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名前のない怪物  作者: 黒木京也
続章ノ一 背徳の牙
133/221

15.交わした約束

 振り上げられた手に、彼女は反射的に目を閉じて……。

 刹那、怪物の真上で、何かがぶつかり合う。同時に身体の上にあった重圧が消え、代わりに聞こえてきたのは、獣の怒声と歯軋りだった。

 誰かが獣に飛びかかり、怪物から引き離しているのだ。

 聞き覚えのある、青年の声。そして……。

 しばらくした後、肉が潰れたかのような嫌な音が辺りに鳴り響いた。

 彼女は恐る恐る目を開ける。そこに……。


「ぐ……の……」


 左肩で獣の牙を受け止める、彼女のつがいの姿があった。

 吹き出る鮮血が、いつの間にか彼女の頬を赤く染めていく。

 その時だ。怪物は、遥か遠くの記憶を想起した。

 暖かなカフェテリア。その一角で、幸せそうにコーヒーを飲む、彼の姿。遠くて。こんなに近くで見つめているのに、どうしようもなく遠くて。どんなに手を伸ばしても触れられない。

 そうして彼は、あの女に奪われてしまった。

 あの日彼女の中にいた〝私〟の心は、音もなく崩れさった。喰われて。怪物になっても、根っこの方では消し去れていない記憶。

 彼を手に入れてからですら、その記憶はこびりついていて。

 故に。


「やだ……やだ……よ。レイを……(ワタシ)からレイを取らないで……!」


 悲痛な叫びを上げる怪物。すると、目の前にて、牙に身を裂かれつつある青年が、吹き出すように笑い声を上げた。


「取られる……って、僕の事を言ってるの?」


 苦しげな喘ぎ混じりに、青年は問い。


「君でも、冗談を言うんだね」


 そう自答した。


 ※


 何とか、間に合った。だけど、その代償は予想以上に大きかった。

 噛まれてみて、僕の能力を駆使して、ついでに蜘蛛という特性をもつ僕だからこそ分かる。


 これは……一種の毒のようなものだ。


 あまり知られていないが、蜘蛛の殆どが有毒だ。あくまで人間には効かないだけで、彼らは彼らの獲物に効きうる毒を持っている。

 この狼男と対峙して、僕の感覚で一番に警笛が鳴ったのが、牙に対してだ。

 恐らくこいつの武器は腕力でも、長く伸びた爪でもない。異様なまでの威圧感を与えてくる、この牙こそが本命なのだろう。

「う……ぎ……」

 急速に力が抜けていく。オリーブ油つきの銃弾や刃物で攻撃された時と似ている。恐らくこれは、地球外生命体の本質やら気管などに直接ダメージを与えるものに違いない。

 事実。僕の左手の爪は、いつの間にか人間のそれに戻り、ついでに再生力も発揮されていない。

 ギリギリと食い込む牙に気が遠くなりそうにながらも、僕は何とか無事な方の鉤爪を挙げようとし……。

 直後。狼男の両手が、僕の右腕と左太股を拘束する。


「ぐっ……あぁ……!」


 捕まれば終わりという直感は、間違ってはいなかったらしい。事実、ただ握られただけで僕の身体は破壊された。左腕程でなくとも再生力は衰えているらしく、いつもの手傷以上の激痛が、否応なしに僕を襲う。

「おかしいな。しぶといな。お前。普通の蜘蛛神じゃないのか? 何か美味しくないし。てか。何故死なない?」

 気が遠くなりそうな責め苦に耐えていると、そんな声が聞こえてくる。噛みつきながら話せるなんて器用な奴だ。

「生憎……死ねないんだよ。僕は……」

 そう返答すると、狼男はバカにしたかのように鼻で笑う。

 もちろん、死ねないはあくまでも僕の主張であって、僕だって死ぬときは死ぬ。

 いつかのルイが言うように怪物の力で首を落とされたり、心臓を貫かれでもしたら、僕は果てる。それは揺るぎない事実だ。

 だけど……。


 酷く怠い身体をゆっくりと動かす。後ろから、か細い悲鳴にも似た声が聞こえてくる。

 僕が取られる。と嘆く声。独占欲が随分と強いと思っていたら、こんな背景があったのか。

 思わず吹き出しそうになった所で、左肩が嫌な軋みを上げた。牙はとうとう骨まで達し、それすら今まさにへし折られようとしているのが、まるで他人事のように思えた。痛みを越えた痛みに、身体が無様にも震えている。能力。いや、力というべきものがこいつに食べられているのだ。

 ああ、不味い。

 そう思うと同時に、未だに意識を保てているのは、きっと僕の中に眠っていた、意地のようなものがあったからなのか。

 グリグリと。狼男が頭を振りぬき、僕の傷を蹂躙する。滅茶苦茶に喰い千切られた左腕は、今や少しの肉で繋がるのみだった。腕を落とされ、肩からゆっくりとこの獣に喰われていくのだろう。

 泣いている彼女の目の前で。

 そうして僕を腹に納めたら、次は彼女を……。


 ビキリ。と、失われていく能力に抵抗するかのように僕の中の何かが鎌首をもたげた。

 それは、弱り果て餌に成り下がる寸前だった僕を叱責するかのように身体の奥を熱くする。

 死ねない。僕は、死ねないのだ。

 何度もそう唱えながら、僕は己に食らいつく賊を睨む。


 左手は、使い物にならない。能力はそこに残っておらず、いっそ切り落としたいくらいだ。

 右手は、抑えられている。力と力では、とてもではないが敵わない。

 左脚は、潰された。骨ごと粉砕されたそこは、地にしっかりと足をつけているかすら怪しい。

 右足は、唯一無傷だ。だが、倒れそうになる身体を支えるのが精一杯。

 なら……どうするか。答えは簡単。

 実行に迷いなどある筈もない。


「あ……ぎぉ!?」


 奇妙な悲鳴を上げたのは、今度は狼男の方だった。それもその筈。捉えた男が、不意に噛みついてきたのだ。

 鋭い牙を有する彼らには、僕のこの攻撃は滑稽にしか映らないことだろう。痛みを競うならば、当然軍配は向こうへ上がる。

 だが……生憎僕のこれは、痛みだけという生易しいものでは終わらない。

 噛みつかれた場所を通して、注ぎ込まれる何かに流石に違和感を覚えたのだろうか。狼男の耳が、不審げにひくついた。

 残念だけど、もう……遅い。


「僕を離せ。そのまま、後ろに下がれ」


 下される僕の命令。恐らく狼男は今、脳髄に響き渡るような、バキン! という音を知覚している事だろう。

 身体所有権の剥奪能力。それにより、後退する狼男は、まるで木偶の棒のように動けない。

当然だ。今彼を支配しているのは僕。故に、その命すら、今は僕のさじ加減次第だ。そして……。


「ウォン。ウォン」


 いつの間にか、すぐそばにエディが来ていた。口にくわえた何かを、そっと僕の足元に置く。

 怪物が食糧として。または自身の力の回復に利用する、血糊の繭がそこにあった。

 恐らく、屋敷の中にあったものだろう。僕の為に持ってきてくれたのだろうか?


「ありがとう。でも……後で頂くよ」


 今は、優先すべき事がある。残り少ない力を振り絞った、操りの力。これが切れる前に、コイツを片付けなくてはいけないのだ。


 いや、それは建前だろう。本心は……。


「……彼女を傷つけたね。怖がらせたね。僕の……目の前で」


 僕自身が、誰よりも。こいつの息の根を止めることを欲していたのだ。

 痛む身体を蜘蛛糸で傀儡のように動かしながら、僕は死力の一撃を見舞う。貫かれた自分の胸をを唖然と見つめながら、狼男が呻き始めた。


「う……ウソつき……ウソつきぃ! 〝アルファ〟のウソつきぃ! 無敵の力だって……! 神様すら殺せるって言ってたじゃないか! 何だよこれ……。いや、ダ……死にたく……な……」


 地に伏して、痙攣しながら狼男かうわ言のように呟いたかと思うと、僕を睨む。ギラギラとした目が見開かれ……。直後。


 何処からか、血も凍るかような雄叫びが轟いた。


「……遠吠え?」


 麓の方からだ。

 そっちにも、狼男がいる…のだろう。誰かを追い立てているのか、はたまた仲間を呼んで……。

 そこで、僕の心臓が跳ね上がった。

 今ここの万全ではない状態に、増援が来たら?

 そんな僕の恐れを感じ取ったのだろうか。瀕死の狼男もまた、叫びに賛同するかのように嘶いた。

 それは断末魔のようにも、歓喜の声にも聞こえて……。


「ここだ! 山の上の屋敷だ! あの犬も、幼子もいる! 女の蜘蛛神もいるぞ! 旨そう……ダピャ!」


 声は、途中で寸断された。エディが狼男の喉笛に素早く食らい付き、渾身の力で噛み千切ったのだ。

 死に体だった狼男は、今度こそ活動を停止した。屋根から転げ落ちていく狼男を見届けて、僕はガクンと膝をつく。

 血を……流しすぎた。能力も、結構削られた。

 歪む景色に頭を痛めながらも、僕はノロノロとした動作でエディからの施しである血染めの繭にかぶりついた。

 すぐそばで名も知らぬ少女が少しだけ反応したが、それを宥めるかのようにエディが寄り添っている。しゃくしゃくという音が口の中で響き、やがて、身体の節々がじわりと暖かみを増していく。

 腕の再生にはもう少し時間がかかりそうだが、何とか危ない境界は越えたらしい。


「レイ……レイ……!」


 その時だ。背中に柔らかな感触が降ってきたかと思えば、途端に僕の視界が反転し……。

「ちょ……おい! 待……むぐぅ!?」

 見慣れた顔が、目の前で大写しになる。物凄い力で後頭部がホールドされ、口の中にぬるついた舌の感触が……。

「む……おっ!?」

 それだけならば、割りと頻繁にしている深いキスになるのだが、今日のは毛色が少しばかり違う。

 極上なワインを飲んだときのような酩酊感に加えて、何か違和感のある感触。後者は分からないが、前者になら僕は覚えがある。傷付いたこの身が何よりも欲する誰かの血。しかもこの味は……。

「き、君はっ……! 何を……!?」

 慌てて怪物を引き剥がし、少し紅の差した唇に指を当てる。抵抗なく口を開けた怪物の口内を覗きこみ、僕は思わず絶句する。

 怪物の舌が、ズタズタになっていたのだ。

「何、で……?」

 目を白黒させる僕を見つめながら、怪物は珍しく、バツが悪そうに俯いた。そうされると自然と上目遣いになるから、主に僕の精神面が困ることを、こいつは知っているのだろうか。

「怖かった……の」

 詰め寄る僕に観念したかのように、怪物はポツリと呟いた。

「あいつらの牙が怖かった。でも、レイがそれにかまれて……。ひどいことされるの見て……もっと怖くなった。……(ワタシ)のレイがとられちゃうっ……て」

 ポツリポツリと、叱られた子どものように話す怪物に、僕はどう声をかけたらいいか分からなかった。

 心配させてしまった。

 以前の僕ならば、誰かにそんな事をさせることは愚か、それをさせることに感慨など抱かなかった事だろう。そもそも、僕を心配してくれた人なんて、大輔叔父さんくらいだった。でも……。

「レイが痛いおもいしたのに……。(ワタシ)はって思ったら、こうなってたの。……でも、レイに血をあげられるから、よかっ……」

 その言葉が下される前に、僕は彼女の頭に軽いチョップを落とす。まだ回復しきっていない身体がビキリと軋みを上げるが、そんな事は気にしない。

 ちょっとだけ驚いた顔になった怪物に、僕は「バカ」と、文句を飛ばす。

「……僕が傷付いて君が痛かったように、逆だってあるんだ。それを忘れないでくれ」

 知らず知らずのうちに拗ねた声色になってしまい、慌てて取り繕おうとするが、時すでに遅し。恥じらう僕を一頻り見て、怪物はおずおずと頷いて、そっと僕に寄り添う。

 もたれ掛かって来た彼女の背中に遠慮がちに手を回す。こういった動作は未だに慣れない。仕方がないのだ。女性経験皆無な僕には彼女の挙動一つ一つが余りにも刺激的過ぎて……。

「レイ、お腹すいてるよね? 飲んでいいよ。私が傷つけてないとこから……ね」

 こう耳元で囁かれると、無駄に心臓が高鳴るのはもう仕方がない事なのだろう。長い髪にそっと触れる。綺麗な濡れ羽色。自分の事のように、彼女のそれを誇らしげに思ってしまう辺り、僕もどんどん毒されているらしい。

 でも、魅了されるがままに彼女の血を啜る前に、僕はどうしても伝えねばならないことがあった。

 回した腕に、自然と力が入る。それに歓喜するかのように彼女の身が震えるのを感じながら、僕もまた、半分は意趣返しのつもりで「一度しか言わないぞ」と、怪物の耳元で囁いた。


「約束するよ。僕がこの先どうなろうと。君がどうなり、何になろうとも……。僕は、君の傍にいる。……絶対に」


 だって僕らは、二人で一つ。名前などつけようもない、怪物なのだから。

 我ながららしくない言い分だと、話した手前恥ずかしくなってきた。誤魔化すように彼女の首筋に顔を埋める位しか、今の僕には出来なかった。

 そんな僕の羞恥を知ってか知らずか。怪物はいつものように幸せそうに微笑んだ。

「……レイ、吸って。(ワタシ)がとろけちゃうくらい。首でも、指でも舌でも胸でも。レイの好きにしていいんだよ?」

「……君はホント言い方ってやつを、もう少し考えようか」

 わざとじゃあるまいな。と言いかけた時が何度あっただろう。思わず苦笑いしながら、僕は怪物の白い首筋にそっと牙を突き立てて……。

 刹那、すぐ近くにて、連なるような遠吠えが轟いた。


「……おいおい」


 意図せずに、そんなコメントが漏れた。ざわざわとした喧騒にも似た音が屋敷の先――、森の中から聞こえてくる。

 何が来たか。など、確かめるまでもないだろう。

 狼男の最後の抵抗が実を結んだ。それだけなのだから。

「しかも……この様か」

 手を振るい、鉤爪を出そうとする。が、出来たのは手の全体ではなく、片手の。それも人差し指と中指の一部のみ。

 まだ、完全には回復できていないのだ。


「コッフコッフ……」


 すぐ横に再びエディが寄ってくる。よくみると、どこから持って来たのか、スーパーの袋をくわえていた。

 中身は……。

「……いいの?」

 僕の問いに、「ケヘヘ……」と、エディは笑う。本人(?)の了承も得られたので、遠慮なく貰おう。彼の目的が何となく見えたような気がするが、この場では気にすまい。遅かれ早かれ、あの狼男達とぶつかることになったのだとしたら、少しでも味方らしき存在がいた方が気が楽なのだ。

 大量の血の繭にかぶり付きながら、僕は早急な回復に勤めた。

 彼女の血は、まだ貰えない。さっきの奴等がたくさん来るのだ。

 怪物の余力も、残しておいた方がいいだろう。

「……レイ」

 不安げな彼女を庇うように、最後の繭を咀嚼した僕は、ゆっくりと立ち上がる。

 これだけ食べても、全快の六割にも満たない。奴らの攻撃で、僕の力が弱まっているのか。他者の血繭だからなのか。だけど、それに文句は言ってられないだろう。

 敵はもう、すぐそばまで来ているのだ。


 悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、僕は徐々に見えてきた敵影を睨む睨む。さっきの三倍はいようかという群れは、明確な害意をもってこちらに突進してくる。

 対策課の情報を信じるならば、奴等はこの村全体にいる。手負いの身で逃げた所で、いずれ囲まれるだろう。ならば、蜘蛛糸を張り巡らせ、少しでも地の利を活かせるここで迎えうった方がいいだろう。


 叔父さん達は無事だろうか。

 汐里は、連絡に気づいてくれただろうか。

 顔無し達は、留守番をちゃんとしてくれているだろうか。


 気になることはたくさんある。だけど……。今考えるべき事は一つ。


「渡さない……渡して、たまるか……!」




 ※



 戦いは、日没を迎えると共に終結した。

 屈辱と絶望で、その地は満たされる。

 その場所から少し離れた木の上に一人の女性が佇んでいた。

 かの青年も、怪物も。犬も少女も獣達も。誰一人として、その異端の傍観者の存在に気づく事はなかった。


 肩ほどまでの、ウェーブのかかった黒髪。スーツの上からでも分かる、凹凸のはっきりとした、艶かしくもしなやかな身体。目元を控えめに印象づける泣き黒子。そして……。

「う~ん、派手にやってたなぁ。さぁて……どこで介入しようかしら?」

 その傍観者たる女性を何よりも際立たせているのは、華やかな外見からは真逆の印象を与える、無骨な拳銃だった。対地球外生命体汎用兵器、開拓者(パイオニア)〝本人はともかく〟今の自分にはあまり馴染みのないそれを指でなぞりながら、女性は歪に。それでいて妖艶に笑う。

 その視線は外れることなく、かの青年に向けられていた。


「さぁて……レイくん? 貴方の絶望は……骨は、どんな形になるのかな?」


 人知れぬ前哨戦は収束に向かう。だが、本当の意味での戦いと、真実の核心への道は……。ようやく開かれたばかりだった。


 



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