プロローグ 獣の足音
森島美智子は不意に響いた、奇妙な物音で、微睡みから目を覚ました。
ギシ。ギシ。カリ。カリ。と、軋むような音と、何かを引っ掻くような音が断続的に響いていた。
とある事情故に紆余曲折あって、娘と共に母の実家に世話になることとなり、はや一年。この音がもはや恒例となりつつあるのは、一体いつからだったろうか。
飼い犬である、エディの足音だ。
犬種で言うならば、ダルメシアン。知人から娘が譲り受けた、躾も行き届いた、品行方正なペット。……その筈だった。
犬の足音は、美智子の部屋の前でパタリと止む。
母の家系から、先祖代々受け継がれて来た、所謂由緒正しい武家屋敷。美智子はそれを今ほど恨んだことはない。障子張りした襖の向こう。そこに佇む獣の影を、嫌でも認識しなければいけないのだ。
襖が、カタカタと、小さな音を立てて、ほんの数センチの隙間が空く。そこから、エディの薄青色の目がギョロりと覗いていた。
「……っ!」
震えながら、声を圧し殺す。獣の息遣いがやけに鮮明に聞こえ、舌嘗めずりしたかのような湿った音が、美智子を更に恐怖に陥れる。
数十秒にも数分にも感じられる沈黙の後、再び、ギシ。ギシ。カリ。カリといった、床板を引っ掻きながら軋ませるような足音は遠ざかっていった。
「……――はっ!」
息を止め続けた弊害か、酸素を求め、身体がビクリと跳ね上がる。震えは、まだ止まらなかった。
エディの獲物は、〝今日は〟自分ではなかった。その安堵から。
それと同時に、エディは家族の誰かの元へと向かったのだという事実が、尚更美智子を追い詰める。
母か。祖父か。姉か。弟か。その嫁か。それとも――娘の所か。
「うう……あ……」
布団の中で己の肩を抱きながら、美智子は静かに慟哭する。
どうして、こうなったのか、彼女には検討もつかなかった。
何が最善かも分からない。誰にも相談できない。した所で、誰が信じてくれるというのだろう。
飼い犬が、夜な夜な家族の血を吸っていくなんて、ふざけた話を。
しかも恐ろしいのは、美智子以外の誰もが、その事に気づいていない事。日に日に窶れていきながら、エディを今まで通りの、愛すべき名犬として扱っている事だった。
「助けて……誰か……私はどうすれば……」
どうしようもない無力感の中、美智子は枕を涙で濡らす。狂い始めたのは、いつからだっただろう?
母の実家に来るより以前から美智子の家庭は壊れていた。だから、狂ったのは、その後だ。
そうだ。決定的になったのはあの日。
不気味な彗星が空を這い回った夜。
予め忍び寄っていた悪夢が、現実を侵食していったのだ。




