21.静かに狂う
目を開けてすぐに飛び込んできたのは、僕の顔を覗きこむ、二人の女性の姿だった。怪物と、汐里。もはやお馴染みになった顔だ。
起きたら怪物が傍にいる。これは最早いつもの事。だが、お師匠たる汐里もいるのは珍しい。
いつの間にか結構な時間眠りこけていたのだろうか? 僕が朧気にそんな事を考えた瞬間――。全身に鈍い痛みが走った。
「あぎ……何だ……?」
四肢の付け根と、首の後ろ。そして、左胸。そこが痺れているかのように突っ張っている。一体どうした……。
「ああ、やっと目が醒めましたか。……身体はどうですか?」
「重くて、苦しい。……自分の身体じゃないみたいだ」
僕が即口にした返答に、汐里は目を細める。小さな声で「ぶっちゃけ賭けに近かったようですが……成功したみたいですね」とだけ呟いているのが聞こえた。一体何の事……。と、聞こうとした所で、僕は声を詰まらせた。
そこで初めて、僕は怪物と汐里の顔だけではなく、他の所も目について……。見てしまったのだ。二人とも、息を飲むほどに傷付き、ボロボロになっているのを。
「何が……あったの? どうして二人とも……」
そんなに血だらけなんだろう? 身体は徐々に再生している。だが、その速度が尋常じゃなく遅い。かなりのダメージを受けた結果にしか見えなかった。
汐里は肩口が無惨に抉り取られ、怪物は……。もっと酷い。頬に切り傷。左腕は完全に消失し、今は剥き出しになった骨に、ゆっくりと肉がついていくのだけが見える。右腕は繊維のような薄皮と肉で辛うじて繋がっているが、ちょっとした刺激でポトリと落ちてしまいそうだ。
黒いセーラー服を着ているのでわかりづらいが、他にも肉がこそげ取られている部位があることは確定だろう。血の匂いが強い。怪物と、汐里の匂いが……。
「あ……れ?」
そこでもう一つおまけのように、僕は口の中に違和感を感じた。何らかの余韻が残っている。まるで極上のワインか、最高級のコース料理を食べた後のような、幸せな余韻。これは……。
「私も、そこの娘も噛まれて飲まれましたからねぇ。私はまぁ、腕とお腹と肩と……まぁ他にもつままれる程度で済みましたけど……そっちの娘は三分の二位は食べられてました。……よく死ななかったものです」
「……僕が、やったの?」
震え声で問う僕に、汐里は静かに頷く事で肯定する。血の匂いが充満している。室内だ。けど、それが一番濃く感じるのは他でもない。返り血を存分に浴びた僕自身だった。
「覚えてはいないでしょうね。貴方はそう、暴走していた。謝罪しましょう。私はそれを読み切れなかった。顔無し達によって私が強化されていなかった時にコレが起きていたらと思うと……ゾッとします。間違いなく全滅でしたでしょうから」
暴走。その単語を耳にした時、朧気ながら記憶が甦る。
そうだ。汐里が完全に復活したに等しい〝顔無し〟の事件から一月。朧気に汐里が口にしたのだ。「一度本気でやりあってみましょう」と。彼女曰く、僕は無意識に力にストッパーをかけている。だから、それを、一度とっぱらってみよう。そういった提案だった。
「お酒と一緒ですよ。自分がどこまでいけるのか。把握しておく事は大事です」
「何か途端に全力を出すが安っぽくなったよ!?」
そんなやり取りをして。汐里が僕に身体所有権の剥奪を行使して。怪物が何故か目で殺せそうな視線を向けてきて。そして……。
汐里の「全力で」という命令から、僕は意識が途絶えたのだ。
「気づくべきでした。無意識のブレーキが何を意味するのかを。レイ君はまぁ、一般的な優しさは持ち合わせています。私は力のストッパーはそこから由来するものだと思っていた。ですが……違いましたね。もっと本能的なものに意識を向けるべきでした」
「本能……?」
僕が唖然としたまま口を開けると、汐里はええ。と、言いながら、僕の胸元に指を這わせた。
「以前言いましたね。貴方の力はルイに匹敵すると。ですが、それは間違いだった。怪物になりたての貴方と、ある程度怪物として過ごしていたルイと比べるのがまずおかしかった。なりたてで貴方がそれほどまでの力を持っていたなら、怪物として身体が馴染んでくればどうなるか……怪物でありながら人の心を残した存在が、それに耐えられるのか」
ひんやりとした指が、まるでピアノを奏でるかのように僕の胸板で遊んでいく。冷たくて心地いいけど、その白い指先が徐々に赤く染まっていくのは……。少し精神的によろしくなかった。
意識をそらすべく、僕は汐里との議論に戻る。
「僕の身体が……怪物の力についていけてないって事?」
「そうなりますね。レイ君。進化とは本来、長い年月をかけて行うものです。まだ、貴方の全力をこじ開けるべきではなかった。その実レイ君の身体は、怪物になってからまだ半年程しか経ってないのです。今はまだ、身体を作っていく事に専念していきましょう。さもなくば……」
汐里は目を閉じ、何処か畏怖を含むように身を震わせた。
「貴方は今度こそ、人喰いの怪物になってしまうでしょうね」
それは、僕の身体に枷が嵌められた日。
僕と怪物が出会った夏が訪れるまで、あと二月程に迫った出来事で――。
「……ぼんやりしてどうしました? まるでお嫁さんが暴漢に拉致された亭主のようですよ」
「間違ってはいないんだよね……。うん、昔の事思い出していたんだ。僕が暴走して、君と怪物に迷惑をかけた時のさ」
実際そんなに昔ではないか。と、乾いた笑みを浮かべる僕に対して、汐里は何とも言えない顔で僕の腕へと顔を近づける。
座敷の一室にて、僕は半裸のまま、汐里に全てを委ねていた。
汐里の牙が皮膚を破り、深々と食い込んでいくのを、僕は他人事のように感じながら、ああ、ここも怪物に噛まれた事あったっけ。何て虚しい感慨に耽る。
汐里に噛まれていると、怪物が隣にいないことを殊更思い知らされる。いつもなら汐里が僕の傍にいて、何らかの事情で血が必要になったりした時、怪物はいつだって野良猫のように察知する。そうして物凄く不機嫌な顔のまま、自分の所有権を主張するかのように僕の腕やら服の裾を握り締めるのだ。恨めしげな視線のおまけ付きで。
「ねぇレイ君。貴方は今……正気ですか?」
「……分からない」
血を吸われる時の特有な痛みも、快楽も今は何故かなく。ただ疼くように胸がざわつくのみだった。
毒の吸出し箇所は全部で六ヶ所。定期的に打ち込まれていたそれは、最初に受けた枷よりも随分と繊細なもので、僕の日常生活や最低限の戦闘を阻害することなく、僕の怪物としての側面を縛り付けていた。
沈黙が続く事数分。話題を変えるかのように汐里が口を開いた。
「レイ君の暴走ですか……。ほんの五ヶ月。いえ、ほぼ半年ですかね。懐かしい」
「本当にごめん。汐里にも怪我させた」
ばつが悪そうに俯く僕に、汐里はいいえ。と首を横に振る。
「あれはお互い様ですよ。あの時は、私も必死でしたからね。今にして思えばあの娘と共同戦線をはる日が来るなんて思いませんでしたよ。あれ以来少しだけ打ち解けた気もしました」
「……そう、だね」
暴走した僕を身を呈して止めたのが、何を隠そう汐里と怪物だった。今でこそたまに怪物が僕の修行に関わって来ることはあれども、当時は結構なレアケースだった。
怪物は基本的に他人に興味はない。数少ない例外が、汐里と叔父さん。そしてルイの三人だ。……ある意味では京子も頭数に入るだろうか。
「レイ君があの娘に襲いかかっている間に、私が急拵えで毒を打ち込んだ。正直ね。あの日私は、レイ君がレイ君でなくなってしまったのではないかと思いましたよ」
「……そうだね。僕も信じたくなかったし、それを知って怖くなったさ。僕はいずれ、怪物としての力を制御出来なくなるんじゃないか……って」
実際僕は僕を取り戻して、半月程動けなかったものの、何とか元の生活に戻った。掲げるスタンスはかわりなく。彼女や僕が、周りと穏やかに過ごしていければ……と。
実際は共にある面子的に穏やかなんて絶対に無理だとは分かってはいても、それでも。細やかながらひっそりと彼女と暮らす日々が、僕は大好きだった。……口にするのは恥ずかしいけど。
そうこうしているうちに、最後の牙が僕の胸に刺さる。吸い出されると同時に、僕は不思議と、ざわめきの他に懐かしい感じがした。
枷から解き放たれた事により、僕自身の身体が歓喜しているのだろうか。
「正直、また暴走するやもしれません。だから私は余り推奨したくありませんが……相手が大量にいるならば……もはや迷ってもいられませんか」
「……うん。だってさ。このままでいても、僕は死ぬんだよ。あの子がいない。あの子が餌にされる。そう考えたら……もう手段は選べないよ」
だからある意味で、今僕は暴走しているのかもしれない。
いつ狂うか分からぬこの身で、敵陣の中へ突撃をかけようというのだから。そんな僕の内心を悟ったのか。汐里は肩を竦めながらそっと僕から離れた。
血で濡れた口許を拭い、腕を一振り。それだけで、封印を解くためにパンツ一丁だった僕の身体に、いつもの服が着せられる。
こういった繊細な糸捌きは流石だ。
「ありがとう」
「いいえ。……大輔に言伝てはありますか?」
「……警察の方から、援軍は来るんだよね? じゃあ、それまで気をつけて。と、勝手に動いてごめんって」
我ながら身勝手だなぁなんて自嘲しながらも、僕はそれだけ伝えて立ち上がる。時間がない。すぐに出発を……。
「あ、レイ君」
と、思っていたら、不意に汐里に呼び止められる。
何だい? と、首を傾げていると、汐里は髪を弄りながら、何処と無くぶっきらぼうに切り出した。
「旅行のお土産に良質なコーヒー豆を手に入れたのです。私が持っていても宝の持ち腐れですので……。〝三人分〟しっかり有効活用して下さいな」
一瞬意図を計りかねて。深読みするまでもない、謎かけですらない言葉の意味を理解するのに少しだけかかった。
そうだ。三人で食卓を囲むんだ。コーヒーだって三人分。あの子はまたきょとんとするかもしれないけど、この際だ。思いきって勧めてみるのも悪くない。
怪物に傾きかけた心が、少しだけ人間に戻るのを感じた。心は今も乱れている。ブレて不安定な状態ではあるけれど、考えてみたら僕の平穏に束の間をがつくのはいつもの事で。
だからこれは、その束の間を取り戻すための戦いだ。その為なら……。
「加えて、ルイからも。背中は僕が引き受けたよ。とのことです」
「……うん、二人ともありがとう。……いってきます」
叔父さんは、ルイと汐里が守ってくれる。だから僕は……。恐れることなく、狂うことにしたのだ。
「いってらっしゃい」
『気をつけて。君なら、大丈夫さ』
背後からした、〝二人分〟の声。鈴を鳴らしたかのような汐里の声ともう一つ。酷く懐かしい親友の声。それを背に振り返らぬまま、僕は夜の帳へと飛び出した。
※
色々とやるべき事を済ませ、取るものを取った後。僕は暗い森の中をひたすら進んでいた。
目指すは森島の屋敷を出て暫く歩いた山の中腹。そこに汐里は、案内役を用意した。枷を外すその最中、そう言っていた。
無策で敵陣には乗り込まない。自分が動くその裏では、ちゃんと斥候を用意し、状況やら土地事情を探っていたのですよ。と、今まさに敵陣に特攻をかけようとしている僕には耳の痛いことを述べていた。あのドヤ顔にいつもの僕なら、お転婆な側面を見せた彼女に顔を引きつらせるのだろうか。状況が状況だからただ感謝の念を伝えたら、「何だかいつもより反応が淡白ですね~」なんて事を言われた。……解せぬ。
「……着いたけど、どこに……あ」
頃合いの場所に辿り着くとそこには先客がいた。
月明かりの下で座り込み、星空を眺めていたのは、見覚えのある斑の獣――エディだった。
「……傷は、大丈夫なのかい?」
「無論だ。私は元が犬だからな。同じ怪物であっても、元人間である君より、少しばかり回復力がある。君こそ大丈夫なのか? 随分と深手を負っていたようだが……」
「まぁ、見ての通りさ」
「愚問だったな」
ケヘヘ。と、笑うエディ。僕もつられて笑いながらも、首を傾げた。彼が案内役なのだろうか?
浮かびかけた疑問をすぐに否定する。それはない。汐里は斥候を用意したと言っていた。エディと汐里は接点などない筈だ。
「ああ、君が首を傾げるのはもっともだ。その実私は先回りしてきたのだよ。君がつがいを取り戻す為に行くというのを耳に挟んでね。私もあの子を……優花を取り戻さねばならないのだ。案内は……彼らがしてくれるそうだ。一人はさっき来た関係者らしいがね」
顎でしゃくるような仕草で、エディは闇の一点に視線を向ける。そこには……。
「ピピュコ、ピン、ピュッバ、ピピン、ピュピハ!」
「ピダ、ピピン、ピピュピナ、ピピピゴ、ピピキ、ピピュピゲ、ピン、ピピヨウ!」
奇声を発しながらわめき騒ぐ、異形達がいた。
アリクイのような頭。だが、その口にあたる部分には、赤いヒダ状のイソギンチャクを思わせる器官があった。
白い体毛の生えた小柄な体躯は、手足が長く、オラウータンを思わせる。
顔無しの怪物。僕らを襲い、汐里に屈服し、楽しい使いっぱしり兼実験動物になった奴等。汐里の斥候は彼ららしい。という事は、案内役は彼らか。
そして……。
「うっわ。何このおかしな集会。前々から思ってたけど、周りが非日常過ぎだわ。あ、レイくんこんばんは~。久しぶり……でもないか」
それを遠巻きに眺める、一人の女性がいた。
肩ほどまで伸びるウェーブがかかった黒髪と、目元の黒子が印象的な女性。大輔叔父さんの部下、雪代弥生さんがそこにいた。
「……何て言うか」
集まる面々を見ながら、僕はまず何を言うべきか迷う。何処から話しかけていけばいいか分からない。取り敢えず。今一番言うべきは……。
「エディ。君、喋れたんだね」
いつもの僕ならともかく、今はさして気にならない。
犬が言葉を話したからといって、彼女を助ける上では大して問題にはならないだろうさ。




