13.回想と新たな危機
啜り泣く声が聞こえる。
可哀想に、まだ若かったというのに……。
将来が楽しみだったわ……。
よりにもよって出来の悪い方が生き残るなんて……。
軽蔑、あるいは何か嫌なものを見るようなねっとりした視線。
「何で! あんたは何していたのよ! 何であんただけ逃げてきたのよ! 何で生きているのがあんたなのよ!!」
兄さんの亡骸を前に取り乱す母さんの目は、憎しみの色しか映っていなかった。父さんはそんなこと言うもんじゃない。と、宥めるように母さんに言う。つい昨日、僕を殴りつけて、何故一人で逃げた? と、僕の胸ぐらを締め上げたその手で母さんを制止し、そう言っている。
父さん、母さん……僕は、生きていちゃいけなかったの? 僕が死んで、兄さんが生きていたら……同じ反応をしてくれたの?
――その瞬間、視界が暗転した。
「大学卒業まではお金を出してあげるわ。でも、それ以降は、自分でなんとかして頂戴」
「はい……わかりました」
「ごめんね。ダメな母親で。でも、どうしてもダメ。私は多分、もうあんたを息子として愛せない」
そう言って涙を流す母さんの横で、父さんはそっと母さんの肩を抱き寄せる。僕に一瞥もくれる事なく、ただ母さんの身と心を案じていた。
――暗転
「知ってる? 二組の遠坂君の話。昔、通り魔に襲われた時にお兄さんを見捨てて、一人で逃げ帰って来たんだって。」
「マジで!? 遠坂っていえば、兄貴の方は結構有名だったよな。滅茶苦茶イケメンな上に、バスケ部のエース! 全国模試でも上位に食い込んでたって話だぜ。」
「スーパー高校生とか冗談みたいに言われてたらしい。それに比べたら弟は……」
「やめてやれよ。アイツの両親が一番嘆いてるだろうさ。実際、家族とも仲悪いらしいぜ」
「いざって時は兄弟も見捨てるような人だもん。そりゃ、両親とも仲悪くなるわよ」
「言えてる〜。遠坂君、顔はそこそこだけど、何か暗いし、面白味無さそうだよね〜」
蔑んだ視線も、謂れのない罵声も、陰口も、忍び笑いも……みんな飽きるほどに浴びてきた。
疲れに疲れきっていた当時の僕は、人生所詮こんなもんだと、半ば諦めていた。人にあまり頼ろうとしなくなったのも、たぶんこの辺だ。
中学一年の夏にトラウマものの恐怖体験をした僕を待ち受けていたのは、地獄のような日々。味方と言える人はいなく、家族も、親戚も皆、僕を腫れ物に触るかのように扱った。
兄さんは親戚内でも評判が良かったので、その人が僕を助けるために死んだとなったら、こうなるのは当然といえば当然だった。
唯一変わらず接してくれたのが叔父だったが、その人は普段は仕事で都会にいるので、そうそう会えるものでもない。僕は文字通り、一人ぼっちだった。
そんな中で僕が壊れることなく持ちこたえられたのは、ある意味奇跡とも言えるだろう。実際は壊れて、自ら死を迎える度胸も無かったから……というのが、一番の理由なのだが。
それでも、兄さんが僕に遺した最期の言葉。これに報いたい一心で、僕は後ろ向きながらも何とか生きていた。今も昔も、僕を真正面から見て、いい所も悪い所も見てくれたのは、兄さんだけだったのだ。
そんな風に過ごしているうちに、ようやく高校が終わり、田舎を出て新しい土地に来る時が来た。
特に期待はしていなかった。どうせ何も変わらない。適当に職を見つけて、ただ生きていくものだと……そう、思っていた。
「よぉ。お前、同じクラスの……遠坂だっけ? ちょっとこれから合コンやろうと思うんだが……人数が足りねぇんだ。あんたも行こうぜ」
今思えば……何とも大学生らしい爛れた理由で知り合ったものだ。
ともかくこれが、後に色々と意気投合し、僕にとって初めての親友となる、阿久津純也との初めての会話だった。
そして……。
※
ピピピピピ……! という、携帯のアラームの音で、僕はゆっくりと意識を覚醒させていく。昔の出来事を夢で回想するなんて、まるでお爺ちゃんにでもなった気分だ。
そんな割りとくだらない事を考えながら僕が目を開けると……。
視界が黒一色だった。一瞬、困惑仕掛けた僕だったが、顔に当たる危険な程に柔らかい双丘と、後頭部を撫でられるヒヤリと冷たい手の感触……。
怪物の仕業だった。もう、朝起きたら此方を覗き込んでいるか、頬など、僕の身体をいじくり回しているか、今のように抱きしめているかのどれかが行われている。そんな訳で、もう僕は驚きを通り越して、慣れの境地まで入ってきてしまっていた。人間の適応力は本当に恐ろしいものである。
取り敢えず、朝食の準備がしたいので離れようとするが、何故か怪物は離してくれない。僕が抵抗を続けていると、脳髄にバキン! という衝撃が走る。
ああ、そうですか。何だか分からないけど、今は離したくないのね。
僕は諦めたように抵抗するのを止める。身体の所有権の剥奪。これが行使された以上、僕に抵抗することは出来ない。
されるがままに抱きしめられる僕。
慣れたとは、コイツが何かをするという事に慣れたというだけで、抱きしめられたり、キスをされたり、挙げ句、血を吸われる行為そのものに慣れたという訳ではない。そんな訳で、身体を支配する女性特有の柔らかな感触にクラクラしながらも、何とか僕はコイツは一体何がしたいのだろうか……と、思考を巡らせる。
まず、なぜ僕の部屋に居着く? そもそも、コイツは何者だ? 他にも、京子に関心を持ったように見えたが、実際どうなの? とか、血を吸う時に流し込んでいるアレは何だ? 結局、あの女子高生との関係は? など、わからないことだらけだが、大元の疑問は最初に言った二つだろう。
不意にバキン! という音と共に、僕の身は自由となり、改めて怪物を見る。漆黒の瞳が、僕を見つめ返してきた。
……人間でないことは疑いようがない。あの時見た蜘蛛がコイツなのか? 仮にそうだとして、そんなあり得ない存在がこの世に存在しえるのか?
考えすぎて頭が痛くなってきた。僕は取り敢えず起き上がり、台所へ向かう。朝はまず、朝食とコーヒーが必要だ。
そう思いながら冷蔵庫と食料庫を見た僕は、軽い驚きに目を見開きながらも、思わず溜め息をつく。
「とうとう、この日が来てしまったか……」
僕は力なくその場に崩れるように座り込み、チラリと、怪物がいるリビングに視線を向ける。
怪物が居着いて、僕が捕らえられてから、既に一週間と少し。下手すれば、もうすぐ二週間になる。
今まで、冷蔵庫にあった食材と、食料庫にあった非常用の即席ラーメンや、インスタント、レトルト食品、そして大量のパスタと野菜ジュースで食い繋いできた。しかし、当然ながらそれは長続きするものではない。
今日、ついにこの部屋にある全ての食料が尽きてしまったのだ。
さて、怪物は僕が外に出ようとすると、身体の所有権を奪い、この部屋に留まるように仕向けてくる。そんなこの状況で食料が切れる。すなわちそれは……。
「ヤバい……どうしよう?」
長い目でみなくとも、今の僕はかなり危険な状況にあるといえるだろう。僕は途方に暮れたように、空っぽの冷蔵庫を眺めながら一人呟いた。
これは……本当に何とかせねばなるまい。
食料だけではない。京子に大学で会おうねと言われた夜から早くも二日。まだ体調が優れないと言い訳しているが、いつまでもこのまま大学に行けないままでいるのはマズイ。何とかして脱出しなければ、僕に未来はないのだ。
やるしかない。何としても今日中に怪物を出し抜いてやる……!
追い込まれた僕は、決意を固めるように拳を握り締めた。
再び、僕の戦いが始まった瞬間だった。




