名も無き者共の悩み
それは、突然の出来事だった。
樹海に佇むロッジの中。僕と怪物と汐里の三人で、ランチにしていた時、不意に怪物が、僕の袖を引く。落とされたのは、爆弾だった。
「レイ、赤ちゃん作ろ」
「……はい?」
予想できなかった訳ではない。いつか来るのではないか。覚悟こそ固まってはいなかったが、薄々と感じてはいた事だった。
「……だ、誰の?」
「私とレイの」
だが、だからといっていざ現実に起こってみると、それは言い様のない衝撃となって僕に襲い掛かってきた。
訪れた沈黙。
唖然とする僕に、怪物の視線が絡み付く。
闇の深淵を思わせる瞳は、期待に満ち満ちた光を放っていた。
「また二、三日……いいえ、足りないですかね。一週間程、家を開けましょうか?」
「やめろ。そこはかとなくリアルな期間を提示するのやめろ」
箸を置きつつ提案する汐里に、僕は必死で拒否を示す。冷静な言葉の裏に、悪意が滲んでいた。
「レイ……何で? イヤ?」
「そ、それは……」
ヘタレと笑いたければ笑って欲しかった。情けない話、僕は心の準備など出来ている筈もない。断れば、彼女は傷付くだろうか? いや……。
「ま、まだ早いよ! そういうのはもっとこう……段階を……」
「……レイは私のもの。私はレイのもの」
「そういう問題じゃないよ!」
察しろ何て話は、コイツには無理だろう。だけど、僕にだって譲れないものがある。
二三回深呼吸した後で、僕は意を決したように怪物を睨んだ。
「……と、とにかく、今はダメだ!」
「……どうして?」
「ダメなものはダメ!」
「……わからない」
「わかれ!」
「……ひどい」
延々と続く押し問答。業を煮やしたかのように、怪物の目が細まっていく。うなじに感じるプレッシャー。コイツが何をやろうとしているのか、今の僕にはありありと分かる。
「と、とにかく! ダメなものはダメだからな!」
捨て台詞とも取れる言葉を残しながら、僕は一目散に逃げ出した。
身体所有権の剥奪。怪物の能力たるそれに、僕は多少なりとも抵抗できるようになっていた。文字通りの微々たる抵抗だったが、それだけの時間があれば、ロッジから逃げるなんてすぐだ。
「――レイ、どうして……」
寂しそうな怪物の声が、背後からする。沸き上がる謎の罪悪感に蓋をして、僕は蹴破るように入口のドアを開け、樹海の一角へ転がり込んだ。
※
何とも妙な展開だ。
昼食である掛け蕎麦を食しながら、唐沢汐里はため息をついていた。
最初こそ、痴話喧嘩的な話で済むだろう。そう楽観視していた。が、思い他、青年の抵抗はかたくなで。少女の怪物は、青年の拒絶にショックを受けているようで……。
「レイ……」
潤んだ瞳が、青年の走り去って行った後のドアをなぞる。
哀しげで、迷子になった子どものようだった。
「……そんなに落ち込まずとも。彼が意気地無しなのは、今に始まったことじゃないでしょう?」
「……私の力が。効かなかった。……オマエが、レイに余計なことするから……」
のんびりと、殆ど一人言のつもりで放った言葉は、意外な返しとなる。恨みがましい視線が、汐里を居抜いていた。
が、当の汐里はそれに気圧されるどころか、珍しいものでも見かのように、まじまじと怪物を見つめた。
「……レイは、強くなくたっていいのに。私が守る筈だったのに」
目を伏せたまま、強気な表情から一転。しおらしい態度になった怪物は己の手を見る。〝人間らしい〟その仕草に、汐里は本当に驚いていた。
「私と会話をしてしまう辺り、拒絶されたのがそうとう衝撃だったんですね」
「あんなに、嫌がるレイ……始めて見たから」
か細い声でそう呟く怪物に、汐里はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「レイ君の拒絶ですけどね。恥ずかしい。以外にも、別の感情が入り交じっているように見受けられました」
訳がわからないというように、少女の怪物は首を傾げる。
複雑な感情までは、怪物は理解していないのだろう。それを見越した上で、汐里は続ける。
「分かりませんかね。〝人間〟は色々と面倒なんですよ。産めや増やせやが本能として組み込まれている生物とは違うんです。ましてや、レイ君は生い立ちや軌跡がそこそこに波乱万丈ですしね」
「……ただ、レイとの赤ちゃんが欲しいだけ。それじゃダメなの?」
「……またストレートな動機だこと」
ひきつったような笑みを浮かべながら、汐里は諭すような表情になる。
「取り敢えず、忠告しておきます。貴女を拒んだ彼の真意は、彼にしか分かりません。私は勿論、貴女にすらそれは暴けない。それを無理矢理抉じ開けようとすれば……彼もあまりいい気持ちはしないでしょうね」
汐里のその言葉に、怪物の表情が、少しだけ青ざめる。普段の彼女を見馴れた者にしか分かり得ない、微妙な変化だった。
「……レイ」
いてもたってもいられないとでも言うかのように、怪物はソワソワし始めた。それを見た汐里は、あえてそれ以上は言わなかった。ただ、彼女の次の行動が見て取れた汐里は、疑問だけを述べる。
「ところで……貴女は私を認識しているんですか?」
レイと、ルイ。敵対する京子以外は、全くと言っていいほど反応しない彼女。それと会話が成立した事に、汐里は不思議な気持ちを抱いていた。
感動……は、違う。驚愕と、好奇。何よりも、純粋な興奮が、汐里を満たしていたのだ。
目の前の怪物と、対話する。自身もそれに近い存在になっている今。山城京子ならば、非日常だと歓喜するに違いない。
さぁ、どう答える? 汐里は少しの期待を込めて、怪物を見つめる。
汐里の疑問は、確かに怪物に届いていたようだ。パチパチと、瞼をしばたかせながら、怪物はゆっくりと首を横に振る。
「わからない。ただ、オマエのことは、わかる。レイ以外は、いらないのに。じゃま」
「ああ、そういう……」
納得したように頷きながら、汐里はクックック……と、愉快げに肩を震わせた。
考えてみれば、自分は何かとレイに関わっている。師匠として。油断ならぬ隣人として。その過程で会話する事も、行動を共にすることも多い。怪物からすれば、面白くないのだろう。ますます人間らしくなったものだと、汐里は皮肉気に微笑む。
「それに……」
「ん?」
答えを得た汐里が、話を中断したその時、怪物は立ち上がりながら視線だけを汐里に向ける。
それは敵意も、無関心さもない。どこか戸惑ったかのような表情だった。
「それに、〝貴女〟はお父さんを愛した人だから」
「……っ!」
たどたどしい口調とは違うその雰囲気に、汐里は言葉を失った。
気がつけば、怪物の姿は跡形もなく消えていて。後は沈黙だけが残された。
レイを追いかけて行ったのだろう。
「愛すること。……それだけでは、何も変わらないんですよ」
自嘲するように呟きながら、汐里は椅子へ深く腰掛ける。
くっつきそうでくっつかない。ぶん殴ってやりたくなるようなその状況を、汐里は以前も見たことがある。
ルイとあの女の距離が近づいていく様を、汐里はただ、見ている事しか出来なかったのだ。今も疼くその傷跡に蓋をするように、汐里は先のない腕を撫でる。
「賽は投げられました。さて、レイ君。貴方の選ぶ道はどうなるのでしょうね?」
ルイのような、悲恋に終わるのか。それとも……。
ざわめくように風が吹き、窓枠をギシギシと揺らす。
やることもなく、徐々に微睡みに襲われる。後は若い二人でよろしくやっていればいい。どのみち、〝残された時間は少ないのだから〟
そう結論付け、汐里は眠りの世界へと旅立った。
※
適当な木に頭をぶつける。
自分でもどうしてそうしたのかは分からない。ただ、彼女がもらした、哀しげな声色が、耳から離れなかった。
「僕は……僕は……!」
袋小路に嵌まった気分だった。
ぐちゃぐちゃに混乱する頭のまま、もう一度木に頭をぶつける。
こんな事。こんな悩み、誰に相談すればいい?
「どうすれば……いい?」
答える者は、誰もいなかった。




