38.強襲
それに気がついたのは、突然だった。
気配が生えてくる。或いは、沸き上がってくるといった、いつかの怪物とのファーストコンタクトを彷彿させるようにして、そいつはその存在を顕にした。
ゾワリと、全身におぞましい寒気が走ると共に、僕の超感覚が、瞬く間に警鐘を鳴らす。
逃げろ。いますぐに。
リリカや洋平に声をかける間もなく、僕は単に恐怖心から逃れるべく、手で肩に乗った怪物を庇いつつ、その場から飛び退いた。
「――むっ!」
洋平が異変に気づいたのは、タッチの差だった。彼は稲妻のような速さでリリカを弾き飛ばし……。
「てけりけりけり」
直後。その伸ばされた腕は、まるでサツマイモのように胴体から引き抜かれた。
ぽきゅん。という場違いに間抜けな音がして。ビチャビチャとバケツをひっくり返したような響きが耳に届く。
まるで噴水のように、洋平の肩口からは血が吹き出していた。
「ぐ……ぉおぉえ……が……!」
呻きながらも、洋平はその場で横っ飛びし、片腕でリリカを拾い上げると、一気にその場から距離をとる。額からは、まるで滝のように汗が流れ落ち、その表情は苦悶に満ち満ちていた。
何が起きた?
はからずも僕と洋平は同時に、不気味な存在の到達点を確認する。そこには……異形がいた。
「てけり・り。てけり・り」
黒い。最初の印象がそれだった。
ぬらぬらとした光沢を帯びたタールのような液体が、それを構成する殆どだった。
次に連想したのは理科の教科書で見た、アメーバだった。蠢き、捻れ、潰れて戻る。不定形な身体だからこそ出来る芸当だ。が、完全に原形を留めない訳では無さそうだ。何故ならそんな無意味な運動を繰り返しながらも、そいつは頭とおぼしき部分を伸ばし、ぼんやりと。引っこ抜いて手らしきものに取り入れた、洋平の腕を見つめ……。
「てけ……り。てけ……りり、ンバァ……」
もしゃり。と、まるでフランスパンでも頬張るかの如く、その場で洋平の腕を貪り喰い始めたのだ。
液体が弾け、沼にでもはまるかのように肉はそいつの中へ消えていき。やがて、ゴクン。という、ばかに生々しい嚥下音が、洞窟内でこだました。
誰もが、声を発しなかった。張りつめた糸のような緊張感がその場に走ると同時に、黒いタールの化け物は、ゆっくり顔を動かした。
僕と、肩に乗る怪物。洋平。リリカ。まるで品定めするように僕らを観察した黒タールは、やがて、ブルリと身体を震わせて……。
直後、洋平の方へと物凄い勢いで突進した。
深手を負った彼を仕留めるのが合理的。そう思ったのだろう。
「なめる、な……!」
もっとも、洋平もぼんやりと棒立ちなどしなかった。瞬時に残った腕を蜂の槍に変え、応戦する。
大振りの横薙ぎ。黒タールが洋平の元へ到達するより速く、それは不定形の身体を切り裂いた。
上下に分断された黒タール。その便宜上の半身は慣性に従い、ゆっくりと洋平の方へ飛ぶ。が、彼はそれをよろめきながらも回避。黒タールは、床にぶちまけられたプリンのようにその場に拡散され……。
「てけ……りりっ!」
即座に、まるで逆再生したかのように形を戻す。
上は人の身体を象り、下は黒い液体の水溜まり。人まがいの姿になった黒タールは、再び洋平の方へ腕を伸ばす。
「……っ! 洋平、下がって!」
蜘蛛糸を吹き出す。相手の腕をひね上げる形で拘束すれば、何とか黒タールの動きは停止した。うまい具合に粘性と弾力性が混在しているらしく、しっかり蜘蛛糸は絡み付いてくれた。
「………てけり」
不気味なのっぺらぼう面が、ぐりんとこちらへ向く。心なしか、忌々しげな気配を感じた。感情がある……そういう事なのか。
にらみ合いが続く。
情報が足りなすぎる。
こいつは何だ?
いつからいる?
〝彼女〟は今何をしている?
混乱する頭を整理する。が、しっかりとした答えは出ない。ならば……。
「リリカ!」
洋平へ寄り添う少女へ声を張り上げる。現状、謎だらけ。ならば、今すべきは……。
「蜂になれるかい!?」
「え? へ?」
「返事! イエスか、ノー!」
「で、出来る。出来るわ!」
「出口の道は?」
「分かるっ!」
よし!
次に、周りを見渡す。咄嗟に飛び退いたが故に手放してしまった、軍用の盾を見据える。ちょうど黒タールとの間。それに糸を伸ばして片手で構え、僕は敵を見据える。
応戦する気を感じ取ったか、黒タールは身体を歪める。
生物とはかけ離れているが、こいつにも超感覚は適用できるみたいで助かった。敵は次に……。
「飛んでくるっ!」
予測から、即座に捕捉。飛んできたアメーバ状の敵を盾で抑え、それを軸に身体を反転。地面に落ちた黒タールを視界に納めながら、バックステップを繰り返し、リリカ達の元へ。そこには、既に巨大蜂の形態に変身したリリカと、小さめの蜂になった洋平がいた。
「逃げる……の?」
「ああ、逃げる! 強襲部隊なんて変なものが来てるのに、それ以上に意味分からないのまで相手にしてられないよ!」
「……っ、懸命だ」
弱々しい声で呟く洋平を、取り敢えず服の胸ポケットに突っ込む。窮屈だろうが、我慢してもらう他にない。
「あいつは、そんなに動きが速い訳でもない。飛んで逃げれば問題ない筈だ!」
最優先は叔父さん達と合流。不気味な敵だが、その後に出会わなければ何の問題もない。
「飛ぶよ! しっかり捕まっ……て……?」
どことなく後ろ向きな解決策にて僕は僕は肩に乗る怪物に、振り落とされぬよう捕まっているように呼びかけ……その場で硬直した。
あの子が……いない!?
「レイ? 何してるの? 早く乗りなさい!」
「ま、待って! 待ってくれ! あの子がどこかに……!」
まさか、退避の時に落ちた? それとも、黒タールを受け止めた時に?
「くそっ……! 何してるんだ僕はっ……!」
実体化するよう声もかけられない。人間に戻れば、間違いなくあの子は黒タールの近くに立ってしまう。
不意討ちとはいえ、洋平の腕を一瞬で引っこ抜くような相手だ。あの子に近づける訳には……。
「てけり! り! てけり!」
そうこう言っているうちに奴がくる。弾力を利用した、浮遊するジャンプ。それを蜘蛛糸で網を張ることで足止めし、僕は片手を鉤爪に変えつつ、敵と距離をとる。
「リリカ! 空に! 空なら奇襲も来ない筈だ!」
蜂になった洋平をリリカに投げ渡せば、彼女はそれを器用に六本足で捕まえて、空へ舞い上がる。
「っ……戦う気? てか、お姫様を探すなら、その必要はないわ! 彼女、すぐ近くにいるもの!」
「なんで分かる!?」
「気配っ!」
何だそのフワフワした根拠は! とは叫ぶまい。
リリカは今、怪物の支配下に置かれている。逃げ出そうともしないのが、その最たる例だ。本能で、女王の傍から離れられない。そう考えると、なんて恐ろしい話だろうか。
「てけりてけりてけりてけりてけりてけりっ!」
雑念は許さないとばかりに黒タールが、雨のように降り注ぐ。
そんな攻撃まで出来るのか! と、感嘆しつつ、僕は素早くその場を動き、安全圏にて極小の蜘蛛に。雨が止んだら服を纏い人間へ。
「てけり? てけてけり」
「――っと! ……よし」
今度は再び突進してくる。振り上げられた腕らしきものが剣のように鋭くなり、僕へ向けて迫ってきた。
液状化されても嫌なので、鉤爪で受け止めるのではなく、受け流す。
一応攻撃するときは、このタール状の身体を固めているらしい。この攻撃手段は発見だ。
液体化と固体化は、瞬時には出来まい。必ずタイムラグがある筈だ。形を固定してからすぐに変化もできないだろう。流体力学は詳しくない。いや、全く知らないと言い切れるけれど、昔何かの番組で観た気がする。
「このっ!」
隙ありと、二撃、三撃。爪で攻撃する。だが、それはぬかるみに足を踏み入れたような手応えしか帰って来ず、思わず舌打ちしたくなるのを、僕は辛うじて堪えた。
敵の再生力を考慮すれば、例え怪物の力を乗せた打撃であっても、殆ど効かないだろう事は明らかだった。
「……どうする?」
鉤爪、効果なし。
蜘蛛糸。嫌そうな様子だが、効くのかは微妙。
身体所有権の剥奪。……あれに噛みつくのはごめん被りたい。
蜘蛛をけしかける。却下。彼らだって生きているのだ。
しかも……。
「……っ」
じゅわじゅわと、手の甲と指先に熱を帯びた疼きが走る。黒い毛むくじゃらな蜘蛛の手が、ほんの少しだけ火傷をしたかのように爛れていた。
「……全身が、消化液に近いのか、それに近い性質に変化できるのか?」
それならば筋妻が合う。
結論。やはり逃げるが吉みたいだ。
鉤爪を一度しまう。回復は、人の身体の方がやり易いのだ。
ともかく、敵を僕に釘付けにしつつ、さっき僕が通った場所からは遠ざけた。これで、あの子が人間化しても、僕が割り込んで黒タールを止められる。後は……!
「どこだい!? ……っ、返事をっ!」
名前はいらないと彼女は言うが、こういう時に不便だと思いながら、僕はあの子の姿を探す。
こだまする僕の声。上空で、リリカもまた、蜂の頭部を動かし、周りを探っている。返事は……ない。変わりに……。
「青年……、斎藤だ」
弱々しい洋平の声がした。斎藤?
要領を得ず、首を傾げたその時だ。僕は不意に、掻き毟るような異音を耳にした。
プチュン……グチャリ……。パリパリ……ペキョ……。
水っぽいような、乾いているような。そんな相反する要素が混ぜ合わさった、奇妙な音に、僕も、リリカも。その場にいた黒タールすら、暫し沈黙し、動きを止めていた。
一体……何が?
不吉な予感が爪先から這い上がり、僕は辺りを見回して、その発生源らしきものを目に留めた。
グチグチといった嫌な音は、すぐ近くからしていた。巨大な蟷螂の死体だ。それが、風もないのに不自然に揺らめき、小刻みに動いていた。
「ん……ぐっ……んっ」
それに混じり、微かに聞こえるくぐもった声。
嫌になるくらい聞き覚えがあるそれは、直後にした喉が鳴る音と共にすぐに静かになる。そして……。
「……レイ、大丈夫。……大丈夫だよ……」
透明感がある、ウィスパーボイス。
普段ならば、口にこそしないが、僕にとって愛おしいそれ。
だが、今は……。
「私が……護ってあげル……!」
どうしようもなく禍々しく。身の毛がよだつ程に不気味な響きをもって、僕の耳を侵食した。




