44.暗躍する者
「蠱毒を眺めるとは……こんな気分なのかしらね」
森島の屋敷から少し離れた樹上にて、香山梨花は薄い唇を艶かしく舌でなぞりながら、そう呟いた。
屋敷を。村を。それを取り囲む山々を見渡せる絶好のポイントに立った彼女は、まるで演奏を始めようとする指揮者のように両手を上げ、目を閉じていた。感覚を集中させる。
広い範囲を〝感じる〟のはなかなかに難儀なのだが、今彼女はそれが必要だった。最高のタイミングを、見極める為に。
蜂に呑み込まれた村を舞台にした闘争は、既に終盤戦を終え、消化試合が行われていた。蜂と蜘蛛の闘争は、〝マッチングをした〟梨花の期待通りに蜘蛛の勝利に終わりつつある。
本来ならば、勝率は絶望的。それでも蜘蛛が勝てたのは、一重に蜘蛛側に番狂わせが何体もいたからだ。
毒の使い手にして、一世代にして原種の怪物並みの力を有して怪物化した、明星ルイ。
そのルイを物理的に取り込み。更には顔無しの怪物を喰らうことで、本人は知るよしもないが、〝喰らい者〟と化した唐沢汐里。
梨花が読み取った記憶上、初めて取り込んだ人間と共存を果たしたと思われる、明星ルイのつがい、霜崎アリサ。
最強たる夫婦の血を引く、二体の怪物。
片や幼い童女の怪物は、力があまりない。愛を理解しきれぬまま、怪物になったのが原因だろう。だが、それを守るつがいは、白兵戦と探知に秀でた獣が選ばれた。鋭い感覚を有する獣は、幾度も蜂の追跡を振り切っている。
山村を転々とし。蜂の感染者は見つけ次第覚醒前に処理。細やかながら、犬の仲間も着々と増やし。反撃の機会を窺っていた。
だが、一番の狂わせは、今まで上げた者共ではない。
「大本命は……っと」
うっとりした顔で、梨花は屋敷からかけ離れた場所に目を向ける。蜂の居城が眠るだろう場所をまるで透視するかのごとく。
遠くより来る少女の怪物。彼女は父親と母親の力を余すことなく受け継いだ。深く重い愛を有し、その上で今までにない天敵との遭遇というプレッシャーからか。彼女もまた、喰らい者として目覚めた。今や着々と力をつけている。それこそまさに誰の手にも負えぬ存在にならんとばかりに。
そして……。
その少女の怪物の寵愛を、一身に受ける者。
遠坂黎真。
彼に潜在するポテンシャルは、恐らくルイを上回る。つがいが原種として破格である以上、彼が弱い筈がない。だが、梨花が興味を抱くのは、別の事柄だ。
彼の有する、怪物としての能力。『超感覚』
それこそが、梨花にとっての最重要事項。
「嗚呼……もう。もぉ……ダメね。まだ我慢しなきゃ」
自分にしか分からないことがある。今耐えきれずに再び彼の前に舞い降りるのは、避けねばならない。でなければ、今まで隠れていた意味がない。
もっとだ。もっと削って磨かねばならない。彼は梨花にとって、待ち望んだダイヤモンドの原石かもしれないのだ。
今までありとあらゆる存在に接触してきた。
ある時は怪物に。またある時は人間に。双方を浮遊し続けて。候補になりそうな存在をふるいにかけては失敗し、幾星霜。磨耗しかけた夢が、ある切っ掛けや出会いで再燃した矢先――。
ようやく……見つけたのだ。
「レイ。もっと強くなって。もっともっと、感情を乱して。そうすればきっと、貴方は……とっても素敵な怪物になるわ」
その為の蠱毒。その為に〝招いた〟強襲部隊だ。
チュニックワンピースの胸元から、クラシカルな旋律が奏でられる。梨花はそこにそっと手を入れ、少しばかり古めの携帯電話を引っ張り出す。表示される名前は『松井英明』だった。
「はいはい。此方リカちゃんよ」
『リカちゃんとは……お年をお考えになってはいかがかな?』
「アハッ、松井さん。脳細胞クチュクチュされたいの? 視神経ブッツンでもいいわよ?」
受話器の向こうからする声に対して、底冷えするような返答をしつつ、梨花は片手で自分のブロンドヘアを弄ぶ。一方電話相手の英明は、「これは失礼」と嘯きながらも、悪びれぬ人を食ったかのような口調で話し続けた。
『失敬。いやね。状況はどうなっているのか気になりましてね』
「私の方は予定通りよ。私の〝助言通り〟蜂達がこの地に来て。大輔さんがレイ達を伴い現れる。そのまま蜂と交戦し、紆余曲折ありながらも、期待通りレイは、蜂を打ち負かした。まぁ、つがいの娘が頑張っちゃったのはイレギュラーだったけど……許容範囲内」
手を伸ばし、何かを握りつぶすような仕草をする梨花。
アクアブルーの瞳を爛々と輝かせた彼女は、静かに。それでいて熱っぽく息を吐く。水に濡れた牡丹の花のように、見るものが目を奪われるかのような一連の動作は、貴婦人のような淑やかさと、娼婦のような艶かしさが混在していた。
「女王様もわかってないわね。辱しめるにしても、もっと方法があったでしょう? そうすればあの娘に倒されることも、更には彼女が介入して、完全にスイッチが入る事もなかった。そうすれば……レイはもっと酷いものを目の当たりに出来たのに」
『恐ろしい事を言う人だ。そうなったら、小野さんの甥っ子さんはもっと相手が増えていたでしょうに』
「それに勝って貰わなきゃ困るのよぉ。或いはそう。一度心が砕けてくれたら、それでよかった。期待外れだわ。蜂の連中には」
『……便利ですねぇ。〝ソレ〟現場にいなくても、多少近くにいれば、まるで見ているかのように状況が分かるんでしょう? まさに全知全能だ』
そんなに便利なものじゃないわよ。そう心の中で梨花は呟く。本当に全知全能なら、自分は今ここにはいない。
狂おしいほどに欲しいものが手に入らないなら、仮に出会う者共に最強だと謳われたとしても、なんの感慨も湧かないのだ。
だから梨花は本心は誰にも見せず、明かさず。ただ目的の為に動く。
「無駄話はここまでに。強襲部隊は、もう来てるのね? あなたの実験とやらは?」
『強襲部隊は一般兵ではなく、少数の精鋭のみ。後は、ドローンを飛ばしてます。ついさっき、レイ君達を補足したみたいですよ。俺の実験は……まぁ、知ってるでしょ? 貴方に話すことはない』
「つれないわねぇ……弥生ちゃんは?」
『つい先程、此方に帰還しました。今は休んでますよ』
「そ。まぁ、どうでもいいわ。じゃあ……私は次の一手といこうかしら」
歌うように梨花がそう言えば、英明は小さくため息をつきながら、その前に一つだけ。と、囁いた。
『利害の一致で貴女と手を組んでますが……強襲部隊、あまり粗末に扱わないで下さいね。彼ら彼女らは、僕ら人間にとっては大事な戦力なんですから』
「わかってるわよぉ。だから目的が済んだら、私はもう何にも関わらないって言ってるじゃない」
『それも貴女相手だと信用できないんですが……まぁ、口にしても仕方ありませんねぇ。ハハッ、研究者としてはやっぱり最強や完璧は吐き気がしますね。貴方は――何の面白味もない』
きっぱりと言い放つ英明。そういう貴方の突き抜けた思考は嫌いではないわよ。とは告げることなく、梨花は嘲笑を漏らしつつその言葉を受け流す。
話を戻すわ。そう言って梨花は再び森島の屋敷を見据えた。
闘争は既に起きている。獣とその他も合流しつつある。後はそう、彼女の号令一つ。
「盤上をまずは整理しましょう。レイ達の方へお迎え役を。小野大輔は捕縛次第そちらへ護送。屋敷の怪物達は駆逐。殲滅優先順位は、上から蜂共。次にエディ。最後に……唐沢汐里よ」
『それが、あの屋敷にいる全部です?』
「……ええ、そうよ」
『了解しました。では、後程に』
嘘だけどね。と、内心で舌を出しつつ、梨花は英明との通話を終えた。
手早く携帯を懐に仕舞い込むと、再び目を閉じて、胸の前で祈るように指を組む。
想うはただ一人。自分が欲する怪物の青年その人だ。
さぁ、貴方の心を切開しよう。切り刻んで縫合して。そうしてまた一つ。貴方は怪物に近づくだろう。
恐怖が貴方を進ませるなら、最高の恐怖を。
愛が貴方を喜ばせるなら、極大の愛を。
怒りが貴方を立ち上がらせるなら、相応の仕打ちを。
全部全部与えた上で、貴方の心を挫いてみせよう。
それが貴方を強くするなら。それで貴方が……。
「手に入るなら……手段なんか選ばない。あぁ、可愛い名も無き怪物さん。安心して。貴方の旦那様は……私が頂くわ」
瞼が開かれ、熱を帯びた瞳が闇の中で揺れた時。梨花の華奢な背中に鳶色の翼が一対。ゆっくりと広がっていく。
天使を思わせるその姿で、梨花は音もなく夜空へ飛翔した。




