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名前のない怪物  作者: 黒木京也
続章ノ三 強襲する悪夢
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50.斑の野生犬

 自分はかつて、取るに足らぬ野良犬だった。そうエディは回想する。

 ごくごく普通の家犬として生まれ。だがそれなりに足腰がしっかりし、歯も生え揃ってきたある日。兄弟、姉妹達と一緒に段ボールに押し込められ、山中に捨てられた。

 後に知る、〝二種類の社会〟を持つ犬という種からしたら、珍しくもなんともない事情だ。寧ろ、自分で動けるようになった頃に、ああして野へ放たれるのは、まだマシだったのかもしれない。

 満足に動けず。母犬の乳を必要とする頃に捨てられていれば……。間違いなく。その日のうちにエディとその血を分けた犬達は全滅していただろう。……それがたとえ。動けるようになったから自然に帰した。等という、飼い主の薄っぺらい罪悪感を掻き消すための免罪符だったとしても。

 エディは、怪物と化す何年も前から。数々の修羅場を潜ってきた。

 鼬が襲いかかってきて。次男の喉笛が噛みきられている隙に、身体がまだ完成しきっていなかったエディ達は、なんとか恐ろしい獣から逃げ延びた。

 エディらと同じく誰かが捨てたのか。野生化したニシキヘビが飢えた眼差しを向けてきた時もある。同じく飢えていたエディ達も、長女が絞め殺され、ゆっくりと蛇に飲み込まれていくその側で、仇の蛇に群がり、その身を貪り喰った。

 他の野良犬と縄張り争いになった時は、末っ子が野生で生きるには致命的な程に痛め付けられた。辛くも縄張りを守りきったが、安堵する間などなく。エディ達は次に現れた新たな侵入者――。人間に追い立てられた。動けぬ末っ子を人間が取り囲むのを尻目に、エディ達はまた敗走する。「行ってくれ! 絶対に捕まるな!」と叫ぶ末っ子を置き去りに……。

 冬になり、三女が厳しい自然界に耐えきれず死亡した。

「私を喰って」そう言って息絶えた彼女を、エディ達は静かに。誰一匹も言葉を発せずに咀嚼した。

 四男が放浪先のキャンプ場にて老夫婦に気に入られた時。エディ達は黙ってその場を後にした。一匹ならばどうにかなる。そう願って。夜中に追いかけてきた四男を、長男は厳しく群れから追い出した。執拗に、普段の頼もしくも優しい空気を封じて四男を狩り立てる長男を、エディと次女は憂いと共に見送った。

 翌朝。帰って来たのは長男だけだった。遠くから聞こえる寂しげな四男の遠吠えを心に刻み。エディ達はまた流れていく。

 それから半年後。里山で、長男が猪用の罠に足をとられた。次女と必死に彼を助けようとするも、努力は空しく。人間の嫌な匂いが漂ってくる。

「逃げろ!」と叫ぶ長男を、次女とエディは断固として拒絶した。エディも、次女も。今日まで生きてこれたのは長男がいてこそだった。

 長男はギリギリと歯を剥き出しにしながら短く唸る。二匹の意志が固いことを悟った彼は、迷いなく。自らの脚を喰い千切った。血を流しながら、「走れ!」と叫ぶ長男に、次女が寄り添った。背後から迫る息遣い。罠の持ち主が、猟犬を放ったのだろう。殿を勤めていたエディは、覚悟を決めた。「イチ兄さんを……任せた」それだけ次女に告げ、エディは猟犬に戦いを挑んだ。

 挑発し、兄達とは反対側へ逃げる。野生で鍛えた健脚に猟犬はついてきた。何度かの駆け引き。背後の取り合いを繰り返す。

 エディは相手を強いと認めていたが、それは相手も同じだった。

 自然界では力が全て。だが、それだけではどうにもならない。それを活かす狡猾な知恵と少しの運が合わさることで、初めて、自然界では強者になれる。

 力と知恵は、双方が拮抗するように持ち合わせていた。

 野良犬の野生か。猟犬の経験か。それが幾度も交差して……やがて、少しの運がエディに傾いた。

 最終的に手傷を追いながらも、立っていたのはエディで。猟犬は喉を裂かれ。地に伏していた。

「強いな……お前」

「君こそな。だが……悪く思うな。私はここで死ぬわけにはいかんのだ」

「……何の為に?」

 その問いに、エディはしばし固まった。「生きるために」そう辛うじて答えれば、猟犬はそれに鼻を鳴らし「嘘だな」と、吐き捨てた。

 ならばあの場での行動はなんだったのか。お前は傷付いた家族を守るために自らを囮にした。だが、ただ生きたいならば逆にすべきだったのだ。

 手負いの家族を身代わりに、自分は安全な所へ逃げるべきだった。猟犬はそう言った。

「それは……」

 合理的だ。野生で生きる以上、どこまでも合理的すぎて、エディは嫌悪を覚えた。その表情を感じ取ったのか、猟犬は少しだけ満足そうに笑った。

「ああ、よかった。ただ生きるためになんて言う奴ならば、俺には未練しかない。そんなのに負けるなんざ、仕事で猪に殺された方がまだマシだ」

 猟犬の息が薄れていく。エディはそれを黙って見つめていた。

「あんた、名前は?」

「…………君みたいにつけられた名前はない。だが、生まれた順で兄弟達は私をサンと呼ぶ」

「ああ、生まれから野良か。ならまぁ……サン。生き延びろよ。あんたにとって、意味のある形でな」

 そう言って、猟犬は息絶えた。エディは最後まで、その言葉を反芻していた。私は……何の為に生きている。そんな独白が何度も頭をループする。

 兄弟や姉妹を犠牲にした。その上に生きている。だが……肝心の理由が自分にはないことに気がついた。

 頼もしき長男がいて。それに付き従う自分達。今まではがむしゃらにそうするしかなかった。だが……。

「……兄さん。そうだ。イチ兄さんなら」

 数年生きた野良犬の頭では何も分からない。ならば、生まれは僅かな差とはいえ常に先頭にいた、あの男ならばどうだろうか。

 エディは痛む身体にむち打ち、先へ行った兄妹の元へ走る。

 猟犬は引き付けて自分が倒した。脚を一本失えど、長男のことだ。きっと次女をつれて遠くまで逃げている筈だ。

 匂いをたどり、勾配ある山道を行く。少し開けた窪地に、二匹はいた。蜘蛛の巣が張られた木々の根を背に、ゆったりと寝そべる長男と次女がいた。

「……っ、! サン!」

 震えた声で次女がエディに駆け寄ってくる。エディはそれに頷きながらも、長男の傍へいく。彼は……ぐったりと閉じていた目をゆっくりと開き、首をエディへ向けた。

「サン……か? そうか、勝ったのか」

「ああ、イチ兄さん。具合はどうだい?」

 流石だ。そう言って唸る長男に、エディは身体が震えるのを必死に堪えて返事をする。自ら喰い千切った脚からは、血が流れつづけていた。致命傷だ。エディの中にある冷静な部分がそう告げる。果たして明日を迎えられるか。それすらも怪しい位の深い傷。仮に止まったとしても、もう長男は三本脚。それは、自然で生きるには重すぎるハンディキャップだった。

「……頼みがある」

「嫌です!」

「……フゥ、お前にではない」

「ダメ! イヤ! イヤイヤ! 嫌です! 兄さん!」

 すがり付く次女を無視して、長男はエディを見る。自分と同じ、青い瞳。自分よりも黒い部分が多い斑模様。それを順番に、刻み付けるように眺めてから、エディは長男の顔を見る。

「フゥを連れて、ここを離れろ。俺はもう……ダメだ」

 その言葉に、次女が金切り声を上げるが、長男は耳をかさず、ただエディにもう一度。「頼む」と呟いた。

「分かるのだ。俺はもうじき……死ぬ。だからエディ。フゥを頼む。どうか……フゥの腹には、俺の仔がいるんだ」

 少しだけ驚いて。だが、エディはすぐに納得する。姉の想いは知っていた。3匹になってからはそれなりに長いし、実は相談を受けたりしていた。ああ、姉は兄を勝ち取れたのか。と嬉しくなる反面で、エディはこの結末をただ嘆いた。

「……私は」

「身勝手だとわかっている。だがもう……お前にしか託せない」

「…………脚を喰い千切ったのは、このためか」

 あの場にいたら、全滅していた。だからこそ長男は、捨て身の行動に出たのだ。エディと次女を。そして……お腹の仔を守るために。

 長男はどうあっても詰んでいた。だが、それでも守るために刹那の生を取ったのだ。

 エディは静かに前足で土を引っ掻き。やがて了承するように頭を垂れた。

「……ありがとう」

 それっきりだった。今まで気力で持ちこたえていたのだろう。

 長男は大きく息を吐き。そのまま動かなくなった。

 後に残るのは、悲しげに声を上げる次女の声のみだった。

「フゥ姉さん……」

「ゴメン。ゴメンね……サン。もう少し。もう少しだけでいいの……」

 静かに、長男に寄り添う次女に、エディは目を閉じて。身体を弛緩させる。気が済むまでいさせてあげよう。幸い自分も姉もそこまで健啖ではない。自分の狩りの腕ならば、二匹分の生活など、成り立たせて行けるだろう。そう考えてエディはその場に腰を下ろそうとして――。不意に、風の中に妙な匂いが混じっているのに気がついた。

 血の匂いに似た。だが、もっと人工染みた野良犬からすれば嫌な匂い。これは……。

「――っ!! 姉さん! 逃げる……」

 叫びが言いきられる前に、発破を思わせる銃声が、森の中に響く。ギゥッ! という、ひきつけを起こしたかのような悲鳴がすぐ傍で上がり。直後。音もなく。頭部から血を流し、身体を痙攣させながら、次女だったモノが地面に転がった。

「姉……さん」

 唖然としたまま、その場に縫い付けられたかのように固まっていると、そこにはハンティングキャップを被った壮年の男が猟銃と、猟犬の死体を担ぎ。幽鬼の如く佇んでいた。

「……お前、だなぁ?」

 エディの身体についた傷を睨み付けながら、男は舌なめずりする。犬の死体を優しく地面に置くと、男は静かに猟銃を構えた。

「家族が死んだか。お互い様だな。でも……」

 お前も死ね。

 憎悪をみなぎらせ、男は猟銃の引き金に指をかける。エディはそれを他人事のように見つめていた。

 これが終幕か。そう悟った時、心は奇妙な静寂に包まれていた。意味がある生とは? そんな疑問が生まれ、兄や姉がそれを得ていた事を知った。

 ならば……。自分は? 姉や生まれてくる子どもを守れば、それを得られるだろうか。そう思った矢先にそれを奪われた。

 彼の生きてきた道は、あまりにも空虚だった。奪い失いながら生きていく。その果てがこれ。

 悲しみも。怒りも彼にはなかった。ただひたすらに広がる虚無。それに身を投じたまま。彼は死の一瞬を待っていた。


「……おや、運がいい。丁度腹を空かせていた所だ。壮年の男性は質の悪いウィスキーを薄めた味がしてあまり好みではないが……」


 その時だ。音もなく。男の背後に白衣を着た老人が現れた。

 まさに気配が生えてきた。そう喩えるより他にない。男の顔が困惑で固まり。エディが思わず俯いていた顔を上げた時。

 老人は男を羽交い締めするようにして、その首筋にかぶりついていた。

「あ……っ、ぎが……!」

 目を見開き、身体を震わせる男。エディの耳には、目の前の老人の皺だらけな喉が、ゴクリ……。ゴクリ……と音を立てているのが、はっきりと聞こえていた。

 血を……飲んでいる? 人間が?

 あまりにも理解の範疇から逸脱した光景を、エディはただ呆然と眺めていた。やがて、男が白目を向きながら脱力し、老人はそれを用なしと言わんばかりに、脇へ打ち捨てた。

「フム、いいものを食べているらしいな。雑味がしな……い」

 そこで初めて、老人とエディの目があった。長男と次女の死体。次に猟犬の死体を見て、老人は目を細めた。

「野良犬か……狩り立てられて、猟犬を返り討ちにした……というところか。面白いな。本来野良犬とは臆病だ。猟犬に戦いを挑むなど……どちらかがつがいだったか?」

 まるで機関銃のように早口で喋りながら、老人はその場でしばらく、フム。や、むぅ……。と、唸り。そのうち頭に指を当て考え込んでしまう。「無理があるか? いや、しかし……もはや望みは薄い。最後に突拍子もない実験をするのもまた……よい」といった、エディには理解しがたい言葉が並べられ。やがて老人は、ウム。と頷いた。

「まぁ、いい。やってみようか。犬の血は飲んだことがないが、挑戦は大事だろう」

 薄ら笑いを浮かべながら、老人はエディににじりよる。一方エディは、目の前の存在に驚愕し、圧倒され。そして、狙いを定められた。

 逃げられない。本能がそう悟る。それほどまでに、目の前の老人からする匂いと気配は、人間のそれとはかけ離れていた。

 そこにいた存在はエディにとって、正しく怪物だったのだ。


「名前は……うむ。エディにしようか。昨日読んだ小説の、モブキャラクターだ」


 その日エディは生まれて初めて名前を得て。

 生まれて初めて市街地に降り。

 そして首輪とリードをつけられた。

 二つある犬の社会。その片割れ。飼い犬としての生活が幕を上げた瞬間だった。




大変長らくお待たせいたしました。

書きたかった連載を一先ず書ききりましたので、こちらに集中します。

よろしければ、怪物達が織り成す物語に、またお付き合いしてくだされば幸いです。


また、最近使い方を覚えたフッダーに貼っている物語は、本作と微リンクしていたり、今後少しだけリンクする予定だったりします。よろしければこちらも夜更かしや暇潰しのお供にどうぞ。



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