11.山城京子≪中編≫
水が流れる音が、リビングにいても届いてくる。普段、一人で部屋生活していれば絶対に聞くはずのない、お風呂場からのシャワーの音。それを耳にする僕はというと、さっきからソワソワしながらベッドに腰かけ、新聞を読み耽っていた。
心臓が、煩く高鳴っている。
それもその筈だ。シャワーを使っているのは、他ならぬ、付き合いたてホヤホヤな僕の彼女なのだ。これに緊張しない訳がない。
結局、今夜は泊まることになった京子は、僕が既にお風呂に入った事を知ると、慌てて自分にもシャワーを使わせて欲しいと申し出た。授業の課題とサークルでの活動に集中して作業したため、一汗かいた上に、手が油絵具で汚れてしまったからとの事だ。
汚れたのはわかったが、何故僕が既にお風呂に入っていた事に慌てていたのかは分からない。
これが男には理解し得ぬもの……所謂女心というやつなのだろうか? 神秘だな。
だが、浮かれてばかりもいられない。静かに深呼吸をし、今は僕一人となっているリビングを見渡す。さっきも思ったが、アイツは何処に行ったのだろうか?
空気を読んだ。という考えもあるが、そんな殊勝な事をする奴ではないだろう。ならば、何故姿を隠すような真似をした?
思えば、警察をこの部屋に呼び出した時も、アイツは姿を眩ました。何故だ? 単純に考えて、いかに屈強な警察官が相手だったとしても、アイツが遅れをとる場面が想像できない。
僕にやったように、一人でも支配下に置いてしまえば、それでアイツの勝ちだ。後は自分で手を下す事もなく、同士討ちにさせてしまえばいい。
それを何故しない? 極力目立ちたくないからか、それとも支配下に置けるのは一人のみだからなのか……。
どちらの推測も成り立ちそうだが、あの怪物の行動はどこか本能じみた部分を感じるので、推測の中でも正解に近いのは後者の方だろう。
つまり、僕を支配下に置いてしまったので、手を出せない。否、出しにくい相手が来た時は、警戒して身を隠している。とは考えられないだろうか。
警戒。だとしたらアイツは今……。エアコンや、タンスの隙間に視線を向ける。漠然とした不安が巻き起こる。
アイツは最初、僕との距離を測りあぐねていた節があった。部屋に来た警察官とは違い、長居する僕以外の人間を見て、今はどう思っているのだろうか?
気が付くと、風呂場からの水音は止んでおり、衣擦れらしき音が聞こえてきた。どうやら京子は、何事もなくシャワーを浴びられたらしい。安心でホッと一息をついた僕は、読んでいた新聞の夕刊をポンと、枕元に置く。怪物のせいで夜のニュースは殆ど見られなかったが、今日も今日とて日本は物騒だった。
リビングのテーブルを退かし、布団を敷いていると、ガチャリとドアが開き、京子が現れた。
「ただいま〜。アレ? 新聞読んでたの?」
少し感心したような京子に、まあね。と答える。
怪物のお陰で見る頻度は上昇したが、ニュースなどを小まめに見る習慣は、刑事をやっている親戚の叔父さんの影響だ。
自分は刑事としては優秀な方ではない。だからせめて情報量だけは周りより抜きん出ていたいのだ。それが叔父さんの口癖だった。煙草とコーヒーを片手に、ニュースと何十部もの違う出版社の新聞を見る叔父さんの姿は今でもすぐに思い浮かべる事が出来る。
ボサボサの髪とは裏腹に、ピッチリと着込んだスーツ。当時ハードボイルドな探偵に憧れていた幼い日の僕は、格好いい……! と、言った具合に猛烈な衝撃を受け、以来それを真似をするようになった。コーヒーを飲み始めたのも、確かその頃。
それがそのまま、現在まで続いているのだ。我ながらこれは細やかながらも、そこそこ人に自慢できる習慣だったりする。
「あっ、これこれ! 冤罪だったんだよね。せっかく安心してたのに。怖いなぁ……」
京子は夕刊の事件欄の一見出しを指差しながら身震いをする。『猟奇殺人事件再び。逮捕された会社員男性を、証拠不十分で釈放』と書かれた記事は、僕も興味を持っていた。手口は二つとも残虐極まりないが、クレーンを利用し、被害者を完全粉砕した一件目、四肢をバラバラに切り裂いた二件目。同一人物による犯行なのか、どうも判断がつけがたい所だ。
「猟奇殺人って言えばさ、何日か前に、女子高生相手に、凄惨な事件があったよね。内臓が全部持ち去られたやつ。アレどうやったのかな? 普通に考えると難しすぎると思うの」
顎に手を当てながら首を傾げる京子。彼女の口から、僕が気にしている事件について語られるとは思わなかったので、僕は思わず京子の顔を見つめる。
お風呂上がりのせいか、上気した肌と少し濡れた短めの茶髪に、僕の心臓がドキリと高鳴る。そうだ。今更ながらだが、部屋に二人っきりだ。意図せず頬の体温が上がるのを感じ、僕は思わず目を逸らし、部屋のドアの方を見る。いかん、僕今絶対に頬赤い。
気恥ずかしさを堪えるようにドアを凝視していると、部屋のドアが少しだけ開いているのに気がついた。京子がちゃんと閉め忘れたのだろうか。
そこまで考えて、僕の少し上昇した体温は、あるものを見て急速に冷却された。
京子はドアに背を向け、新聞を見ているので気がついていないが、リビングからキッチンやお風呂場などの水回りに続くドア。今は僅かに開き、向こうの空間が少しだけ見てとれる。そこに……。
怪物がいた。
じっと、漆黒の瞳が京子を見据えていた。表情はない。ただ見ている。それだけなのに、説明しようがない不気味さが醸し出されていた。
不意に、僕の視線に気がついたのか、京子を見ていた無機質な目が、今度は僕を捉える。その瞬間、僕は思わず背筋が凍りつく感覚と共に、ゾワリと鳥肌がたった。
「あっ、そういえばさ〜。レイ君、私のお風呂覗いてたでしょ〜? もう、ムッツリスケベなんだからぁ……」
青ざめた僕とは対照的な様子で、少し頬を染めながら、肘で僕を小突いてくる京子の言葉も、今は耳に入らない。京子は知るよしもないだろう。今まさにこのやり取りすら、アイツはドアの向こうから無表情に見ているということを。
僕は初めて怪物と遭遇した時の言いようもない恐怖を思い出す。アイツは、京子にも、僕の愛する人にも狙いを定めたというのだろうか。
カチカチ……と、音を鳴らしそうな歯を何とか抑え、僕は拳を握る。
やらせない……やらせてたまるか……!!
目が合った時の怪物を思い出し、僕は思わずドアを睨む。そこにはもう何もいない。恐らく怪物は、また姿を消したのだろう。
が、今夜、間違いなく再び姿を見せることを、僕は半ば確信していた。
普段は無表情の筈なドアの向こうの怪物の表情は、僕の血を吸う時や、僕とキスを交わす時と同じだった。
目を合わせたあの時、怪物は確かに微笑んでいたのだ。




