6.暗き闇の中心
微睡みから目を覚ました僕は何故か草原に立っていた。
空は黒。深い闇の底に立っているような錯覚に陥る程、そこには光がない。見たのはたったの一度。だというのに、あまりにも見覚えがありすぎる光景がそこに広がっていた。
無臭の風が吹きすさむのに合わせて、赤い何かが視界にちらつく。舞うように漂う錦糸卵のようなそれをそっと掴んでみると、どうやら何かの花弁のようだ。これは……。
「彼岸花。死人花とか地獄花とか言われるけど、あたしはお花の中でそれが一番好き。響きが非日常じゃない?」
忘れ得ぬソプラノの声。振り向けば、そこに死が――。いや、見知った顔があった。
「……二度あることは三度あるって言葉、好きじゃないんだ」
「あら、元恋人なのに、意見が合わないね。あたしは好きよ?」
暗がりの中で太陽の笑みを浮かべながら、彼女――。山城京子はわざとらしく小首を傾げた。
白いワンピース姿。手には、本人曰く非日常っぽいらしい彼岸花の束を抱えて、彼女は佇んでいた。
「……僕はまた、死にかけてるの?」
「みたいね。てか、レイくん弱くない? カッコ悪いなぁ……」
そこがいいんだけど。と、付け足しながら、京子はくるくると片手で何かを弄ぶ。
銀色に光る医療用の刃物――、メス。嫌というほどに見覚えがあるそれに、僕は無意識に身震いする。
「お散歩またしよ?」
「……まぁ、聞きたいことあるからいいけど」
またあの世に引きずり込もうとかしないでよ? と、釘を刺すと、彼女はええ~っと、不満げに口を尖らせて……。
「――っ!」
「あら、残念」
涼しげな顔で、僕に切りかかってきた。
とっさに下がらなければ必滅の位置に、刃の軌跡が鈍く煌めく。
獲物を仕留めそこねたメスをつまらなそうに軽く降りながら、京子は手にした彼岸花の茎を一本。流れるように切り落とした。つい先程一瞬だけ見えた殺人者の顔は、すっかりなりを潜めていた。
「こんな風にレイくんの頭と胴体が離れたら、きっと楽しいのにな」
「僕はちっとも楽しくないよ」
メスを仕舞い、残された花の部分を片手で握り潰しながら、京子はケラケラと歪に笑う。
それからゆっくりと、僕に背を向けて歩き出したので、僕も慎重についていく。
鉤爪は、常に出しておく事にした。
無言で二人、草原を歩く。所々に彼岸花が咲いている。揺めき、花弁を宙に投げ出す姿が、どこか幻想的にも、不気味にも見えた。
「喉笛を切り裂いた時、ピューって出る血飛沫みたいだね!」
どうしてそんなスプラッターなことを笑顔で言えるんだ。何て言おうとして、相手は京子だった事に気づく。
無駄な突っ込みは、かえって彼女を喜ばせる事になりかねない。
「あのさ、聞いてもいいかい? ここは……何?」
夢か現か。判断がつかない。いつぞやの臨死体験の時、僕の腕に残された手形。幽霊何て以前は信じていなかったけど、怪物やら地球外生命体がいる世の中だ。何が来ても驚く事はないが……。
「……あたしに聞いてもなぁ」
「……君も知らないんだ」
だとしたら、これは僕が無意識に見ている夢なのか。夢なのに、その中で夢だと認識できるのも稀有な話ではあるけれど。
「夢だから、死んだ君と会えるのかな?」
僕の一言に、京子はクスクスと笑うだけだった。
何気なく、刺された胸元を見る。傷も痛みもない。〝前回〟と違うのは、僕の中でやられたという認識があることだろうか。
どうやら前は、相当鮮やかに意識を奪われたらしい。対地球外生命体兵器。プロトタイプでアレなのが、心底恐ろしく思う。
「強いていうならば、あたしが入ってこれるのはここだけよ。だから、ここはあたしの世界なのかな? それとも、レイくんの世界に、あたしだけが入れるのかも。どっちにしろ、非日常だわ!」
くるくる踊るように回転しつつ、京子はどんどん先へ行く。
歩きながら手を動かしているのだろうか。花束にされていた彼岸花の茎が、一本。また一本と切り落とされ、地面に墜ちていく。首のない死体に見えてしまったのは、京子が怖いことばかりを口走るせいに違いない。
いや、それ以前に入っていける? この言葉は一体どういうこと……。
そこまで考えた所で、唐突に僕の歩みが止まる。勿論、止まりたくて止まった訳ではない。正確に言うならば、強制的に止まらされた。何故ならば、僕の足の踝から先が、そっくり消失していたのだ。
いや、それだけではない。消えた部分が侵食するかのように、それは徐々に足首。そこから脛へと、少しづつ上へと押し上げられていく。
「……は?」
考えが追い付かず、思わず目をしばたかせていると、前を歩いていた京子もまた、立ち止まっていた。
「時間……か。なぁんだ。やっぱりレイくん、人間止めてるのね。こんなに早く治るなんて」
もっとお話したいのに。と、呟きながら、京子は僕の方を見る。寂しげな笑顔。それは……。
「ねぇレイくん、お願いがあるの。やっぱり――ちゃんと死んでみない?」
一瞬で、殺人者の顔になる。銀刃を煌めかせ、彼女は動けぬ僕へ肉薄し、そして――。
「ああ、安心したわ。腑抜けては、いないのね」
「……なんとなく、予想はついたからね」
生暖かい何かが、僕の手を汚していく。いつかの再現のように、僕の鉤爪は、京子の心臓を捉えていた。
けぷ。と、血を吐きながら、京子は悪戯っぽく目を輝かせ、弱々しくメスを振るう。
刃は、僕の頬をあっさり切り裂くと、力なく地面に落ちた。
「こうして命を奪うことに抵抗がなくなっていく。人間だった事を忘れて。レイくんがそれで狂ってくれたら、あたしもやり易かったのにな」
「何度も言うけど、僕は君のものにはならないよ。こうやって夢に見てしまう辺り、まだ拭いきれてないのかもしれないけど」
恐怖とかトラウマとか。
僕の中では絶対的な死の象徴が、何を隠そう京子その人なのだ。
僕の身体の消失は、既に太股まで達している。京子も僕も消えて、そうしてこの世界は誰もいなくなるのだろう。何だか響きだけは、ルイの書斎で読んだ小説のパロディみたいだ。
肩をすくめながら鉤爪を引き抜く。だが、それは完全に果たされる事なく、他ならぬ京子自身の手で止められた。
抜かないで。
そう目が語っていた。その意図を計りかねていると、京子は爛々と目を輝かせながら、血染めの唇を濡らす。
「……ねぇレイくん。あたしはレイくんの心に取り憑いている。恐怖という形でこうして夢に出てきた。そう……思ってるでしょ?」
身体を痙攣させながら、京子は弱々しく呟く。それに反して僕の腕を抑えていた彼女の力は思いの外強く、僕の腕が、嫌な音を立てた。
痛いけど、すぐ治る。切り裂かれた頬も既に再生している。だというのに、何故だろう? 目の前の彼女を見ていると、羽虫に群がられているかのような、言い様のないおぞましさと不吉な香りがするのだ。
相手が京子だからというのは無視しても、この説明しがたい不気味さは……。
「……あ」
消失は腕にまで到達し、自動的に引き抜かれた形になった京子の傷口から、夥しい量の血が噴き出す。それでも京子は笑みを崩さない。
狂気を瞳に。唇に悪意を乗せて、言葉は紡がれる。
明らかに毒を含んだそれに耳を塞ぐのは叶わない。僕の腕は消え、今や肩から上が残されるのみ。そんな僕の両頬を、京子の手が挟み込むように捕らえてきた。
「でもね。それは間違いよ。〝これは現実〟あたしは、レイくんを見てるよ。狂気に堕ちるか、心を失うその時まで、見て……狙っているの。だってあたしは――」
目を細める京子。どういう意味だと言おうとしても、僕の口はもうなくて。消え行く瞬間に見たのは、青ざめた京子の顔と、コポコポと血の泡を唇に沸かせながら語る、湿った声。
いつかの呪いのように、それは僕に鮮明に刻まれた。
「いつだって、あなたの後ろにいるのよ。あなたに殺されたあの時から、ずぅうっと……ね」
悪寒と共に、視界は暗転した。
※
目覚めは最悪だった。悪夢に魘されて飛び起きるのは慣れているとはいえ、それで全くダメージを受けないのかといえば、それは違う。
それが本当に夢なのか分からない辺りが余計にタチが悪く、怖い。なんだってこんな目に……。
「――っ、そうだ!」
すぐさま上体を跳ね起こす。
死にかけて、そこから覚えていない。貫かれた身体も、心臓へ直撃は免れたらしく、鈍い痛みしか発していなかった。怪物の再生力様様だ。
だが、あの状況の結末を知らずに意識を失ったのが問題だった。
あの後どうなった?
怪物は? 叔父さんは? 他の人は? ダルメシアンは?
沸き上がる疑問に導かれるかのように、僕は辺りを見回す。空は赤黒い、夕焼け模様。入り込んだのは昼間だった事を思えば、結構な時間が経っている筈だ。
周囲の情報。
壁、木、池、草の匂い。僕が寝ていたのは、何処かの庭らしい。視線をズラせば、大きな武家屋敷。その縁側にちょこんと座る、見知らぬ女の子。その傍らに寝そべるダルメシアン。情報に脳が追い付かず、固まっていると、後ろからやんわりと抱き締められた。僕のすぐ後ろに、怪物の姿を確認。……んん?
思わず全部を二度見する。
怪物は、特に怪我をしている様子はない。それどころか、何故か艶々している。口元が紅いのは……お食事後? いやいや、血なら山に入る前に叔父さんの車の中で吸われたし……。というか、彼女の膝枕で起きるのが最近多くなって来たような気がするのが少し哀しい。慣れてしまった自分も。
取り敢えず無事でよかったと伝えたい。のだが、それ以上の緊急事態があるお陰で、僕は起き抜けそうそうに大混乱に見舞われる。
「なんだよこれ……?」
思わず口から出た言葉に、答える者はいない。知らない女の子もダルメシアンも、ただ無言で僕達を見る。背後から怪物の手がクイクイと僕の服の襟元を引っ張っているが、これは無視。僕が取り敢えず分かるのは、当初目指していた目的地がここだろうという推測。つまり……。敵の本拠地に、知らず知らずのうちに招かれていたという事になる。
「……君は……いや」
感覚で、何となく分かる。目の前のダルメシアンもそうだけど、それだけではない。明らかに隣の女の子からも、異質な香りがするのだ。
「君達は……何だ?」
僕の再びの問いに、返答はなかった。ただ口を歪めて笑う少女と犬が、そこに存在するのみだった。




