名も無き者共の回想≪後編≫
口火を切った時、体が軽くなった気がした。言葉に出してみて、初めてわかることもある。何を非現実な事をと思っていたが、案外バカに出来ないものだったらしい。
「――っ! 大体さ! 僕は女の子に免疫なんて持ち合わせてなかったんだよ!? それがアレだぞ!? キスされて舌入れられて、身体中まさぐられて! 耳やら首筋舐められ甘噛み! 抱きついてくるわ、膝枕するわ、させられるわ! 胸当てられるわ、顔埋められるわ! おまけにお風呂にまで突撃してくるんだぞ? 裸見ちゃうし見られるし! 寝るときまでひっついてくるし、のし掛かってくる! もう拷問だよ! 死ぬよ! 精神的に死ぬよ!」
叫びがこだまする。身体中が熱い。けど、止まらない。
「あんな可愛い子にそんなことされたらどうなる!? 理性崩れたかけたのが何回あったと思ってる!? てか、何回か崩れたよ!……死にたい」
思い出して、自己嫌悪して。僕は身に秘めた心を丸裸にしていく。
恥も外聞もない。多分、半ばヤケクソ気味だったのだ。
「なまじ喋るようになったら、余計タチが悪くなったよ! 何であんなに声やら仕草がいちいち色っぽいんだよ! 生前高校生なのに! 柔らかいわ、いい匂いするわ! それに、それに……!」
がっくりと項垂れたまま、僕は声を絞り出す。
「何で、僕なんだ。……どうして、こんな僕に、『愛して欲しい』……だなんて」
震える声でそう漏らすと、頭に柔らかな感触がした。汐里の手が、そっと僕に触れていた。
「それが……一番嬉しかったと?」
「そう、だよ。笑えるだろ? チョロいだろう? そんな言葉一つで、僕は人間を止めたんだ」
愛してくれとまでは言わない。ただ、誰かに必要とされたかった。僕が喰われたあの夜、たどたどしい口調で、僕に手を伸ばしてきた怪物に、僕はどうしようもない孤独を。そして、ある種の複雑な愛しさを感じていたのだ。
共依存とも取れる僕らの在り方に、果たして愛があるのだろうか。そんな気持ちだけが先走っていた。
僕の頬を伝う涙を、汐里はそっと拭い取る。笑いはしませんよ。と、小さく漏らしながら。
「貴方はもう少しシンプルに考えたらどうです? 自身の心に聞くのが、一番手っ取り早いのでは?」
「心……に?」
顔を上げると、汐里は微かに微笑んで……。
「貴方の心は、既に剥き出しです。多少荒療治でしたが、私が出来るのはそこまでです。後は若いお二人にお任せしますよ」
そう言いながら、汐里は静かに僕の元から離れる。意味ありげな視線は、さっきまで彼女が隠すようにして立っていた窓に注がれていて……。
「お、おい、ちょっと待て。さ……」
「詐欺ではありませんよ。彼女、最初からいましたから。それが分からないくらい、動揺していたんですね」
クスクスと肩を震わせながら、汐里は優雅にロッジの出口へと歩いていく。
「また二、三日。ここを開けます。ごゆっくり。それから――」
待て。と、呼び止める僕に目もくれず、汐里はヒラヒラと手を振りながら、扉を開けた。
「レイ君。在り来たりな言葉で申し訳ありませんが、言わせて下さい。幸せになる事に、権利や許可など要らないんですよ?」
此方に背を向けたまま、汐里は静かに語る。誰かの事を話しているのだろうか? 思い出し。懐かしみ。それでいて、苦々しげな口調だった。
「貴方以上に色々やったり、罪を犯した後ですら、のうのうと幸せに生きる者もいます。ですから、幸せは掴める時にしっかり掴んでおく事をオススメします。それが、失恋やら色々を経て学んだ、私なりの教訓です」
自嘲するように締めくくり、「ではまた後日……」と、言い残しながら、汐里は行ってしまった。
後に残されたのは……。
「……えっと、取り敢えず。入りなよ」
気まずい沈黙はもうこりごりなので、僕の方から口火を切る。互いの視線が交差した。何と声をかけるべきかわからなくなった僕は、何とも無難な言葉を選ぶ。
窓の向こうにいたそいつ――。僕のつがいである、名前のない怪物は、戸惑いがちに小さく頷いた。
颯爽と行く汐里の後ろ姿を見ながら、僕は何度か深呼吸する。
いつか来る死にすら屈しないその背中。
それはまるで、行け。前に進めと、僕に発破をかけるかのようだった。
※
ベットの上で互いに膝をつき合わせて座ること数十分。僕の部屋(元ルイの部屋)は、結局沈黙に支配されていた。
怪物は、さっきからうつむいたまま喋らない。もじもじと、指を動かす彼女の表情は、前髪に隠れて見えなかった。
この状況は何だ。てか、頼む。何か喋ってくれ。
「……ほんとう?」
僕の願いが届いたのか、怪物は静かに顔を上げる。小首を傾げる彼女の目は、まるで迷子の子どものように、不安げに揺らめいていた。
「えっと、何が?」
「レイが言ったこと。私といて、嬉しい……って」
よりにもよって、そこから聞いてたのか。
ということは、僕の赤裸々な叫びも聞いたことになる。……穴があったら入りたくなってきた。
「レイが、嫌がって、森の中で暴れてた。嫌われたかと思って。怖くて話し掛けられなかった……」
いつからストーキングされていたんだろうか。もはや何も言うまい。
羞恥に俯く僕の袖が、遠慮がちに引っ張られる。
「レイは、私のモノ。そう思ってたから。もしかしたら違うのかもって考えて。怖くなった。レイは……私に何かを言ってくれた事なかったから……」
その言葉に、僕は胃に石を放り込まれたかのような感覚に襲われた。
こいつも悩むのだという衝撃に。
互いにそんな言葉を交わしていなかったという、今更の事実に。
何よりも、下手したら僕以上に人間らしくなっていく、怪物の変化に。
僕は驚愕していた。
「レイは、嬉しいって言ってくれた。でも、それは、アイツを通して。何故?」
自分には、言ってくれないのか? そんな寂しげな声色だった。
蔑ろにしてしまった。そんな後悔が、急速に襲いかかって来た時。僕はそのまま、気づいてしまった。
己の心。それは、間違えようもなく……。「……僕は、兄さんの輝かしい未来を奪ってしまったんだ」
汐里に語った事を、怪物にも話す。漆黒の瞳は、真っ直ぐ僕を見つめていた。
「崩れ落ちる母さんの慟哭も。唇を食い千切らんばかりに噛み締めた父さんの泣き顔も。周りからの侮蔑や嘲笑も。全部覚えてるんだ。だから……怖い。君を……その……」
深呼吸。そして。
「君を、困らせて、悲しませるかもしれない。僕自身が思い出して、落ち込んで。だって僕は今まで一度も――」
「いいよ」
好きだと。言ったことがない。そう告げようとした言葉は、怪物の手で。言葉で遮られた。
「いい。前にも言ったよ? 私を傷付けていいのは、レイだけだから」
そう言って微笑みながら、彼女は続ける。
「ただ、一緒にいられたら、それだけでよかったの。私は、元々レイと違うから、いっぱい困らせる。けど、嫌なことは、嫌って言って欲しい……」
遠慮がちに、僕の袖が引っ張られた。
「レイの……心が知りたい」
透き通るようなその声は、僕の奥底へと届くようで。
その言葉で、僕の本当の意味での覚悟は決まった。
ただ、守るのではない。共に在り、共に行くのでは意味がない。
僕は……。
「レ……イ?」
怪物にしては、珍しく。驚いたような声が上がる。それもその筈だ。僕の方から、こんなことするなんて。
する日が来るなんて、僕自身だって想像出来なかった。
「あー。暖かい……よ。うん」
抱き締めた彼女の感触を確かめるかのように、僕は静かに息を止める。
細くて折れてしまいそうな肢体は、知ってはいたけど柔らかくて。
刻みつけるかのような二人分の鼓動は、僕達が生きているという象徴で。
何故だか分からないけど、泣きそうになった。
「君は……いつだって僕を魅了するんだね」
今回に限っては、別の意味でだけど。美しさに魅せられたのではない。一人の女の子として、僕は君を――。
「……生きたい」
飾らない言葉で伝えよう。僕が本当はどうしたいのか。気づいた気持ちに、素直になって。
「僕は、君と生きていきたいんだ。」
怪物の頬から、透明な滴が流れ落ちた。星の光にも似たそれに戸惑うかのように、怪物は僕の胸板に顔を寄せて。
「……ありがとう。嬉しい」
か細い声で。嗚咽混じりに言葉を漏らす。その頭を撫でながら「こっちこそ」と返すと、怪物は益々身体を擦り寄せて。
「……ねぇ。キスしたい」
初めての、強制的でない怪物の愛情表現。その言葉は、甘ったるい痺れとなって、僕を犯していくようで。
「……いいよ」
思いの外、普通に返事が出来た。ゆっくり彼女を引き寄せる度に、心臓が狂ったように鼓動を刻むのを除けばの話だが。
「……ん」
そうして、僕らは口づけを交わす。
熱を帯びたそれは、無音の衝撃となり、僕を襲う。足元が崩れるような錯覚に身を委ねながら、僕は彼女を抱き締める。
現金なものだ。
皮肉げに笑う自身を自覚する。
たったこれだけのこと。こんなにも簡単な事で、僕は思っているのだ。
今なら、きっと誰にも負けない。――と。
カッコ悪いというか、恥ずかしいったらありゃしない。
唇が離れて、見つめあう。
身体が熱い。そして何よりも――。
「し、舌……入れてもいい?」
「……色々台無しだよ」
呆れたように言いながらも、僕は拒まない。何かに火が点きそうだった。
さっきより深いキス。バチバチと、僕の瞼の裏がスパークする。
「んっ……あむっ、んぁ……」
淫らな吐息が、僕を苛む。互いに求め合う事が怪物には堪らなく嬉しいらしく、幸せそうに蕩けた表情で彼女は僕にしがみつく。
「ねぇ、もっとして。もっと私を溶かして。ずっと……待ってたの」
背中に爪が立てられる。柔らかい指との対比が恐ろしい位に僕を追い詰めていく。
退廃的な空気の中で、僕は堪らず彼女をきつく抱き締める。
少し、大人しくしてくれないと困るのだ。
「……夢みたい……です。〝私〟……幸せ」
不意に口調が変わったような気がしたが、多分気のせいだ。
というか、僕自身結構余裕がなかった。何せ、そろそろ本気で、理性がヤバそうなのだ。
「……ああ、くそ。まるでコーヒーだな」
今更だけど、この堕ちていくような感覚は、病み付きになりそうだった。
かくして。共に在るだけだった二匹の怪物は、真の意味でつがいとなる。
酷く遠回りしながらも、確かに手を取り合う。
歪かもしれぬそれもまた、一つの愛の形だった。
※
急ぎ足で、悠々と樹海を横切りながら、唐沢汐里は少しの羞恥に身を震わせていた。
慣れないことを。らしくない事をしたという自覚はある。故に、頬が熱くなっていた。だが、そういった感情の他にも、胸に去来するのは、どこか暖かな感情だった。
最初は、利用するつもりだったのだ。
全ては、愛した男と、もう一度逢いまみえるために。だが、そういった割り切った感情が持てなくなるくらいに、汐里はレイとかかわってしまった。まるで、出来の悪い弟のように思ってしまっている、自分がいるのだ。
情が移るという自身の状況に、汐里は益々面白げにほくそ笑む。
かつては怪物の抹消をかかげた自分が、随分と丸くなったものだ。そんな悪くない感情に、身を委ねながら、汐里は来た道を振り返る。ロッジからは、かなり離れた。
〝ここ〟ならば、大丈夫だろう。
「まぁ、馬には蹴られたくありませんしね。それに、状況が同じなら、貴方だってそうしたでしょう?」
おどけるように、手首より先のない、片手に話しかける。返事はない。が、汐里はそれでいいと言うかのように頷きながら、もう片方の手を振り抜く。
女性らしい、白くしなやかな手が、一瞬で禍々しい怪物のソレになる。黒い節足の鉤爪を構えたまま、汐里は目を細め、数メートル先の茂みを見据えた。
「そういう訳で、申し訳ありませんが、お引き取り願えますかね。今いいところなんですよ。ようやく……ね」
肩を竦めながらも、汐里は油断なく半身に構える。そこにいる存在を、汐里は誰よりも敏感に感じていた。眷属の蜘蛛による見張り。本日の当番は、汐里だったのだ。通りすぎてくれる事を密かに願ってはいたが、やはりというべきか、〝ソレ〟は来た。初めから、ここが目的地だったのだと言わんばかりに、真っ直ぐだ。
「どうしても通ると言うのでしたら、仕方ありません。馬に蹴られた方がマシに思えるくらいの、ちょっとした絶景を楽しませて差し上げますよ?」
挑発する汐里に答えるかのように、茂みの一点がざわめき出す。
そして――。
「ピュピュウ、ピマ、ピュピソ、ピウ……ピダァア!」
おぞましい奇声をあげながら、それは現れた。
白い体毛と、オラウータンのような体躯。アリクイと、イソギンチャクを足したような頭。
いつかの警察庁の資料にあった、顔のない怪物だった。




