それが、香山リカの能力?」
「断片に過ぎないとは思いますけどね。ただ、他人の心に入り込むなんて離れ業、想像しただけでも恐ろしい。よもすれば隠し事はおろか、考えや思想。大切な記憶が筒抜けになるのですから」
「相手の精神や背景が分かる……精神観測って奴か」
その時思ったのは、大したことないんじゃ? だった。確かに考えやエピソードが読まれるのは怖いけど、それだけならばいかようにも……。
「そう、レイ君。貴方が考える通りそれだけならば実際に大したことはない。ですが、考えてみて下さい。精神の観測があくまでも副産物。あるいは対を為すものだったなら? 彼女は覗くだけではない。〝入り込んでいます〟怪物としての本質も保存されているブラックボックスにです。そこに侵入。最悪、干渉までできるとしたら……?」
「侵入と、干渉?」
「近い例を挙げましょうか。桐原と京子。あの二人は原種が暴走した混乱に乗じて内的世界に入り込み、原種の身体の支配権を奪いとった」
「…………まさか」
嫌なパズルのピースが繋がっていく。京子や桐原の時は偶然だった。だが、それが意図的かつ自由に行えるならば……それは。
「出て来て来ないことを願います。私は味方と言ってはいましたが、それすら信用しがたい。彼女は蜂も、ここにアモル・アラーネオーススがいることまで知っていた。案外……この抗争の裏は、彼女が糸を引いているのかも」
その時は、ただ心に留めておく程度だった。僕の優先すべきは、リリカから怪物を奪還することだったから。
ただ……。
「……どんな気分なんだろ」
「はい?」
僕がふと漏らした言葉に、汐里は首を傾げる。
それは、ほんのたわむれで考えた事だった。
「いや、その通りの能力だったとして。それで最強って言わしめる位だったのだとしたら……」
香山リカという怪物は、ある意味で――。
※
夫婦になろう。
リカが爆弾発言をしたその瞬間に、僕のすぐ傍で怪物が動いた。
鉤爪を瞬時に構えて、それをまっすぐリカに向ける。
「お前……何を言ってる」
いつでも糸を出せるようにしながら、怪物は低くドスの効いた声でそう言った。その時だ。僕は不意に、うなじの肉が抉り取られたような、おぞましい気配を感じた。
ヤバい。ヤバいヤバいヤバい。攻撃感知。攻撃を受けてる。
すぐに対処せねば死。右に動かせ。鉤爪を右に……。急げ。急いで……!
「――っ! 鉤爪〝左に〟!」
バキン! と、弾けるような音が体内でして、僕の脳内に命令が走る。
意識せずに振り上げた手が、その場でピタリと硬直する。
右へ。左へ。直感した通り、異なる指示が僕の腕を混乱させる。結果、僕は右隣にいた怪物に凶爪を振るわずに済んだ。
だが……。
「……っ、凄い……凄い凄い凄い! 凄いわレイ! 素敵よ! やっぱりわかってくれたのね!」
目を輝かせ、リカは盛大な拍手を僕に贈る。うなじが〝痛い〟今迄にない危機感。そして絶えず脳内で鳴り続ける、弾けるような雑音。僕は今、自分自身に連続で身体所有権の剥奪を行使していた。そうしろ。でなければ破滅。自分の能力たる超直感が、そう囁いたのだ。
同時に、この〝攻撃〟を凌いだ瞬間に、僕は悟ってしまった。
僕以外は、全滅だと。
「何を言ってるの! お前は何を言ってるの! 息子をお前みたいな馬の骨にやれるか!」
「ピピュ! お義母さん! でも俺は真剣に彼と交際を……!」
「洋平! 洋平! いや! 私を捨てないで! メイド服も着てあげる! その上で踏んであげる! ホントは嫌だけど……罵声っ、だって……。だからお願い傍にいて! 私には、貴方が必要なのよ!」
すぐ傍で、支離滅裂な会話が巻き起こる。
膝を向き合わせ、正座したまま謎の問答をする怪物とムロイがいる。
リリカは木にすがり付き、「ほら、こうでしょ! これがいいんでしょ!」と、蹴りを入れ続けていた。
拘束された強襲部隊の面々は見た所変化はないように見えるが、目が猛烈に泳いでいることから、何かされたのは明白だ。
そして。
「おおおおおおおお!!」
洋平はその場で、リリカには目もくれずに猛烈な早さで腕立て伏せを始めていた。頭が下がる位置へ丁度大きめの石があり、何度もそこに頭を叩きつけている。痛みは……感じていないらしい。
更に……。
「……シッ! ……シッ! シッ! ……シッ!」
叔父さんは、無駄にスタイリッシュにパラパラを踊っていた。
作られたカオスがそこにある。よりにもよって気が抜けないこの場面で、全員の脳内からリカと。他が消えた瞬間だった。
「ああ、嬉しい! 嬉しいわ! 能力を知った時、もしかしてって思ってた! 貴方なら、私の能力に抗える! ちゃんと鍛えたら、私の隣にだって……」
「皆に何をした!」
「……おっとっと」
鉤爪を振るう。さぁ。ダイナミックに彼女を抱き締めよう。なんて事はなく、僕はその場で無意味な回転を自分に強いる。
続けてリカを押し倒せと命令が来るが、僕はリカから離れる事に全力を傾ける。
「違う、今は逆手に取り、私の首を切り裂くべきだった。あら野蛮だこと。嫌いじゃないけど」
「察しがいい……なっ!」
「ダメ。命令よ。貴方は私に膝まずいて」
「愛してりゅびゅあ……! こ、の……!」
膝が勝手に折れ曲がる。僕はその瞬間に口から糸を吐こうとするが、上書きするかのように愛の言葉を吐けと強いられて、すぐに舌を噛む。
身体があちらこちらに跳ね上がろうとしては留まるを繰り返し、身体が軋みを上げる。
ただ距離を取ろうとするのも、これでは相当な体力を消費しかねない。何せ今僕は、連続で自分に能力をかけ続けているのだから。
「……超直感。危機的状況における勘。もはや精神感応ね。私の攻撃も嫌な予感として感知して、逆の命令を即興で割り込ませ続けることにより抗ってみせてるのね。その能力とアモル・アラーネオーススとしての操りの力が合わさったことで出来る芸当ね」
「心に入り込む時は……」
「勿論完全に入り込むのは疲れるし、私も無防備になる。けどあれは、あくまでも汐里ちゃんとルイの繋がりを後押ししたり、蜂の情報を二人にだけ聞かせるため、わざわざ面倒な手を使っただけ。意のままに操ったり。簡単な命令を下す方が、私には簡単なの。例えば……」
ふい。と、指揮者のようにリカの指が振るわれる。背後のどんちゃん騒ぎが終息し。不意にユラリと全員が立ち上がる。
マズイ……! そう思った瞬間に。リカは哄笑と共に言葉を紡ぐ。
「命令よ。殺し合え……!」
判断は一瞬だった。僅かな間、僕にかけられていた負荷が消える。その瞬間に、僕は全員を糸で巻き取った。
身体所有権の剥奪をかける? ダメだ! 僕が全員に能力をかけ続けていたら、すぐにガス欠になる。かくなる上は……。
「……っ! ごめん!」
皆の弱所を直感し、そこに向けて手を振るう。意識がなければ、操られない。それだけは分かるから……。
血走った目で開拓者に手を伸ばそうとする叔父さん。
無表情で蜂の槍を構えていたリリカと洋平。
毛を逆立てたムロイに、僕は手刀をお見舞いする。洋平とリリカは流石にそれだけでは意識を失わなかったので、何度も何度も叩きつける。何とか二人が意識を落としたその瞬間。
僕の胸に黒い影が飛び込んで来て。腹部へ焼けつくような痛みが走る。
「ぐ……ぁ……!」
「レイ……死んで」
ザクリと、心に刃物が刺されたような錯覚に陥る。直感で分かる。これは操りだ。けど、今この場にいる彼女は……僕のつがいである少女の怪物は、確かに存在する敵意と憎しみの視線を僕に向けていて……。僕の身体は完全に硬直した。
「あ……」
「命令よ。その子の首を締めて」
身体が、意志に反して動く直前、僕は直感に従った。素早く彼女の首に手を伸ばし、力を込めて締め付ける。
「死ね……死ね死ね死ね死ね死ね……! 死……ぬ……が……ひゅぎ……」
呪詛のように怪物の口からその言葉が飛び出してくる。今迄を考えれば、絶対にあり得なかった光景。僕はそれを見つめつつ。唇を噛み締めた。
ここでまごつくより、彼女を落とした方が早い。それで彼女を守れるのだ。だから…………だから……。
身体の何処かで、何かが壊れるような音がした気がした。頬を滴が伝い、胸が張り裂けそうになる。そこでようやく、手折られた花のように、怪物が崩れ落ちた。
合理的思考に吐き気を覚えると共に、僕は心の奥底で、今迄にない激情を感じ……。
「隙だらけよ……レイ。ね、チューしよ。あの娘にするみたいに、チューして」
背後から迫る甘い香り。僕はその命令を逆手に取り……加速する。
「あらん、激しいのね」
キスして。
舌を噛み切れ。
抱き締めて。
絞め殺せ。
撫で撫でして。
首をネジ切れ。
夫婦になって。
踏みにじれ。
命令が相殺し合う。リカは僕の害意を楽しげにいなす。
一つの命令に執着せず、次々に別の命令がくる。
心と。技と。肉体。全てを総動員してリカを追う。
仕留めろ。ここで仕留めろと、直感が叫ぶ。生かせば、間違いなく僕は全てを失う。死ぬ。
それは精神がか。肉体がか。
「あら、ダメよ。〝余計なこと考えちゃ〟」
「――っ! 〝思考止めるな!〟」
慌てて命令を追加すれば、リカは楽しげにクスクス笑う。
「あら、お上手。密かな攻撃だったのに」
「黙……れ」
「許せないのね。貴方の怪物ちゃんの心を弄くったのが。貴方は許せない。彼女の尊厳を踏みにじったと……」
「黙れ」
鉤爪を振るう。が、いつもの三倍は遅い攻撃を、リカは悠々と手首を掴む事で待ったをかけ、そのまま僕の身体を引き寄せる。顔を捻ったのは、ただの嫌がらせだった。攻撃じゃないなら、これを隙にすべし。
「んっ……あん! もぉ~」
頬に柔らかな感触。ちゅ。と、小さな音がして、僕はそのまま手を翻し、リカの腹を鉤爪で抉り裂こうとする。が、その頃にはリカは頬を赤らめながら、ヒョイヒョイと僕の間合いから遠ざかっていた。
「初めては唇がよかったのにぃ」
「吐き気がするよ」
「いけずね。でも……フフッ。楽しいわ。こんなに長く私と遊べたの……貴方が初めてよ?」
ぐぐっ。と、寝起きのごとく呑気に延び上がりながら。リカは蠱惑的に唇を歪めた。蕩けるような視線が向けられる。
その最中すら、僕と彼女の精神上の攻防は続いていた。気を抜けば、僕の身体は彼女に支配される。そう勘が囁いている。
汐里が予想した通り。これは精神を観測する何て生易しいものではない。
ルイをして最強と言わしめるその能力は……。
「そう、貴方が考えている通り。精神観測は断片に過ぎない。私の本質は……精神操作。私にかかれば、長年連れ添った夫婦を憎み合わせてみたり。記憶の消去や出鱈目に繋いだり。大統領を裸の王様にするのだって……思いのまま」
忘れて。
一秒ごとに思い出せ。
せめぎあいが加速し、凄まじい頭痛が僕を襲う。明らかに、消耗の度合いはこちらが上。だからこそ対抗策を考えねばならないのに、目の前の敵はそんな暇を許してはくれない。
ギチリ。と、絶望が背後からのし掛かり、僕は無意識に歯を食い縛る。僕は……。
「そう、その通りよ。レイ。貴方では……私に敵わないのよ」
舌なめずりをしながら、リカは嘲るように僕に向けて手招きする。
こっちへ……いらっしゃい。その命令を、僕は地面を踏み砕く事で突っぱねる。
「……まだやるの?」
「君と夫婦とか……ごめんなんだ」
「いっぱい優しくしてあげるわよ? そこの怪物ちゃんよりも蕩ける位愛することを誓うわ。裏切ったりなんかしない。私は強いから、敵もいない。ね、私のとこに来て?」
「断る。人形が欲しいなら、適当な奴を見繕いなよ。僕じゃなくてもいい筈だ」
「だーかーらー。それが嫌だからレイにこうしてアピールしてるんじゃない。ああ私、料理も自信あるのよ? 家庭的な奥さんになること間違いなしで……」
「くどい!」
背中が盛り上がり、蜘蛛の脚が飛び出す。操りの幅を少しでも広げれば、リカにも今以上の速さで肉薄できる筈。……これすらも、彼女には筒抜けだろう。今僕が考えていることですら。事実、リカは少しだけ眉を潜めている。
読んだのか。それでいい。汐里に話した僕の感想は、当たっていたらしい。
「図星かな。そうだ。こんな短時間だけど、少しわかったよ。僕が言うなって話だけど、きっと君は……寂しい奴だ。今迄も。これからも……君は独りなんだろうさ」
これもまた、直感でしかない。そこでふと、僕の力は全てとは行かずとも、彼女に似通った部分があることに気がついた。
もしかしたら……どこで知ったかは知らないが、リカが僕を狙うのもそんな部分が関係して……。
そこまで考えた時。不意に僕への精神干渉が停止した。
何だ……? と、僕がリカを見れば、彼女は俯いたまま、身体を震わせている。うなじは……未だに激痛を放っていた。
「……いいわ、レイ。素敵。ますます欲しくなっちゃったの。だから……」
今から私、ちょっとだけ本気出すわね。
そう呟いた彼女の背中には……いつのまにか褐色の翼が広げられていた。




