32.弱肉強食
暗い洞窟の通路を、エディは全力で駆け抜けていた。
追いすがるは、大切な少女の匂い。無情にも引き裂かれた、飼い主兼パートナーのものだ。
遠い。
犬ゆえに出来ないが、人間ならば舌鳴らしでもする所だろうか。などと考えながら、エディは迷いなく、正解の道を進み続ける。
行く先はどこへ続いているのだろうか。見たところ、数ある出入り口の一つか。
「優香……!」
その名を呼ぶ。応えはないのはわかっていても、エディはひたすらに想い、走る。
レイの超感覚による警戒網はない。ここから先は、自分の鼻と感覚に頼るのみ。今更ながら、警戒しながら進軍する上で、自分とレイが共に行く事がどれだけ安全迅速かつ堅実だったのかを実感する。
無い物ねだりに等しい思考に、自身で可笑しくなりつつ、エディは更に速度を上昇させる。合わせる人間がいない以上は、遠慮する必要はない。小型自動車など軽々と凌駕するスピードに、数十メートル後方からついてくるムロイとネギシが、「ピュヒィィイ!」と、短い悲鳴を上げたが、構わず先へ。
やがて、前方からぼんやりとした、弱々しくも確かな月明かりが見えた。……出口だ。
「――…………フッ!」
そのまま勢いよく洞窟を飛び出したエディは、その瞬間、ざわめくような感覚を覚えた。
敵だ。
真上から来る。それを悟ると同時に、エディの中で素早く思考は巡り――。
「ムロイ、ネギシ! 止まれ! 私が合図するまでそこから出るな!」
後方の助っ人二匹に注意喚起しつつ、エディは素早く、そこから横っ飛びに避ける。土に何か重いものが叩きつけられたような音と共に、それは舞い降りた。
「避けたか。相変わらず余興に駆り出される猿の如し、すばしっこい奴よ」
そこには、褐色の毛をもつ獣がいた。
体躯は大型犬と中型犬の間に位置するだろうか。手足は太い。が、野生で生きぬくために脚力を特化させた結果か、全体的にしなやかな印象を受ける。
褐色の瞳が有する眼光は鋭く。まさに狩人特有の残忍さをたたえたまま、エディを見据えていた。
ニホンオオカミ。
絶滅の憂き目にあいながらも、どんな因果かこの地で密かに生き延びていた種。だが、今やその純粋な原種は存在しない。
それら全ては、蜂の怪物に遺伝子を書き換えられ、すべからく隷属させられている、哀れな獣達だ。
そして、今まさにエディの目の前にいるのは、その中でも特別な存在。即ち……。
「誇るがいい。雑種犬。我自らが処刑に来てやったぞ?」
その名はロボ。群れの頭目を追われた悲劇の狼王だった。口吻を皮肉気につり上げてみせた敵。それと対峙しつつも、エディは冷静に、周囲を見渡してから、改めてロボに向きなおった。
「やぁ、ロボ。元気そうで何よりだ」
「元気……だと? エディよ。へらへらと笑うのは、貴様ら犬族の性質の中で、我が最も軽蔑に値するものだ。昔から狼王たる我に対する、度さかなるまでのふざけた態度……。気に入らんがあえて言おう。今日も最悪だ! とな」
十年来の友人に話しかけるかのような雰囲気で、エディは鼻を鳴らす。それに対して、ロボは歯ぎしり混じりで全身の毛を逆立てた。
「……あの娘は、優香はどうした?」
「貴様が気にする必要はあるまい。この場で死ぬのだからな」
にらみ合いが、数秒続く。
傲慢不敵。こちらの話など聞く耳を持たない狼の王は、目の前の獲物への興奮でか、息を乱していた。
「……仕方ないな」
極力優香の傍に行くまでは戦闘を避けたかったエディではあったが、相手はそれを良しとしないだろう。どこまでも追い縋るは、狼の本能だ。振り切れども後ろから迫る脅威を気にするくらいならば、ここで摘んだ方が合理的。寧ろ、他の幹部二人から離れ、単独で向かってきてくれた事に感謝すべきだろう。
無言でエディは、臨戦態勢に入る。時間はあまりかけられない。敵は最弱のとはいえども、幹部。その辺の有象無象とは、比較になるまい。故に。
「ロボ、申し訳ないが、今私は忙しいのだ。〝昔のように君とじゃれて遊べる〟と思ったら、大間違いだぞ?」
たとえ多少の縁がある相手であろうとも。容赦してやるつもりは毛頭なかった。
嘲るようなエディの言葉に、ロボが激昂し、飛びかかってくる。
ケヘヘ……。と、犬にあるまじき笑い声は、狼の咆哮に掻き消されながらも、確かに森の中で余韻を残していた。
そして……。
刹那の交差と共に、夜の虚空に鮮血が舞う。
レイも、少女の怪物も。地上で待つ汐里や大輔。そして、今〝余裕のない〟蜂の女王すら預かり知らぬ場所にて、犬と狼は激突した。
※
血で血を洗うかのような戦いは、幾度かの激突を経て遂に佳境を迎えていた。幾度となく再生を繰り返す二体の怪物は、疲弊しきった様子を隠そうともせず。息を荒げたまま、互いを睨んでいた。
「愛の重さが違う……ね。成る程。貴方のそれが、大分倒錯しているのはよく分かったわ」
ここまで食い下がってきた事に対する苛立ちと、ほんの僅かな敬意を払いつつ。リリカは目の前にいる敵の規格外な生命力に、改めて戦慄していた。
少女の怪物は、未だ生きてリリカの前に立ち塞がっている。ただし、その身は限り無く満身創痍に等しいものだった。
左足は破壊され、あらぬ方へひんまがったまま、放置されている。
はみ出した腸を、片方だけ残された手で己の腹へ強引に捩じ込み。両目を完全に潰されて尚、此方を睨む少女の怪物は、明らかな劣性の中ですら、口元に笑みさえ浮かべていた。
「……レイ、一筋。ワタシも、私も。それは変わらない」
それが倒錯しているというのよ。とは口にせず、リリカはため息混じりに己の身体を省みる。彼女もまた、無事とは言いがたい状態だったのだ。
全身のいたるところに見られる咬傷は、すべからず目の前の少女につけられたものだ。
油断なく全身を硬質化した蜂の女王に鉤爪が通らないと知るや、少女は攻撃方法を変えてきた。
口で噛みつく。
黙っていれば深窓の令嬢な風格を感じさせる目の前の少女が、斯様な原初的手段に走る事には、一淑女として物申したい気分になったリリカではあったが、その一手は、そんな余裕をもぎ取る程に凶悪だった。
ただ噛むだけならば、鉤爪を使った方が幾分もマシだ。だがここで、少女がその麗しい口吻から消化液を分泌させつつ、まるで極上のディナーでも味わうかのようにリリカを食み始めた時。リリカは暫し女王の風格も、天敵の優位も忘れて、ただ純粋に驚愕した。
捕食者と被食者の逆転。自然界では限られた数。限られた状況でしか確認されないそれは、蜂にとってまさに非日常だったのだ。
「蜘蛛は……補食対象を消化液でグジュグジュに溶かして、啜るように喰う。こんな攻撃方法を隠していたなんてね」
「……レイを食べるときにしかやらないの。はじめてやってあげた時、ピクピクしながら悦んでくれたのに。貴女もレイと同じように逃げるのね」
「……初めてってことは、彼が人間の時? 心底同情するわ。怪物化する苦痛なんて、人生で一回味わえば充分よ」
ピキピキと、遅まきながら再生を始めた傷を庇い、リリカは肩を竦めた。
回復が、遅い。当然だ。蜂に限らず、虫が有する外殻の奥は、得てして柔らかいもの。そこに攻撃を受けたのだ。
皮膚の下、硬質した甲殻を軋ませ、溶解させた上で歯を通す。ある意味で一番有効な手立てであった。だが、同時にこれは欠点も有している。攻撃の関係上、少女はリリカに密着せねばならず、かつ、消化液で甲殻を弱らせるまでに、弱冠のタイムラグが生じることとなり。その間、少女はどうしても無防備を晒してしまうのだ。
結果、リリカに手痛い負傷はさせても、それ以上に少女が傷付く事となってしまった。もはや、致命的なまでに。
「貴女達は……よく頑張ったわ。色んな怪物と争ってはきたけれど、毒を撃ち込まれて平然と動かれたのも。私に手傷を負わせたのも。貴女やレイが初めてよ」
「……どうして、そんなことを言うんです?」
「もう、再生力が残っていないのに。よく吠えるわね。もう終わりだから敬意も込めて誉めているのよ?」
リリカがそう述べれば、少女の怪物は一瞬だけポカンとした顔になり……――。
「終わりは、貴女。噛めるってわかったから……」
食べちゃいますね。
くちゃりと口を歪ませ、せせら笑いを浮かべる少女。
リリカはその言葉を最後まで聞かなかった。
ここで、潰す。完全に屈服させる。
リリカは間違いを犯した。少女とあの青年――、レイは、互いの目の前で、互いを壊すことで、初めて操れる。レイの力を見るためには、少女を引き離す必要があった。だが、そうすれば今度は少女の方が怯えていた被食者から怪物として目覚めてしまう。
折るならば同時。二人で一つの怪物を引き離してはならなかったのだ。
手槍を振るう。溶けた身体の各部が悲鳴を上げるが、構わなかった。
これは一時的なもの。通常よりは遅いとはいえ、どうせ後々再生するのだ。
「食べるのは……私よ……!」
残された片腕めがけて、袈裟懸けに斬りつける。少女はそれを見えていないにもかかわらず、難なくかわしてみせ……。直後、身体がぐらりと揺らぎ。体勢を崩した。
「貴女、今片腕なのよ? 無茶な動きなんてしたら、倒れちゃうでしょうに」
呆れたような声色で、リリカはもう片方の腕を引き絞る。
蜂の驚異的な運動エネルギーを利用した、単純な殴打の一撃。レイを沈めたこの攻撃こそ、紛れもないリリカの切り札だった。
もう片方の腕を消し飛ばす。これで今度こそ、この少女は沈黙するだろう。
「スゥゥウ……――バァア!!」
息を吐ききり。急激に吸う。限界手前で呼吸を止め、放つ。
弾丸を通り越し、大砲を思わせるリリカの一撃は、寸分たがわず少女の肩に打ち込まれた。そこから身体の捻りを利用して、強引に拳の運動方向を修正。体重を乗せた深く沈むような拳は華奢な少女の怪物を巻き込んで、無慈悲にも床の上に叩きつけた。
「あ……ぐ……っ!」
くぐもったうめき声を上げる少女。同時にリリカは、拳の下で骨が砕け、筋肉をズタボロに擂り潰したような手応えを感じていた。
殺った。
確信と共に、リリカはほくそ笑む。眼下には、だらりと破壊された片腕を投げ出し。小さく痙攣する少女の姿があった。
度重なる攻防の中、身体はない力を振り絞り、なんとか再生を果たそうとしたのだろう。
シューシュー。という不協和音にも似た響きと共に、少女は軋みをあげていた。
「蜘蛛にしては……よく頑張ったわ。……さ、一緒にレイを待ちましょう……」
ね。とまでは、言葉が続かなかった。ピチャリ。という液体音がした瞬間、リリカは少女の怪物と、〝目が合った〟
「なっ……!」
「ああ、ようやく見えました。貴女の姿がしっかり捉えられなくて、困っていたんですよ」
囁くように呟いて、少女の怪物はゆらりと上体を起こす。蛇が鎌首をもたげ、一瞬で攻勢に転じるかの如く。少女は両腕と片足が無い中、全身をバネにする形で、その身を跳ね上げた。
瞬間、リリカの視界半分は、闇に覆われた。
「ぎっ……!?」
痺れるような激痛と共に、酩酊にも似た頭をシェイクされたかのような感覚がリリカを襲う。一瞬とも永遠とも思えたそれは、リリカの頭の中で一つの結論を弾き出した。
目に……噛みつかれている。
ビュルビュルと、眼球の奥深くに何かが流し込まれていた。おぞましさのあまり、リリカはなりふり構わず、すがり付いた少女を蹴飛ばし、揺らめく視界に歯ぎしりした。
「意趣返しのつもり?」
「流石に、目には硬い甲殻はないかと思いまして。……良かった。私達の勝ちです」
暗かった視界が、少しだけぼんやりと明るさを増していく。再生は問題ない。思った以上に傷は小さかったらしい。歯を食い込ませたというよりは、針で突かれたのに近かった。
敵は地面に転がったまま、首だけこちらを向いている。もはや噛む力も、立ち上がる力すら残されていない。なのに……。
「勝ち……ですって? 何を言っているの? 致命傷にすらならないこの攻撃で、ふざけたことは……」
「致命傷。だってようやく……貴女の中に私が届いた」
謎めいた言葉を、リリカは何度も噛み砕く。届いた? 何が? 残された身体の再生力を、全て目に回していた。それはわかった。最後の攻撃……というには滑稽すぎるそれの布石だということも。だが、あれがどうしたというのか。
要領を得られぬリリカ。それに気をよくしたのか、少女の怪物はクスクスと笑った。
「食い下がったのは私達やレイが初めて。そう言ってた。なら、貴女はこの攻撃を知らない筈」
「攻撃? 糸や噛みつき、鉤爪が本領でしょう?」
「……ううん。違う。これは、私達がレイを捕らえた力。……一度絡み付いたら。もう逃げられない……の」
そう宣言した少女は、倒れ伏したまま、舌なめずリし。
「私の言う通りに」
命令を下した。
刹那、リリカの中で、バキン。と、脳髄に響き渡るような破裂音がした。
決着は、着いたも同然だった。身体の所有権を奪う、蜘蛛の怪物の力が行使されてしまったその瞬間。蜂の女王たるリリカの身体は、呆気なく、少女に屈服した。
意図せず動く、リリカの身体は、少女の口が届く場所へとゆったり寝転んだ。
これに驚いたのは、他ならぬリリカだった。
何が起きている。どうして自分は、こんな意思と関係ない動きをしている? 考えても考えても、答えなど出なかった。そして。
「言ったでしょう? 貴女は逃げられない。私は動けないから、再生が終わるまで、貴女の目を噛むわ。噛んで、支配して。また噛んで……私の再生がある程度終わったら……今度は貴女の身体の甲殻全部、溶かして剥がして丸裸にしてあげる」
それは、緩やかな死刑宣告だった。延々と、身体の自由が効かないリリカを真綿で締めるかのように少しずつ殺していく。
少女はそう言ったのだ。
ま、待って。という言葉など、もはや出せなかった。
リリカはその時、女王となった時に感じた恐怖を思い出した。
眼球すら、動かせない。故にリリカは目を逸らすことも許されず。再び迫る少女の唇をただ見ている他はない。
白い歯が覗く。そのまた奥。上顎に注射針を思わせる細く鋭い二本の器官が見えた。あれが、リリカに蜘蛛の体液を注ぎ込んだものなのか。
視界が塗り潰された。
酩酊が来る。まただ。また脳の奥で、弾けるような音がして、少女は女王に、残酷な命令を下す。
「……足を落として。腕もよ。再生はダメ」
致命的な事なのに、リリカはそれに逆らえない。悲鳴すら没収されたリリカは、自らの両足を手槍で突き刺し、中へ毒液を撒き散らした。
リリカ自らの毒が、自らを封じると、最早安全と判断したのか、少女はゆっくりとリリカの身体に這うようにして覆い被さると、まず、首筋にかぶりついた。
「……血は、レイのじゃなきゃ美味しくないけど。……ワタシが貴女のを飲んだらどうなるのかな? 少しは元気になるかな? ……私、思うんです。好奇心は大事なので、試してみましょうよ。血も……肉も」
歯が、硬い殻にあたる。カチカチとした硬質な音が、リリカの身体へ響く。忌まわしいノックは延々と続く。その最中、ピリピリと痺れるような感覚が、リリカの肌を焼く。
蜘蛛の消化液。それを認識したリリカは、喰われるという現実を、改めて実感した。
自分は今、蜘蛛の巣に絡めとられた、哀れな羽虫に成り下がったのだ……、と。
「ひ……あ、ぎゃぁああぁああ! あ、がぎ……、ぐぅううぅ……!」
再び、バキンと音が響く。支配からの解放。だが、既にリリカの手足は、自らの毒で封じられていた。
同時に、今までにない激痛が彼女を襲った。怪物に対してアドバンテージをもつ、自身の毒針。それが、よりにもよって自分を貫くという悪夢。だが、それ以上にリリカを絶望させたのは、自分に打ち込まれた毒の種類だった。
「うそ……よ。だって、これ……」
「あ、気づきましたか? 貴女が私……いえ、ワタシに入れたのと……同じ毒です」
痛みを越えた痛み。それは、怪物の身になってから、久しく味わう事のなかった感覚だった。
成功して良かったです。と、無邪気に笑いながら、少女の怪物は、そっと、〝白い骨の腕で〟リリカを抱き締めた。
「私、人間だった頃もやしが苦手だったんですけど……あなたの味はそれより酷い。でも……」
少しは足しになるかしら?
そう呟きながら、少女の怪物は、リリカの柔肌に歯を立てる。メリメリという音を立てながら肉を食む度、リリカは悲痛な叫びを上げる。黒曜石を思わせる漆黒の瞳は、そんな蜂の女王を無感動に映していた。
どれくらいの時間が過ぎたことだろう。不意に少女は、リリカを貪るのを停止する。
「……一人で噛むの、疲れてきたな。〝みんな〟に協力してもらお」
明らかな焦れと飽き。雀の涙ほどの回復とはいえ、不味い食料を少しずつ咀嚼という作業が祟ったのだろう。仕舞いには投げやりにため息をつきながら、怪物はようやく肉が部分的に付き始めた右手を、高らかに頭上へ掲げた。
「痛い……いたいよぉ……。やだ。もう痛いのやだぁ……」
明らかに今までと違う気配。だが、本来ならば鋭い筈のリリカの戦闘直感はもはやなく。あるのはただ、震えながら身を強ばらせる少女の姿。そこへ……。不快な群れが殺到した。
「え……あ、え? 何……コレ?」
驚愕に目を見開くリリカが見たのは、蜘蛛だった。
それも、一匹や二匹ではない。十、二十。いや、その倍以上か。大きさや種類も様々な蜘蛛達全てが、八つの瞳をリリカに向け、まるで御馳走を前に舌舐めずりするかの如く、口元のハサミをパクリと開け、脚を不気味に蠢かしていた。
「私と、同じのがいるからかな。……皆が皆来てくれない。いつもなら、もっと来てくれるのに」
肩を竦めながらも、そこまで不満げな空気は見せずに、少女の怪物は微笑んだ。邪気など見えぬ、柔らかな笑み。だが、その時リリカは、少女の瞳の奥に一抹の狂気を垣間見た。
「か……噛むって……皆って……まさか……」
震え声になるリリカへ少女の怪物はゆっくりとうなずく。
「私が食べやすいように、皆に噛んでもらって柔らかくするの。瞼の裏やお耳にお鼻に捩じ込んであげる。貴女みたいに針でコリコリは私達には出来ないけど……モゾモゾガサガサならできるよ。お口に入るのが好きな子もいるみたい。だから、身体の中から噛んで破ってあげる。指を落として。肉を切り裂いて。傷口をほじくりまわして。貴女が私にやったこと、全部やったら……」
最後に貴女を、私のお人形さんにするの。
それは、無色透明な悪意だった。本人は純粋な希望を口にしただけ。だがそれは、リリカにとっては奈落に叩き落とされたも同然だった。
号令を下す手が静かに下ろされる。その瞬間、蜘蛛達はぶるりと身を震わせ、腹を床に擦り付けた。
「や……だ……止めてよ……やめ……ひぃいい!?」
小さな裸体の少女に、おぞましい審判が下される。瞼に多脚の虫が入り込み、無茶苦茶に暴れ回る。同時に、痺れるような痛みと、何かが這い回るようはゾワゾワとした戦慄が、肌を舐め回した。
「助け、て! 助けてっ! お願い! 洋平! みんな! やだ。やだやだやだ! ダメ、ダメなの! 私が死んだら……みん、な……が……!」
肌色が、黒や茶、虎模様などで覆われていく。
命乞いをするリリカに少女の怪物は静かに馬乗りになる。脚が片方だけ再生した、未だに頼りない姿。が、にもかかわらず、そこに弱々しさ等は皆無だった。
無表情にリリカを見下ろしながら、少女の怪物は舌で己の唇を濡らし。静かに口を開いた。
「私とレイを引き離した。酷いことした。だから……お返し」
※
リリカ・エルダーシングは夢を見ていた。
家族も同然な者達と送る、暖かな日々。
足利が女の子にオイタし、斎藤に吊し上げられている。
それを熊蜂が指さして大笑いし、雀が呆れたように、だが、何処と無く楽しげに肩を竦めている。
ロボは少し離れた場所で、他の狼達と共に寝そべっている。時折こちらを野心に溢れた目で見てくるのがたまに傷だ。
リリカはそれらを幸せそうに眺めながら、うっとりと隣に座る洋平にもたれ掛かった。
「……このまま、みんなとずっと一緒がいい」
細やかな願いだった。
だが、その食料の都合上、蜂の宿命は常に闘争と共にある。守るために愛する者共と共に他者と争う。残酷なジレンマの中に彼女達はいた。
「いれるさ。お前がのぞむなら、きっと」
浅黒い肌に、スーツ。金のブレスレットという、厳ついにも程がある外見。だが、その実誰よりも優しく。言うまでもなく頼もしいのが、洋平という男だった。スーツ以外にも、もっと他にも色々な服を着てみて欲しい。というのは、リリカだけの秘密だ。
その男は再び、「いれる。いつまでも」と、呟いた。
「俺が。いや、俺達が誰にも負けなければいい。それだけでいいんだ。簡単だろう? リリカは俺達の最強な女王だ。負けるなんてあり得ない。だから大丈夫だ。俺達はこれからも……」
少しだけ照れたように頭を降りながら、洋平は珍しく見せる不敵な笑みを見せて……。
※
「ずっと、い……っ、しょ……」
うわ言のように呟きながら、リリカは虚空に手を伸ばす。その瞬間、指の何本かが欠損したそれは、優しく。それでいて無遠慮に掴まれた。その先にあったであろうものごと振り払うような勢いで伸ばされた手は、リリカの小さな身体を楽々と宙に吊し上げる。
「……ん、お人形さん。どんなお洋服着せてあげようかな」
小首を傾げる少女の怪物はどこまでも楽しげだった。背中に広がる蜘蛛の脚が、まるで一つ一つに意思があるかのようにリリカを撫で、弄ぶ。
そこには、蜂の女王も、少女の怪物の姿もない。
あるのは、蹂躙された一人の幼女と、女王と化した少女の怪物だけだった。
「背中、何だかムズムズするし……。何だろ? 〝不思議な感覚〟」
少女の怪物は気づかない。己の背にあるのは、蜘蛛の脚以外にもう一つ。
オレンジ色の蜂の翼が妖しく揺らめいている事に、最後の最後まで気づかなかった。




