31.殺戮舞踏
リリカ・エルダーシングは、目の前の獲物へ下していた評価を、訂正せざるを得なかった。
黒く艶やかな髪を靡かせる少女の怪物は、自身にとっては容易く摘む事が出来る、花のようなもの。脅威にはなり得ない……。筈だった。
だが……。今まさに目の前にいるアレは何だ? リリカは放置すれば迷走しそうになる脳を落ち着けるかのように、額に手を当てた。
考えろ。予想しろ。そう言い聞かせる。
少女の怪物に……何が起こり得た?
毒は、盛っていた。動けるはずがない。まさか、あの異様な発汗で、毒を排出したとでもいうのか? そんな単純なものではない筈なのに。
毒による束縛を破られたのは、これで二度目だ。一度目はレイ。二度目は彼女。両者の共通点は……。
そこまで考えて、リリカは忌々しげにため息をついた。全ては推測の域を出ないことに気づいてしまったのだ。
「蜂は人間には勝てない。ね……。根っからの怪物が、おかしな事を言うのね。人に戻りたくても、もう私達は戻れな……」
リリカが言葉を発したのはそこまでだった。少女の怪物は一瞬でリリカの懐まで肉薄し、その鉤爪を振るう。
「――っと!」
そこで反応できたのは、蜂としての身体能力が故だった。毒針に変化させた、槍を思わせる片手で、リリカは怪物の一撃を難なく受け止めた。
はしたないじゃない。お話の途中に。とは、口に出さない。元よりリリカも、この場はそんな生易しい世界ではないと承知している。故にリリカは、即座に反撃に転じた。
受け止めた方とは別の手で、毒針を形成。間髪いれぬ反撃の返し針は、少女の怪物の片腕を無情にも刺し貫き……。
「……は?」
そこでリリカの思考は、凍りついた。
手応えはあり。
毒も流し込んだ。
これで少女の怪物は痺れ、再び自由を奪われる筈だったのである。
だが、敵は、リリカにも思いもよらぬ方法で難を逃れた。その動きたるや稲妻の如し。あろうことか少女の怪物は、毒を流し込まれた腕に自らの鉤爪を振るい、あっさりと。不要なものを打ち捨てるかのように、自身の腕を切り落としたのだ。
「……私の腕は、私のもの」
それは、自らのものでないならば。敵のものになるくらいなら壊れろ。そういった、歪んだ執着にも似た思考だった。
だが、そのズレた自己愛が、この場では功を成す。完全に虚を突かれる形となったリリカは見る限りに隙だらけだった。
少女の腕が鞭のようにしなる。閃光を思わせる二撃目の鉤爪は、リリカの美しい顔を袈裟懸けに切り裂き、頬骨を叩き砕いた。
「あぐっ……!」
くぐもるような呻き声を上げ、リリカの小さな身体が勢いよく吹き飛ばされる。数十メートルをノーバウンドで飛行した蜂の女王は、応接間の壁に勢いよく叩きつけられた。
豪華な装飾を施されたそこが軋み、崩れ、瓦礫による煙が立ち込める。怪物としての並外れた膂力に任せた、斬撃を伴う殴打。人間ならば即死たりうる破格の威力を誇る攻撃だ。が、それを振るった少女の怪物は、無感動な表情のまま、目を少しだけ細め、不満げに唇を尖らせた。まだリリカは健在だ。そう気づいたが故だった。
「丈夫……ですね」
「蜂だもの。貴女こそ、完全に毒が抜けたのかしら? 痛みは感じているんじゃない?」
ゆらりと、崩落した壁を背に、リリカは微笑んだ。頬の骨が嫌な音を立てて元の位置へ嵌め直され。裂けた傷口が粘性のある血肉で埋もれ、蠢き、塞がっていく。
「痛いのは……慣れちゃいました。何処かの誰かさんが、散々虐めてくれたので」
「そうなの? あんなのまだ序の口よ? せっかく慣れたなら、もっと体験していかない? 気持ちよくて、病み付きになるんじゃないかしら?」
その、破格の再生能力なら尚更ね。と、リリカは口に出さず、表情だけで提案する。が、少女の怪物はそれを目尻を下げながらも、無言で拒絶する。無機質な漆黒の瞳には、被食者特有の弱々しき恐怖などなく。ただ純粋なまでの静かな殺意と僅かな嗜虐の光だけが灯っていた。
「お人形」
溢れ出る己の血液を、まるで川でも眺めるかのように。そこから生えてきた曲がりくねった骨を、流木か何かのように。自分の再生を見守る少女は、淡々と口を開く。
血管が、神経が網のように張り巡らされ、肉が。皮が。まるで何かの設計図を三次元的にしたかのように、白く美しい腕を形作っていく。
「ずっと……欲しかったんです。〝私〟は要らない子で、出来が悪い子だったから、欲しいなんて言えなくて。でも……やっと夢が叶いそう」
たおやかに指を動かしながら、少女は花咲くよう、妖艶に微笑んで。まとう空気が、再び変わる。人間くさい仕草はなりをひそめ、出会った頃の雰囲気に戻っていく。違う点は……蜂を全く恐れていないこと。小さく「ありがと。〝私〟」と、呟きながら、そっと顔を上げ……。
「次は……私の番。今度は貴方を、肉人形にしてあげる」
まるで天使か悪魔が翼を広げるが如く。四対計八本の蜘蛛の脚を背から生やして、美しき少女の怪物は宣言した。
攻撃手段であり、感覚器官であるそれは、環境に合わせて自在に動く。文字通り全開となった少女であり、怪物である彼女は軽やかに宙を舞った。
「……まるで人が変わったみたいね。二重人格か何かかしら? ……どうでもいいか」
対峙するリリカは、少女を目で捉えながらも、ため息をつく余裕を見せた。女王たる絶対の自信。それがリリカの強みである。
その身を震わせたのは、蜂の女王が目覚めた合図だった。瞬間、ニットワンピースの背が弾け、オレンジ色の羽が生える。同時に、頭部に長めの触角が形成され、腰から何かが急速に伸びて、スカートを捲り上げていく。
「いいわ、ならお仕置きよ。お口縫い縫いして。操り糸付けて。レイの前で踊らせて上げる……!」
それは、蜂の腹部。手足に加えての、蜂にとっての攻撃器官だ。
半人半蜂のその姿こそ、リリカの本気形態だった。
「死ね。蜂女」
「堕ちろ。女蜘蛛」
二匹の怪物が飛翔する。一度の交差は、応接間に小規模な血の雨を降らせた。
蜘蛛の脚がリリカの胸部をほぐして引き裂き。
蜂の針が少女の脇腹を貫きかき回す。
一瞬にして赤にまみれた双方は、もつれるように床に墜ちた。
「ああぎ……あああ……!」
「舐めるな……このぉ……!」
それは女性のキャットファイトと言うには、いささか猟奇的すぎた。
少女は毒を打ち込まれた手足を早々に切断し、今や背の脚で立っていた。勿論それらがいつまでも使用不可という訳にはいかず。持ち前の再生力で再生し、赤黒く染まった骨の手足で、リリカの肉を掴み、抉る。
リリカの方も、耐えず毒針を突き立て、少女の身体を蜂の巣にしていく。
血肉がぶちまけられ、骨の小片が飛び交うこと数秒。血貯まりの戦場から少女の怪物とリリカは、反発する磁石のように一端距離をとった。
互いの思考は、互いの生物としての構造に向けられていた。
少女の怪物は、リリカの予想外なまでの硬さに歯噛みするばかりだった。
皮膚を破り、骨を断とうにも。肉を掻き分け、臓物を引きずり出そうにも、リリカの身体はある一定の深みから、まるで全身に鋼鉄を仕込んだかのように硬いのだ。
蜂の装甲。虫特有の堅牢かつ柔軟なボディによる恩恵であるが、少女の怪物にはそんなものがわかる筈もない。
硬い。切れない。かじれない。
なら……。
「縛って、溶かしちゃえ」
そんなシンプルな結論の元に、少女の怪物は再び敵に躍りかかる。
一方でリリカもまた、少女の怪物の異様なまでの再生力から、自身の毒が効いていない。よしんば効き目が弱くなっている事を自覚していた。
今までにない事態である。怪物もとい同じ地球外生命体に対する毒のアドバンテージが消失している事に、リリカは首を傾げるより他はない。
抗体が出来た?
この短時間でありえない劇的な進化が起きた?
違う。〝アレ〟は、違う。まるで元から耐性があった。もとい、そういったものが芽生える素質があったかのような……。
「血縁者に、毒の使い手でもいるのかしらね。毒をもって毒を制す……まさかね」
そんな呟きを漏らしながらも、リリカは明確な解答を弾き出していた。
脳や心臓を破壊したら、せっかくの獲物が死んでしまう。ならば、再生しない程に痛め付けるには?
「背骨を粉々に砕くなり、引きずり出すなりすれば……流石に再生が鈍くなるかしら?」
そんな暴論じみた策と共に、リリカは少女を迎え撃つ。
腕の槍による一刺し。これを少女は、上体を捻り、かわす。
ここで両手足の完全な再生が完了した少女の方が反撃に転じる。
鉤爪と、蜘蛛脚による連撃。これをリリカは急上昇にて安全に避けきった。
戦局を俯瞰的に見るならば、防御力はリリカが勝る。だが、少女の再生力は驚異的すぎた。長期的に見れば、少女が優勢だろう。
攻撃力は拮抗。だが、種としての単純な腕力ならば、リリカが一枚上手。
スピードは明らかにリリカが上。羽による制空権もある。だが、少女は蜘蛛。搦め手を大量に有している。タランチュラのように地を歩むだけではなく、瞬時に巣を張れる。これがどう活きてくるか。
天敵であり、怪物殺しという、リリカのアドバンテージは失われた。だが、これは少女の怪物が優位になったとはいえないだろう。あくまでもようやく、同じ土俵に立ったに過ぎないのである。
結局の所、互いに優位性がある。そんな状況の中で、命運を分けるのは……。
「ちょこまか……しないで……!」
「それは無理な相談よ。お姫様」
近づけば勝てる。故に少女は攻撃の手を緩める事なく、蜘蛛糸をばら蒔く。が、それらは今、すべからく有効に働かなかった。応接間に白い網が幾重にも重なる中で、リリカはジグザグ飛行を繰り返しながら、少女に近づき。離れを繰り返す。この際に少しずつ針を刺し。刺し。刺し。少女の肌に攻撃を加えていく。
蜘蛛を相手にした時の蜂の必勝法。ヒット&アウェイだ。
強い再生力も無限ではない。怪物の種によって糧の内容は違えど、そこには一律、能力のエネルギー源が存在し、枯渇すれば当然ながら能力は使えなくなる。少女の怪物の糧は、パートナーたるレイの血液。少女の怪物が、しばらくの間それを口にしていない以上、消耗は少女の方が早い。
ましてや、少女はつい先程まで、ひたすら痛め付けられ続けていたのである。故に……。
「……っ!?」
幾重かの鉤爪、脚、針の攻防の末、ガクン。と、不意に少女の膝が落ちかける。
限界。致命的な隙。
その瞬間。リリカは歪み、興奮したような笑みを浮かべた。
狩り立てた獲物が疲弊し、地に膝まずき、屈服する瞬間。リリカが好む、蜜のように甘い時だった。
「チェックメイトよ。お姫様」
「ぐ……」
迫るリリカ。少女は悔しげに顔を歪め……。
「知ってますか? 女王様ってチェスじゃ勝てないって相場は決まってるんですよ?」
刹那、一転して蠱惑的な表情の下、手招きするように指を動かした。
よろけたフリ!? そうリリカが気づいた時は、全てが遅く……。
ヌチャリ。と、粘着質な音を立てて、リリカに蜘蛛糸が殺到した。
「な……っ! 周囲から……!?」
リリカの身体中に張り付く、白い粘性の糸。それは、少女の手から放たれた訳ではなく、ばら蒔かれた蜘蛛の巣が、まるで意志を持つかのように一斉に動き、リリカを包囲した結果だった。
「揚繰網って、ご存知ですか? 巻き網の一種なんですけど」
何も考えなしに糸を放っていた訳ではないんですよ?
そう呟きながら、少女の怪物は糸を操作する。帯状に連なる蜘蛛の巣が、瞬時に引き絞られ、リリカを包囲する。完全に拘束されたリリカは、なすすべもなく地面に落ち……。
「……!?」
そこで服だけを残して、消失した。一瞬驚いた顔を見せた少女の怪物。だが、直ぐ様リリカが何を成したかを察した。あれは、自分にも出来る事即ち――。
直後少女の怪物の背後から、「ブーン」という羽音が響く。彼女は半ば反射的に鉤爪を振るった。
ギチリという硬質な音と共に、怪物の鉤爪と、リリカの手槍が、三度交差する。刀の鍔競り合いを思わせる対峙。自然と少女とリリカの顔が限界まで近づいた。
「酷いじゃない。あのニットワンピース。お気に入りだったのよ?」
「その見掛けには、背伸びしすぎだと思います。もっと可愛いお洋服にしましょうよ?」
一糸纏わぬリリカがもう片方の手槍を振るえば、少女の怪物の空いた鉤爪が、それを受け止める。力押しの局面にて、互いの踏ん張った脚が、床に悲鳴を上げさせ、亀裂を大きくしていく。
両手は封じて封じられた。後は……。
蜘蛛には八本の脚があり。
蜂には腹部に、もっとも強い長槍を備えていた。
「ぐ……っ!」
「ぎっ……!」
謀らずも同時に、二匹の怪物は牙を剥いた。
八本全ての脚が、リリカの身体中に食い込み、うねり。
屈曲した蜂の腹部から飛び出す長槍が、少女の左太股を貫き、そのまま下向きへと柔らかな肉を引き裂いた。
「捕まえ……た……! 私の……勝ちで……!」
「違うわ。お姫様。捕まってあげたのよ……!」
半身を痙攣させながら、少女の怪物は嗤う。が、リリカもまた、喀血しながらも、その目から光は消えていない。
「お姫様? 蜂の攻撃手段が、毒針だけだと思ったら大間違いよ? 搦め手を有しているのは……貴女だけじゃないわ……!」
そう言って、リリカはクチャリと、幼くも妖しい色香を漂わせる口を動かした。柔らかな唇の奥で、「ピチャリ」と舌が湿った音を立て……。
「んっ……ああ!?」
突如、少女の怪物は、驚きに短い悲鳴を上げた。
把握したのは、ひりつく痺れと、真っ暗になった視界だった。
「毒の抗体も、流石にそこへは作れないでしょう?」
口から。及び針からの毒液噴射。
毒針が効かない相手に対して、蜂が取る攻撃の一つである。その命中率たるや、離れた場所からでさえ、外すことなく敵の眼球を破壊できる程である。
粘膜ゆえに液体の浸透率は高い。仮に怪物が眼球を再生した所で、奥深くまで浸透した毒液は、絶えず相手の目を焼き続ける。
「王子様に守られてばかりで、まともに戦った事がないでしょう? ……年季が違うのよ。お姫様」
冷たく言い放つリリカは、蜘蛛脚からの拘束を逃れ、一端少女の怪物から距離を取る。後は、〝切り札〟による一撃。勿論殺さぬよう加減して放つ腹積もりだ。
だが……。そんなリリカの天望は、またしてもあっさりと切り崩された。
ブチュリ。と、嫌な音が響き渡る。
少女の両手は、自らの眼窩を、眼球とその周辺の肉ごと握り潰していた。
「……ちょっと思いきりが良すぎない? 貴女。それだけ再生繰り返して……果たして余力は残ってるのかしら?」
呆れたようなリリカの顔を、少女が見ることはない。もっとも、たとえ眼球が無事でも、本当に見るかどうかは甚だ怪しいが。
「貴女をねじ伏せられたら……何でもいい。倒れてもレイが来てくれるから、安心」
そう呟いて、一時的に盲目となった少女は、愛しげに何もない所を撫でる。まるでデートの待ち合わせに来た誰かに甘えるように。手を繋ぐようねだるかのように。そんなあからさまな仕草にリリカが顔をしかめているなど露ほど感じずに。
「年季ばかり重ねてて、本気で恋をした事がないんでしょう? 愛の重さが違うんですよ。女王様?」
少女は見下すように女王を嘲笑した。




