43.閑話:人知れぬ激突
自然界における獣の闘争は短い。
体力を余計に使わず、引き際を弁える。それが殆んどの獣が己に課しているルールだ。
争いの後にも過酷な日常は続く。それをどんな獣も本能で分かっているからだろう。
だが、体力を余計に使わないとは、手を抜く事に直結しない。何故ならば、争いに負けるとは、自身のその後の生存率が、著しく下がることを意味するからだ。
故に獣は争いの時、余力をギリギリ残した上で出せるだけの全力を絞り出す。それは、紛れもないまさに死力。負ければ死。生き延びても常に死と隣り合わせながら、わずかな報酬を獲るのである。
つまるところ野生とは、常に死や恐怖に怯えながらも、捨て身になれる者共を言う。
「――そこだ!」
森の中で響く獣の怒声に混じり、興奮に満ちた叫びが響く。
山中にて対峙した二匹の獣の争いもまた、始まった数十秒で、決着を迎えようとしていた。
「ぐ……ぬ……!」
エディは刺すような痛みに耐えながら、斑模様の体毛を逆立て、四肢を踏ん張っていた。
蜂の本拠地から、つがいである優香を追いかけた先に待ち受けていたのは、敵の幹部であり、元は狼の群れにて頭目だった雄――ロボ。
蜂として覚醒は現在で大体半分ほど。あと暫くの月日を重ねれば、確実に成る。と、リリカに啓示されていた、この地に来てからの初の成功体だった。
「無様だな、エディ。逃げ回ってばかりだった貴様は、今日! アルファや洋平でもなく、我に倒されるのだ。こうして我に先手を取られたのが運の尽きよ!」
率いてきた他の群れはムロイとネギシに任せている。視界の端で眩しい炎が上がると共に、狼の唸り声と、二人のつんざくような奇声が混じる中、エディはロボと一対一の決闘に持ち込んでいた。理由は単純。ロボが他の狼や、人が混じった人狼とは比べ物にならないほどに強いから。故に自分が相手どるのが一番犠牲を出さないだろう。そう考えての事だった。
ガップリとエディの耳を捕らえ、ロボは勝ち誇ったように鼻を鳴らし、頭を左右にグイグイと揺り動かす。耳が引きちぎれんばかりの激痛が走り、エディは少しだけ顔を歪めながらも、悲鳴は漏らさなかった。
「エディ。今からでも遅くないぞ? 我の……アルファの軍門に下れ。そうすれば、命だけは助けてやるぞ?」
「……アルファとは、君を指すのかな? それともリリカのことかな? ロボ」
「……っ、我は、いずれ奴を引きずり下ろす。その時にお前を重用してやろう。そう言っているのだエディ! 選択を誤るな! お前の命は今、我が今握っているのだぞ?」
ロボの言葉に、エディは痛みを忘れてポカンとした顔になる。
命を握っている? この状況から、更に何かをしようというのだろうか。そんなエディの疑問を、ロボは目を爛々と輝かせる事で肯定する。
「この位置取りならば、お前の牙や前足は、我には届かん。背中に生える妙な鉤爪も、気を付ければ対処可能。いや、そもそも使えんか? お前の身体には、毒が入り込みつつある。時間の問題という奴だ」
成る程。と、エディは息を吐く。確かに、少しばかり身体が重い。基本的に素早く動き、相手に捕らわれる前に素早く仕留める事を心掛けるエディにとって、組み合うというのがなかなか無い体験だった。だが……。
悲しいかな。覚醒した蜂と、半端な怪物の違いだろうか。森島の屋敷で受けた屈辱的な毒の一撃と比べれば、その脅威は雲泥の差だった。加えて。
「ロボ。君達は〝管理されていた〟狼だ。――本当の野生を知らないな」
何を。と、ロボが呻くより早く、エディは反撃を開始する。全身に残された力を総動員し、耳を噛まれたままロボとは反対側に顔を反らす。バツン! と、肉が引きちぎれる音がした。
「なっ……ゴァ!?」
エディの予想だにしなかった行動に、ロボは驚愕で身を固くする。千切れた耳のあった付け根から血が噴き出すが、エディはそんな状況を歯牙にもかけず、身をかがめるように踏み込むと、そのままロボの喉笛に食らいつき、力任せに引き倒した。
「……飼い犬は罠に嵌まると、早々に足掻くのを諦めるらしい。逆に狼は最後の最後までもがき続け、足がもげてでも逃げようとするのだとか」
「な……にを言う……!」
「講義だよ。私の師の言葉を借りて言うならね。ロボ。君には痛みを押してでももがこうとする往生際の悪さがない。耳を取って勝った気でいるのが証拠さ。そんなのでは、生き残れんよ」
「飼い犬が野生を語るか!? 身の程を弁えろ!」
もがき、何とかエディの拘束から逃れようとするロボだったが、エディはもう、彼を逃す気がしなかった。
「違うね。間違っているよロボ。野生とは語るものではない。示すものだ。君たちのような狼や私達犬。そして怪物、人間にだって、野生を有している。問題は、それを知っているか、忘れているか。それだけの話」
エディは飼い犬だった。だが、つがいを得て。種の役割の中に闘争が不可欠なことを知り、野生を取り戻さねばならなかった。
ロボは起源を辿れば野生の狼だ。だが、人に管理され、リリカに捩じ伏せられた事で、彼らは誇りを奪われ続け、野生を失った。
どうしようもない、辿ってきた軌跡と運命の悪戯。残酷な弱肉強食の真実がそこにはあった。
「おの……れ……! エディ……! 我は……群れのアルファだぞ! 貴様のような犬に……!」
悪態はそこまでだった。怪物としての並外れた馬力を利用し、エディはそのまま、ロボの喉笛を引き裂き、そのまま鉤爪と化した前足で頭を踏み砕いた。血肉に骨。脳漿と頭蓋骨の中身がぶちまけられた時。勝敗は決した。
「怪物としての年季も。背負う者の重さも違う。悪く思わないでくれよ」
痙攣する胴体を一別しながら、エディは静かにそう告げる。
戦いはまだ終わらない。ムロイとネギシが、ピィピィ鳴きながらも、たった二人で群れを相手に奮闘していた。
「……急がねばな」
背中が盛り上がり、触手めいた長さの蜘蛛脚が飛び出す。遠くから、遠吠えが聞こえてくる。恐らく、レイの叔父と師匠の元に蜂の幹部達がたどり着いたのだ。優香もそこにいるに違いない。
「ルゥウウオオオオォォオ!」
狼共のときの声を掻き消さんばかりに、エディは雄叫びを上げる。血も凍るようなそれに、近くにいた群れはおろか、ムロイとネギシすら戦慄に身を震わせる。同時に、エディの背後からそれに応えるような吼え声が轟き、次第に茂みが騒がしくなる。
エディのアモル・アラーネオーススとしての能力は存在しない。レイのような超直感や、汐里のような跳躍力。ルイの毒といった特技が、一切無いのである。
それは、犬でありながら怪物の力を手に入れた影響か。かのアモル・アラーネオーススを最初に研究した男にすら、その理由は分からなかった。
だが。それを補いうる、犬ならではの側面をエディは持ち合わせていた。一つは、獣由来の俊敏性と瞬発力。もう一つは……。
『呼んだかい? エディ?』
『無事に戻ってきたのね。よかったわ……』
『……何だあの変な生き物は? 猿……いや、モグラか?』
『エディ。チェンバーと鶴竜丸はダメだった。後は頼むって言ってたよ』
エディにだけ聞こえる声がする。躍り出て、彼の背後に並ぶのは、様々な犬の小隊。森島の屋敷で戦った犬達の生き残りと、山の中に待機させていた群れだった。
皆すべてがこの山村にいた飼い犬にして、愛する家族を蜂に奪われた。或いは殺された面々であり、その無念を晴らすべくエディに付き従う、死も恐れぬ野生の義勇軍だった。
「……後悔はしないね?」
犬との対話。犬ならば皆が持ち合わせる、人が知るよしもない普通の事。それがエディも有する最後の怪物としての能力だった。
『今更だ。言ったろう? 俺は首だけになってでも、アイツらに、一矢報いて見せるってな』
『ご主人様は、アイツらに殺された。怪物に成り下がり、使い潰されるなんて、私には耐えられないわ』
『家族を見捨てて離れるなんて出来ないね。犬としての魂が砕けちまう』
『僕達が君の道を作る。喩え死んでも本望だよ。先に逝った奴らもそうだった』
応える仲間達に、エディは無言で頭を垂れ、すぐに面を上げる。青白い眼光が睨む先は哀れにも未だ固まったままな、なりそこないの怪物達。
「ではいくぞ。蜂共よ。逃げるならば今のうちだ。二分で終わらせてやろう……!」
再び咆哮を上げ、エディは突撃する。それに続く犬達の様は、まさに餓狼の進撃だった。
汐里達が蜂の本隊と激突する、ほんの数秒前。怪物が集う山の中腹での戦いは、いとも簡単に終結した。




