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名前のない怪物  作者: 黒木京也
続章ノ三 強襲する悪夢
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51.絆の家庭犬

 老人の怪物は、楠木正剛。しがない教授だよとだけ名乗った。

 曰く新人類たる怪物であり、老い先短い今、孫娘の伴侶を探している。そう言った。

 といっても、本人はエディに言葉が通じるとは思っていない。ほとんど適当な独白のような形で漏れた告白だった。

 なんだそれは。と、思わず口にしたエディだったが、それはやはり通じることはなく。向こうからしたら「クーン」か、「ワフッ」程度にしか聞こえていないだろうな。そんな気持ちを抱きながら、エディは日々を連れてこられた隠れ家で過ごしていた。

 野良犬から飼い犬に転身してはや二ヶ月。今の拠点は駅近の、それなりに大きなペットOKなマンションの一室だった。

 そこには、エディと教授。いるとは言われるが、未だに姿を見せない怪物の孫娘。そして、三十歳くらいの男性サラリーマンと、同い年の女性。更にその連れ子が住んでいた。

 助手かと思ったが、そうではないらしく。教授曰く、単なる協力者。住居の提供の見返りに、金を男性に握らせているらしい。

 犬であるエディが来た時は「おい、犬まで追加かよ」と、少しだけ嫌そうな顔をしたが、世話も男以外がやる上に、工面する金が増えると知るや、ニコニコ顔でエディを迎えいれた。

 それどころかたまに御犬様なんてほざきながら、コンビニのフライドチキンを献上してくる低落である。

「……哀れな男だ」

 ごちそうを()みながら、エディはそう独白する。

 金の見返りが秘密裏の住居提供。男は本気でそれだけだと思っているのだ。

 実際にはもっと……文字通り搾り取られているとは気づかずに。

 数日おきに行われる、教授から男への吸血行為と謎の命令。見慣れ、聞き慣れた『今の出来事を君は忘れる』という言葉を部屋のカーペットに寝そべったまま、エディは無感動に眺めていた。

 恐らくはエディを山中から下ろしたのも、同じ手だ。

 理屈は分からないが、教授は他者を操る力がある。そこには人も動物も例外はない。一度都会の中心に来てしまえば、もはやただのエディに山へ戻る術はない。野良犬の生存など、都会ではありえない。だから今、彼はこうして飼い犬に甘んじていた。

 釈然としないものはある。だが、少なくとも安全と食が保証されるならば。そして……。

 階段を元気よく昇る音がする。〝彼女〟が、帰ってきたのだ。


「エディ!」


 しゃがめば地面に届きそうな長い黒髪。動きやすそうな格好に、ランドセル姿の少女が、笑顔を花開かせながら、エディに飛び付いた。腹や耳の後ろをワシャワシャと撫でながら、頬擦りをしてくる少女。エディはそれをやれやれという面持ちで。だが、無意識に尾を振りながら迎えいれた。

 森島(もりしま)優香(ゆうか)。この部屋の住人にして、主にエディの世話を一手に引き受ける者。事実上エディの飼い主にあたる少女だった。

「ただいまっ! エディ! お散歩いこっ!」

「おかえり。優香。まずは手洗いとうがいだよ……ダメか」

 通じぬとわかりつつ、エディはいつもする挨拶をする。風のように部屋を横切り、リードを持ってきた優香の手を、エディは優しく舐める。カチャン。と、フックが噛み合う音がして、エディの首と優香の手が繋がった。

 最初、教授や同居人の女性……森島美智子にやられた時は屈辱的なことこの上なかったのだが、彼女の手によって施されるそれは、不思議と自分にしっくりきていた。

「いってきます!」

 元気よく優香は走りだし、エディもそれにあわせて駆け出した。

 読書に夢中な教授はさておき。台所には、母である筈の美智子が。ソファーには、一応は美智子のつがいらしい男がいるのだが、誰一人。その挨拶に返事はしない。

 優香の寂しげな横顔を、エディはただ見ていることしか出来なかった。


 ※


 優香との散歩コースは、概ね決まっている。マンションを離れ、住宅街を横切り、大きめの橋を渡れば、桜並木が連なる川沿いのコンクリートで舗装された遊歩道が現れる。それなりに道幅と距離があり、途中に花壇を有した広場もいくつか存在し、道行く人が交流したり、ランニングしている姿も見受けられる。

 そこに混じって走っては休憩し。のんびり歩いてからボール遊び。たまにすれ違う優香のクラスメイトのいじめっ子や、その飼い犬を軽くエディが前足であしらう。

 それが、一人と一匹の日常だった。

「……エディは、強いね」

 前足で適当にどついた結果、尻尾を巻いて逃げ出した雑種犬を追い、走り去っていくクラスメイトを見送りながら、優香はポツリと呟いた。

 ベンチに座り項垂れる優香の傍に、エディは黙って寄り添った。人の言葉が喋れればいいのに。そう思ったのは一度や二度ではない。優香の家は……。かなり複雑な事情を抱えていた。


 聞き齧った話を繋ぎ合わせれば、優香の母とマンションにいた男は不倫を繰り返しており。結局、本当の父親とは離婚。

 優香は美智子が引き取り。そのまま、美智子曰く約束していた通り男のもとへと向かった。

 結婚する。その筈だったらしい。だが、男の方はそんなつもりはなかった。というありふれた話だった。

 言い争いが耐えぬ毎日。だが、美智子は元々裕福だったこともあり、男との関係は絶妙にズルズルと続いていた。男が搾取するという酷い形で。

 その間の優香はというと、殆ど居場所がなく、部屋の隅で縮こまっていたらしい。下手な事を言えば自分も巻き込まれる。母も男に夢中で、見る影がないほど冷たくなってしまった。自分は、いらない子なんだ。彼女はその時、そう思ったらしい。

「おじさまが来てからかな……。前ほど酷く喧嘩しなくなったのは」

 そんなある日のことだ。美智子が教授を連れてきたのは。

 何処で知り合ったかもわからない。だが、ある日突然。教授は現れて、二人の仲をちぐはぐながら取り持ち、どういう訳かあの部屋に住み始めた。

 そこにどんな交渉があったのかもまた、分からない。だが、以来男は上機嫌に。母は目に見えて淡白かつ、あまり喋らなくなってしまったという。

 あの、妙な命令か? 最初エディはそう推測し、だがすぐに否定する。あれはあくまで記憶を封じる手段としては使えるが、行動を永遠に縛り続ける事は出来ないように見えた。故に、やはり双方に何らかの取引を持ちかけたのだ。それがエディの考えだった。

「私は……なんにも出来ない。それが嫌。私が強かったら……エディを連れて二人で生きていくのに……」

 首を引き寄せるような形で、優香に抱き締められる。エディはその頬を伝う涙を優しく舐めてやることしか出来なかった。

 最近優香は、強くなりたいと言うようになった。まるで口癖のように。エディには、その理由がわからなかった。

 ただ、いつからか。優香は目に見えて、エディから離れないようになり始めた。まるで自分の家族は、エディだけだ。そう主張するように。そして……。

「私も……所詮は犬畜生か」

 自嘲するように、エディは人知れず呟く。

 そんな主を支えたい。そう思ってしまっている自分がいた。

 それは、誰一匹も共にいることの叶わなかった、兄弟姉妹達への贖罪か。それとも……。


「最近ね。毎日夢を見るの。おっきな蜘蛛さんとお友達になってね。あの子が、私に語りかけてくるの。どうなりたい? どうしたいの? って。私は……」


 太陽が落ちていく。オレンジの空が急速に黒く染まり。やがて、冷たい風と一緒に、夜がやってきた。

 エディはそれをぼんやり眺めたまま……優香の言葉に耳を傾けていた。

「私、エディとずっと……ずうっと一緒に、いたいな」

 まるで、初めて男の子に告白するような妙な緊張を孕んだまま、優香はポツリと呟いた。

 エディはそれに対して、ゆっくりと。確かに返事をする。

 言葉はやはり通じない。きっと、犬特有の鳴き声だけが、優香の耳には残る。だが、エディはそれでも構わなかったのだ。

「クーン」でも「バウッ」でもいい。ただ、気持ちを口にしたかった。

 すると、優香は抱き締めていた腕を緩め、しばらくポカンとしてエディを眺める。だが、それはやがて、花咲くような笑顔に変わった。


「フフッ、アハッ! 変なの。エディ。王子様みたいに格好いいのに……鳴き声はキモいのね」


 ケヘヘ……。と、恐らくは自分の真似であろう声を出し、すぐに楽しげに吹き出す優香。

 飼い犬エディ。初めて自分の鳴き声が、犬からはかけ離れた奇声だと知った瞬間だった。ガーン! と、ピアノの不協和音が彼の脳裏で鳴り響いたのは、決して気のせいではないだろう。

 そういえば、長男をはじめとした他の兄弟達からも、似たような事を言われたのを思い出す。

「サン。お前それどうやって出してる」「なんで顎の肉がそう動く」「お前エイリアンか」という、今にして思えば酷い言葉の数々。

 これはいかん。と、エディは抗議の声をあげるのだが、それを山彦のように返してくる優香からは、やはりというべきか見事に奇声ばかりが飛び出してくる。なるほど。確かに犬らしくはないのかもしれない。

「キワッ! ホワッ!」

「きわ! ほわっ!」

「ギルル……ゲゲゲッ! シャァア!」

「ぎるる……げげげ! しゃー! うーん、うまく出来ないなぁ。あ、これは上手に出来るよ?」

 ニカッと笑いながら、優香はいかにもな悪人面で。

「ケヘヘ……」

 ほらほらエディも。と、期待に満ちた顔をされる。エディはもう、やけくそだった。

「……ケヘヘ」

「ケヘヘ!」

「ケヘヘ……」

「ケヘヘ……あはっ! 面白ーい!」

 認めよう。自分の声はキモいらしい。だがそれでも……。

 静かに、傍らの優香を見る。さっきの暗い表情は払拭され、彼女は笑っていた。とても楽しく。幸せそうに。

 それを見ていると、エディの尾は知らず知らずのうちに左右に揺れる。自覚した時。彼はこう思ったのだ。

 ああ、悪くない。こうして彼女が笑ってくれるなら……自分はきっとどんなことも出来るだろう。


「……ケヘヘ」


 犬らしくない、不気味な笑みを浮かべる。これはいわば、エディが初めて得た絆と幸せの形だった。

 ……それが思わぬ形で変質することになる、運命の夜。その僅か二週間前の出来事だった。


 ※


 久しく忘れていた、血の香りがする。

 うたた寝から夕刻に目覚めた矢先の出来事だった。

 あまりにも濃いそれに、エディは驚愕する。何故だ。何故気づかなかった? こんな近くで、これだけの惨劇が起きたならば、気づかぬ筈はないのに……!

 エディの脚では横切るのに数秒もかからぬリビングを抜け、前足でドアノブを押し込めて、器用に寝室のドアを開ける。

 血の匂いが濃くなった。そこには、絶対に間違えない、大切な香りがあった。

「優……香……?」

 そこには、血の海が広がっていた。

 肉の残骸。骨の欠片。脳と内臓の一部。それが、出来の悪い設計図か絵画のように、床にぶちまけられていた。

 変わり果てた損壊遺体は紛れもなく、自分の大切な主、優香のもの。そして……。


「こうなったか。まぁいい。実験は成功……〝肉体共有者〟は得られたな」


 そこには、人影が二人分。

 一人は、かの老人の怪物、楠木正剛教授。そして、もう一人は……。

 血塗れの裸体を晒し、虚ろな表情でこちらを見つめてくる……〝優香〟の姿だったのだ。

「森島美智子にする予定だったのだがな。まぁ、やはりこちらの方が面白い。まさか、〝欲求対象者〟に犬が選ばれるとはね……ほら、我が〝孫娘〟よ。お婿さんだぞ? 挨拶を」

 芝居がかった動作で、優香らしきモノを教授はこちらに誘った。

 交差する視線。やがて、優香らしきモノは静かに膝を折り。いつかのようにエディの首を引き寄せ、抱き締めようとした。

「……っ!」

 本能が拒絶し、エディはひとっ飛びで距離をとる。

 逃げろ! 今ならまだ間に合う。そう誰かが叫ぶ声がする気がした。だが、エディにはその選択肢など、初めから除外していた。

「ホワッ! カガッ シャボァア!」

 奇声をあげる。山彦と笑顔が返ってくることを信じて。だが、優香は無言でゆっくりと。いつかの教授のようにこちらへじりじりと迫るのみ。

「フシャア! フシャア!」

 何度もその名を呼びながら、飛んで逃げる。だが、優香は止まらない。笑顔もみせない。それこそまるで、血も涙もない怪物に成り下がったかのように。

 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! と、何度もエディは優香に呼び掛ける。だが、全ては無駄に終わり、彼は壁際に追い詰められていた。

 牙や爪は使わない。優香に……そんなことは出来ない。確かに匂いは違う。だが、何故だろうか。あの場にある死体とは別に、目の前の存在からもまた、優香の気配がするのである。反撃など、出来る筈もなかった。

 腕が、優しく首に回される。血と臓物の匂いに混じり、大好きな優香の香りがする。

 エディにはもう、理解が出来なかった。

「ケヘ、ヘ……」

 最後の希望とばかりに発した奇声は、首に噛みついてきた優香のによって掻き消された。

 身体の力が抜けていく。今の自分はまさに蜘蛛の巣に掛かった、哀れな羽虫だ。それが辿る運命は……一つしかない。

「……もう一度でいいんだ。笑ってくれ……優香」

 その夜。エディは嘆きの中で、優香もろとも怪物に囚われたことを悟ったのだ。

 


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