13.彼の者が、名も無き怪物になる時
あれは、汐里の狂気を抑え、正式に師弟関係になってからの出来事だった。
「戦闘に……慣れなければなりませんね」
僕に馬乗りになり、鉤爪を突きつけながら、汐里は嘆息する。
樹海の木々を縫うようにして吹き荒ぶ夜風が、僕と汐里の髪を揺らしていた。この地独特の湿気に混じって、接近した汐里の香水の匂いがする。彼女が疲弊した様子はなかった。
何度彼女にやられたか分からない。不出来な弟子だとは思うけど、仕方ないではないか。人間だった頃は、罵声や嫌がらせは日常茶飯事。だけど、喧嘩なんてしたことはなかったのだ。
「まぁレイ君は、闘争心の欠片もない感じはしますがね。ですが、インドア派な私にこうもあっさり負けるとは……これは本格的に調教……。あ、いえ。鍛えなければなりませんね」
「……今凄く不穏な単語が聞こえたんだけど気のせいかな?」
「……ええ、気のせいです」
ペチペチと、鉤爪で僕を叩きながら、汐里はゆっくり立ち上がる。僕もそのまま立ち上がり、再び彼女と対峙する。
鉤爪で頬を軽く叩くのは、もう一度の合図なのだ。
「この世の全ての生物は、闘争を必要としています。鳥も獣も。魚や虫、植物にすら」
「植物も……?」
思わず聞き返した僕に、汐里は静かに頷く。
「植物は細胞レベルで見れば私達のような生命体よりも遥かに強固な作りをしているのです。地に根を張る代償とはいえど、それは古来より過酷な環境を相手に戦い、生きてきた故の研鑽です」
僕の退路を絶つように放たれる蜘蛛糸。それから逃れるべく、僕はジグザグに走る。糸を避け、大元の汐里の方へ。接近すれば、僕でも抑えられる。
が、僕の浅い考えなど、汐里にはお見通しだったのだろう。接近し、振るった鉤爪は、汐里の跳躍によりあっさりと空を斬った。
「生物としての多様性があればあるほど、その闘争の形もまた、多様性に富みます。これは、人間が最たる例でしょうね。お受験戦争。就活。仕事場や学業の場での立ち位置。全ては闘争にて勝ち取るものです」
それが肉体的にであれ、頭脳的にであれ。と、付け足しながら、汐里は僕の頭上から強襲をしかける。一点突破の一撃を腕を交差させる事で受け止めた刹那、僕はその行動を後悔した。
咄嗟の防御が成功したのはいい。だが、これでは汐里からの攻撃を防ぐのが精一杯で、反撃に転じられないのだ。
一方の汐里は、全体重と落下する重力すら味方にして、片手で僕と拮抗している。そう、自由な方の手が彼女にはまだ残されているのだ。彼女を受け止めつつ僕が腕の交差を解くのと、彼女が次の一手を打つのでは、どちらが速いかなど考えなくとも分かる。
「頭で考えるよりは、行動した方がいい場合がありますよ?」
案の定、せめぎ合いを嫌った彼女の動きは早かった。
手近な木に蜘蛛糸を発射し、直ぐ様戻す。加えられていた圧力が消え、彼女が木の幹に足をつけたのだけが、乾いた音で分かる。直後……。
「う……わ……!」
強烈なざわめきが僕を襲う。慌てて汐里を目で追った瞬間、腹部に鈍痛が走る。
汐里の拳が、僕の身体の中心を捉えていた。
「私の跳躍力を知っているならば、私が視界から消えた瞬間に、直ぐ様その場から離脱。弾幕に蜘蛛の巣を張るべきでした。それだけで、小回りが効かない三次元的速さを持ち味とする私の動きは、極端に制限されてしまう」
「ぐ……こ、のっ……!」
激痛に耐えるようにして、僕は再び鉤爪を閃かす。が、それもまた、何もない所を空しく切り裂いただけだった。
汐里は悠々と僕の間合いから逃れ、今度は円を描くように回っている。
次こそは……。
「お馬鹿さん。言われるままに蜘蛛の巣を張る必要などないでしょうに」
彼女の突進を当てに空中へ張った蜘蛛の巣。だが、汐里は姿勢を屈め、今度は地を高速で駆けることにより、一瞬で僕の懐に入る。
跳躍力があるとは、単純に脚力を軸としたバネがあるということだ。それが地上で発揮されたら? 答えは簡単。超高速移動の完成だ。三次元何てまことしやかに言われて、鵜呑みにした結果がこれである。
突然の急加速に僕は対応出来ず。気がつけば、僕は汐里に押し倒され、喉元に鉤爪を突き付けられていた。
頭を強打したらしく、視界の端で火花が散った。
「私もそこまで戦闘慣れしている訳ではありませんが……これは時間が掛かりそうですね~……」
「……僕から言わせれば、叔父さんやルイがおかしいよ」
何処の小説の主人公だ。何て思ってしまう。
もっとも、僕はそれに追い付き、追い抜かねばならないのだけど。
完全に翻弄される形で流れていった模擬戦は、結局汐里の勝利に終わってしまった。僕はそれを重く受け止め。脱力する。
汐里はそんな僕の上から身体をずらし、すぐそばの地面に腰掛けた。
「再び言いますが、闘争から私達は逃がれようがありません。勿論、戦わないに越したことはありませんが、どうしても戦わねばならない時もある。そんな時に腑抜けでは、貴方はこの先、確実にに淘汰される。人間社会から外れた以上、それは肝に命じておきなさい。私達は今や法に守られる立場にはない、野性の存在なのですから」
言い聞かせるように語る汐里に、僕は黙って頷く。それは……わかっている。わかっているのだ。
そして、僕が淘汰されるということは、同時に〝彼女〟の破滅をも意味している。
そっと、少し離れた一点に視線を向ける。月の光すら入らない、暗闇を内包した木立。そこに、僕が守るべきものの気配があった。
僕が頼んだとおり、汐里にボコボコにされている間も黙っておとなしくしてくれていたらしい。変わりに、時折木の幹がガリガリと削れるような音がしているけど、それは気にしないことにした。
彼女はすぐにでも汐里に飛び掛かりたいのであろうが、それでは意味がない。彼女だけではダメなのだ。僕が強くなって初めて、僕は彼女と共に行ける。
彼女が危ないなら僕が。
僕が危ないときは彼女が。
互いのために立ち上がれるようになってこそ、僕らは生きていけるのだ。
「……汐里。もう一度」
「……いいでしょう。今度は頭を回しながら、身体も動かしてくれる事を期待します」
無茶を言う……とは思いながらも、不満はない。ただの人間が怪物になるためには、それくらいの試練がなくてはおかしい。
神様にポンと渡された力で強くなった所で、それは意味がない。僕が身を置くのは、ご都合主義も何もない、弱肉強食の世界なのだから……。
「ではレイ君。少し指を借りますよ」
「へ?」
すぐに戦闘開始かと思い起き上がろうとすると、汐里の手が僕の手首を掴み……。
はむっ。と、彼女の口が僕の人差し指を飲み込んだ。
「は? へ?」
訳も分からず目を白黒させる僕の前で、汐里は僕の指に舌を絡め、甘噛みし、そして……。牙を突き立てた。
痺れるような痛みと共に、ちゅーちゅー。と音を立てて、汐里は僕の指から吸血する。
「んっ……し、汐里?」
指先がくすぐったくて手を引っ込めようとするも、それを許さないとでも言うかのように、汐里の手が僕の腕を曲げ、そのままガッチリとホールドする。不本意にも柔らかな双丘に僕の腕が沈み込み、僕の混乱はますます加速して……。故に、〝指先から注ぎ込まれた体液〟への反応が遅れる事となる。
「んっ……御馳走様です。では……〝私の胸に飛び込んでらっしゃいな〟」
直後、バキンという懐かしい音が、僕の中で弾け……。抗いようもなく、僕の顔はそのまま汐里の豊満な一部分にダイブしていた。
「フフフ……レイ君は甘えんぼさんですね~……こう見えて、スタイルには自身があるんですよ?」
今まで体験した事がないくらい柔らかいそこに顔を埋めたまま、僕の体は文字通り汐里の身体にしがみつき、僕の後頭部を優しく愛撫する彼女に身を委ねる。
年上のお姉さんに甘える大学生の図が、そこにはあった。
……いや、断じて。断じて! 僕の本意ではない。ただ、クラクラする程のいい匂いと、〝彼女〟では味わえぬ雰囲気だとか、それ以上の大きさやらに、僕の頭は能力に抵抗する余裕すらなく……。
「レイ……なにしてるの?」
そんな汐里の抱擁の中で耳にしたのは、血も凍るようなウィスパーボイスだった。
直後。メリメリバキッ! といった何かが潰れるような音がしたかと思えば、続けて凄まじい地響きが辺りに轟いた。
見なくても、そこにある光景がありありとわかる。
倒れた巨木を背にして、鉤爪を構え、無表情のまま此方に歩み寄る怪物の姿……。
その瞬間、静かに。けれど急速に僕の血の気が引いていった。
ひしひしと伝わるプレッシャーが、全てを物語っている。理不尽にもその怒りは、僕に向けられているのだ。
その修羅場に立たされている僕に追い打ちをかけるかのごとく、汐里の指が今度は僕の頬をゆっくりとのの字を描くように動く。
「レイ君気持ちがいいですか? せっかくですので、多対一にも慣れてみましょうか。終わったらお膝枕でもしてあげます。嬉しいでしょう?」
そう宣った後、小声で「頷け」何て命令が入る。身体所有権剥奪能力により傀儡と化した僕は、汐里の胸に顔を埋めたまま、猛烈に頷く。悲しいかな。僕が汐里の能力をようやく打ち破ったのは、その直後だった。
再び響く、バキンという音。それと共に僕は桃源郷……いや、そうじゃない。拘束されていた汐里の胸から解放され、二、三歩飛び退く。頬が熱いのは……仕方がないとした。
「おや、甘えん坊さんはおしまいですか?」
「うるさい。君、明らかに楽しんでただろ。嫌がらせか。嫌がらせなのか?」
「おや、楽しんでいたのはレイ君では? 打ち破るのに、随分と時間がかかってましたしねぇ……レイ君は、年上のお姉さんの方が好みですか?」
妖艶に笑いながら、汐里はククク……と忍び笑いを漏らす。声に潜む、隠しきれぬ愉悦の気配。我が師匠ながら、とんでもない女性だ。だが、それだけならばまだ何とかなったのだ。そう、前門の汐里で済めば、どんなによかっただろうか。
「……レイ。うわき」
だからそういう言葉をどこで覚えてくるんだお前は。何て咎める声は、きっと後門の怪物には届かない。汐里の煽りに完全に乗せられた彼女は、今やどす黒いオーラが見えるかのよう。
そんな訳から、完全に挟まれる形で、嫌すぎる両手に花が完成した。
「提案があります。今から貴女も訓練に参加しませんか? 私より先に貴女がレイ君の足腰を立たなくしたら……三日ほど訓練をお休みにしようと思います」
この一触即発の雰囲気において、あまりに救いのない提案が提示され、僕は思わず汐里を見る。目が本気だ。というか、言葉選びに悪意しか感じないのだが……。
「……私が……レイを滅茶苦茶にすればいいの? そしたら、あしたもあさっても……レイと一緒?」
「明々後日もです」
「……殺る」
おい……おいぃい! ちょっと待て! 滅茶苦茶にして一緒にいるとか、流石に酷いとは思わないのか! というか、今の返事、「やる」って訓練を。だよね? 僕を半殺しにするとかじゃ……。
「さいきん……レイ、その女とあそんでばっかり。酷い」
「い、いや、遊んでる訳じゃ……」
「……おなかもへった……だから」
その日、僕は思い出した。
彼女に恐怖し、魅了され、そして捕らわれたあの夜を。
彼女は、あの日と同じ、無表情の中に蕩けるような微笑を浮かべ。そして……。
「私も……レイであそぶ」
彼女の背中が弾け飛び、六本の節足が展開される。
翼のように広げられた、捕食者の脚。
暗闇を背にした彼女の美しさも相まって、それは天使にも悪魔にも見えた。
結局。僕はその日、噛まれて吸われて潰されて。弄られ攻められ辱しめられ。踏んで縛って甚振られ。刺されて壊され締められて。斬って裂かれて嬲られて。
そうして最後に食べられた。
因みに四割が汐里で、六割は怪物の仕業だった。
それは紛れもなく、弱肉強食の縮図だった。
※
酷い思い出を回想しながらも、僕は稽古をつけてくれた汐里に感謝していた。
あれ以来度々行われるようになった多対一の訓練は、危機的回避能力を上げるのに、大いに役立っていた。もっとも、その能力を発揮できるまでが問題なわけだけど。
「意外とバカで助かったな」
片腕で怪物を抱えながら、僕は蜘蛛糸によりよじ登った武家屋敷跡の屋根から、眼下を見渡す。
折り重なるようにして積み上げられているのは、僕に一斉に襲い掛かってきた、野犬の怪物達。緊急回避で僕に空へと逃げられ、勢い余った結果がこれである。お粗末な話だ。
もっとも、このまま捨て置く訳にはいかないだろう。屋敷の中ではさっき見つけた女性が気絶しているし、奴らをのさばらせたままでは、僕はともかく、怪物が身動き出来ない。
怪物と女性を抱えたまま、里の下に降りるのも手だが、その後どうするかという話もある。叔父さんと合流するにせよ、その集合場所だった筈の分校だって、ここからどう向かえばいいのやら。
というか、エディの事だって、まだ不明瞭な点が多い。故に……。
「……ここにいて。流石にここまでは登れないと思う」
「……レイは?」
未だに震えながら問いかける怪物。そんな彼女を安心させるように、僕はそっと柔らかな髪に触れる。指通りのいいそれはやっぱり綺麗で、尚の事獣の口で穢したくはなかった。
「奴らを蹴散らすよ。口は聞けるみたいだし、二、三匹位縛って、ここで起きた事を話させる」
折り重なっていた野犬達は、もぞもぞと蠢きながら一匹。また一匹と離れ、ブルブルと全身を震わせる。
爛々と光る目が、僕らを……いや、僕の後ろの怪物に向けられる。怪物の身体がまた少し強張った。……本当にらしくない。だが、だからこそ、僕の精神は〝怪物になりきれぬ人間〟から、純粋な怪物へと切り替わっていく。
『レイ君。貴方は肉体は強力な怪物になりましたが、精神にはまだ、人間としてのそれが色濃く残っています』
以前汐里が指摘した、僕の致命的な弱点がそれだった。曰く怪物に作り替えられて尚、心が人間のままだからこそ、非日常に耐性が出来ていない。故に突然の戦闘に持ち込まれれば、瞬時に心と身体が切り替わってはくれず、重大な隙が生まれてしまう。
エディの不意打ちが、その最たる例だ。同種とはいえ、獣型の怪物と戦ったのが初めてというのもあるが、要するに実戦が足りなすぎるのだ。といっても、これは突然の戦いが起きた時の話。条件すら整えば、その限りではないのは、僕が一番自覚している。
『ですけどね。これは一概に弱点とは言えないかもしれないのです。怪物の体と、人間の心の組み合わせは、時として力にもなりうるかもしれません。何も感じない怪物の心と、激情を有する人間の心では、私は後者が勝ると考えます。火事場の馬鹿力という言葉位は、聞いたことがあるでしょう?』
師の言葉を思い出していると、すぐ横に何かが着地した。斑模様の中型犬、エディがその背中に少女を乗せ、僕の隣に降り立ったのだ。
エディはそのまま少女を下ろし、鼻先でその背を押す。少女はつんのめるようにして、怪物の傍に寄り添った。しばし見つめ合う怪物と少女。やがて二人は戸惑った様子を見せながらも離れる事はなく、僕とエディの方を心配そうに見る。……何だか、年の離れた姉妹みたいだ。そんな事を思いながらも、僕は横目でエディを見る。
「多分利害は一致してると思うんだ。一緒に……戦ってくれるかい?」
「ケヘヘ……」
僕の問いに、エディは犬らしからぬ表情と笑い声で応えた。正直物凄く不気味なのだが、この場で突っ込むのは止めておいた。
両の手に鉤爪を構える。
『人間の心によるリミッターの解除。これを怪物の肉体で行ったらどうなるか。手近なとこで想像してみましょう。あの娘が、見ず知らずの獣や人間に好き放題に凌辱されかけたら? レイ君。貴方はどうしますか?』
そんなのは決まってる。締まらなくて、未だに情けない人間の心だけど、それでも彼女の顔が曇るような事があるならば。
その時こそ僕は、人の心を捨て、真の意味で怪物になれるのだ。
真下で吠える野犬の群れ。その目を引き付けるかのように、僕は空高く跳躍する。
さぁ、戦闘開始だ。
※
村長の息子さん……もとい、黒柳彰は困惑しながら、分校の敷地内を歩いていた。
負傷し、今は分校の保健室で休んでいた父、黒柳充。その姿が忽然と消えてしまったのである。
探索中に右足と、左腕、左肩に小さくない裂傷を受け、分校に運び込まれた充は、運よく避難していた村の医者に処置を受けていた……筈だった。
ところが、医者が昼食を取りに保健室を一時的に不在にした僅か三十分後。見舞いにと保健室に戻る医者に同行した彰が見たのは、もぬけの殻となったベッド。眠っていた筈の父の姿は、どこにもなかったのである。
「息子さん、いたかい?」
「分校西側にはいらっしゃりませんでした」
背後から嗄れた声。警察のリーダーらしき男に、分校にて待機を命じられた二人。大鳥源治と、桜塚龍馬だ。
「此方にもいませんでした。すいません、こんなご足労を……」
そう彰が漏らすと、源治いやいや。と、両手と頭を大袈裟に振る。
「こっちが不甲斐ないばかりに村長さんを怪我させちまったんだ。これくらいは……ね」
そう言って肩を竦める源治に、すいません。と、もう一度伝え、彰はもう一人の方を見る。
サングラスをした、中肉の男、龍馬は、油断なく回りを見ていた。
それが、あの犬達を警戒しているとわかってはいても、彰は身震いを禁じ得なかった。彼からは、得体の知れぬ迫力というか、怖さを感じるのだ。それこそ、刑事というよりは、犯罪者のような……。
「後調べてないのは……裏手の物置でしょうか?」
「だなぁ。手負いで物置なんてとこに行くとは思えんが……行ってみるかぁ……」
龍馬の言い分に、源治は首の骨を鳴らしながら賛同する。その様子を見ながら、彰は頭の中に浮かんでいた、モヤモヤとした不安を無理矢理ぬぐい捨てた。
二人は父の身を案じ、探してくれている。それだけで充分ではないか。
「物置でしたら、東側から回った方が近いです。ご案内しますね」
笑顔を取り繕いつつ、彰は刑事二人を先導した。
※
僕が空中へ躍り出た瞬間、威風堂々とした咆哮が轟いた。
エディだ。狼を思わせる雄々しい叫びは、まるで軍歌のように大気を震わせ……直後、屋敷の後方から、それに応えるかのように連なる遠吠えが響いた。
ざわざわといった騒がしさ。その数秒後、荒い息づかいと共に、屋敷の屋根の上に多数の影が、次々と終結した。……犬だ。
僕が知っている限りでシェパード、ハスキー犬。ハウンドやレトリバー。秋田犬、柴犬にマルチーズ。プードル、ブルドック、土佐犬までいる。他名前は分からないが多数。和犬、洋犬……小型犬から大型犬まで入り乱れた二十数匹。
それらが壮観かつ、見事な隊列を成してエディの周りに終結していた。
集まった犬達は、尾をピンと立て、皆がエディを見つめていた。そして――。
「キワッ! ガガガ、シャーッ!」
まるで軍隊に号令を発するかのようにエディが奇声を発する。それに合わせ、犬達は猛烈なうなり声を上げて屋根から飛び降りると、一丸となって野犬達に突進した。
ガチンガチンと牙を打ち鳴らす音と、どちらのとも分からぬ悲鳴が響きわたった。混戦はやりにくい。が、少なからずこれで囲まれる事はなさそうだ。空中に蜘蛛の巣は張り巡らせた。後は……各個撃破。これが最善だろう。
地に降り立った僕が改めて見たのは、正に地獄絵図だった。数はエディが率いる犬達の方が圧倒的に多い。
だが、敵もさるもの。それを理解し、体格で五分五分な野犬の姿では部が悪いと判断したのだろう。野犬の怪物達は、またしても変身していた。
それも……さっきのような全裸の人間ではない。
そこにいたのは、顔が野犬。身体は毛むくじゃらながら、人のそれ……獣人というのに相応しい風貌だった。
狼男。僕は何となくその単語を連想した。
「あぁああああああぎぃいい!」
全身に沢山の犬を噛みつかせたまま、狼男の一匹が拳を振り上げ、此方にも突進してくる。
成る程。やはり地力は向こうの方が勝るらしい。獣の瞬発力故か、恐ろしい事に速さもある。もっとも……。
「汐里よりは……遅いっ!」
それで差し引いたとしても、そんな大振りなパンチが当たるわけもない。超感覚の能力に頼らぬまま、僕はその一撃を避け、そのまま鉤爪を振るう。
完全に入ったそれは、狼男の右腕を肩口から完全に切断した。
殺った。……とは思わない。確かに手応えはあったけど、奴の目は未だにギラギラと輝きながら、此方を睨んでいる。油断なく、全身の感覚を警戒に回しながら、僕は敵と距離を取る。
狼男の切断部からは、おびただしい血が流れ出ていた。
その時だ。犬の一匹……プードルが、これを好機と思ったのだろう。白い体毛が血で汚れるのも厭わずに、傷口に突進し、抉り込むかのように牙を突き立てる。だが……。
「ガボッ!?」
その頭部を狼男の片手が捕らえた。端から見ても明らかに尋常ではない力の込められたそれは、プードルの頭部を悲鳴すら上げる暇もないまま、木っ端微塵に握り潰した。
血と脳漿を撒き散らしながら、プードルだったものが地に堕ちる。助けに入る暇などなかった。僅かに痛む胸に蓋をして、僕は狼男の肩口を見る。グニグニと、不気味に動く切断部位の肉。やはり地球外生命体の例に漏れず、再生能力持ち。だが、怪物である僕の一撃によるもの故か、その再生速度は犬達に噛まれた傷に比べて、まさに雲泥の差だ。つまり……。
僕が一歩前に進むと、狼男は牙をギリギリ鳴らしながら、うなり声を上げる。
つまり、顎と四肢を全部切り落とせば、後は犬達に任せておけばいいのかもしれない。
あるいは、もっと手っ取り早いのは……。
僕が行動するより早く、白黒の流星が落ちてきた。それと共に、僕の前に立っていた、狼男の首が飛ぶ。
残された首なしの体からは、噴水のように血が吹き出し、ビクンビクンと痙攣しながら、ゆっくりと倒れていく。
クルクルと、紅の尾を引きながら地面に叩きつけられた首。それは、まるで仇討ちとでも言うかのように容赦なく、鉤爪となった前足で踏み潰された。
エディだ。
どうやら屋根の上から奇襲をかけたらしい。
「ヘッヘッ……ギルルル……」
エディが僕の顔を見ながら、また笑う。こうやればいいんだよ。とでも言っているのだろうか?
そう。手っ取り早い手段がこれだ。怪物の力を持って、頭部か。あるいは心臓を破壊すればいい。ないとは思うが、それでも殺しきれないならば、いつかに汐里が桐原へやったように、完全に細切れに解体するか。
どのみち、向こうの腕力を考えれば、骨が折れそうだ。
犬相手とはいえ、頭蓋骨のある頭部を瞬時に破壊するほどの力……。あの手に掴まれたとしたら、いかに怪物である僕らといえども、ただでは済まないだろう。
握力であれだ。鋭利な牙を有する顎は、どれ程の凶器となりうるか。考えただけでもゾッとする。
「……――っと!」
思案の間は一瞬だった。うなじのざわめきに合わせて、僕はとっさにかがみ込み、すぐに横っ飛びに転がった。
バクン! という音を立てて、僕がさっきまでいた虚空へ別の狼男の顎が喰らいつく。
全身を染める赤。おそらく、彼自身の手傷より、散っていった犬達の血だろう。……あまり時間をかけると、不味いかもしれない。
体勢を整える狼男。僕は蜘蛛糸を二本伸ばし、うち一本を利用しそのまま空中へ。あらかじめ設置した空中の足場に逆さまに着地した瞬間、僕は下に残した敵を見る。予想通り、狼男は僕を目で追っていた。すぐさま跳躍しようとしたのだろう。脚を曲げ、力を込めた。そこが隙だ。
用意していたもう一本。空中に伸ばした糸を手放し、僕は地に縫い止めていた糸を高速で巻き上げ、同時に空中の足場を蹴った。
敵からすれば、上に飛び、恐ろしいスピードで地面に舞い戻ったように見えるだろう。地を歩く獣と、天地を行き来する蜘蛛。
地上での力比べでは敵わなくとも、制空権と搦め手を持ってして、獲物を捕らえるのが蜘蛛だ。僅か数秒翻弄された獣の末路は、もう決まったようなものだった。
上へ行こうとして急停止した力は分散し、狼男は刹那の硬直を見せる。
今の僕には、それで充分。
抜き放たれた鉤爪は、深々と狼男の左胸を捕らえ、脈動する心の臓を捕らえて握り潰した。
血塗れの手を引き抜き、僕は動かなくなった敵を転がして、そのまま移動する。
充満する血と臓物の臭いの中で、僕は超感覚を持って敵を探る。
うなじが絶えずざわめいて、危険を報せている。
危険。そう危険なのだ。
屋根に彼女達を避難させたのは、奴等が犬の姿をとっていたから。それが戦闘するときの姿だと思ったからだ。空中に糸を張ったのは、僕の足場という他に、奴等が万が一人の姿に戻り、屋根をよじ登ろうとした時の牽制の為。
守りは完璧とはいかずとも、最善ではあった。そう、完璧ではなく、最善。
だからこそ気が抜けない。この混戦という、視界が最悪に近くなる状況に。
嫌な予感は続いている。超感覚はまだ完全にものにしたわけではない。だけど、それを嘆く暇はない。
次の敵は、左右から同時に襲ってきた。今はそれに集中する。
「おおおぉおお!」
「シャァアァアア!」
敵を向かえ打ち、爪牙をかわし、受け流し。僕とエディは自らを鼓舞するように雄叫びを上げる。
残るは……五体だ。




