12.人狼の群れ
小野大輔は、眼前の状況に目眩を覚えると共に、混乱していた。
「なんっつーか。呑気……だよな? 警部?」
そんなコメントを漏らしているのは、大輔の部下でもある、宮村佑樹だ。成る程。確かに現状を一言で表すならば、それほど相応しい言葉はない。
敵地と言える荒れ野のど真ん中で、唐沢汐里がこんこんと眠りこけているのを、大輔はやるせない気持ちで見ていた。それが、つい先程突然現れた、謎の女の膝元で眠ってしまっているのだから、もう訳がわからない。加えて……。
「この女まで寝てやがる……と」
「何だったんですかね~さっきの。ハンドパワー?」
話は、数分前に遡る。出合い頭に謎めいた言葉を投げ掛けてくるや否や、汐里に手をかざして、僅か数秒。その動作だけで、汐里は糸の切れた人形のように、その場に昏倒してしまったのである。
曲がりなりにも怪物の力を持った、あの汐里がである。
警戒し、開拓者を構える大輔に、女は落ち着いて落ち着いて。と、ジェスチャーを送り……。
「小野大輔さん、ね。レイが信頼する、刑事さん。申し訳ないけど、今は時間がないし、これは必要なことなの。今から〝この二人〟に、一足先に種明かしをするわ。問題はその間、私と彼女達が無防備になること」
検分するように、女は大輔と佑樹を見る。蒼い瞳が一瞬だけ細められたのを、大輔は見逃さなかった。いや、それよりも気になるのは、何故この女は、名乗りもしない自分を知っているのか。
レイが話した? 否。協力関係を結んだ誰かがいたとしたら、レイは大輔に話す筈だ。向こうが此方を調べた? これはあり得る話ではある。だが、目的は? 敵か? 味方か?
高速で頭を回し、あり得なそうなものを大輔は除外していく。そんな最中、女は妖艶に微笑んで……。
「そんなに難しく考えても、分かりっこないわ。だから、一方的ながら教えてあげる。私は〝この局面に置いて〟は、貴方や、アモル・アラーネオースス側の味方よ」
囁くようにして、女はそう告げると、汐里の傍に腰掛ける。
蒼い瞳が、今度は大輔にだけ向けられた。
「お願いよ。生き残りたければ、少しの間でいいわ。私と彼女達を守って欲しい」
そこには、まるで祈るような光があった。大輔は、ただ困惑するしかない。信用していいか、否か。だが、口振りを聞く限り、汐里に害する気はなさそうではある。昏倒こそさせているが。
「お前は……何だ?」
ただ一言。大輔はそんな質問だけを口にする。女はそれに対して自嘲するように笑い……。
「私はただの、怪物よ。理解者を探す、さみしんぼな……ね」
それだけを告げて、「頼んだわ」とだけ言い残すと、女はそのまま、カクンと頭を垂れた。後は静かな寝息が聞こえるのみ。
結局、大輔は何一つ確証を得られぬまま、知り合いの怪物と、見知らぬ女(人間でないことは恐らくは明らか)の護衛をする事となったのである。
「種明かしだかなんだか知らねーが……せめて安全な場所でやれよ」
そんな独り言を溜め息と共に漏らしながら、大輔は周囲を見渡す。犬共の……いや、唐沢汐里曰く、ニホンオオカミだったか。それらの姿は見えない。
飼い犬の群れも確認されたと聞く。最初は野犬とそれらの混合かと思われたが、これがオオカミと犬では話が違ってくる。野良犬とは訳が違う、純粋な野性の獣が飼い犬達と共に群れ等を成すのだろうか? 大輔はオオカミの専門家等ではない。故にそんな判断はつかないが……。
「しかしまぁ……美人さん二人がこう寄り添うと華やかやね。理性を保たねば」
「……お前も充分呑気だよ。宮村」
隣でそんな下品な事を呟く佑樹に思わず肩を竦めながら、大輔は眠り姫と化した二人の女性に近づいた。取り敢えず男手が二人分あることだし、大神村分校まで二人を運ぶ事にしよう。雪代の捜索はその後にしてもよさそうだ。
女刑事のいたであろう場所を一瞥してから、大輔は屈み込み……。
「――っ!?」
即座に、背後に向けて裏拳を叩き込んだ。自分の首筋のすぐ後ろで、手の甲が何か軟骨のようなものを叩き潰すのを感触がした。
それを確かめる間もなく、大輔は瞬時にその場から転がるようにして離脱する。
「あででで。警部? なにするんだよ」
そこには、鼻を抑えたまま涙目になっている佑樹の姿があった。滲み出た鼻血の赤が、彼の手の甲を濡らしている。
少しの空白。佑樹の不可解な行動に、大輔は少しだけ目を細めた。
佑樹もまた、一緒に屈んだ? まだこの二人を運ぼうなどと口にしていないのに? いや。そもそも、何故彼は大輔の首元に顔を近づけてきた?
「……野郎の背後に忍び寄る趣味でもあったのか?」
そんな大輔の質問に、宮村はいやいや。と、首を振る。
「俺が噛みつくなら、俄然女の柔肉だね」
そう言いながら、佑樹は怪我をした方の手で鼻の骨をゴキリと鳴らす。溢れていた鼻血は、嘘のように止まっていた。不吉な予感が、大輔の胸中でざわめいた。
「腕の怪我。大丈夫なのか?」
「何か痛いのなくなっちゃいまして。ついでに……」
佑樹は含み笑いを浮かべながら、舌なめずりをする。目は血走り、口はだらしなく開かれ、涎が滴り落ちていた。
「何か今……ヤベェな。前にいた部署で横流しした薬を吸ってた時みてぇだ。気持ちがいいぜ。弥生ちゃんの血って……滅茶苦茶いい匂いなのな……」
然り気無く警察の不祥事が暴露されていることに眉をひそめながら、大輔は素早く眠りこけている汐里と女に近づき、襟首を掴む。先ずはこの二人を遠くに。そんな大輔の考えを読んだかのように、佑樹は両手が塞がった大輔に肉薄し……。
「ぺげっ!?」
思いもよらずその場で急停止させられた。
一度は掴み、持ち上げかけた二人の襟首を、あろうことか大輔はあっさりと手離したのである。
そこから大口を開けた佑樹の顎下を、大輔は掌で掬い上げるようにしてカウンター。結果、進行方向とは逆へ加えられた力は、佑樹の頭部を強烈に揺さぶった。
不意をつかれた佑樹は、堪らず身体を硬直させる。それを見て取った大輔は、そのまま流れるように前蹴りを叩き込み、佑樹を撥ね飛ばした。
誘いの隙。それに佑樹はあっさり食らい付き、まんまと大輔に返り討ちにされたのだ。
「あ……ぎぃ……」
無様に地面に転がり、のたうち回る佑樹を油断なく睨みながら、大輔は今度こそ女性二人を担ぎ上げ、佑樹から距離を取る。
「どうした宮村。薬で幻覚でも見えたか?」
もう一度対話を試みる大輔。それに対して、佑樹は地面に這いつくばったまま、掠れた笑いを漏らしながら大輔を見上げた。
「クリアだよ。滅茶苦茶クリアだ。けど……なんだろな……身体の中に、もう一人自分がいるみてぇだ……」
ヘッヘッへ……と、犬のような呼吸を繰り返しながら、佑樹はユラリと立ち上がった。時折ビクンビクンと身体を痙攣させる様が、彼の身に起きた異常を物語っている。
「お前……それ……!」
そこから次に訪れたのは、劇的と言うに相応しいものだった。
佑樹の手が。顔が、ゆっくりと、確実に様変わりしていく。
人のそれだった指が瞬時に細く。かつ長くなり。綺麗に手入れされていた爪は研がれた刃物のように鋭く伸びていく。口吻が明らかに人のそれからかけ離れていき、血走っていた目は白目が塗り潰され、琥珀色一色に。加えて最も顕著かつ衝撃的な変化は、その肌だ。
毛むくじゃら。そう表現せざるを得ないほど、佑樹の肌はみるみるうちに褐色の毛で覆われていったのである。
「……おいおい」
もはや、顔を引きつらせるしかない大輔。目の前にいる存在を、何と例えたらいいだろうか。
猿人か。獣人か……。いや、寧ろ。
「狼男ってやつか」
そんな大輔の感想に答えるかのように、宮村佑樹――否。狼男は、高らかに咆哮した。
※
全裸の知らないお姉さんがそこにいた。
僕自身も混乱しているので、あえてもう一度言おう。全裸の知らないお姉さんがそこにいた。
「こんにちは~。森島さん出てき……ん? 君だぁれ?」
お姉さんは小首を傾げながら、僕をキョトンとした顔で見る。その瞬間。暫し唖然としていた僕の肩口に、鋭い痛みが走った。
「……ぐっ、何故……」
くぐもった声を出す僕に、答える者はいない。それでも、僕は問い質したかった。何故……怪物が僕の肩に噛み付いている?
「……みないで」
「見たくて見てる訳じゃない」
頼むよ。少し緊張感持ってくれよ。エディですら低い唸り声あげているのに。
ほら、お姉さんだって不思議そうに……。
茶番はそこまでだった。不意にうなじを襲うざわつきに、僕は今度こそ素早く反応した。
背後の怪物をおぶり、瞬時に後方へ下がる。さっきまで僕達がいたところで、ガチン! と、硬いものが打ち鳴らされるような音がして、僕の背中を冷たいものが伝う。
――また来る!
今度は迷いなく、下方から迫る攻撃に対応した。人間を相手取るのとは違う感覚に目が慣れたのは、傍らにいる斑の犬に辛酸を舐めさせられたからに他ならない。
僕の喉笛目掛けて弾丸のように飛びかかってきた褐色を、僕は怪物の膂力にものを言わせ殴り飛ばした。
「ギウッ!」といった短い悲鳴と共に地面を何かが転がっていく。
「……犬?」
思わずそんな呟きを漏らしながら、周囲を確認する。さっきまでいたお姉さんは、どこにも見当たらなかった。
「……まさか……いや、でも……!」
チラリとエディを横目で見る。唸り声はますます大きくなり、それに比例するかのように、エディの背中が盛り上がっていく。
「……レイ。見て……」
流石に空気を読んだらしく、僕の肩から口を離した怪物は、静かに前方を指さした。そこに……。
「……酷い光景だ」
そんな感想が漏れた。
森から屋敷の敷地内に入って来たのは、老若男女の人、人、人。団体様ご到着。何て雰囲気だったらまだ救いがあっただろう。だが、生憎そこは既に非日常で侵食されていた。
現れた人間、全員が全裸だったのである。
ただ無言で此方を観察する、十二の瞳。それらに垣間みえる隠しきれぬ獣性は、僕のうなじをざわつかせるに充分だった。
「……こいつら、全部怪物か」
能力たる超感覚が、絶えず警笛を鳴らしている。アモル・アラーネオーススではないのは明らかだ。だが、ただの人間でない事もよく分かる。それは、さっきまで地面に転がっていた獣が、再び女性の姿に変わっている事から、僕はそう結論付けた。
「……レイ」
再び僕の背後から、か細い声が響く。どうしたのかとそちらに少し意識を向けた僕は、途端に今までにない戦慄に襲われた。
「お……おい? どうしたのさ?」
思わずそう問い質してしまう程、僕は困惑していた。
怪物は、どんな時でも無表情。僕の事に関して以外は感情を表に出すこと等、ほとんどなかった……筈だった。
「……ごめんなさい。レイ……身体が……うまく動かない……の。レイを……まもらなきゃいけないのに……!」
その怪物が身体を小刻みに震わせながら、目に見えて怯えていたのだ。
蛇に睨まれた蛙のような状態で、怪物は弱々しく、僕の服の裾を掴む。
その反応を見た時、僕は再び、高速道路で逢ったあの女性の言葉が脳裏に蘇った。
天敵。
最初はエディの事だと思ったが、こいつは僕らと同じだ。その結論が出たとき、何故気づかなかったのか。アモル・アラーネオーススがいて、天敵もいるならば、他の怪物だってここに存在していてもおかしくないだろうに。
「部屋に……いや、ダメだ。そこから動かないで」
敵の数は七人。下手に分散するよりは固まって防衛に徹した方がいいだろう。何より……。
「グルル……コッフ、コッフ……」
斑の獣、エディが僕らの隣に並び立つ。少なからず奴等に敵意があるのは確からしい。共闘といくかはわからないが、彼が暴れてくれることを信じよう。後ろの少女も震えている。それだけで、彼が戦う意味はあるに違いない。
背中の触手。いや、初見はそう見えた、節足にしてはなめらかな白い蜘蛛の脚が、まるで翼のようにエディの背でうねる。
「神がいる」
「神がいるぞ」
「蜘蛛神が二柱」
「食べる。食べる。久々の」
「ご馳走だ」
怪物共が、口々に言葉を発しながら、不気味な笑みを浮かべている。
それを睨みながら、僕は鉤爪を展開する。
「蜘蛛神が二柱……ね。僕らは眼中にないって訳か。まぁ、いいけどさ……」
目の前で身体を揺らし始めた全裸の群れを観察したまま、僕は顎を引き、腰を落とす。能力は常に全開。同じ轍は……二度と踏むまい。否、踏むわけにはいかなかった。
最近の僕を省みれば、舐められても仕方がないだろう。でも、そんな僕だって、譲れないものくらいある。
「まさか……素通り出来るとは思ってないよね?」
僕の挑発に答えるかのように、七匹の獣が襲い掛かってきた。




