24.蜂達の饗宴
カサリ。という音で、少女の怪物は目を覚ました。ボヤける視界が捉えたのは、朧気な灯り。知らない天井を暫く見つめ、そこで怪物は、自分が柔らかなものの上に寝ている事に気がついた。
「……ここ……は……」
ゆっくりと、上体を起こす。紫色の上質なベッドに、少女の怪物は一糸纏わぬ姿で入っていたらしい。
もっとも、彼女に恥じらいはないのか、特に気にした様子もなくキョロキョロと辺りを見渡し……。
「……っ!」
回りを包む、異様な空気に気がついた。
刺すような威圧感。同時に身体の中に未だ残る鈍痛。
その時怪物は、明確な〝死〟の気配に囲まれている錯覚に陥り……。
「あら、起きたのね」
すぐ傍からした、聞きなれない声に、ゆっくりと振り向いた。
本来彼女は、他者に興味や関心を抱く事はない。人前でも姿を見せるようになったのは、単に人の心を知りつつあるからに過ぎない。
だが、何事にも例外は存在する。
例えば、彼女が愛し、愛される青年。
例えば、彼女を慈しみ、優しく笑む白い父。
例えば、彼女の父を愛し、故に青年と共闘する女。
例えば、彼女と青年との行く末を見守るパンツの男。
例えば、彼女や青年を狙い続けた、今は亡き宿敵。
例えば、彼女と似ているようで違う、突然変異種。
それらの存在は、いい意味にしろ悪い意味にしろ、彼女の関心を引く者共だ。そして……ごく最近。そこにまた数名、名を連ねる事になる者が出現した。
「……っ!」
本能か、偶然か。彼女は無意識に、ベッドの毛布を引き寄せ、己の裸体を隠す。そんなものは意味を為さないと分かってはいても、彼女はそうせざるを得なかったのだ。
宿敵、山城京子のねっとりとした殺意。
桐原の氷を思わせる、冷徹な視線。
そして……ここへ来る途中に出会った、得体の知れない女の怪物……彼女は名など知るよしもないが、香山梨花の胡散臭い空気とも違う。
警戒しても、恐ろしい。それ程までに、少女の怪物にとって目の前の存在は……。蜂の女王、リリカ・エルダーシングは別格だった。
「……いい、顔だわ。怯えている。けど、心を占めるのは、それだけではない。気になるの? あの男の人がどうなったのか」
「……知っているの?」
震える身体を制御しながら、少女の怪物は問う。
彼女は、無垢だった。あの天敵達に囲まれて、自分がここへ連れてこられている意味を考えれば、自ずと答えは出る。だが、それを彼女の精神は拒否していた。故に。
「あの人は……そうね。痛め付けておいたわ。最後の最後まで、貴女を守ろうとしていた。いい騎士さんを連れているのね。……羨ましいわ」
微笑を浮かべるリリカ。痛め付けた。その言葉を理解して、怪物は無意識のうちに、己の背中の肉を弾き飛ばした。
「……レイを……レイを……!」
現れたのは、左右三対。計六本の節足。うねり、獲物を求めるかのように蠢くそれらは……。
「……あら、ダメよ。貴女はお姫様なんだから。悪~い魔女には勝てないのよ?」
「あ……ぎ……」
一瞬で、意味を為さなくなった。目にも止まらぬ速さで肉薄したリリカは、己の手を少女の腹部に突き刺した。
あっさりと腹を破られた少女の怪物は、己の肉体が再び強烈な痺れに襲われて行くのを感じる。
「……安心して。少し味見はするけれど、殺しはしないわ。ゆっくり。ゆっくりと、私の肉奴隷にしてあげる」
「ぐ……きゅ……!」
恐怖と痛みで痙攣する少女の怪物。その腸を引きずり出し、辱しめるその傍らで、リリカはいっそ慈しむかのように、空いた手で怪物を愛撫する。紅い瞳が愉悦で妖しく輝き。チロリと舌なめずりする様は、幼い外見からはあまりにも解離しすぎていた。
その邪悪な気配と、張り付くような威圧感に、少女の怪物はただ無力に震えるしかない。
「レイ……は? んっ……ぎっ……レイは、どこ? やだ。レイのとこに返し……」
「ダメよ。ダァメ。私は花は愛でるより、手折る主義なの。だから……貴女は返してあげない」
きっぱりとそう言い切りながら、リリカはそっと、片手を口元へ持っていく。引きずり出された内臓を、リンゴを食むかのように優しく。されど明確な咀嚼の意志を持って、リリカは口つけた。
「……ああ、混ぜ物じゃない神は久々よ。最近まで生きていて捕らえていたのは、汚ならしいおじさんだったから。やっぱり質にも拘るべきよね。凄く……フフッ。おいしっ」
ゴクリと臓物の塊を飲み下し、無邪気な笑みすら浮かべるリリカ。少女の怪物は、痛みと恐怖しかないこの場で、ただお腹を抑え、蹲るしかない。一方でリリカは、血染めの指を舐め、早くも再生し始めた怪物の腹部を見つめていた。
物理的に引きちぎる分には、怪物はすぐに再生する。故にそれが意味するのは、生きている限り、自分は目の前の蜂に補食し続けられるという事に他ならない。
その事実が、怪物の思考を絶望に染め上げていく。
「……ねぇ、もっと、頂いてもいい? いいえ。寄越しなさい」
「や……やだ……」
ベッドの上で後ずさる怪物。白く美しい肢体が血で穢れ、涙に濡れた漆黒の瞳が、恐怖で見開かれる。その様が、リリカを興奮させる事を、彼女が理解できる筈もなかった。
たまら……ないわ。と、呟きながら、リリカは怪物を押し倒す。いつの間にか姿を巨大な蜂に変え、その大顎が怪物の腕の付け根を捕らえる。
「……綺麗で、とても色っぽい身体なのね。あの男の人。レイだっけ? この腕で。綺麗な手で、あの人を抱き締めて、触れるのでしょうね……」
「ひ……」
現れた天敵の姿に、怪物の顔が歪み、青ざめる。固くゴツゴツした蜂の身体が、柔らかな少女の身体にのし掛かる様は、グロテスクな一枚の絵画を連想させた。
「彼は生きている。私が課す試練を乗り越えてきたら……合格よ。それ程強いならば、私は是非とも彼が欲しい。貴女とセットで飼ってあげる」
「試練……? レイ、生きて……あぐぅ!?」
少女の顔が、僅かに安堵で綻ぶ。だが、それは直後に訪れた激痛で、瞬時に苦痛な表情に早変わりした。ノコギリを思わせる顎が、汚れ無き少女の腕に食い込んでいき、そして……。ブツン。という音を立てて、それは肩口から切り落とされた。
「私ほどの毒の使い手になるとね。たとえば……特定の部位だけの再生力を麻痺させる事だって出来るの。たとえば……腕が生えてこなくなるように……とかね」
「あ……。ああ……!」
心臓に合わせて噴き出す、夥しい血液が、ベッドを濡らしていく。ひくひくと震えながら、少女の怪物は己の腕を悲しげに見つめていた。怪物である彼女は痛みに元来強い。だが、心を持った彼女にとってリリカの告げた言葉は、悪夢以外の何物でもなかった。
この手は、腕は。全て愛しい青年を捕まえておく為にある。彼に抱きついたり。袖を引っ張ったり。時に撫でて。触って。切り裂いて。そうしてキスする為に引き寄せる。その為の腕なのに。
「そんな……レイ……抱っこ……出来なくなる……」
奇しくもいつかの戦場で、山城京子が拳銃に手を撃ち抜かれた時と同じ嘆きが、怪物を支配していた。それを見つめながら、蜂の姿のリリカは、尻の毒針を少女の腿に刺し入れた。
「次は……右足。その次は左腕。最後に左足を落として、完成よ。私だけじゃない。部屋の外には、鈴芽が……もう一人の蜂もいる。貴女は……逃げられない。私達が逃がさないわ。彼はこんな貴女を見たら……どう思うかしら。元に戻すには、私に下るしかない。まぁもっとも……彼がここにたどり着けたらの話だけど」
大顎が、今度は怪物の右太腿を捕らえる。。艶かしいラインの脚が恐怖で跳ね上がり、逃れようともがくが、全てが遅すぎた。少女の怪物の身体からは、既に抵抗する力が失われていたのだ。
故に彼女に出来た事は、ただ懇願するのみだった。
「お願い……やめ……て。……そこに、レイの頭乗せるの。……その時は、レイが………なかなか逃げないでくれるの……だから……!」
「へぇ……。いい事聞いたわ」
冷たい声が浸透する。その瞬間、少女の頭に、まるで走馬灯のように映像が流れていく。
いつかの樹海で過ごしていた時の記憶。目覚めた彼……レイが、顔をひきつらせながらも告げる「おはよう」
それに柔らかく微笑みながら、少女の怪物は白い手指で、青年の頬を弄り回す。くすぐったそうにしながらも逃げないレイは、観念したように目を閉じて、少女の膝枕を堪能する。
それをどう勘違いしたか。少女は身体を屈め、朝からするには些か濃厚なキスを落として……。
望んだのは、何気ない日々。彼の世界の中で穏やかに生き続けること。
その為に恋して焦がれた少女と怪物は一つになり、彼の前に現れた。
「ずうっと、一緒にいて」
熱を込めた眼差しで少女がそう囁けば、青年は照れくさそうにしながらも、ゆっくりと口を動かして……。
幸せな回想はそこまでだった。バツンという再び響く、肉が引きちぎれる音。それと同時に、薄暗い部屋の中で、少女の悲痛な叫びが轟いて。
蜂の饗宴が、始まった。
※
雪代さんの強行策により、追っ手を退けた僕達は、再び薄暗い洞窟を、先へ先へと進んでいた。
進むにつれて、洞窟は大きくなっていく。落とし穴を逆さにしたかのような。あるいは化け物の顎のような刺々しい剣山を思わせる天井が現れた時など、僕らは走りながらも息を飲んだものだ。
「元は犬故か。こんなもの、初めて見るよ」
「いや、犬も人も関係ないよ。僕もこんなの初めて見る。鍾乳洞ってやつだったのかな? ここ?」
「今はレイくんもワンちゃんも怪物でしょうに……。けど、いいわね。自然の芸術だわ。ねぇ顔無しちゃん。ちょっと串刺しになってきてよ」
「ファ!? ア、姉御? 冗談デスヨネ……?」
思い思いのコメントを述べる僕らではあるが、足の速さは緩めない。エディ曰く、匂いはあるものの、まだまだ遠い。との事らしい。
早く……早く行かないと。彼女はきっと今、怖がっている。仮に何か酷いことをされていたら……。
「レ・イ・く・ん。顔怖いよー? ほぉら、スマイルスマイル!」
「女刑事殿。……あまりふざけたことを言うな。私もレイも……今は落ち着かぬのだ。よもすれば鉤爪が滑るかもしれん」
すぐ横で「あら、笑顔は大事なのに」何て呟く雪代さん。それに呆れたように、何処と無く腹を立てるかのように牙を打ちならすエディ。その傍らで顔無し達は、「汐里様ナラ行キナサイ。刺サレテキナサイ。ナンテ言ウカナ?」と、震えている。
今更ながら、色々と凸凹な集団だ。頼もしいやらそうでもないやら。だが、今は変に衝突する時間はない。故に。
「……急ごう」
告げるのはそれだけ。重々しさが伝わったのか、少しだけピリリとした空気が流れて……。
「そうだな。滑らすのすら惜しい」
「はぁい。わかりましたぁ」
「ピュピュピ!」
僕らは進む。既に結構奥まで入り込んだ。鍾乳洞というべきこの空間は、今や小学校の体育館以上の奥行きだ。隠れられそうな場所など幾らでも……。
その時だ。僕のうなじがざわついた。
直感で分かった。何かが。洞窟の奥から飛来してくる。
「……ッ! 何か来るっ! 気を付けて!」
僕が声を張り上げた瞬間、皆は弾かれたかのように距離を取る。
密集していた所からの、散開。敵は一瞬でも、攻撃を躊躇して……。いや!
「……まずいっ! 顔無しっ! 逃げろ! 狙いは君だ!」
「ピュピュ?」
そんな事はなかった。敵は今や、真っ直ぐに先頭の顔無しに狙いをつけていたのだ。だが、それを直感覚で察した時には、予想以上の速度で、暗がりの中から、鍾乳石を縫うようにして、大きな蜂が急降下してきた。
「ピュピュ!? ギュピュイィ!」
直後、勝負は一瞬でついた。
顔無しの一匹が空中に連れ去られたのである。慌てて急停止した僕らが見聞きしたのは、ブーン。という低い羽音と……。
「ピ……ピ……。ギピィィィィイ!」
悲痛な断末魔を上げながら、蜂の毒針で串刺しにされた、哀れな顔無しの姿だった。




