血の芸術家の呼び声
番外編です。時系列は本編終了後の……。
ちょっとした氷菓子としてどうぞ。
気がつけば、草原にいた。
突然何を言い出すのかと自分でも思うが、そうなのだから仕方がない。
空は黒。夜という事だけは確認できて、後はひたすらに暗緑色の世界が広がるのみ。
同時に、生まれて初めてテレビで見るような地平線を見た。
「……どこだ?」
第一の疑問を、僕は頭に浮かべる。何だか頭の中がフワフワするような、嫌な感覚があった。
さっきまでどこで何をしていたのか。それが思い出せない。誰といたのかすら……。
「レイくん」
そこまで考えて、ふと、背後から肩を叩かれた。
よく通るソプラノボイスと、ひんやりした相手の手に、僕は思わず身体を浮き上がらせる。
振り返ると、そこには小柄な女性がいた。
茶髪のショートヘア。愛らしい瞳。何よりも眩しい、太陽の笑顔。
「きょ、京子?」
身体が強張るのを感じながら、僕は二、三歩後ずさる。すると、京子はキョトンとしながらも、少し哀しげな顔になる。
「そんなに怖がらなくてもいいじゃない」
「い、いや……」
もはや条件反射のような物で、それは仕方がない。何度彼女に殺されかけたか分からないし、彼女の狂気の笑みは、今でも僕のトラウマだ。
いや、そんな理屈云々よりも、気になることはただ一つで……。
すると、僕の畏怖を見透かしたかのように、京子はクスクスと笑う。
「レイくんはビビりだね~。こんな草原に、凶器なんてあるはずないじゃない。いるのは、あたしと……レイくんだけ」
彼女は、白い薄手のワンピースを来ていた。刃物を隠す場所は……見当たらない。
「少しデートしようよ。あたしたち、結局数回しか行ってないでしょ?」
「……こんな何もないとこで?」
「こんな何もないとこだからよ。世界にたった二人。まるでアダムとイブね」
それは違うと思う。とは、口にしなかった。だって、どこの世界にアダムを全力で殺しに来るイブがいるというのだろうか。
ぐるりと周りを見渡しながら、僕はいつも背後にいる筈の影を探す。
美しい怪物は、どこにもいなかった。
「……落ち着かない?」
「……いいや」
君は死んだ筈だ。
そんな言葉と、混乱や虚勢を見透かしたかのように、京子は嗤う。「行こう」と、先導する京子に、僕は躊躇いながらついていく。他に術がないとも言う。
草原を一歩進む度、僕の頬を冷たい風が撫でている。ほのかに鼻を擽るは、秋の香りと、蜂蜜みたいな京子の匂い。月すら出ていない、何の変鉄もない大地は、真っ暗闇。夜だから当たり前だ。だというのに、僕はそれが酷く……。
「非日常だ」
そんな言葉が自然に漏れ、先頭の京子が小さく吹き出した。
「レイくん、それあたしの台詞だよ?」
そんな言葉を漏らしながら、京子は僕に手を伸ばす。
白い手が、まるで手招きするように近づいてきて……。
その瞬間、僕の直感が、けたたましい警笛を鳴らした。
思わず飛び退いた僕を京子は黙って見つめていた。見つめているのだと思う。前にいた京子はどんな表情をしているのだろう。
暗くてよく見えない。怪物たる僕は夜目が効く筈なのに。
「……どうして」
何かを堪えるような声を京子は絞り出す。泣いているようにも怒っているようにも思えるそれは、僕の耳に嫌でも届く。身体が、震えるのがわかった。
強くなった。自分でもそう思う。
肉体的にも、精神的にも。だが、それだけではどうにもならないものがある。
アリがアリクイに勝てないのと同じ。所謂、天敵という存在。
「ねぇレイくん、お願い。こっちに来て」
懇願するように、京子は一歩。こちらへ近づいてくる。
「知ってるよ? レイくん、強くなったんでしょ?」
甘えるような声。かつて僕が大好きだった声。今はそれに、どこか哀しみが混じっているような気がした。僕は無言で一歩。後ろに下がる。
「ねぇレイくん、一緒に行こう? 一緒に眠ろうよ? あたしが今度は包んであげる」
分からないから、状況を把握すべく、僕は京子についてきた。
警戒を怠らず、僕の能力たる超直感を研ぎ澄ませて。
不気味ではあるが、無害な筈だった京子と思われる目の前の存在。それは、ここにきて、更なる得体の知れなさをもって、僕に迫ってきた。
「……誰だ、君は?」
僕が下がり、京子が迫る。
彼女は、クスクス笑いながら延ばしていた手を引っ込め、両手を大きく広げた。
「あたしはあたしだよ。表現者にして、血の芸術家。他に誰がいるの?」
そうか、これは夢だ。
その時、僕はそう自分を納得させた。そうせざるを得なかった。だが、無情にもそれは、直後にもたらされた京子によって撤回される。
蛇のように僕の手首へと絡みついた、彼女の五本指。
血流が止まるかと錯覚するような締め付けは、紛れもなく現実の感触だった。
「僕をどうする気だ……?」
「どうもしないよ? 一緒に行こうってだけ。だってね、レイ君……」
ニィイっと、京子の口が三日月形に歪む。
そして――。
「レイくんは、死んじゃったんだもん」
「――え?」
理解が追い付かず、僕が目を丸くした瞬間、背後から鋭い金切り声が聞こえた。
物凄い勢いで僕を飛び越えたそいつは、京子の前に立ちはだかる。
「……あ~あ。もう少しだったのにな」
それは、黒い巨大な蜘蛛だった。
怒りに燃えた赤い八つの目をギラつかせ、そいつは京子に襲いかかる。
迫る大顎に臆しもせず、京子はまるで受け入れるかのように巨大蜘蛛にその身を委ねた。
「レイくんの中に、あたしはいる。恐怖という形でも、あたしは根付いている。残念ね。完全にはあんたのものでは……ない、の……」
トマトが潰れるような音と共に、京子の腹部が破壊される。それでも尚、京子は生きていた。
己の血で染まった手で、京子は蜘蛛の頭部に爪を食い込ませる。吐かれる言葉に悪意を滲ませて、それはもはや呪詛と言っても過言ではないだろう。
それが理解出来るのだろうか。黙れ。そういうかのように、蜘蛛の顎が、京子の喉笛を捕らえた。
呼吸を遮断され、話すこともままならぬまま、彼女の視線は僕の方に向けられていた。
また、呪って……あげる。
虚ろな眼窩は、ただそれだけを伝えたまま、軈て、何も映さなくなった。
次の瞬間、バツン。という音を立てて、京子の頭部が、身体から切断される。
血溜まりに沈む彼女の口元は、確かに笑っていた。
※
目が覚めたら、またしても夜だった。さっきと違うのは星と月が出ていることと……。
「や、やぁ」
無言で僕を見つめ続ける、怪物の顔が、目の前にあること。そして――。
「あ……ぎ……?」
腹部に走る、強烈な痛みだった。
「おや、目が覚めましたか?」
近くから、鈴を鳴らしたかのような女の声。状況を把握すべく身体を起こそうとするが、それはあっさりと怪物に阻止された。仕方なく僕は彼女に膝枕されたまま、声の主を探す。
「全く、油断しましたね。人間相手に何て様ですか」
咎めるような声で、汐里が僕達のすぐ傍に腰かける。鼻を擽る、木の匂いと、嗅ぎ慣れた女性二人の香り。ここが名も無き山中であることを思い出し、僕は徐々に何があったか思い出し始める。
「そうだ……怪物の力を狙う連中に追い回されて……」
「油断した貴方は、オリーブオイルつきの銃弾でズドン。ブサマ過ぎて吹き出しそうになりました」
容赦ない罵倒は甘んじて受け入れる。超直感を使ってなかったとはいえ、あれは避けられるものだった筈だ。だというのに、何故か身体が動かなかった。本当に何をやっているんだ僕は。
「あ、因みにその連中はその娘がオーバーキルしてましたよ。見ていてかわいそうになる位に。情報が欲しかったというのに、全部口封じしちゃいますし」
「あいつらが悪いの。レイをきずつけた」
悪びれもせずに宣う怪物に、僕の溜め息が自然と漏れる。情けないったらありゃしない。すると、汐里がまじまじと僕の方を覗き込んできた。
「そういえば、急に動きが鈍くなったのもありましたが、眠ってる間、ずっと魘されていましたよ? 何か怖い夢でも?」
「……ああ。そうだね」
曖昧に頷きながら、僕は己の手首を見る。痺れたような痛みが走るそこには、身に覚えのない痣があった。
それは手形だった。怪物のものとも汐里のものでもない。だが明らかに女のそれと分かる形。
夢の中での出来事が、僕の脳裏に甦る。
ゾワリと、背中が寒くなった。夢か現か。僕はつい先程まで、生と死の狭間にいた。それが意味することは?
「……死者に会ってきたよ。多分さっきも、手を引かれたのかも」
死して尚、彼女は僕を狙っているのかもしれない。何より時期がいけない。今日は八月十三日。
お盆だったのだ。
不意に、幻聴だろうか。
――忘れないで。
そんな声を聞いた気がした。
掃き溜めのような暗がりの中、誰かの犠牲の元で、今日も僕達は生きていた。




