41.迫る包囲網
携帯電話の着信音が、遥か彼方から響いていた。
苦笑いしたくなるような歯の浮く台詞の羅列が、そのまま歌詞になったかのような邦楽。それは徐々にその音量を上げていき、調べと比例するかのように、小野大輔の意識は徐々に眠りの世界から引き戻されていく。
この曲には、覚えがある。確か部下の雪代弥生が、勝手に大輔の携帯を弄り、自らの着信時に鳴るように設定したものだった筈だ。
「…………っ!」
その意味をコンマ一秒で反駁し、大輔は布団を蹴飛ばし、弾かれたように起き上がった。
対策課のメンバーは、目下、前代未聞の危機的状況にあった。
大鳥源治は殉職。宮村佑樹は怪物化し、自らが捕縛。そして、桜塚龍馬と雪代弥生は行方知らず。そのうち一人から連絡が来たのだ。普段様々な事情から弥生に対してぞんざいな扱いをしていた大輔も、今回ばかりは半ば祈るような面持ちで携帯をとる。
ディスプレイを確認。そこには予想通り、副官たる弥生の名があった。
「もしもし。雪代か? 今お前どこに……」
「そのまま……聞いてください、警部」
逸る気持ちを抑え、弥生に所在を問う。だが、それは他ならぬ弥生自身によって遮られた。
荒い呼吸。硬めの声。いつもの人を喰ったような飄々とした態度は、全くなかった。
ただ事ではない。あるいは、何かが起きている。
それなりに長い付き合いがある故に、大輔は直ぐ様状況を察知し。「話せ」とだけ、唸るように促した。
「警部、強襲部隊なる連中は来ていますか?」
「……まだ到着はしてない。てか待て。俺もさっき来ることを知ったばかりだぞ? お前どうやって……」
早口で。まるで何かに怯えるようにし質問した弥生は、「よかった……間に合いました」と、心底安堵したかのようにため息をついた。話の見えない大輔は、ただ混乱するばかり。そのうち、受話器の向こうで深呼吸するような音と共に、弥生は再び話を切り出した。
「警部、何も聞かずに言うとおりにしてください。連中が着たら、そいつらの指示に逆らわないで。近くに甥っ子さんみたいな怪物の知り合いがいましたら、他人のフリをして下さい。たとえその結果……その怪物が死んだとしても」
死にたくなければ。そう消え入りそうな声で、弥生はそう告げた。
「何を……おい、雪代!」
「愛してましたよ、警部。上司として、男として。そして……宿敵として」
「……は?」
話の流れが読めないまま、唐突に告げられた告白に、大輔は目を白黒させる。そんな様子を予想していたのか、弥生はクスクスと忍び笑いを漏らし、「最後のお願いです」と、呟いた。
「警部。次に私が貴方の目の前に現れたら、迷わず撃って下さい。〝私はもう、私じゃないので〟横取りされる位なら……警部に……殺されたい。油断しないでくださいね。私の中に……誰かが……」
それが、最後だった。無機質な電子音と共に通話が途絶え、後に残されたのはただの沈黙だった。
結局、得られた情報は少なく。混乱が加速しただけの現状に、大輔は額を指で揉みながら、ざっと周りを見渡した。
畳張りの客間は、今は照明が落とされ、障子から射す月明かりだけが、唯一の光源だった。布団と小さな卓袱台という、実にシンプルな内装は、大輔が床につく前と何ら変わり映えがない。狼やらが練り歩いていた昼間の異変が嘘みたいな、普通の光景で……。
「……っ!」
平和そのもの。そう思った瞬間だった。大輔の耳と鋭敏な……いわゆる刑事の勘が、彼に危険信号を発していた。
遥か遠くから、ざわめきが聞こえるのだ。
何かが、近づいてきている。この音は……。
「山鳴りか?」
大輔が何となく独白を漏らしたのと同時に、今度は比較的に近くから、人の気配がした。
一瞬身体を強ばらせた大輔だったが、障子ごしに見えた影が、見知ったものだと知り、胸を撫で下ろす。唐沢汐里。一応協力関係にある女だ。
「……どうした?」
「近くに、敵が来ているようです。昼間の蜂連中が結構な大群で」
その言葉だけで、大輔は直ぐ様身体を戦闘モードに切り替えた。寝巻き用に着ていた借り物の浴衣を脱ぎ、傍らに吊るしていたスーツとトレンチコートを素早く着込む。
次に布団横にあった、トランクケースに手を伸ばし、手動でロックを解除。取り出されたのは、無骨なフォルムをした銃だった。
対地球外生命体汎用兵器――開拓者が、月光の元で鈍く閃いた。
「……正確な数は? 大群じゃピンとこない」
「大群としか言いようがないんですよね。斥候がわりに森に配置していた蜘蛛から連絡が来たので」
「レイは、どうしてる?」
「ああ、それなんですがね……今は外出中です」
深手を負っていた故に、あまり無茶はさせたくない。そう考えた矢先。汐里の口から出た思いもよらぬ一言に、大輔は暫し硬直した。
「……ハァ!? おい、ちょっと待て! まさか……」
「ええ、あの子を助けに行ったんです。二、三時間。いえ、もっと前ですかね」
無茶だ。そう漏らした大輔を思ったのか、汐里が障子の向こう側でため息をつく。
「勿論、考えなしに送った訳ではありません。出来うる限り回復させ、武装……いえ、枷を外してから行かせましたのでね」
「お前は……何故?」
「ああ、同行しなかったのは、ここが手薄になるからですよ。蜂連中にとっての脅威は、今や貴方とレイ君だけなのですから。さしもの大輔も、数の暴力は無理でしょう?」
だから私が残りました。そう締めくくり、汐里は小さく障子の縁をノックする。もう入っていいか? その確認だろう。
入れ。という大輔の声と共に、障子張り襖が開く。
「……似合うんだか似合わねえんだかわからんな」
「酷い評価ですねぇ。黙って綺麗だよって言うべきでは?」
「明星にでも言ってもらえ」
浅葱色の浴衣を身に纏った汐里が、そこには立っていた。ウェーブのかかった茶髪は、今はアップにされ、覗くうなじが艶かしい。ただ、露出しているのはそこだけではない。窮屈そうな胸元がはだけられ、白い谷間が惜しげもなくさらされていた。和服の着方としては失点もいい所だが、人によってはこれがいいと言う輩もいるのだろうか。大輔には分からなかった。
「ここのを借りたのですが、サイズが小さくて」
「……自分で服は作れるだろうが」
「私、服は極力能力に頼らないものを着たいんです」
ありがたみがあるじゃないですか。という言い分がいまいち理解できず、大輔は首を振る。今はそれよりも、目前に迫る危機に目を向けるのが先決だった。
「……どうするかね。こちらは二人。援軍とやらも何だか胡散臭いときた」
「強襲部隊でしたか……怪物を屠る事に特化した部隊だとか」
「知ってるのか?」
「存在だけは。情報は武器ですからね。この身は諜報活動にも適しているので。対峙したことはありませんが……結構過激な集団だと聞きます」
横目でこちらを見る汐里に、大輔は力なく頷き、つい先ほど弥生からきた話を告げる。これからの動きにも、影響が出かねない情報を提示したのは、一重に汐里を無下に殺したく無いからだ。そう強調すれば、汐里は少しだけポカンとした顔を見せてから、やがて意味ありげな妖しい笑みを浮かべた。
「おや、いざって時は庇ってくださるんです? 他人のフリをした方がいいのでは?」
「連中が来たら、俺がお前らを引き渡すと? 本気でそう思ってるのか?」
真っ直ぐ汐里を見つめたまま、大輔が問えば、「実に甘い考えですが、想像できない。が、本音です」そう汐里は返答する。それを聞いた大輔は、ニヤリと口角を曲げ、力強く頷いた。
「わかってるならいいさ。いいか。お前はたまたま同胞の危機を知り、ここを通りがかった。蜂への脅威への対抗。そんな利害の一致で、俺と共闘していた……。そう説明する。来たらすぐに蜘蛛の姿になり、どっかに隠れろ。いいな」
「……そんな都合よく行きますか? 最悪の事態も想定した方がいいのでは?」
「押し通す。連中は俺達の関連性までは知らん筈だ」
力説する大輔を、汐里は目を細めながら一瞥し、やがて小さなため息をつく。
「大輔。私より、貴方はどうなんです?」
見透かすような眼差しが、大輔を射貫いた。ザワリとした感覚が自分の背中を走っていく。汐里の言葉は、それほどまでに大輔の心の確信に迫っていた。
「何を……」
「答えは自分の胸に。レイ君も危うかったですが、貴方も少し気掛かりなんですよ。大輔。もしかしなくても、自分と引き換えに、私やレイ君を逃がそうだなんて、考えているのではありませんか?」
対峙する両者に、沈黙が訪れる。肯定と取ったのか、汐里は目元に皺を寄せ、大輔を睨み付けた。
「部下が多数死に。強襲部隊なんて、対策課に取って変われそうな存在も現れて。貴方は少し……いえ、かなりの消耗が見られます」
「……おい」
「貴方は強い。ですが、一人の人間です。モンスターではない。今まで普通に怪物共と戦ってきていたから見落としがちでしたけど。だからお聞きしたい。今……実は結構ギリギリなのでは?」
身体も心も。
汐里の言葉は、まるで雷鳴のように大輔を撃つ。その時大輔は、己の足元に転がる、死体の群れを幻視した。
高城。播磨。真中。袴田。神崎。過去に散っていった部下たち。
そしてそこに、弥生。大鳥。宮村。桜塚の屍が、無造作に追加される。
勿論、大鳥を除き、三人の死が確定した訳ではない。だが……予感があった。
捕縛している宮村は、もはや怪物として処理される可能性が高い。運が良くて実験台という末路だろう。
桜塚の行方は、今だ知れない。生きているか、死んでいるか。だが、この怪物の巣窟というべき村の中では絶望が勝ってしまう。
弥生は……。大輔の中で、幾つもの葛藤や困惑、様々な感情が渦巻いていた。彼女の声色に、いつもの冗談混じりのものはなかった。詰まるところそれは、信じがたいことに弥生が自身の死を悟っているという事に他ならない。大輔と共に幾多の戦場を駆け抜けてきた筈のあの女が。その事実は大輔の心臓と、開拓者の引き金にかかった指へ重くのしかかってくる。
「……俺は」
深呼吸し、大輔は首を振る。ゴキリと、骨が軋む音がした。
「……やることは変わらん。唐沢。強襲部隊やらが来たら、すぐに蜘蛛になって隠れろ。ただし、俺も余計なことは喋らん。最悪、俺達の情報が知られているかもしれない。それを想定する」
「……大輔」
何か言いたげな汐里を大輔は手で遮った。
「刑事として、怪物共は野放しに出来ん。市民の安全を脅かすような奴等は……だが」
「……今の貴方や部下達は、鉄砲玉もいい所です」
「だろうな。強襲部隊ってのが来て、それは実感したよ」
何処と無く自嘲するように笑う大輔。だが、その目には絶望や諦感はなかった。
「だが、鉄砲玉でもやらねばならない。強襲部隊だって、立場は似たようなもんだ。俺が逃げても、他の誰かが打ち出されるだけさ」
ならば、少しでも生存率が高い人間が引き受けた方がいいに決まっている。戦い続ける事。それが、死んでいった部下達に大輔が出来る、せめてもの餞だった。
手動で開拓者の弾倉を切り替える。最終形態。抹消者。今持てる、最大火力。弾数は自分と、宮村から回収した分も含めれば、四発。大群の規模がわからないが、大事に使う必要がある。隣接され、多勢に無勢な状況となれば、いかに怪物殺しの銃とはいえ、ただの鉄塊に成り果てる。
対怪物用の武装なのに、何だか頼りないな。と、大輔の口元から苦笑いがこぼれる。せめて散弾式にしてくれたら、まだましだったろうに。
「……逆に二人揃って逃げ回るのもありかもしれませんよ?」
「忘れたか。一応ここには生存者がいるんだぞ?」
「……ああ、いましたね」
忘れてました。と舌を出す汐里の目線は、恐らく今頃は眠っているであろう、森島美智子の部屋の方へと向けられていた。
娘が誘拐されても眠れる辺り、神経は太いのだろう。誉められた態度ではないが、そんなのでも刑事たる大輔が見捨てられぬ、市民である事には変わりない。
「国家公務員も楽ではありませんねぇ」
「ほっとけ。行くぞ。……ああそれからな。唐沢」
グレネードランチャーと化した兵器を手に、大輔は立ち上がる。
そのまま汐里の方を見ずに障子を空ける。夜の空気が肺を満たし、何だか無性に煙草が恋しくなり、後で楽しむことを誓いながら、大輔は告げる。
「大人はな。ギリギリだろうがズタボロだろうが、クソまみれでも戦わなきゃいけない時がある。守んなきゃいけないもんがある時は泣き言なんか言ってる暇もない」
目を閉じる。今も何処かで奮闘しているだろう甥っ子に想いを馳せた。生きていてくれと祈るしか出来ない現状に歯噛みしたくなるも、それすら今は飲み込んだ。
「ガキが刑事を一丁前に気遣ってくれるな。十年早いんだよバカ野郎が」
ボリボリ頭を掻き、ため息混じりに語るその様は、奇妙な事にこれから戦場に向かう戦士というよりは、どこにでもいそうなくたびれた中年だった。
「……私、一応24なんですが」
「大学出たてだろうが。オメーなんざヒヨコだよ。ヒ・ヨ・コ」
「腹立ちますねぇ。珍しく心配して差し上げましたのに」
「間に合ってるんだよ。バァカ」
そう言ってズンズン進む大輔。その少し後ろへ汐里が続く。彼女がほんの僅か。何処かくすぐったそうに微笑んでいたのに、大輔は最後まで気が付かなかった。
「まぁ、守るって立場は私も一緒ですけどね。一応レイ君との約束ですし。私の方が強いですし?」
「喧しいわ。デカいのは乳だけにしとけ」
「セクハラで訴えますよ?」
「じゃあ生き残れ。そしたら土下座して謝ってやるよ」
「言いましたね。靴も舐めさせて差し上げましょうか?」
「上等だ」
悪態を付き合いながら、人間と怪物は戦地へ向かう。
山鳴りは、徐々に凄みを増していく。敵は目前にまで迫って来ていた。




