14.神殺しの牙
前方より迫る、二体の拳。僕はそれを、空中に張り巡らせた糸を足場にすることで、安全圏へと逃れた。
相手から見れば、何もない所へ急に浮かびあがったかのように見えた事だろう。地上にいた狼男達は、うなり声を上げながら僕へ向けて牙や爪を振り乱す。届かぬ怒りをぶつけるようにしながらも、彼らはそうすることで周りから襲いかかる犬達を牽制していた。無論、目だけは僕から逸らしてはくれなかったが。
一応彼らの中ではこの場において一番に警戒する存在にはなれているようだ。
素早く戦場を見渡す。激戦の繰り広げられる一角では、エディが地上と空を高速で駆け巡っている。然り気無く僕のつくった足場を利用して、狼男の一体を相手に奮戦していた。
噛みついて、離れ。爪で切り裂き、離れる。まさしくヒット&アウェイを体現しながら、エディは確実に狼男を追い詰めていた。敵の返り血で白黒の体毛が紅色に染め上げられていくのを見ながら、僕は彼の力量を再認識する。
彼は、強い。
それは、獣特有の瞬発力を利用した、高速戦術。汐里の瞬間的な加速に匹敵する力と言っても過言ではないだろう。
僕が怪物を避難させたように、エディもまた、あの少女を避難させている。その事から考えれば、恐らく彼は僕と同じ、『欲求対象者』らしい。しかも、これだけの肉体的な強靭さを見せながら、驚くべき事に彼はまだ、欲求対象者特有の能力らしきものを使っていない。
切り札を温存する知性があるのかは分からないが、少なからず、彼に関しては心配の必要は無さそうだ。
問題は……。
視線の先で、断末魔が響き渡る。柴犬の一匹が、胴体を踏み抜かれ、ビクンビクンと痙攣している。その真上では、ブルドッグが腹部を切り裂かれて、臓物を引きずり出されて尚、狼男に食い下がっていた。
犬達も善戦してくれてはいるものの、その数は随分と少なくなって来ている。彼らの抑えがあるからこそ、僕らは一匹ずつ確実に仕留めていけている。礼が通じるかはわからないが、感謝してもしきれない。僕とエディだけでは、もっと血みどろな戦いになっていただろう。
再び、下に置き去りにした二体を見る。二体とも、僕を睨んだまま、相変わらずそこにいる。
どうやら、釣られてはくれなかったようだ。
さっき仕留めた奴とは違い、流石に此方へ跳躍して来るほど単純ではなかったらしい。
愚鈍に空へ身を投げようものならば、糸が幾重にも彼らに絡まり、運動能力を著しく低下させ、楽にかつ迅速に倒す事が出来たものなのに……。
「仕方ない……か」
隙を見せてくれないなら、作ればいい。
結んだ糸を手に保持したまま、僕は再び地上に降りる。そこへ、さっきの二体が殺到してくる。ここまでは、予想通り。後は……。
迫る狼男を捕捉しつつ、静かに息を吐く。限界まで出しきった所で、今度は深く深くまたしても限界まで息を吸い、止める。
生物の動きの多くは、呼吸に依存する。力を出したいならば、それを制御することが肝心だ。吸う瞬間は、当然ながら僅かばかり力は弱まる。逆に吐き出す瞬間は……。
「ツァアア!!」
渾身の力を込めて、僕は幾重に絡ませた糸の一角を引く。自然界でも屈指の強度を誇る蜘蛛糸は、適切な太ささえあれば、理論上ジャンボジェット機すら受け止め切れる。
つまりは。
建物が倒壊するような音に奴等は気づかない。今や彼らは、僕に殴りかかり、ズタボロに引き裂く事にしか頭が回っていないのだろう。故に、後ろから迫るもの。〝地面から根こそぎ引き抜かれた〟、数十本もの巨木にも、反応すら出来なかった。
「――ふっ!」
奴等が僕へ爪を伸ばすのより先に、再び僕は宙を舞う。たたらを踏みながらも狼男二体は苦々しげに僕を目で追い……。結果、後ろから慣性と共に飛んできた木々の怒濤に、もろに巻き込まれた。
土埃をあげ、潰された二体。無念のうなり声など上げる暇さえ与えず、僕はそのまま彼らと木の数本を、糸でぐるぐる巻きにする。
これで無力化とは考えない。固めた肉と植物の合作に、僕は仕上げの糸をしっかりと固定する。
糸そのものの硬度を調整。
伸びないようにだけして、固さと粘性は最大限。後は……。
「ぉおおぉおおお!」
後は、ひたすら振り回す。所謂ジャイアントスイングに近いこれは、蜘蛛糸の性質やらを絡めれば、脱出不能の悪夢となる。
ただひたすら遠心力に苛まれ、振り回された対象の意識を刈り取るなど造作もない。ついでに、今この技をかけるのには、重大な意味があり……。
「グ……ォ」
「ルゥ……」
見た目が派手なこれに、戦場の視線は一点に集中する。事実、さっきまでエディと戦っていた一体と、犬達に足止めされていた一体は、仲間の惨状に唖然とする他なく……。
「ホワッ、ホワァア!」
その隙を見逃すエディではなかった。背後よりの突進により、狼男はうつ伏せに倒され、そこへ流れるように脚部への噛みついたエディは、そのまま怪物としての膂力をものに、此方へと投げ飛ばす。粘性により鳥黐と化したそれに、三体目の狼男が絡めとられた時、残された一体は慌てて周囲を見渡した。
己の末路を幻視したのだろうが、もう遅い。
そちらへ向かい、僕は振り回していた物を放りなげる。
砲弾と言ってもいいそれは、正直に言えば避けられようが構わない。当たればラッキー位の考えだ。生存戦の中で敵の冷静さを欠かせただけで大金星なのだ。
避けられた。何となくそう感じた瞬間。逃げる狼男に、正面から二つの影がぶつかった。
「グ……ガォ……」
怯んだように動きを止めた狼男。その少しの時間が、全ての命運を分けてしまった。
続く轟音と地響き。骨や肉が軋む音と共にそれは地面を転がり、木立の一角でようやく動きを止めた。
後に残るは、静寂のみ。
ゆっくりと掻き消えていく土埃の中には、大木と蜘蛛糸に絡みつけられたあげく振り回され、完全にグロッキー状態になった個体が三体。そして、つい先程巻き込まれ、それらの下敷きになった、息も絶え絶えにな個体が一体。そして……。
「……ありがとう」
そいつに止めを刺すべく歩み寄りながら、傷付き、倒れ伏した二匹の勇者に礼を述べる。
あそこで逃げられれば、また仲間が削られる事を憂いた故の、捨て身の戦法だったのかもしれない。シェパードと、土佐犬。戦闘に優れた大型の犬種だからこそ、最後の足止めに成功したのだ。
彼らにまだ息はある。手当ての仕方が分からないのがもどかしかった。麓になら、動物病院位はあるだろうか? 何とか運んであげたいが……今は……。
無造作に転がった、インスタント巨大鳥黐をひっくり返す。表面にくっついた気絶中の一体と、虫の息のもう一体。それぞれの心臓を淡々と握り潰す。これで憂いは……。
いや、まだだ。
そこで、僕のうなじがざわめいた。エディが倒した一匹。僕が倒した一匹。ここで仕留めた四匹。……一匹、足りない。
「……っ!?」
急いで周りを見渡す。姿は見えない。逃げた? ならこのざわめきは何だ?
「……落ち着け」
冷静に、頭を回す。混戦になった時の必勝法は?
思い出せ。汐里の路上講義で聴いたことがある。野生の獣が獲物を狩る時の思考や条件を。
先ずは観察。群れならば強い個体はどれか。傷を負った個体はいるか。子連れか。一番動きが鈍い個体はどれか……。
『レイ君。自然界で強いものは、単純に力を有するものだけとは限りません。長生きしている個体や、生まれながらに優秀な個体はみな、頭脳を持ち合わせている。狡猾で、冷酷な個体ほど、油断ならない強敵なのです』
脳裏に浮かぶ師の言葉。この状況で彼女ならば、誰を狙う?
答えはすぐに出た。慌てて怪物と少女の方を確認すると、二人はまだ、心配そうに此方を見ていた。エディの方を見る。彼は傷付いた犬達に寄り添っている。
……杞憂だった? いや。
一先ず安堵し、弛緩そうになった心と気を再び引き締める。
違う。まだ油断はならない。ならば、何故僕の能力は、未だに警報を発している? 奴が屋根に登ろうとすれば、僕がすぐさま察知出来る。その為に張り巡らせた蜘蛛の巣だ。それが反応せず、一匹が消える……。抜け道がある?
「……っ! そうか!」
稲妻のような閃きが頭を駆け抜け、僕はすぐさま走り出す。
至極単純。エディの援軍である犬達は、どこから来たか? 四足歩行の身で、屋根にどうやって集結したのか。簡単だ。屋敷の後方には、比較的容易によじ登れる場所があるのだろう。
ついでに間の悪いことに、僕はそっちにまで蜘蛛糸は張ってなかった。前方から来る敵に向けた防衛策。だけど、裏手に回られる事を無様にも僕は考えていなかったのだ。
「間に……あえ……!」
反省もそこそこに、僕は全力で駆ける。向かうは彼女の元へ。その背後に迫る黒い影を知覚したと同時に、僕は三度空へと飛び上がった。
※
怪物は、人知れずうちひしがれていた。本来ならば、自分は彼と共に戦うつもりだった。
彼女の願いは、彼と共に穏やかに。のんびりと暮らしたいだけ。だというのに、次から次へと厄介ごとは飛んで来る。
今回のもそう。内心では「いかないで」と、彼にすがり付きたいのを必死で抑えて、彼女はここへ来た。
さっさと終わらせて、帰ろう。つい先程までの彼女は、そんな勇んだ気持ちが先行していた。
しかし……。
それらを目の当たりにした時に彼女が彼女が感じたのは、純粋かつ、本能的な恐怖だった。
天敵。そんなものの存在を、彼女は生まれて初めて認識する。怪物として生きた日数からいえば、彼女はほとんど赤子も同然だ。結果、彼女にとっては未知の――。捕食される恐怖というものが、彼女を襲っていた。
彼との愛情表現をふまえたじゃれ合いとは違う、単に自分が飲み込まれ、戻ってこれなくなる恐怖。
彼に二度と触れられなくなるかもしれぬ恐怖。
本来の〝怪物〟であったならば、恐怖の度合いは、これ程までではなかっただろう。事実、彼女の傍に控える同種の少女は、彼女ほど怯えてはいない。少女が変貌するとしたら、あの斑の獣に何かがあった時だけかもしれない。
だが、彼女の方は普通ではなかった。
本来の怪物からは外れ、肉体共有者の精神との共存。もはや独自の進化といっても過言でない事象を遂げつつある彼女は、つがい以外の人間への理解という柔軟性と引き換えに、通常のアモル・アラーネオーススには希薄となる感情を持ちつつあった。故に、その恐怖心は通常の個体よりも強くなってしまうのである。
「レイ……」
戦いが始まってから、彼女はずっと彼だけを見つめていた。ひたすら、彼を。何故彼は、あれに立ち向かえるのか。それだけが、彼女には分からなかった。だから彼女は、ただ彼の身を案じることしか出来なかった。
やがて、戦いは終わる。胸を撫で下ろした彼女。だが、目線の先の彼だけはまだ緊迫感をただよわせていて……。
「……逃げろ!」
不意に、此方へと走りながら彼が叫ぶ。どうしたというのか? 彼女が思わず首をかしげているとき、それは現れた。
背後で固い瓦を踏み締める音がして、彼女はそこでようやく、恐怖で麻痺していた感覚が戻る。
同時に身体をざわめかせるのは、とてつもなく嫌な予感だった。
ゆっくりと振り返る。そこで彼女は、死神と対面した。
「――あっ」
恐怖のあまり、身体が動かない。
そこにいたのは、毛むくじゃらの人狼。
ヌラヌラとした唾液が口元と牙をぎらつかせ、目を爛々と輝かせ、下卑た視線を向けてくる姿は、まさに凌辱者のそれだった。
一歩。また一歩と、彼女達に近づいてくる獣が舌なめずりした時、彼女は声にならない悲鳴を上げた。
何が、自分をこんなにも恐怖させるのか、こんなにも間近で見て、彼女はようやく理解する。
牙だ。
あの牙が、自分が本能のレベルで恐怖する根源なのだ。
所謂動物的な勘で、彼女はそれがとてもよくないものだという事だけを認識する。あれに捕らわれたら最後。自分にとっては、即死足りうる猛毒だという事が、感覚で分かる。分かってしまうのだ。
「こない……で」
震える彼女を嘲笑うかのように、獣は分かりやすく笑う。悪臭漂う吐息混じりに「柔らかくて……旨そうだァ……」といった下品な台詞と共に、よだれが獣の口から漏れて……。
「アアァアア味見! 味見スル! 喰って、しゃぶって……舐め回させろよぉオオオン!」
咆哮と共に獣が両腕を上げ、彼女に覆い被さらんと襲いかかってくる。後ろに逃げんとする彼女の髪を掴み、獣は容赦なく彼女を引き倒して組伏せた。
上から乗し掛かる形になった獣は、いやらしげに舌舐めずりしつつ、無遠慮にも彼女の美しい肌へと手を伸ばしていく。
脚から太股。腰から腹部。乳房を経由し、ひとしきりその弾力と感触を楽しむようにしてから、やがて肩からセーラー服の襟元の中へ。
「やめて……。いや……! さわら……ないで……!」
身の毛がよだつようなその不快感に、少女の怪物は必死に身をよじり、何とかして凌辱者から逃れようとする。だが、恐怖に身を支配された彼女には、もはや怪物としての強さはなく。獣の片手によっていとも簡単に両手首を抑えられてしまう。
拘束された彼女には、静かに迫る獣の顎に、ただ震えることしか出来なかった。
「この匂い……オマエ、処女か? 尚更旨そうだ。ああぁ……すぐに喰うのは、勿体無いなぁ……。孕んだ神様は……旨いのか?」
悪夢のようなその台詞に、彼女は戦慄する。殺意以外のものが向けられている事がわかった瞬間、彼女の抵抗はますます強くなる。
その様子を獣は目を細めながら、じっくりと見つめていた。
「見てくれも、俺の中身の好みだな。これなら〝アルファ〟は勿論、群れの雄だってみんな気に入るだろう……。あぁそれがいい……俺達の巣穴に持ち帰ろう」
獣は怪物を抑えていた方とは逆の手で、今度は彼女の頬を。次に顎を丹念になぞり、最後はその唇に指を当てる。怪物の怯えた瞳が、獣に向けられる。許しを乞う……否、震えながらも尚も抵抗の意志を崩さぬ怪物に、獣は満足気そうに裂けた口を歪ませた。
「俺達は、人間を越えた。神をも殺せる力を手に入れた。復讐はこれからだ。そんな俺達が、その神と交わればどうなるのか……あぁ、きっと楽しいぞぉ? だから……」
一呼吸置いてから、獣は怪物に宣言する。
その様は、拒否は許さないと言うかのように威圧感で満ち、一切の迷いなどなかった。自身の優位を信じて疑わぬその姿は、まるで暴君のそれで……。
「麗しの蜘蛛神よ。オマエ、俺達の子を孕め」
その提案は、少女の怪物にとっては、死刑宣告と同義だった。




